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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第12話 雨を呼ぶ霊脈

明け方の空は、妙に白かった。


 晴れているわけではない。

 曇っているとも少し違う。

 薄く引き延ばした布のような雲が高みに広がり、その下に尾張の大地がじっと息を潜めている。鳥は鳴いているし、村人の動く音もある。なのに、空と地のあいだに一枚、目に見えぬ膜が張ったような違和感があった。


 白榊かなめは社殿の前で立ち止まり、その空を見上げた。


「……嫌な色です」

「ええ」

 若き僧が答える。

「雨になりますか」

「なります」

「そんなにすぐ分かるものですか」

「ただの天気なら、ここまで早くは言いません」

「つまり?」

「雨そのものが、もう気配として降り始めている」


 かなめは目を細めた。

 巫女として神域の流れに敏い彼女にも、今日の空が普通ではないことは分かる。だが若き僧の言う“もう降り始めている”という感覚は、まだ彼女には掴みきれないらしかった。


 鳥居のそばでは、霞が腕を組んで欠伸を噛み殺している。

 昨夜は結局、三人ともまともには眠れなかった。かなめが社の結を組み直し、若き僧が地脈の流れを整え、霞が外縁の気配を拾い続けたからだ。

 だが眠気のわりに、彼女の目はよく冴えていた。忍びの習いなのだろう。


「雨なら厄介だね」

 霞が言う。

「何が」

 かなめが問う。

「足跡も匂いも流れる。追うのは面倒」

「あなた、追われる側の発想が先に来るのですね」

「仕事柄」

「今は“元”仕事柄にしておいてください」

「細かい巫女」

「聞こえています」

「聞こえるように言ってる」


 かなめが呆れたように目を細める。

 だが昨日までに比べれば、そのやり取りには明らかに角が減っていた。

 まだ信頼ではない。

 けれど、同じものへ向かって動く者同士の距離には、なりつつある。


 社の朝は短い。

 かなめは神前へ一礼し、今朝の結を確かめる。村人たちへは、井戸水と子どもの寝所に気をつけるよう、簡単な言伝をもう済ませてあった。宮司が戻らぬ以上、本来なら社を離れるのはためらわれる。だが尾張全体が揺れようとしている今、ここだけを見ていても持たぬと、彼女自身もう分かっていた。


「行きましょう」

 かなめが言う。

「ええ」

 若き僧が頷く。

「どこまで見るつもり?」

 霞が問う。

「まずは熱田へ」

「それから」

「流れ次第です」

「便利な言い方」

「実際そうなので」

「それも腹立つ」


 三人は鳥居をくぐった。


 朝の村道は、昨日よりもさらにざわついていた。

 人の顔色が悪い。大声を出している者は少ないのに、落ち着きがない。荷をまとめる手が早く、戸を閉める音がやけに強い。夜のうちに不吉な夢を見た者もいただろうし、子どもの熱や家畜の怯えを目にした者もいるのだろう。

