第14話 重さ
クラリスが出かけた日は、静かだった。
エリオは午前中に掃除を終わらせた。
洗濯物も干した。
昼食の片づけもすんだ。
やることがなくなると、机に向かう。
昨日クラリスに出された問題を広げる。
計算の問題だった。
ひとつずつ解いていく。
答えを出す。
確かめる。
また次へ進む。
「エリオ」
扉の向こうからトーマの声がした。
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開く。
トーマは紙を抱えていた。
宿題だとすぐわかった。
その顔を見ればわかる。
「……ちょっと、聞いていい?」
「もちろん」
「この問題、わからなくて」
トーマが紙を差し出した。
エリオは受け取る。
計算の問題だった。
桁の多いかけ算が並んでいる。
「どこから詰まっていますか」
「え?」
「全部わからないのか、途中からわからないのか」
トーマが少し考える。
「途中から、かな」
「見せてください」
トーマが書きかけの紙を出した。
エリオはそれを見る。
どこで止まっているかはすぐわかった。
「ここまでは合っています」
「え、ほんとに?」
トーマの顔が少し明るくなった。
なるべくわかりやすく、丁寧に教えた。
「わかりますか」
「んー……」
まだ顔が曇っている。
エリオは紙の余白に書いた。
同じ計算を、桁ごとに分けて。
「ひとつずつやると、こうなります」
トーマがじっと見ている。
口は開いていない。
ただ視線が紙の上を動いている。
しばらくして。
「あ、わかった」
顔が変わった。
「ほんとだ、増えてる」
「よかった」
「なんでそんなすぐわかるの」
「いっしょに勉強しているからだと思います」
エリオは少し考えてから付け加えた。
「トーマが教わっているのと、同じものを隣で聞いています。だからわかるだけです」
「それって、つまり俺よりできるってこと?」
「……少し、かもしれません」
トーマが笑い出した。
「正直だな!」
エリオも少しだけ口の端が上がった。
「めちゃくちゃわかりやすかった。ありがとう」
トーマが笑いながら言う。
エリオは頷いた。
同い年に教わるのは嫌ではなかったのだろうか。
トーマの顔には、そういう様子はない。
ただ純粋に喜んでいるように見えた。
でも、家に置いてもらっている立場だから、気を遣っているのかもしれない。
そう考えると、しっくりきた。
「他にわからないところ、ある?」
「ある!」
即答だった。
トーマが宿題の束を広げ始める。
エリオは少しだけ目を丸くした。
思ったより、多かった。
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魔法学園の入試は明日。
クラリスが夕食の途中で箸を置いた。
「エリオ、明日は早く起きなさい」
「はい」
「朝ごはんはしっかり食べること」
「はい」
「服は昨日のうちに確認したわね」
「はい」
ロイドが苦笑した。
「クラリス、本人より緊張してないか」
「緊張していません」
「顔が言ってる」
クラリスは何も言わなかった。
代わりにスープを一口飲んだ。
トーマはエリオとクラリスを交互に見ている。
「エリオは緊張してないの?」
「していません」
「なんで」
エリオは少し考えた。
「魔法学園にも図書室があると聞いています。それを楽しみにしていたら、緊張する暇がありません」
トーマが首を傾げた。
「試験の前に図書室の心配してるの?」
「やれることはやりました。だから今は、試験の次のことです」
「……それはそれで緊張してないか?」
「どうかな。自分ではわかりません」
ロイドが吹き出した。
トーマも笑い出す。
クラリスだけが複雑な顔をしていた。
「笑い事じゃないのだけれど」
「まあいいじゃないか」
ロイドがクラリスの肩を叩く。
「本人が落ち着いてるんだから」
クラリスはもう一度エリオを見た。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
少し間があった。
「……そうね」
クラリスは小さく息を吐いた。
それからまたスプーンをもった。
ロイドとトーマがまだ笑っている。
エリオにはやはり何がおかしいのかわからなかった。
けれど、悪い気はしなかった。
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試験会場は広かった。
石造りの建物。
高い天井。
机が整然と並んでいる。
貴族の子供たちがいた。
立派な服を着ている。
互いに顔見知りらしく、あちこちで話し声がした。
エリオは指定された席へ座った。
隣の子がちらりとこちらを見た。
エリオも軽く頭を下げた。
隣の子は少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
――やっぱり、平民はめずらしいのかな?
