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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第9話 叱責と救い

林を抜けるまでのあいだ、誰も余計なことを言わなかった。


 夕暮れはもうほとんど終わっている。木々の隙間から差し込んでいた橙の光は薄れ、代わりに藍色の気配が地面から立ち上がってきていた。戦の近い土地の夜は、ただ暗いのではない。昼のあいだ人々が飲み込みきれなかった不安や怒りが、光の退くのと入れ違いににじみ出てくる。


 若き僧は先頭を歩きながら、背後の二つの気配を意識していた。

 白榊かなめの気配は、張っている。疲れていても崩れぬ、神域を預かる者の緊張だ。

 もう一つ――霞の気配は、乱れていた。


 足取りは軽い。訓練された者の歩き方だ。

 だが呼吸が浅い。

 後ろへ目を配る回数が多い。

 それは追手を警戒しているのではなく、自分が今、どこへ向かっているのか決めきれていない者の呼吸だった。


 やがて、かなめの社へ戻る少し手前の細道へ差しかかったところで、かなめが立ち止まった。


「……このまま社へ入れるつもりですか」


 声は低い。

 若き僧は振り返る。


「そのつもりです」

「正気ですか」

「はい」

「私はまだ、この女がまた中から神符を盗まない保証を一つももらっていません」

「当然です」

「当然なら、なぜそんなに静かなんです」

「騒いでも解決はしません」

「巡修殿」


 かなめの目が本気で険しくなった。


「私は冗談を言っているのではありません」

「分かっています」

「なら――」

「ですが」


 若き僧の声はやわらかいまま、わずかに低くなった。


「今、この人を外へ置けば、次は本当に死にます」


 かなめが言葉を切る。

 背後で、霞が小さく舌打ちした。


「勝手に決めないで」

「決めてはいません」

「私はあんたらに助けを乞うた覚えはない」

「ええ」

「なら放っておいて」

「それはできません」


 霞が目を細める。

 怒りとも、侮りともつかぬ目だ。だが、その奥にはまだ林の中で飛んできた毒針の記憶が残っている。自分を切る側が、本当に切った。その事実は、彼女の中でまだ整理されていない。


