第11話 出陣前夜、三人
鳥居の外から近づいてきた気配は、結局、刃でも術でもなかった。
夜の村道をゆっくり上がってきたのは、年老いた百姓と、その息子らしい若い男、それに小さな娘を抱いた女だった。三人とも顔色が悪く、老人は何度も振り返りながら石段の下で立ち止まった。
かなめが神前の灯を一つ落としていたため、社は昼間よりも深く、静かな影の中に沈んでいる。そんな中で若き僧と巫女と、見知らぬ娘が三人、鳥居の内にいるのを見て、彼らは一瞬ひるんだ。
「……誰か、いますか」
老人の声は震えていた。
かなめが一歩前に出る。
「白榊です。どうされました」
「おお、かなめ様……! よかった、まだ社におられた」
老人は心底ほっとしたように肩を落とした。
だが、その安堵はすぐに別の不安に押し流される。
「村の端のほうで、妙なことが続いておりましてな。牛が急に暴れ、子どもらが眠りながら泣き出し、井戸の水まで冷たく濁るような気がすると……」
「どのあたりです」
「北東の畑際で」
「……」
かなめと若き僧の視線が一瞬重なる。
やはり来ている。
しかも今夜は、社そのものへ圧をかけるだけでなく、村人の暮らしへじかに波を広げ始めたのだ。
老人は続けた。
「それで、うちの嫁がこの子を抱いておるのですが、夕刻から妙に熱が引かんで……医者を呼ぶほどではないかもしれませぬが、何だか嫌な感じがして、神前で見てもらえぬかと」
「見せてください」
かなめが答えるより先に、若き僧が静かに言った。
老人たちは一瞬戸惑った。法衣姿の若僧は見知らぬ顔だ。だがその落ち着いた声音と、かなめがそれを咎めなかったことで、かえって警戒を解いたらしい。
女が恐る恐る娘を抱いたまま石段を上がる。
幼い娘は、確かに熱があるようだった。顔が赤い。だが病の熱というより、浅い眠りのままどこか別のものに触れているような、落ち着かぬ熱だ。
若き僧は娘の額へ触れず、その顔の少し上に掌をかざした。
かなめも隣から神楽鈴をそっと鳴らし、神域の気を寄せる。
「……穢れではありません」
若き僧が言う。
「では?」
かなめが問う。
「地のざわめきに引かれているだけです。子は大人より敏い」
「悪いものではないのですね」
女が縋るように聞く。
「今のところは」
かなめが答えた。
「ただ、このまま北東の乱れが深くなると、子どもや家畜に先に出ます」
老人の顔が青ざめる。
「それでは……」
「今夜だけ、社の火を小さく分けます」
若き僧が言った。
「この子の枕元へ置いてください。井戸水は一度汲み直し、朝の最初の水だけ使うように」
「それで治りますか」
「治るというより、引かれにくくなります」
「ありがとうございます……!」
女が何度も頭を下げる。
かなめは社の火から小さな灯を移し、短い祈詞を添えて紙燭へ分けた。老人たちはそれを抱えるように持ち、何度も礼をして去っていく。
鳥居の向こうへ姿が消えるまで見送り、かなめが息を吐いた。
「……始まりましたね」
「ええ」
若き僧が答える。
「社を越えて、村へ出た」
「今夜からです」
「最悪です」
「かなり」
「その言い方」
「すみません」
かなめは呆れたように眉を寄せたが、すぐに真顔へ戻った。
「でも、あの子の反応で分かりました。ここを放っておけば、もっと広がる」
「はい」
「こちらの小さな社を押すだけではなく、尾張の“暮らし”そのものを鈍らせに来ている」
「東海の古い術なら、そうするでしょう」
「どうして」
「兵の士気だけではなく、土地の呼吸ごと奪うためです」
霞が板間の端から低く言った。
「そういうやり方、あの老爺なら好きそう」
「好きそう、ですか」
かなめが聞き返す。
「うん。派手に焼くより、先に弱らせる。大きく奪うより、先に小さい結びを腐らせる。そういう感じ」
「……本当に、趣味が悪い」
「でしょ」
かなめと霞がそこで初めて、ほとんど同時に嫌悪の色を見せた。
共感と呼ぶにはまだ遠い。
だが、同じ敵へ同じ種類の感情を向けることは、距離を縮める最初の一歩でもある。
若き僧は拝殿の段へ腰を下ろした。
夜の風が、社の白砂の上をゆっくり撫でていく。
北東の圧はまだある。だが今夜のそれは、真っ直ぐ押すというより、村の縁をなぞるように薄く広がっていた。
