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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第10話 東海守護の古き術

 その夜、社はようやく眠りに近い静けさを取り戻した。


 完全な安堵ではない。

 外から押し込まれてくる圧はまだ消えていないし、尾張全体を覆う不穏さはむしろ深まっている。だが少なくとも、白榊かなめの社の内側には、さきほどまでのような“じわじわと内臓を締めつける”感じが薄れていた。

 若き僧が異国の法で流れをずらし、かなめが結界杭を組み替え、霞が林際の補助の糸を断った。三人の動きが一瞬でも噛み合ったことが効いたのだろう。


 もっとも、そのこと自体が、別の問題を示してもいた。


 向こうは一人ではない。

 少なくとも、霞のような手足を使う者と、その向こうで大きく術を組む者がいる。

 しかもその術は、村の社をただ穢すためのものではない。


 もっと広い。

 もっと古い。

 もっと厄介だ。


 若き僧は拝殿前の板間に座し、灯明の火を見つめていた。

 かなめはその少し後ろ、柱に背を預けて神楽鈴を抱いている。疲れているはずなのに、完全には気を抜かない。巫女としての責がそうさせるのだろう。

 霞は板間の端に膝を立てて座り、返された短刀を膝の上へ置いたまま、じっと外を見ていた。逃げる気配はない。だが、落ち着いたとも言い難い。林で切られかけてから、彼女の中で何かがずっと軋んでいる。