 かなめが、ぐっと息を吸った。


「……巡修殿。あなたは優しいのではなく、甘いのでは?」

「どちらも、時と場合によります」

「今は」

「今は、見捨てるほうがまずい」

「神域より?」

「神域も含めて」


 かなめが眉を寄せた。


「どういう意味です」

「かなめ殿の社を狙っている側は、こちらの反応を見ています」

「ええ」

「霞を切ったのは、その一環でもある」

「口を勝手に使わないで」


 霞が低く言う。

 若き僧は彼女の言葉を受け流さず、まっすぐ見た。


「あなたを捨て駒にした」

「……」

「それは、あなた一人を切り捨てたというだけではありません。こちらに対しても『この程度の駒は使い潰せる』と示した」

「それが?」

「ここであなたを放り出せば、向こうの思惑どおりです」


 かなめは黙った。

 理は分かる。分かるが、感情が追いつかない顔だった。


「私は……」


 かなめが視線を霞へ向ける。


「私は、この人がしたことを忘れたわけではありません。社へ手を入れた。神符を盗った。私を試した」

「当然です」

「当然って何よ」

「当然、忘れてはいけません」


 若き僧が言う。


「忘れず、だからこそ、今は殺さず、見捨てず、傍へ置いたほうがよい」

「……巡修殿」

「かなめ殿の怒りは正しいです」

「なら」

「ですが、怒りが正しいことと、最善手であることは別です」


 かなめは本当に嫌そうな顔をした。


「そういうところです」

「はい?」

「あなたの、そういう、筋は通っているのに腹が立つところです」

「それは申し訳なく」

「謝っても消えません」


 若き僧は少しだけ目を伏せた。


「ええ。でしょうね」


 霞が、そのやり取りを妙な顔で見ていた。

 たぶん彼女にとっては、もっと単純な反応のほうが馴染みがあるのだ。罵るか、斬るか、利用するか。そういう世界で生きてきた者の顔である。


「……あんたたち、変」


 ぽつりと霞が言う。


「巫女は私を嫌ってる。坊主は私を信用してない。なのに連れてく」

「信用していないのは、お互い様です」

 かなめが即答する。

「分かってる」

「なら話が早いです」

「早くない」


 霞は吐き捨てるように言い、それから若き僧を見た。


「坊主、何考えてるの」

「考えていることは、だいたい言いました」

「全部じゃない」

「そうですね」

「……嫌な答え方」


 若き僧はしばらく黙ってから、率直に言った。


「あなたが、まだ引き返せる顔をしているからです」

「は?」

「完全に壊れている者なら、もっと静かです」

「何、それ」

「自分が捨てられたことに、本気で怒れるうちは、まだ戻れます」

「……!」


 霞の表情が変わる。

 怒鳴り返すと思ったが、声は出なかった。代わりに目が揺れる。そこを見られたくないとでも言うように、彼女はすぐ顔をそらした。


「勝手なこと言わないで」

「勝手かもしれません」

「かも、じゃない」

「ですが」

「うるさい」


 その「うるさい」は、さっきまでの刃のような声ではなかった。

 若き僧はそれ以上押さなかった。


 やがて、かなめの社の鳥居が見えてきた。

 日は落ち、空の色は群青へ沈んでいる。鳥居の上に細い月が出ていた。普段なら美しく見える景色も、今夜ばかりは境そのものが緊張しているように見える。


 若き僧は鳥居の手前で立ち止まった。


「かなめ殿」

「はい」

「判断を」

「……」

「中へ入れるか。ここで分けるか」


 かなめは神域を預かる者の顔に戻った。

 長く息を吐き、霞を見た。


「一つ、条件があります」

「何」

「武器を預けなさい」

「嫌」

「なら入れません」

「……」

「ここは私の社です」

「分かってる」

「なら」

「短刀一本だけ」

「全部です」

「無理」

「全部」

「……最悪」


 霞は本気で嫌そうな顔をした。

 だが、その嫌がり方そのものが、どこか年相応でもあった。


 若き僧は口を挟まない。

 ここはかなめの神域であり、かなめの決めるべき線だ。


 しばらくの沈黙のあと、霞は舌打ちし、袖の内から短刀を一本、足首から細い刃を一本、腰の後ろから小さな針筒を二つ抜いた。かなめの目が少し大きくなる。


「……まだ持ってたの」

「仕事道具だもの」

