第13話 結界の綻び
雨は、しばらく世界を奪っていた。
熱田の町も、森も、行き交う人影も、すべてが灰色の幕の向こうへ押しやられたように見える。庇の下へ逃れた者たちは皆、雨音に声を呑まれ、ただ空を睨んでいるしかなかった。これほどの降り方になれば、もはや天候の話ではない。戦の前だと肌で知れる雨だった。
若き僧は庇の端に立ち、落ちる水筋の向こうを見ていた。
見える。
ただの雨ではない。
熱田の神気が空へ逃がしたものと、東海の古い術が押し上げた重みと、尾張の内に燃え続ける覇の火とが、空の上で均衡を崩して幕になっている。
その幕は自然の顔をしているが、中身は神秘の衝突だ。
かなめが濡れぬよう袖を抱き寄せながら問う。
「巡修殿」
「はい」
「この雨、どちらの味方なのです」
「どちらの味方でもないでしょう」
「でも」
「ただ」
若き僧は視線を動かさぬまま続けた。
「使いこなした側には味方します」
「最悪ですね」
霞が言う。
「ええ」
「しかも、どっちも使いそう」
「そうでしょうね」
かなめは息を吐き、庇の外を見た。
町人たちは皆、雨宿りへ散った。馬も人も視界から消え、広い道だけが打たれ続けている。これなら大軍の動きも、人の移動も、遠目では判じにくい。
隠れるための雨だ。
そう考えれば、なおさら嫌な雨だった。
「このままでは戻るのも難しいですね」
かなめが言う。
「少し待ちましょう」
若き僧が答える。
「雨脚が変わるはずです」
「変わる?」
「ええ。ずっと同じ強さでは降れない」
「空を読んでるのか、術を読んでるのか分かんない」
霞がぼそりと言う。
「両方です」
「やっぱり嫌な坊主」
「よく言われます」
「最近その返ししかないよね」
「便利ですので」
「自覚あるんだ」
そのやり取りの最中だった。
若き僧の背筋に、ひとつ、鋭い違和が走った。
雨幕の向こう、ずっと先。
今川方の本陣があるはずの方角。
そこにあったはずの重たい圧、その中心部が、ほんの一瞬だけ“ずれた”のだ。
若き僧の目が細くなる。
「……来た」
かなめがすぐ反応する。
「何が」
「綻びです」
「どこに」
「今川本陣の結界」
「え」
霞が顔を上げた。
「そんなの、ここから分かるの?」
「全部ではありません」
若き僧は低く言う。
「ですが、東海の古い術は、整いすぎている」
「……」
「整いすぎたものは、崩れるときも癖が同じです」
「つまり?」
かなめが問う。
「今川本陣を覆っている守りに、わずかな歪みが出た」
「雨のせい?」
「雨だけではありません」
「じゃあ」
「熱田の神気。尾張の火。それに、おそらく向こう自身の押し込みすぎです」
かなめは呑み込むように黙った。
若き僧は続ける。
「古い術は強い」
「はい」
「ですが、強いぶん、形が決まりすぎている」
「ええ」
「急な乱れや、予想外の火には、少しだけ遅れる」
「……信長」
「おそらく」
霞が壁へ背を預けたまま言う。
「だったら、向こうの守りが鈍るってこと?」
「ほんの一瞬だけは」
「それって、大きいの?」
「戦では大きい」
若き僧が答える。
「神秘でも」
「かなり」
「その“かなり”、ほんと便利」
「助かっています」
かなめは雨の向こうを見つめたまま、静かに言った。
「その綻びを、こちらはどうするのです」
「どうもしません」
「え?」
「今の時点では」
「でも、それを放っておけば」
「はい。誰かがそこへ届く」
「誰か」
「覇王の火を持つ者か」
若き僧の声がさらに低くなる。
「あるいは、古い術をさらに継ぎ足して埋め戻す者か」
かなめは神楽鈴を胸の前で握った。
「どちらが先かで」
「大きく変わります」
「……」
庇の下の空気が、雨音の中でさらに張った。
見えぬ戦いだ。
だが、見えぬからといって傍観できるほど、三人はもう遠くにはいなかった。
