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第11話 先立つもの

 クラリスの家で働き始めて、十日ほどが過ぎた。


 朝は掃除をする。


 洗濯物を干す。


 昼食の片づけをする。


 クラリスが仕事へ出ている間は、トーマと二人になる。


 トーマは明るい子だった。


 話しかけてくることも多い。


 だがエリオには、まだうまく返せない。


 何を話せばいいのかわからない。


 同い年の子供と過ごした経験が、ほとんどなかった。


「エリオ、これ見て!」


「うん」


「すごくない?」


「うん、すごいと思う」


 短い返事。


 でもトーマは気にしていないようだった。


 それがまた少し不思議だった。




 勉強はクラリスの休みの日に教わっている。


 数の計算も少しずつ覚えた。


 楽しかった。


 知らないことが減っていく感覚は、木を削るのに似ていた。


 少しずつ形になっていく。


 けれど。


 頭の隅にいつも引っかかっているものがあった。


 お金だ。


 勉強はできる。


 けれど材料を買う金がない。


 王都まで行く金もない。


 このままでは何も始まらない。


 いつかは解決しなければならない問題だった。




△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 ある夜。


 夕食の片づけが終わった後だった。


 ロイドは仕事の図面を広げていた。


 トーマはもう眠っている。


 エリオは台所で湯を沸かしていた。




 やがてマグカップに注いで、クラリスの前に置く。


「ありがとう」


 クラリスが受け取る。


 エリオも向かいに座った。


 少し迷ってから、口を開く。


「クラリス先生」


「なあに」


「聞いてもいいですか」


「もちろん」


「お金って、どうしたら手に入りますか」


 クラリスは少しだけ間を置いた。


「どうして?」


「国立図書館にいくにはお金がいります」


「ええ」


「泊まる場所も必要です」


「そうね」


「ボクにはお金がありません」


 クラリスは湯を一口飲んだ。


 少し考えるような顔をしていた。


 何かを迷っているのか。


 それとも別のことを考えているのか。


 エリオにはわからない。




「魔法学園って知ってる?」


 エリオは首を傾げた。


「知りません」


「魔法を教える学校よ」


「魔法……」


 領主の屋敷で光った水晶を思い出した。


 たしか魔法と呼んでいた。


「七歳から入れて、三年で卒業できる」


「はい」


「卒業すれば、仕事の幅が広がるわ」


 エリオは黙って聞いた。


 お金に繋がる話なのだろうとは思う。


「ただし、基本的に貴族しか入れない」


「……そうですか」


「でもね、平民が入る方法がひとつだけあるわ」


「なんですか」


「入試で高得点を取ること」


 エリオは少し前のめりになった。


「特待生制度というの」


 クラリスは静かな口調で説明した。


「有望な人材を見逃さないための制度。学費も免除されるわ」


「じゃあ、試験に受かれば入れるんですか」


「受かれば、ね」


 クラリスの声が、少しだけ変わった。


「でも、簡単じゃないわ」


「どのくらいむずかしいですか」


「平民で合格した子を、私はひとりしか知らない」


 エリオは黙った。


「それに」


 クラリスがつづける。


「魔法の素養がなければ、そもそも話にならない」


「そよう、というのは?」


「生まれつきのものよ」


 エリオは自分の手を見た。


 生まれつき。


 その言葉は少し重かった。


 ――ないものが、増えるのかな。


「自分にあるかどうか、わかりません」


「そうね」


 クラリスはそれ以上は言わなかった。


 否定もしない。


 肯定もしない。


 ただ湯をもう一口飲んだ。




 エリオは考えた。


 むずかしい。


 それはわかった。


 受かる保証もない。


 素養があるかどうかもわからない。




 でも。


 諦める理由になるかどうか、それだけを考えた。


 ならない。


 どう考えてもならなかった。


 お金を稼ぐ方法が他にあるならそちらでもいい。


 けれど今この瞬間、他の方法は思いつかない。


 エリオは顔を上げた。


「魔法学園にいきたいです!」


 クラリスはエリオを見た。