「多すぎる」

「巫女が鈍いだけ」

「言いましたね」


 かなめはむっとしつつも、それらを受け取った。さらに若き僧が静かに言う。


「左の袖口」

「……」

「まだあります」

「最悪」


 霞は顔をしかめ、最後に極細の刃を一本抜いた。

 かなめが呆れたように息を吐く。


「本当に、よくそんなに」

「生きるため」

「なら、その生き方を少し変えなさい」

「説教は坊主だけで足りてる」

「私も言います」

「巫女ってもっと清らかだと思ってた」

「清らかでいるために、汚いものを見てるんです」


 かなめの返しに、若き僧は少しだけ感心した。

 霞も一瞬言い返せず、鼻を鳴らして黙る。


 三人は鳥居をくぐった。


 かなめの社の空気は、やはり少し落ち着く。

 外より清浄で、ただし今は張り詰めている。霞もそれを感じたのか、鳥居を越えたときにほんの僅かに目を細めた。


「……嫌な感じ」

「神域が?」

 かなめが問う。

「違う。私が嫌な感じ」

「自覚はあるんですね」

「あるわよ、それくらい」

「それならまだましです」

「何、その言い方」


 拝殿へ入る前に、若き僧はかなめへ目配せした。


「少し、話を」

「ここで?」

「はい。社の中で」

「……分かりました」


 かなめは頷き、霞を拝殿脇の板間へ座らせた。

 刀も針も取り上げられているが、それでも霞の座り方には隙がない。いつでも逃げられる体勢だ。けれど逃げない。そこがすでに、さっきまでと違う。


 かなめは腕を組んだまま言った。


「聞きます。誰に命じられたの」

「言えない」

「言えない、ではなく」

「言わない、でもない」

「では何」

「……分かんない」


 かなめが眉をひそめる。

 若き僧は静かに聞く。


「分からない?」

「名前までは知らない」

「顔は」

「見てる。でも本名かどうかは知らないし、あっちも私のことは道具としか見てない」

「その程度の繋がりで、神域を荒らしたのですか」

 かなめの声が冷える。

「……そういう仕事だったから」

「またそれですか」

「それ以外に、何て言えばいいの」


 霞の返しには、苛立ちより先に疲れがにじんでいた。


「金を受けて、場所を見て、物を盗って、必要なら誰かを切る。そういうふうに生きてきた。別に珍しくないでしょ、この世じゃ」

「珍しくないから、許されると思うの」

「思ってない」

「なら」

「でも、そうしないと、生きる道がなかった」


 かなめが何か言い返しかける。

 だが若き僧が先に口を開いた。


「それは分かります」

「巡修殿」

 かなめが驚いたように見る。

「ですが」


 若き僧は霞から目を逸らさなかった。


「だからといって、弱い社や、守る手の足りぬ場所を狙ってよい理由にはならない」

「……」


 霞の指先が、板間の縁をぎゅっと掴む。


「私は、あなたの生き方が楽だったとは思いません」

「……」

「むしろ、苦しかったのでしょう」

「勝手に決めないで」

「決めません」

「なら」

「ですが、苦しいことと、正しいことは違う」

「うるさい」

「生きるために汚れたことは責めません」

「……!」

「だが、その汚れを理由に、より弱いものを踏みにじるなら、それは違う」

「……」


 かなめも黙った。

 社の空気まで静まったようだった。


 若き僧は声を荒げない。

 それでも、言葉は逃がさない。


「あなたは、自分が踏まれてきたから、踏んでよいと思っているのですか」

「そんなこと」

「違うなら、なおさらです」

「……っ」


 霞の目尻が、ほんのわずかに震えた。

 怒っている。

 腹も立っている。

 だが、それだけではない。


「私は……」


 言いかけて、霞は唇を噛んだ。

 言葉にならないのだろう。長く口にしなかった本音は、いざ出そうとすると案外形を持たない。


 かなめが、意外なほど静かな声で言った。


「あなたを撃った相手は、仲間だったの」

「……仲間ってほどじゃない」

「でも、同じ側でしょう」

「そう」

「なら、どうして」

「迷ったからでしょ」


 霞は吐き捨てるように言った。


「仕事の途中で、余計なことを考えた。巫女と坊主を見て、あの火を見て、熱田まで見て……たぶん、そういうのが邪魔だった」

「邪魔」

「そう。使う側には」