 最初に口を開いたのは、かなめだった。


「……今夜の押し方、昨日までと違いました」

「はい」

 若き僧が頷く。

「どう違うのです」

「昨日までは、神域の反応を鈍らせるための細い圧でした」

「ええ」

「今夜はそこへ、もう一段深いものが重なっていました」

「深い?」

「土地そのものを“どちらへ傾けるか”を測る類の術です」

「そんなことができるの?」

 霞が怪訝そうに言う。

 若き僧は少しだけ考え、それから答えた。

「完全に動かすのは難しいでしょう」

「じゃあ」

「けれど、押すことはできる。たとえば川の流れも、堰をひとつ置けば向きが少し変わる」

「地脈が川みたいなもの、ってこと?」

「かなり乱暴ですが、おおむねそうです」

「それ、あんたの話、全部そうやって喩えてくれれば分かりやすいんだけど」

「努力します」

「その努力、たまにしか成功しないでしょ」

「否定はしません」


 かなめは呆れたように小さく息をついたが、すぐ真面目な顔へ戻った。


「つまり、この社だけではなく、尾張全体の“気の向き”を見ている?」

「おそらく」

「そんなこと、誰が」

「それです」


 若き僧は静かに言った。


「今川義元の軍勢が動いているだけなら、こうはなりません」

「え?」

 かなめが眉をひそめる。

「今川の大軍がいるのに?」

「大軍は大軍です。脅威でしょう」

「じゃあ」

「ですが、今夜感じたものは、単なる兵数の重みではない」

「もっと別の」

「ええ。古い理が混ざっている」


 霞が、そこで初めてはっきりと顔を上げた。


「……古い理」

「あなた、心当たりは」

 かなめが問う。

 霞はすぐには答えなかった。


 焚きしめた灯明の光が、彼女の横顔に細い影を落とす。普段の霞は、問いかけられればすぐに棘で返す。だが今は、その棘を作る前に考えている顔だった。


「ある、かも」

「かも、では困るのですが」

 かなめが言う。

「分かってる。でも、名前までちゃんとは知らない」

「顔は?」

 若き僧が問う。

「見てる」

「では」

「……あんたたち、東海の古い社家って知ってる?」

「東海の」

 かなめが繰り返す。

「駿河や遠江、三河に連なるような」

「そう。昔から海道の神と土地を押さえてきたような家。表向きは神職だったり、祈祷師だったり、古い社の後ろにいるような連中」

「それが、今川に?」

「今川そのものっていうより」

 霞は言葉を探すように、少し目を伏せた。

「今川が動くとき、その背後で一緒に動く感じ。守ってるのか、利用してるのか、そこまでは知らない」

「……」

「でも、ああいうの好きなのよ。大きな社を真正面から穢すんじゃなくて、小さい結び目を先に鈍らせるの」


 かなめが悔しげに唇を噛む。


「うちの社みたいに」

「そう」

「最悪ですね」

「だから最初からそう言ってる」


 若き僧は、霞の言葉の一つ一つを静かに繋げていた。


 東海の古い社家。

 海道の神。

 今川の進軍。

 そして熱田への圧。


 筋は通る。


「彼らは、今川の勝利だけを求めているわけではないのでしょう」

 若き僧が言う。

「どういう意味ですか」

 かなめが問う。

「もし今川を勝たせるだけなら、もっと露骨に尾張の軍勢や人心を崩すやり方もある」

「そうなの?」

 霞が言う。

「ええ」

「でも、今の押し方は違う?」

「はい。今夜の圧は、勝敗そのものより“尾張がどちらへ傾くか”を見ている」

「それって」

「天下の流れです」


 拝殿の空気が、すっと冷えた気がした。


 天下。

 この小さな社には大きすぎる言葉だ。

 けれど、もうその言葉を避けて話せる段ではない。


 かなめが小さく言う。


「熱田も、そういう目で見られている」

「ええ」

「尾張の神域だけではなく、土地そのものが」

「はい」

「そんな……」

「大きな戦の前は、そういうことも起きます」

「そんなの」

 かなめの声がわずかに震えた。

「巫女一人に背負わせる話ではないです」

「ええ」

「でも今は、私しかいない」

「だから私がいます」

 若き僧が静かに言う。

 かなめははっとしたように彼を見る。

「それに、霞も」

「え?」

 霞が顔をしかめる。

「私はまだそっちじゃない」

「今はここにいる」

「……」

「それで十分です」


 霞はすぐには返事をしなかった。

 反発しようとして、うまく形にならないのだろう。若き僧の言葉は、彼女が自分で逃げ道を作るより先に、その先の道を置いてしまう。


「その東海の古い社家」

 かなめが改めて言う。

「霞、あなたはどこまで知っているの」

「どこまでって……」

「名前でも、紋でも、癖でも」

「……老爺が一人いた」

「老爺」

「神主みたいな格好してるけど、そんな綺麗な感じじゃなかった。白くて長い指の人。声が静かすぎて逆に嫌だった」

「その人が命じた?」

「直接じゃない」

「では」

「私はその下の手から話を受けただけ。でも、一度だけ見た。今川の本陣の側へ入っていくのを」

「本陣」

 若き僧の声が低くなる。

「ええ。義元の近くに?」

「近いと思う。少なくとも、あんな場所まで普通の祈祷師は入れない」

「……」


 かなめが腕を抱くようにした。

 今川義元の進軍、その背後に東海の古い術。ここにきて、敵の形がようやく輪郭を持ち始めている。

 ただ兵が多いだけの脅威ではない。

 古い秩序そのものが、尾張の変化を押し潰そうとしているのだ。


「巡修殿」

 かなめが、慎重に問う。

「その老爺が」

「はい」

「この圧の主」

「可能性は高い」

「つまり、私たちは今、東海の古い社家の術とぶつかっている」

「ええ」

「最悪です」

「かなり」

「その“かなり”で済ませないでください」

「失礼しました」

「本当にそう思ってます?」

「半分くらいは」

「またそれ」


 かなめは眉間を押さえた。

 だが、少しだけ呼吸が整ったようでもあった。敵が見えぬまま恐れるより、輪郭があるほうがまだ戦える。


 霞が壁にもたれたまま、ぽつりと呟く。


「……あの人、今川のことも駒みたいに見てた」

「老爺が?」

 若き僧が聞き返す。

「うん。敬ってる感じはしなかった。むしろ、“今はこの形が使える”って見方」

「……」

「だから、今川に勝ってほしいっていうより、東海の理がそのまま上に立っててほしいんじゃない」

「古い秩序」

 若き僧が低く言う。

「そういうことです」

 かなめも、苦い顔で頷いた。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 拝殿の外では、夜風が鳥居を鳴らしている。虫の声もある。村はまだ完全には眠っていない。どこかの家で戸が閉まり、犬が遠く吠えた。

