第10話 東海守護の古き術
その夜、社はようやく眠りに近い静けさを取り戻した。
完全な安堵ではない。
外から押し込まれてくる圧はまだ消えていないし、尾張全体を覆う不穏さはむしろ深まっている。だが少なくとも、白榊かなめの社の内側には、さきほどまでのような“じわじわと内臓を締めつける”感じが薄れていた。
若き僧が異国の法で流れをずらし、かなめが結界杭を組み替え、霞が林際の補助の糸を断った。三人の動きが一瞬でも噛み合ったことが効いたのだろう。
もっとも、そのこと自体が、別の問題を示してもいた。
向こうは一人ではない。
少なくとも、霞のような手足を使う者と、その向こうで大きく術を組む者がいる。
しかもその術は、村の社をただ穢すためのものではない。
もっと広い。
もっと古い。
もっと厄介だ。
若き僧は拝殿前の板間に座し、灯明の火を見つめていた。
かなめはその少し後ろ、柱に背を預けて神楽鈴を抱いている。疲れているはずなのに、完全には気を抜かない。巫女としての責がそうさせるのだろう。
霞は板間の端に膝を立てて座り、返された短刀を膝の上へ置いたまま、じっと外を見ていた。逃げる気配はない。だが、落ち着いたとも言い難い。林で切られかけてから、彼女の中で何かがずっと軋んでいる。
最初に口を開いたのは、かなめだった。
「……今夜の押し方、昨日までと違いました」
「はい」
若き僧が頷く。
「どう違うのです」
「昨日までは、神域の反応を鈍らせるための細い圧でした」
「ええ」
「今夜はそこへ、もう一段深いものが重なっていました」
「深い?」
「土地そのものを“どちらへ傾けるか”を測る類の術です」
「そんなことができるの?」
霞が怪訝そうに言う。
若き僧は少しだけ考え、それから答えた。
「完全に動かすのは難しいでしょう」
「じゃあ」
「けれど、押すことはできる。たとえば川の流れも、堰をひとつ置けば向きが少し変わる」
「地脈が川みたいなもの、ってこと?」
「かなり乱暴ですが、おおむねそうです」
「それ、あんたの話、全部そうやって喩えてくれれば分かりやすいんだけど」
「努力します」
「その努力、たまにしか成功しないでしょ」
「否定はしません」
かなめは呆れたように小さく息をついたが、すぐ真面目な顔へ戻った。
「つまり、この社だけではなく、尾張全体の“気の向き”を見ている?」
「おそらく」
「そんなこと、誰が」
「それです」
若き僧は静かに言った。
「今川義元の軍勢が動いているだけなら、こうはなりません」
「え?」
かなめが眉をひそめる。
「今川の大軍がいるのに?」
「大軍は大軍です。脅威でしょう」
「じゃあ」
「ですが、今夜感じたものは、単なる兵数の重みではない」
「もっと別の」
「ええ。古い理が混ざっている」
霞が、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
「……古い理」
「あなた、心当たりは」
かなめが問う。
霞はすぐには答えなかった。
焚きしめた灯明の光が、彼女の横顔に細い影を落とす。普段の霞は、問いかけられればすぐに棘で返す。だが今は、その棘を作る前に考えている顔だった。
「ある、かも」
「かも、では困るのですが」
かなめが言う。
「分かってる。でも、名前までちゃんとは知らない」
「顔は?」
若き僧が問う。
「見てる」
「では」
「……あんたたち、東海の古い社家って知ってる?」
「東海の」
かなめが繰り返す。
「駿河や遠江、三河に連なるような」
「そう。昔から海道の神と土地を押さえてきたような家。表向きは神職だったり、祈祷師だったり、古い社の後ろにいるような連中」
「それが、今川に?」
「今川そのものっていうより」
霞は言葉を探すように、少し目を伏せた。
「今川が動くとき、その背後で一緒に動く感じ。守ってるのか、利用してるのか、そこまでは知らない」
「……」
「でも、ああいうの好きなのよ。大きな社を真正面から穢すんじゃなくて、小さい結び目を先に鈍らせるの」
かなめが悔しげに唇を噛む。
「うちの社みたいに」
「そう」
「最悪ですね」
「だから最初からそう言ってる」
若き僧は、霞の言葉の一つ一つを静かに繋げていた。
東海の古い社家。
海道の神。
今川の進軍。
そして熱田への圧。
筋は通る。
「彼らは、今川の勝利だけを求めているわけではないのでしょう」
若き僧が言う。
「どういう意味ですか」
かなめが問う。
「もし今川を勝たせるだけなら、もっと露骨に尾張の軍勢や人心を崩すやり方もある」
「そうなの?」
霞が言う。
「ええ」
「でも、今の押し方は違う?」
「はい。今夜の圧は、勝敗そのものより“尾張がどちらへ傾くか”を見ている」
「それって」
「天下の流れです」
拝殿の空気が、すっと冷えた気がした。
天下。
この小さな社には大きすぎる言葉だ。
けれど、もうその言葉を避けて話せる段ではない。
かなめが小さく言う。
「熱田も、そういう目で見られている」
「ええ」
「尾張の神域だけではなく、土地そのものが」
「はい」
「そんな……」
「大きな戦の前は、そういうことも起きます」
「そんなの」
かなめの声がわずかに震えた。
「巫女一人に背負わせる話ではないです」
「ええ」
「でも今は、私しかいない」
「だから私がいます」
若き僧が静かに言う。
かなめははっとしたように彼を見る。
「それに、霞も」
「え?」
霞が顔をしかめる。
「私はまだそっちじゃない」
「今はここにいる」
「……」
「それで十分です」