「……」


 かなめの表情が、僅かに変わる。

 怒りが消えたわけではない。だが、その奥に別の感情が混じった。目の前の少女が、ただ冷酷な敵ではなく、切られる側にもいたのだと知った顔だ。


 若き僧はゆっくり言う。


「では、なおさらです」

「何が」

「このまま戻れば、次は確実に切られる」

「戻るつもりなんて」

「ない?」

「……」

「ないなら」

 若き僧は少しだけ声を和らげた。

「今夜だけでも、ここにいてください」

「……は?」

「休めるなら、休むといい」

「何言ってるの」

「体も、考えも」

「ばかじゃないの」


 霞は本気で呆れたようだった。


「私が何したか分かってる?」

「分かっています」

「神符を盗った」

「ええ」

「巫女を試した」

「はい」

「坊主を切ろうとした」

「そこはお互い様ということで」

「全然違う」


 かなめが呆れ顔で言う。

 だがその呆れに、さっきまでの刺すような怒気は薄れていた。


 霞はそれでも若き僧を睨んだ。


「こんなの、優しさじゃない」

「そうかもしれません」

「甘さだよ」

「それでも構いません」

「……」

「見捨てて、あとで死んだと聞かされるほうが、私には悪い」


 その言葉に、霞は完全に黙った。

 かなめも何も言わない。


 しばらくしてから、かなめが小さく息を吐く。


「……本当に、腹が立つくらい真っ直ぐですね」

「そうでしょうか」

「ええ」

「かなめ殿にそう言われると、少し不安になります」

「褒めていません」

「やはり」


 かなめは霞の前へ歩み寄り、取り上げた短刀や針を離れた場所へ置いた。


「今夜だけです」

「……」

「今夜だけ、ここにいていい」

「巫女」

「ただし」

 かなめの目が細くなる。

「私の社で余計なことをしたら、今度こそ本当に撃ちます」

「……怖」

「怖くて結構」

「さっきまでより性格きつくなってない?」

「最初からです」

「うわ……」


 霞は本当に嫌そうな顔をした。

 だが、その口元がほんのわずかに緩んだのを、若き僧は見逃さなかった。


 まだ信用には遠い。

 まだ敵意も警戒も残っている。

 それでも、切るか切られるかだけだった関係は、ここで少し形を変えた。


 若き僧は立ち上がり、外の気配へ意識を向けた。


「今夜、また来ます」

「追手?」

 かなめが問う。

「おそらく」

「じゃあ休めないじゃない」

 霞が言う。

「休めるだけでも違います」

「坊主って、そういうところある」

「どういう」

「真面目なのに、言うことが地味に無茶」

「かなめ殿にも、似たようなことを言われました」

「似たようなことじゃないです。ほぼそのままです」

「そうでしたか」

「自覚がないのが一番たち悪い」

「善処します」

「またそれ」


 板間に、ほんの少しだけ笑いに近い空気が落ちた。

 もちろん、平和な場面ではない。

 外には追手がいる。

 戦は近い。

 神域は軋み、信長の火は熱を増し、東海の古い術者はなお押し込んでくる。


 それでもこの瞬間だけは、若き僧は確かに感じていた。


 目の前のこの少女は、まだ完全には壊れていない。

 ならば、道はある。


 その道がどれほど険しいかは、まだ分からないとしても。 





夜が完全に降りる前に、社の空気はもう一段、重くなっていた。


 白榊かなめの社は、小さい。

 熱田のように広大な神域ではないし、古い王権の影を背負うほどの格もない。村の暮らしと祈りを束ね、四季の穏やかさを守るための、小さく静かな結の場所だ。

 けれど、だからこそ傷つきやすい。


 大きな戦の前には、こうした小さな場所から先に鈍る。

 強い社は最後まで抵抗するが、弱い社は「わずかにずらす」だけで効いてしまう。水路の角度を少し曲げるように、村の気はすぐに淀み、眠りが浅くなり、子どもが理由もなく泣き、家畜が怯え、疑いと苛立ちが人の口にのぼる。


 今夜の尾張は、そういう前触れに満ちていた。


 拝殿の脇の板間に腰を下ろした霞は、表向きこそ不貞腐れた顔をしていたが、肩の力が抜けきってはいなかった。彼女のような忍びにとって、武器を預けるというのは、衣を剥がされるに等しい。短刀も針も煙も取り上げられ、今の彼女は身軽である代わりに、頼りなくもある。