向こうはこちらの備えを見て、形を変えてきている。
「かなめ殿」
「はい」
「今夜のうちに、決めたほうがいいことがあります」
「決める?」
「ええ。明日からのことを」
「……」
かなめは黙った。
分かっているのだ。
この社だけに籠もり、外の流れを見ぬまま耐える段ではないことを。
霞が先に口を開いた。
「熱田、行くんでしょ」
「ええ」
若き僧が答える。
「でも、熱田だけ見ても足りない」
「はい」
「じゃあ次は、もっと信長の近く」
「……そうなります」
「本気?」
かなめが、ようやくその言葉を口にした。
「本気ですか、巡修殿」
「はい」
「織田の陣の近くまで?」
「はい」
「戦の前に?」
「その前だからです」
かなめは神楽鈴を強く握りしめた。
白い指先に力が入る。
「それは、もうほとんど戦場の手前です」
「ええ」
「私たちは兵ではありません」
「そうですね」
「巫女と、旅僧と、元くノ一です」
「かなり偏った組み合わせですね」
「そこは軽く流さないでください!」
かなめの声が少し裏返った。
霞が、珍しくそこで吹き出しかけたが、かなめに睨まれてすぐ口を閉じる。
若き僧は静かな声で言った。
「尾張で今起きていることは、戦の勝ち負けだけではありません」
「それは……」
「信長の火が本物なら、東海の古い術は必ず本陣側を固めてきます」
「はい」
「つまり、織田が動く場所と、今川の術が強まる場所は重なる」
「……」
「こちらがその“重なり”を見なければ、どこで何が決するか分からないままです」
かなめはすぐには反論しなかった。
理では理解している。だが巫女としての本分が、社を空けることにどうしても抵抗するのだろう。
そこで霞が、床へ肘をついてぽつりと言った。
「だったら、巫女は残ればいいじゃん」
かなめが目を上げる。
「何ですって」
「社が心配なんでしょ」
「それは」
「坊主だけで見に行かせれば?」
「それで済むなら、こんなに悩んでいません」
「何で」
「私は」
かなめは一度言葉を切り、真っ直ぐ若き僧を見た。
「巡修殿一人で行かせたら、絶対に無茶をする気がします」
「……」
「何ですか、その沈黙は」
「いえ」
「否定してください」
「たぶん、しないとは言い切れません」
「ほら!」
霞が今度こそ声を殺して笑った。
かなめは本気で嫌そうな顔をする。
「笑いごとではありません」
「でも、ちょっと分かる」
「あなたまで」
「坊主、静かな顔してるのに、一番やばいところへ普通に行こうとする」
「そう見えますか」
「見える」
若き僧は小さく息をついた。
「でしたら、なおさら三人のほうがよい」
「そこへ戻るのですか」
かなめが半眼になる。
「はい」
「私はまだ、霞を完全には信用していません」
「お互い様」
霞が即答する。
「あなたはもっと反省してください」
「してる」
「見えません」
「見せ方が分かんない」
「……」
かなめが一瞬、返す言葉を失う。
その横で若き僧が言う。
「見せ方は、これから覚えればいい」
「簡単に言う」
「簡単ではありません」
「知ってる」
霞は不貞腐れたように言ったが、その声には前ほどの棘がない。
林で切り捨てられかけ、社へ入れられ、叱られ、なお見捨てられなかったことが、彼女の中の何かをわずかに変え始めているのだろう。
かなめは社殿の方を見やった。
夜の神域は静かだ。
だが静かだからこそ、今ここを離れる選択の重さが増して見える。
「……もし」
かなめがゆっくり言う。
「もし、私が明日ここを離れるなら」
「ええ」
「社には最低限の結を残し、村人にも言葉を置いていかねばなりません」
「そうですね」
「熱田を見るだけでは足りない。織田の火がどこへ向かうか、今川の古い術がどこに重なるか、その境を見なければ」
「はい」
「その役目を、私は放っておけない」
「はい」
若き僧は急かさなかった。
かなめが自分で決めるべきことだからだ。
やがて彼女は、ほんのわずかに苦笑した。
「嫌ですね」
「何が」
「巫女としては社に残るべきだと分かっているのに、もう半分くらい心が外を見ています」
「それは」
若き僧は静かに答えた。