霞はすぐには返事をしなかった。
反発しようとして、うまく形にならないのだろう。若き僧の言葉は、彼女が自分で逃げ道を作るより先に、その先の道を置いてしまう。
「その東海の古い社家」
かなめが改めて言う。
「霞、あなたはどこまで知っているの」
「どこまでって……」
「名前でも、紋でも、癖でも」
「……老爺が一人いた」
「老爺」
「神主みたいな格好してるけど、そんな綺麗な感じじゃなかった。白くて長い指の人。声が静かすぎて逆に嫌だった」
「その人が命じた?」
「直接じゃない」
「では」
「私はその下の手から話を受けただけ。でも、一度だけ見た。今川の本陣の側へ入っていくのを」
「本陣」
若き僧の声が低くなる。
「ええ。義元の近くに?」
「近いと思う。少なくとも、あんな場所まで普通の祈祷師は入れない」
「……」
かなめが腕を抱くようにした。
今川義元の進軍、その背後に東海の古い術。ここにきて、敵の形がようやく輪郭を持ち始めている。
ただ兵が多いだけの脅威ではない。
古い秩序そのものが、尾張の変化を押し潰そうとしているのだ。
「巡修殿」
かなめが、慎重に問う。
「その老爺が」
「はい」
「この圧の主」
「可能性は高い」
「つまり、私たちは今、東海の古い社家の術とぶつかっている」
「ええ」
「最悪です」
「かなり」
「その“かなり”で済ませないでください」
「失礼しました」
「本当にそう思ってます?」
「半分くらいは」
「またそれ」
かなめは眉間を押さえた。
だが、少しだけ呼吸が整ったようでもあった。敵が見えぬまま恐れるより、輪郭があるほうがまだ戦える。
霞が壁にもたれたまま、ぽつりと呟く。
「……あの人、今川のことも駒みたいに見てた」
「老爺が?」
若き僧が聞き返す。
「うん。敬ってる感じはしなかった。むしろ、“今はこの形が使える”って見方」
「……」
「だから、今川に勝ってほしいっていうより、東海の理がそのまま上に立っててほしいんじゃない」
「古い秩序」
若き僧が低く言う。
「そういうことです」
かなめも、苦い顔で頷いた。
しばらく、誰も喋らなかった。
拝殿の外では、夜風が鳥居を鳴らしている。虫の声もある。村はまだ完全には眠っていない。どこかの家で戸が閉まり、犬が遠く吠えた。
だが、それらの音の奥で、若き僧にはもっと大きな流れが聞こえていた。
東海から押し寄せる、青黒く整いすぎた圧。
尾張の内側で育つ、赤い覇の火。
熱田の神気。
その間に挟まれ、選ばされようとしている無数の小さな結び目。
かなめがぼそりと言う。
「……こんなの、ただの今川攻めではない」
「はい」
「尾張と今川の戦ですらない」
「ええ」
「もっと古いものが、動いてる」
「その通りです」
若き僧はそこで、一つの考えへ至っていた。
「かなめ殿」
「はい」
「霞」
「何」
「今川の本陣を守る術が、もしその老爺の組んだものだとすれば」
「……」
「こちらが社を守っているだけでは、いずれ限界が来ます」
「だろうね」
霞が言う。
「相手は本陣から押してるなら、こっちは枝先しか触れてない」
「ええ」
「じゃあどうするの」
かなめが問う。
「……本陣近くの理を見ねばならない」
「今川の?」
「はい」
「そんなの無理です」
「でしょうね」
「そこで“でしょうね”と言いますか」
「今のところは」
「今のところ?」
「今すぐではありません」
若き僧は静かに続けた。
「ですが、桶狭間へ向かう流れの中で、いずれそこを見ざるを得ない」
「……」
「向こうが尾張全体を測っているなら、こちらも相手の芯を知らねばなりません」
「それ、ほとんど戦場の真ん中へ行くってことじゃない」
霞が言う。
「そうなります」
「本当に坊主?」
「たぶん」
「その“たぶん”やめて」
かなめは呆れたが、拒絶はしなかった。
自分でも分かっているのだろう。このまま小さな社の結びだけを守っていても、いずれもっと大きな流れに呑まれることを。
「でも」
かなめが言う。
「それは今夜の話ではありません」
「ええ」
「今は、まずこの社を持たせる」
「その通りです」
「そして熱田と、尾張の流れを見続ける」
「はい」
「……分かりました」
かなめの目が、静かに決まる。
若い巫女だ。
だが、決めるときの目は強い。
霞がそれを見て、ぼそりと呟く。
「箱入りの顔じゃないね」
「何か言いました?」
「何も」
「聞こえています」
「耳いいな、巫女」
「あなたほどではありません」
「何それ、褒めてない」
「私もです」
若き僧は二人のやり取りを聞きながら、小さく息を吐いた。
少しだけ、張り詰めた空気が緩む。
それは悪いことではない。
だが次の瞬間、彼の表情が変わった。
「……来る」
かなめが立ち上がる。
「また?」
「ええ。今度は浅くありません」
「北東?」
「いえ」
若き僧の視線が、社の正面を向く。
「正面からです」
霞もすぐに短刀へ手をかけた。
鳥居の外。
村へ続く細い道の向こう。
そこから、ほんのわずかだが、人の気配に似せた別のものが近づいてくる。
若き僧は立ち上がった。
「かなめ殿、神前の火を一つ落としてください」
「はい」
「霞、今夜は鳥居を越えるな」
「命令?」
「お願いです」
「……それ、ずるい言い方」
それでも霞は頷いた。
かなめが灯を一つ消す。
社の明かりがわずかに弱まり、外の気配との境がはっきりする。
正面から来る。
それはつまり、向こうもまた、次の段へ進んだということだった。
東海守護の古き術。
その手は、もはや陰から押すだけでは飽きていない。