 少しだけ目を細める。


 驚いているようには見えない。


 むしろ待っていたような顔にも見えた。


「わかった」


 クラリスは静かに言った。


「入学前に何をすべきか、魔法の先生に聞いておくわ」


「ありがとうございます」


「今日はもう休みなさい」


「はい」


 エリオは立ち上がった。


 おやすみなさいと言って、廊下へ出る。




△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 扉が静かに閉まった。


 クラリスはしばらく動かなかった。


 マグカップを両手で包んだまま、扉を見ている。


 湯はもうほとんど冷めていた。


『魔法学園にいきたいです』


 あの子はそう言った。


 迷わなかった。


 むずかしいと説明した。


 平民で受かった子をひとりしか知らないとも言った。


 それでも迷わなかった。




 クラリスは小さく息を吐く。


 予想通りだった。


 だからこそ、少しだけ胸が痛い。




 エリオが領主の屋敷を追い出された理由を、クラリスは知っている。


 魔力だ。


 魔法教師のドラグニル老師が青ざめていたと、後から聞いた。


『ありえない』と。


 そう言ったらしい。


 領主が恐れたのも当然だった。


 制御できるかどうかもわからない力をもつ子供を、自分の屋敷に置いておくのは危険だと判断したのだろう。


 クラリスにはその判断が理解できた。


 貴族とはそういうものだ。


 だからこそ、エリオにはその力を伸ばしてほしかった。


 人工陰茎などより、ずっと大切なことに思えた。


 国のためとか、魔法の発展とか、そういう大きな話ではない。


 ただ、あの子の力が埋もれていくのを見たくなかった。




 もちろん、そのままエリオに伝えるつもりはなかった。


 魔法学園へ行けと言っても、あの子は首を縦に振らなかっただろう。


 目的がないからではない。


 目的が別のところにあるからだ。


 人工陰茎。


 あの子は、ただ、それだけを見ている。


 見つめつづけている。




 だから稼ぐ手段として話した。


 学費が免除される。


 卒業すれば仕事の幅が広がる。


 嘘ではない。


 けれど全部でもない。


 クラリスはそれをよくわかっていた。


 マグカップを置く。


 陶器が小さな音を立てた。


 うしろめたさが、ないとは言えない。


 あの子は正直だ。


 隠し事ができない。


 だから自分の計算がひどく汚く感じることがある。




 それでも。


 クラリスは思う。


 あの子に必要なのは、いまは前に進む理由だ。


 本当のことを全部話せば、エリオは混乱するだろう。


 目的がぶれるかもしれない。


 それよりも、自分の夢のために動いていると思わせておくほうがいい。


 そのほうがあの子は強くなれる。


 たぶん。


 きっと。




 五歳のくせに、と思う。


 五歳のくせに、旅費の心配をしている。


 五歳のくせに、諦める理由を探して、見つからなかったから前を向く。


 五歳のくせに、お礼を言う顔が少しも子供らしくない。


 トーマと同い年だ。


 今ごろトーマは夢のなかで何かを叫んでいるだろう。


 走り回って、笑って、泣いて、それで一日が終わる。


 それが五歳というものだ。


 なのにエリオは……。




 クラリスは椅子の背にもたれた。


 天井を見上げる。


 自分にできることは多くない。


 勉強を教える。


 食事を出す。


 魔法教師に話をつける。


 できることは少ない。




 でも。


 せめてこの家にいる間だけは。


 あの子に、ちゃんと眠れる場所があればいい。


 温かいものが食べられればいい。


 誰かに話を聞いてもらえる、そう思えてくれればいい。


 それだけで、たぶん、あの子は進んでいける。




 クラリスは立ち上がった。


 冷めたマグカップを台所へ運ぶ。


 廊下はしんと静かだった。


 エリオの部屋の扉は閉まっている。


 明かりはもう消えていた。


 もう眠ったのだろうか。


 それとも暗い中でまだ考えているのだろうか。


 どちらでも構わない。


 クラリスはそっと廊下を歩いた。


 足音を立てないように。


 眠っているなら、起こさないように。


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