 だが、それらの音の奥で、若き僧にはもっと大きな流れが聞こえていた。


 東海から押し寄せる、青黒く整いすぎた圧。

 尾張の内側で育つ、赤い覇の火。

 熱田の神気。

 その間に挟まれ、選ばされようとしている無数の小さな結び目。


 かなめがぼそりと言う。


「……こんなの、ただの今川攻めではない」

「はい」

「尾張と今川の戦ですらない」

「ええ」

「もっと古いものが、動いてる」

「その通りです」


 若き僧はそこで、一つの考えへ至っていた。


「かなめ殿」

「はい」

「霞」

「何」

「今川の本陣を守る術が、もしその老爺の組んだものだとすれば」

「……」

「こちらが社を守っているだけでは、いずれ限界が来ます」

「だろうね」

 霞が言う。

「相手は本陣から押してるなら、こっちは枝先しか触れてない」

「ええ」

「じゃあどうするの」

 かなめが問う。

「……本陣近くの理を見ねばならない」

「今川の?」

「はい」

「そんなの無理です」

「でしょうね」

「そこで“でしょうね”と言いますか」

「今のところは」

「今のところ?」

「今すぐではありません」

 若き僧は静かに続けた。

「ですが、桶狭間へ向かう流れの中で、いずれそこを見ざるを得ない」

「……」

「向こうが尾張全体を測っているなら、こちらも相手の芯を知らねばなりません」

「それ、ほとんど戦場の真ん中へ行くってことじゃない」

 霞が言う。

「そうなります」

「本当に坊主?」

「たぶん」

「その“たぶん”やめて」


 かなめは呆れたが、拒絶はしなかった。

 自分でも分かっているのだろう。このまま小さな社の結びだけを守っていても、いずれもっと大きな流れに呑まれることを。


「でも」

 かなめが言う。

「それは今夜の話ではありません」

「ええ」

「今は、まずこの社を持たせる」

「その通りです」

「そして熱田と、尾張の流れを見続ける」

「はい」

「……分かりました」


 かなめの目が、静かに決まる。

 若い巫女だ。

 だが、決めるときの目は強い。


 霞がそれを見て、ぼそりと呟く。


「箱入りの顔じゃないね」

「何か言いました?」

「何も」

「聞こえています」

「耳いいな、巫女」

「あなたほどではありません」

「何それ、褒めてない」

「私もです」


 若き僧は二人のやり取りを聞きながら、小さく息を吐いた。

 少しだけ、張り詰めた空気が緩む。

 それは悪いことではない。


 だが次の瞬間、彼の表情が変わった。


「……来る」


 かなめが立ち上がる。

「また?」

「ええ。今度は浅くありません」

「北東?」

「いえ」

 若き僧の視線が、社の正面を向く。

「正面からです」


 霞もすぐに短刀へ手をかけた。

 鳥居の外。

 村へ続く細い道の向こう。

 そこから、ほんのわずかだが、人の気配に似せた別のものが近づいてくる。


 若き僧は立ち上がった。


「かなめ殿、神前の火を一つ落としてください」

「はい」

「霞、今夜は鳥居を越えるな」

「命令?」

「お願いです」

「……それ、ずるい言い方」


 それでも霞は頷いた。


 かなめが灯を一つ消す。

 社の明かりがわずかに弱まり、外の気配との境がはっきりする。


 正面から来る。

 それはつまり、向こうもまた、次の段へ進んだということだった。


 東海守護の古き術。

 その手は、もはや陰から押すだけでは飽きていない。

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