 かなめはそれを承知のうえで、あえて視界に入る位置へ霞を座らせた。

 敵か味方か未定の者を、目の届かぬ場所に置くほど、彼女は甘くない。


 若き僧は拝殿の前へ座し、灯明を一つだけ灯していた。

 明るすぎる光は外からの目を呼ぶ。

 暗すぎれば内の顔も見えぬ。

 今夜の社には、その中間が要る。


「……何でそんなに静かなの」


 板間に肘をついたまま、霞がぼそりと言った。


 若き僧は火を見つめたまま、問い返す。


「私がですか」

「そう。普通、もうちょっと怒るでしょ」

「誰が」

「巫女でも、坊主でも、誰でも。私、あんたらの社荒らして、神符盗って、切りかかった」

「ええ」

「なのに、妙に静か」


 かなめが即座に言う。


「私は怒っています」

「分かってる。巫女は分かりやすすぎる」

「何ですって」

「そういうとこ」

「あなたにだけは言われたくありません」


 霞は口元だけで笑いかけたが、その笑いは長く続かなかった。

 すぐに消える。

 無理に形を作っただけの笑みだと、若き僧には分かる。


「静かなのは」


 彼は灯明の火から目を離し、霞を見た。


「今は怒りだけで決める場ではないからです」

「綺麗ごと」

「そうかもしれません」

「“かも”じゃなくて、そう」


 霞の言葉は突っかかっているようでいて、声の芯が弱い。

 林で自分ごと切られかけたことが、まだ体のどこかに残っているのだろう。腹立たしくても、吐き捨てる勢いだけでは押し切れない。


 かなめが腕を組んだまま、霞を見下ろした。


「では聞きます。あなたは、あの針が飛んでくると知らなかったのですね」

「……知らなかった」

「本当に?」

「嘘ついてどうすんの」

「あり得るでしょう。こっちの油断を誘うために」

「そこまで器用なら、そもそも切られそうになってない」


 返しは刺々しい。

 だが、それはつまり、切られることが予想外だったと自分で認めているのと同じだった。


 かなめもそれを理解したようで、次の言葉に少し間が空いた。


「あなたを使っていた相手は」

「……」

「迷いが見えたら、本当にあなたごと消すつもりだったのね」

「……たぶん」


 霞は視線を床へ落とした。


 それは、同意というより敗北の顔だった。

 自分の見ていたものが、思っていたよりも冷たかったと知った者の顔。

 若き僧は、その表情をじっと見た。


「たぶん、ではありません」

「……何」

「本当に、そのつもりだった」

「分かってる」


 霞の声が強くなる。


「分かってるよ、そのくらい。林でだって、見れば分かる。あれは脅しじゃない。本気で切りにきた」


 彼女の指先が板間の端をぎゅっと掴む。

 白い節が浮く。

 怒っている。

 だが、その怒りは若き僧やかなめへ向けられているのではない。自分の見誤り、自分の立場、自分を使った側、その全部へ向いて、行き場を失っている。


「それでも」


 若き僧は静かに続けた。


「今あなたが一番怒るべきなのは、自分を捨てた相手です」

「……」

「そして、自分がその相手の刃として、かなめ殿の社へ手を入れたことです」

「説教?」

「いいえ」

「じゃあ何」

「確認です」


 霞が顔を上げる。

 細い目が険しく光る。

 けれど、その奥にはわずかに恐れもある。これ以上、核心を突かれたくないのだろう。


「あなたは、自分が何をしたか分かっている」

「……」

「それなら、ここで“仕事だから”だけで済ませてはいけない」

「うるさい」

「うるさくても言います」

「何で」

「かなめ殿の社は、あなたが思うよりずっと小さくて、弱くて、それでも懸命に耐えているからです」

「……」

「あなたが盗った神符は、ただの紙ではない。ここに生きる人たちの眠りや、朝の平穏や、名もない祈りの一部です」


 かなめが、わずかに目を見開く。

 自分の神域のことを、別の理に属する僧がそこまで正確に言葉にしたことが、少し意外だったのかもしれない。


 霞は言い返さなかった。

 だが黙り方が変わった。

 反発ではなく、飲み込みきれぬものに押されている沈黙だ。


 若き僧はそこで初めて、少しだけ声をやわらげた。