「かなめ殿が、この社だけの巫女ではないからでしょう」
「大きく出ますね」
「事実かと」
「巡修殿は時々、本当にそういうところがずるいです」
「褒め言葉として」
「違います」
霞が膝を抱えたまま、ぽつりと言う。
「で、私は?」
「あなたは」
かなめが視線を向ける。
「明日になれば、ここを出て好きにすればいい」
「……」
「縛るつもりはありません」
「それ、追い出してる?」
「違います」
「じゃあ」
「決めるのはあなたです」
霞はしばらく黙っていた。
外を見た。
鳥居を見た。
短刀を見た。
そして最後に、自分の手を見た。
「……戻れないよ」
小さな声だった。
「向こうに?」
若き僧が問う。
「うん」
「分かっています」
「いや、そうじゃなくて」
霞は少し苛立ったように言い直す。
「戻る気が、もうあんまりない」
「……」
かなめも若き僧も、すぐには何も言わなかった。
その言葉は軽く扱ってはいけないと分かったからだ。
霞は続ける。
「林で切られたからとか、それだけじゃない」
「はい」
「熱田で、あの火を見た」
「信長を」
かなめが言う。
「うん」
「それで?」
「何か、分かんなくなった。向こうの理とか、古い秩序とか、そんなののために、小さい社潰して、子ども熱出して、それで何守ってるんだろって」
かなめの目がわずかに揺れる。
怒って当然の相手に、そんな本音を吐かれるとは思っていなかったのだろう。
「……遅い」
かなめが言う。
「知ってる」
「遅いけど」
「うん」
「でも、気づかないよりはましです」
「……巫女」
「何です」
「たぶん、今のちょっと好き」
「気持ち悪いことを言わないでください」
「ひど」
「まだ許したわけではありません」
「分かってる」
若き僧は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
完全ではない。
だが少なくとも、ここにいる三人は、もう単に同じ場所にいるだけではなくなりつつある。
かなめが最後に言った。
「明日、私は熱田へ行きます」
若き僧が頷く。
「はい」
「その先も見る」
「ええ」
「ただし、社は完全には空けません。朝のうちに結を組み、村の者へも言伝を残します」
「それがよいでしょう」
「巡修殿」
「はい」
「あなたも、勝手に一人で走らない」
「努めます」
「またそれ」
「善処します」
「もっと悪くなった!」
霞が吹き出し、かなめが本気で眉を寄せる。
夜の社に、ほんの短く笑いが落ちた。
そのあと、かなめは霞を見た。
「あなたは」
「うん」
「どうするの」
「……」
霞は短刀の柄へ指を置き、それから離した。
「今さら、恩とか言うの嫌いなんだけど」
「言わなくて結構です」
「うるさい巫女」
「聞いています」
「でも」
霞は少しだけ目を逸らした。
「坊主に、借りができたのは事実だから」
「借り」
若き僧が繰り返す。
「林で引っ張った」
「ええ」
「ここへ入れた」
「はい」
「それ、返すまでは、そっちにいる」
「……」
かなめが、ものすごく微妙な顔をする。
「つまり、同行?」
「そう」
「護衛のつもり?」
「一応」
「一応って」
「坊主、一人で歩かせると危なそうだし」
「そこだけは全面的に同意します」
「かなめ殿まで」
「事実です」
「……」
若き僧は少し困ったように笑った。
だが否定はしなかった。
否定する理由も、もうほとんどなかった。
こうして、出陣前夜の尾張の片隅で、奇妙な形の三人が揃った。
朝廷の御朱印状を持つ、天竺返りの若き僧。
尾張の小さな社を預かる、美しいが気丈な巫女。
古い術の手足として動いてきたが、切り捨てられた若いくノ一。
外では覇王の火が明日へ向かっている。
東海の古い術もまた、今川の本陣で形を固めているだろう。
熱田の神域はその狭間で、何を見定めるのかまだ誰にも分からない。
だが少なくとも、この社の中では、一つだけ決まったことがあった。
明日から、三人で見る。
尾張の火を。
神域の揺れを。
そして、その先にある戦を。
若き僧は灯明の火を見つめたまま、静かに思った。
これはまだ始まりにすぎない。
だが始まりとしては、悪くない形かもしれない、と。