試験が始まった。
問題を読む。
解く。
次へ進む。
クラリスに教わったことが、ほとんど出ていた。
途中で隣の子の手が止まっているのが見えた。
エリオは自分の答案へ目を戻した。
終わりの合図が鳴った。
エリオは答案を置いた。
手応えはあった。
――図書室へ行けそうだ。
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合格の知らせが届いた日。
クラリスが声を上げた。
珍しい。
あのクラリスが、大きな声を上げた。
「エリオ!」
紙をもって走ってくる。
あのクラリスが。
腕を広げながら。
「受かったわ!」
エリオは紙を受け取った。
確認する。
たしかに合格と書いてある。
「やった」
思わず声が出た。
胸の奥が熱くなる。
――図書室にいける!
調べられる。
夢に近づける。
「よかった!」
クラリスが笑っている。
目が赤い。
「クラリス先生、泣いていますか」
「泣いていません」
「目が赤いです」
「気のせいよ」
エリオはもう一度合格の文字を見た。
それからクラリスを見た。
「ありがとうございます。先生が教えてくれたから受かりました」
クラリスが黙った。
少しだけ顔を背ける。
「……合格したのはあなたよ」
「でも」
「あなたが頑張ったの」
エリオは少し考えた。
「では、半分ずつ、ということで」
クラリスが笑い出した。
今度は堪えていない。
ロイドが奥から出てきた。
「受かったか」
「はい」
「そうか」
ロイドはエリオの頭に手を置いた。
何も言わない。
ただ手を置いたまま、少しだけ笑った。
トーマが飛び込んでくる。
「すごい! エリオすごい!」
「トーマも手伝ってくれました」
「え、俺?」
「宿題につきあってもらいました。おかげで復習になりました」
トーマが照れたような顔をした。
「……それはエリオが教えてくれただけじゃん」
「どちらでもいいです。ありがとうございました」
トーマはしばらく黙っていた。
それから少しだけ胸を張った。
「……どういたしまして」
クラリスたちがこんなに喜ぶのは、居候がひとり減るからかもしれない。
でも今は、それでもいいと思った。
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出発の朝。
荷物は少ない。
着替え。
設計図。
魔石。
クラリスに作ってもらった小さな巾着に入っている。
この家にきたときは、メイド服だけだった。
それより荷物は増えている。
玄関にクラリスたちが並んでいた。
ロイドが腕を組んでいる。
トーマは笑っていた。
クラリスは目が赤い。
いつも通り、優しく話し始めた。
「困ったことがあれば手紙を書きなさい」
「はい」
「食事はちゃんと食べること」
「はい」
「無理をしないこと」
「はい」
ロイドがクラリスの肩にそっと手を置く。
クラリスが頷いた。
「また来なさい」
ロイドが言った。
エリオは深く頭を下げた。
「お世話になりました」
「長期の休みには帰っていいのよ」
クラリスの声は揺れている。
エリオは顔を上げた。
『帰っていい』
その言葉を少しだけ繰り返した。
「はい」
トーマが手を伸ばしてきた。
「またな」
「またね、トーマ」
握手する。
トーマの目が赤くなった。
何も言わずに顔を背ける。
エリオは門を出た。
少し歩いてから、振り返る。
まだ見ていた。
クラリスが手を振っている。
ロイドも小さく手を上げた。
トーマは顔を背けたままだった。
エリオも手を振った。
それから前を向く。
足が少しだけ重かった。
歩きながら考えた。
実家を出た朝は、こんなではなかった。
あの朝、父も母も扉を開けなかった。
見送りもなかった。
それでも何も感じなかった。
なのに今は、目の奥が熱い。
“棒なし”でも、大切にしてくれる人がいた。
一年前は、そんな人がいるとは思っていなかった。
知らなかったのだ。
そういう人がいることを。
エリオは空を見た。
晴れていた。
重さの正体がわかった気がした。
悲しいのではない。
増えたのだ。
クラリスたちとすごした日々が。
胸のなかに溜まっている。
だから重い。
それならいい。
いくらでも重くなれ、と思った。
エリオは前を向いた。
魔法学園はまだ遠い。
でも道はわかっている。
前へ進めばいい