「生きるために汚れたことまで責めるつもりはありません」

「……」

「この世は、そうでもしなければ生き延びられぬ者が多い」

「……じゃあ」

「ですが」

 彼は霞の目をまっすぐ見た。

「それを理由に、もっと弱いものを踏んでいいことにはならない」


 霞の喉が小さく鳴った。


「私だって……」

 言いかけて、彼女は言葉を止めた。

「何です」

 かなめが問う。

「私だって、好きでこんなことしてるわけじゃない」


 ようやく出た本音は、思ったより幼かった。

 尖ってはいても、まだ年若い声だ。

 それが拝殿の板間で、やけに生々しく響いた。


「好きで泥に入る奴なんて、そういない」

「ええ」

 若き僧が答える。

「でも、入ってしまったら戻れないでしょ」

「そんなことはありません」

「あるよ」

 霞が顔を上げる。

「そういう目で見られる。一回でも汚れ仕事したら、二度と清い側には行けない」

「誰に言われたのです」

「……」

「あなたを使っていた者ですか」

「違う」

「では」

「……そういうものでしょ、世の中」


 若き僧は、そこで初めて息をついた。

 深くもなく、浅くもなく。

 それから言った。


「世の中がそう言うなら」

「……」

「なおさら、誰かが違うと言わなければいけない」

「何、それ」

「私の役目です」

「坊主の?」

「はい」

「変なの」


 霞は眉を寄せた。

 からかう調子ではない。

 本気で分からない、という顔だった。


 かなめが小さく言う。


「巡修殿は、そういう人です」

「巫女まで」

「庇っていません」

「でも否定もしない」

「ええ」

「何で」

「……」


 かなめは少しだけ考えるように視線を落とした。


「私もあなたのしたことを許したわけではありません」

「知ってる」

「むしろまだ腹が立っています」

「それも知ってる」

「ですが、林で針が飛んだとき」

 かなめはまっすぐ霞を見た。

「私も、見捨てるのは違うと思った」

「……」

「だから今、ここにいるのでしょう」

「……巫女って、もっと冷たいと思ってた」

「失礼ですね」

「だって神様側の人間じゃん」

「何ですか、その雑な括り方は」


 かなめは呆れたように言ったが、少しだけ空気が和らいだ。


 それでも社の外の気配は緩まない。

 むしろ夜が深まるにつれ、外から押してくる圧が少しずつ強くなっていた。若き僧はそれを感じ取っていた。林の向こう、北東の継ぎ目に細い歪みがまた差し込み始めている。


「かなめ殿」

「はい」

「そろそろ来ます」

「今夜も」

「ええ。しかも昨日より一段深い」

「……分かりました」


 かなめはすぐ立ち上がった。

 霞も反射的に立とうとして、武器がないことを思い出したように、わずかに動きを止める。


 若き僧はそれを見て、かなめへ言った。


「短刀を一本だけ返してください」

「え?」

 かなめが振り向く。

「正気ですか」

「ええ。外から押してくるなら、手数が要る」

「でも」

「全部ではなく一本だけ。柄も抜き身も見える形で」

「……」


 かなめは露骨に嫌そうな顔をした。

 だが、神域の外からの圧が強まっているのもまた事実だ。今夜、もし複数の手が入るなら、自分と巡修の二人だけでは取りこぼす可能性がある。


「……条件つきです」

「当然です」

「社の外へ勝手に出ない」

「はい」

「私が言うまで抜かない」

「それは無理」

「何ですって」

「抜かないと死ぬときがある」

「言い方!」

「……じゃあ、勝手に人へ向けない」

「そっちです」

「分かりました」


 かなめは大きくため息をつき、取り上げていた短刀のうち一番小ぶりなものを霞へ返した。

 霞はそれを受け取り、掌で重さを確かめる。

 その仕草だけで、彼女がどれだけ刃を体の一部として扱ってきたか分かった。


「……ありがと」

 小さな声だった。

 かなめは聞こえないふりをしたが、若き僧には届いていた。


 三人は社の裏手へ回る。

 井戸跡の石組み、結界杭、夜の湿った空気。