 戦そのものはまだここへ来ていない。

 だが“来るもの”の気配だけが、もう暮らしへ染み始めていた。


 村の外れを抜けるころ、若き僧はふと足を止めた。


「どうしました」

 かなめが振り向く。

 若き僧は道の先の、小さな祠を見ていた。


 祠そのものは昨日と変わらぬ。

 だが、供えられた榊の葉先に、細かい水滴がついている。朝露にしては粒が大きい。しかも周囲の草にはまだ露が少ない。

 かなめも気づいたらしく、近寄って葉先へ触れた。


「……冷たい」

「はい」

「でも、まだ降っていない」

「地の湿りが、先に上がっています」

「地の」

「ええ。空だけではない。下からも呼ばれている」


 霞が祠の屋根を見上げて言う。


「それ、普通の雨?」

「普通ではありません」

 若き僧が答える。

「やっぱり」

「ただし、“雨を降らせる術”と単純に言い切るのも違う」

「どういうことです」

 かなめが問う。

「東海側の古い術が押している流れと、尾張の火、それから熱田の神気」

「はい」

「その三つが、空の上で均衡を崩しかけている」

「それで雨に?」

「ええ。空を動かすというより、地と空の呼吸が狂うのです」

「……」

「大きな戦の前に、たまにあります」

「嫌な話ばかりですね」

「今朝は特に」

「そこは同意します」


 三人は再び歩き出した。


 熱田へ近づくにつれ、空気の湿りは明らかになっていく。

 まだ降ってはいない。

 それなのに風が重く、布が肌に貼りつく。

 遠くの空では、雲が一方向へ流れるのではなく、あちこちでぶつかり合って形を変えていた。

 かなめが何度も空を見上げ、霞は逆に地面や林の影ばかり見ていた。二人の見ているものが違うところが面白い、と若き僧は一瞬だけ思う。


「何です」

 かなめが気づく。

「何か?」

「いえ」

「今、絶対何か考えました」

「少しだけ」

「少しって言うとき、だいたい少しじゃないですよね」

「かなめ殿も鋭くなってきました」

「褒められても嬉しくありません」

「そうですか」

「そうです」


 霞が鼻で笑う。


「巫女、最近ちょっと坊主の扱い慣れてきた?」

「慣れたくはありません」

「でも前より返し早い」

「それは……」

「たぶん、良くない影響だね」

「あなたもそのうち慣れますよ」

 若き僧が言う。

「やだ」

 霞が即答する。

「それは残念」

「全然残念そうに見えない」


 人の流れが濃くなる。

 熱田の町が近いのだ。

 武士の小者が慌ただしく駆け、商人はいつもより声を張り上げている。何もかもが、少しずつ速い。目に見えぬ何かに急かされているような速さだ。


 若き僧は歩きながら、肌に触れる空気の層を読んでいた。

 湿っている。

 だが優しくはない。

 ただ地を冷やすだけの雨ではなく、どこかで何かを隠すための幕になりそうな湿りだ。


「巡修殿」

 かなめが低く言う。

「はい」

「これ、もしかして」

「ええ」

「織田に都合がいい雨になるかもしれない」

「可能性はあります」

「でも、それは向こうの術ではない?」

「違います」

「では」

「どちらの味方というより、均衡が崩れる結果として降る」

「……」

「ただ」

 若き僧は少し声を落とした。

「覇王の火は、雨の中のほうが隠れる」

「隠れる」

「はい。むき出しの火なら誰でも怖れる。だが雨の幕の向こうの火は、見えぬまま近づく」

「それ、最悪では」

 霞が言う。

「かなり」

「その返し、今日は多いね」

「事実ですので」


 熱田近くの外れへ差しかかったところで、三人は足を止めた。

 神域の森の上、空の色がはっきり変わったのだ。


 灰色。

 だが一枚の灰ではない。

 内側から濃い雲が押し上がるように、幾筋もの暗さが渦を巻いている。

 かなめが息を呑む。


「神気が、上へ」

「ええ」

 若き僧が答える。

「熱田が上へ押している。東海側の重い理を、そのまま頭上へ逃がしている」

「そんなことが」

「完全には抑えきれません。なので、空へ上がる」

「それで雨に?」

「はい。おそらく一気に来ます」


 霞が、遠くの空を睨んだ。


「じゃあ、あの老爺の術って、結局失敗してるの?」

「失敗とは言いません」

 若き僧が首を振る。

「押し込みは効いています」