 昨夜と同じ場所なのに、今夜は違う。かなめの神域はまだ持ちこたえているが、向こうもこちらの様子を測り終えたらしく、遠慮が薄れていた。


 若き僧は裏手の土に片膝をつき、掌をかざす。


「深い」

「昨日より?」

 かなめが問う。

「ええ。結びの符を一度抜かれた影響もあります」

「……」

「ただ、完全には戻していません」

「何を」

「向こうの押し方です」


 霞が低く言った。


「試してる」

「はい」

「こっちに、あの針で切り捨てたのとは別口がいる」

「その可能性が高い」

「なら、あんまり長居しないほうがいい」

「逃げますか」

 かなめが言う。

「逃げるんじゃない」

「では」

「位置を変える。真正面から受けると、じわじわ削られる」


 その言い方に、若き僧は少しだけ頷いた。

 やはり彼女は現場を知っている。敵として現れた時より、今のほうがはるかに本来の声に近いのかもしれない。


「霞」

「何」

「あなたが社を荒らしたことは許していません」

「はいはい」

「でも、今の判断は正しいです」

「……そう」


 霞は意外そうにかなめを見た。

 褒められるとは思っていなかったのだろう。


 若き僧は短く言う。


「二人とも、下がってください」


 彼は袖の中から、小さな金属輪と香木を取り出した。

 異国で手に入れた法具。

 かなめの神前では本来なら遠慮すべき種類のものだが、今はかなめ自身が許している。


「長くは持ちません」

「何をするのです」

「押し返すのではなく、流れをずらします」

「ずらす?」

「ええ。今夜だけでも」


 香木へ火を点じる。

 夜の中に、冷たい水底を思わせる香りが立つ。

 輪を地へ置き、若き僧は小さく印を切った。声は低く、長くはない。だが、日本の真言とも、かなめの祝詞とも違う響きが混じる。


 かなめがその横顔を見つめる。

 霞は短刀を握ったまま、初めて少しだけ真面目な顔でその術を見ていた。


 外から差し込んでいた細い圧が、わずかに揺れる。

 押し込む向きが一瞬だけ滑った。


「今!」

 若き僧が言う。


 かなめが結界杭の位置を一つ変える。

 霞が逆側へ走り、林際の細い糸を短刀で切る。

 三人の動きが、ほんの一瞬だけ噛み合った。


 圧が散る。

 完全ではない。

 だが、向こうの“押しやすい形”を崩すには十分だった。


「はぁ……っ」

 かなめが息を吐く。

「今のは」

「応急です」

 若き僧が答える。

「でも、今夜はこれで少し持つ」


 霞が林の方を睨む。


「向こう、苛ついてる」

「分かるのですか」

 かなめが問う。

「何となく。こういうの、仕事で何度も見てる」


 その言い方に、若き僧は視線を向けた。

 霞もそれに気づいて、少しだけ目を逸らす。


「……何」

「いいえ」

「その目、やめて」

「どの目でしょう」

「“まだ引き返せる”とか思ってる目」

「思っています」

「だから嫌い」

「嫌われるのは慣れています」

「その返し方、ずるい」


 かなめが、そこでふっと小さく笑った。

 自分でも意外だったのか、すぐ真顔に戻る。


「……笑ってる場合じゃないですね」

「はい」

 若き僧が答える。

「でも、少しだけ力は抜けたでしょう」

「それは」

「悪いことではありません」

「……巡修殿」

「はい」

「あなた、本当にずるいです」

「光栄です」

「褒めていません」

「ええ、存じています」


 夜風が三人のあいだを抜けた。

 戦の前の尾張は、なお不穏だ。

 神域も地脈も、信長の火も、東海の古い術も、どれ一つ収まってはいない。


 それでも、少なくとも今この社の裏手には、先ほどまでとは違うものがあった。


 巫女と、旅の僧と、元は敵として現れたくノ一。

 まだ互いを完全には信じていない。

 だが、それでも同じ圧へ手を伸ばし、同じ方向を見た。


 若き僧はそれを、小さくとも確かな変化だと思った。


 そして霞もまた、自分がもう一度だけ、別の道を試せる場所に立たされていることを、たぶん気づき始めていた。

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