「でも熱田は折れてない」

「ええ」

「じゃあ」

「押し返した結果、空の均衡が崩れる」

「つまり」

「誰かが全部を操っているわけではない、ということです」

「……なるほどね」


 霞は少しだけ納得したようだった。

 忍びは実務の人間だ。誰か一人の強い術者が世界を好きに曲げている、という図より、複数の力がぶつかって形が変わるほうが理解しやすいのかもしれない。


 町の向こうで、何人かが空を見上げ始めた。

 まだ一滴も降っていないのに、馬が鼻を鳴らす。

 社家の若者が走る足取りに焦りが混じる。


 若き僧はそのとき、不意に背筋の奥で火を感じた。


 熱田の中心ではない。

 もっと人のいる側。

 軍勢の気配が集まる方角だ。


 信長だ。


 姿は見えぬ。

 だがあの男の覇の火が、今この空の下で確かに強まっている。

 まるで、雨の訪れそのものを待っているかのように。


「……っ」

 かなめが思わず声を漏らす。

「巡修殿、今」

「感じますか」

「少しだけ」

「ええ。火が近い」

「信長」

「おそらく」

「こんな空なのに?」

「こんな空だからでしょう」


 若き僧の言葉に、かなめの背が粟立つ。

 雨は火を消すものだ。

 だが覇王の火が本物なら、消すのではなく、隠し、通す。


 そのとき、ぽつり、と石畳へ丸い染みが落ちた。


 かなめが目を見開く。

 霞がすぐに袖を頭上へやる。


 二滴。

 三滴。

 そして次の瞬間には、熱田の森の上から一斉に雨脚が垂れてきた。


「早い!」

 かなめが叫ぶ。

「思ったより!」

「均衡が切れた!」

 若き僧が答える。


 雨はただの雨ではなかった。

 冷たい。重い。

 しかも風向きが一定でない。横殴りに来たかと思えば、次には真上から叩きつけ、さらに一拍遅れて逆から吹く。

 人々が慌てて軒を探し、商人が荷へ布をかけ、武士の小者が怒鳴り声を上げる。


 熱田の森がざわめき、空がひとつの巨大な幕に変わる。


「こっち!」

 霞が叫んだ。

「軒の下、早く!」


 三人は近くの建物の庇へ駆け込んだ。

 間に合ったのはほとんど偶然に近い。もしあと数息遅れていたら、三人とも全身ずぶ濡れだっただろう。


 庇の下から見た雨は、まるで世界を削っていた。

 町の輪郭が薄れ、人影がぼやけ、熱田の森でさえ半分見えなくなる。

 かなめが息を整えながら、雨の向こうを睨む。


「これ……」

「ええ」

 若き僧が低く言う。

「ただの天候ではありません」

「分かります」

「見え方が変わる」

「何が」

「全部です」


 霞が、雨の幕の向こうへ目を細めた。


「嫌な雨」

「ええ」

 若き僧が答える。

「でも」

「でも?」

「誰かには、好都合です」


 その言葉に、三人とも同時に黙った。


 誰か。

 それは東海の古い術者かもしれない。

 あるいは、覇王の火を抱く信長かもしれない。

 もしくは、そのどちらでもなく、ただこの戦の運そのものか。


 雨は強まるばかりだった。


 熱田の神域は、その幕の向こうでなお息をしている。

 尾張の火もまた、雨に消えたようには感じられない。

 むしろ、見えなくなったぶんだけ、危うくなった。


 かなめが小さく言う。


「この雨が、何かを隠す」

「ええ」

「今川の術を?」

「一部は」

「信長の動きも?」

「その可能性が高い」

「……最悪」


 若き僧は雨粒の打つ地面を見つめた。

 水が土を穿ち、小さな流れを作る。

 それはまるで、尾張そのものの運が、今この瞬間、新しい溝を刻まれているようにも見えた。


「かなめ殿」

「はい」

「霞」

「何」

「この雨は、戦の前触れではありません」

「じゃあ何」

 霞が問う。

「もう、始まりです」


 雨音が答えるように強くなる。


 尾張の空は、ついに開いた。

 神気と古術と覇の火がぶつかり、その均衡が崩れた結果として。

 これからどちらがこの幕を使いこなすのか、まだ誰にも分からない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 桶狭間へ向かう見えぬ戦は、もう後戻りのできぬところまで動き始めていた。

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