霞が少し苛立ったように言う。
「じゃあ今、ここで雨宿りしてる場合じゃないんじゃないの」
「そうですね」
「……え?」
かなめが若き僧を見る。
「巡修殿、まさか」
「見に行きます」
「どこへ」
「結界の綻びが、尾張側の流れにどう響くかを」
「そんなの、ほとんど」
「戦の縁です」
「分かってるなら、そんな平然と言わないでください!」
かなめの声には本気で焦りが混じっていた。
若き僧はそれを受け止めつつ、静かに頷く。
「ええ。危険です」
「危険どころではありません」
「そうですね」
「なら」
「ですが」
若き僧は真正面からかなめを見た。
「ここでこの綻びを見逃せば、こちらはずっと枝先だけを追うことになる」
「……」
「東海の古い術の芯が、どう乱れ、どこで弱るのか」
「はい」
「それを見ずに、この先へは進めません」
かなめは唇を噛んだ。
理は分かる。
だが理だけで足が前へ出るなら、誰も悩まない。
「かなめ殿」
若き僧が言う。
「あなたはここへ残ってもいい」
「……」
「社と村のために、それも正しい」
「嫌な言い方をしますね」
「え?」
「残るのが正しいと言われると、残れなくなります」
「それは」
「ずるいです」
「申し訳なく」
霞がそこで、少しだけ鼻で笑った。
「巫女、もうだいぶ分かってきたね」
「何をです」
「この坊主の面倒くささ」
「嬉しくありません」
「私はちょっと面白くなってきた」
「あなたは反省してください」
「してるって」
そう言いながら、霞の目もまた、雨の向こうを睨んでいた。
彼女も分かっているのだろう。今川本陣近くの術が乱れれば、林や社でやっていたような“小手先の押し込み”とは別の段階へ進む。つまり、使われる側であった自分にも、もう他人事ではない。
「霞」
若き僧が呼ぶ。
「何」
「あなたなら、この雨の中で人の動きを拾えますか」
「……場所による」
「今川本陣近くの理が乱れたとき、その外縁で何が起きるか」
「人か、術の補助か、どっちを?」
「両方」
「欲張り」
「無理なら構いません」
「無理とは言ってない」
霞は少しだけ顎を上げた。
「でも、巫女の鈴と坊主の感知があれば、片方くらいは拾える」
「十分です」
「……ほんとに行く気なんだ」
「はい」
「変なの」
かなめが、そこで静かに息を吸った。
「行きます」
若き僧が彼女を見る。
「かなめ殿」
「私も行きます」
「社は」
「今朝、結を残した。村人へも言葉を置いた。完全ではなくても、今すぐ崩れることはない」
「……」
「それに」
かなめは目を細めた。
「巡修殿一人で行かせたら、本当に綻びのど真ん中まで行くでしょう」
「そこまでは」
「行きます」
「……」
「行きますよね?」
若き僧は少しだけ困ったように黙った。
かなめが即座に言う。
「ほら」
霞が肩を震わせた。
「何か悔しいけど、そこは私も巫女に一票」
「不本意です」
「私もだよ」
若き僧は小さく息をついた。
「分かりました」
「はい」
「では、三人で」
「ええ」
「ただし」
「ただし?」
「無理はしない」
「今その言葉を言いますか」
かなめが本気で呆れた。
「ええ」
「一番無理しそうな人が?」
「善処します」
「それ禁止」
「……承知しました」
雨脚が、ほんの少しだけ変わった。
強さが落ちたのではない。
叩きつける向きが変わったのだ。
さきほどまで真上から押していた雨が、今は横へ流れ始めている。これもまた綻びの影響だろう。空の上の均衡が、一度崩れたまま定まらず、降り方にむらが出ている。
若き僧は庇の外へ手を出した。
雨は冷たい。
だが、さっきより“切れる”。
「今です」
「何が」
霞が問う。
「動くなら」
「雨はまだ降ってる」
「ええ。でも、幕の密度が変わった」
「……分かんない」
「向こうも見えにくくなっています」
「それ、敵にも同じことでは?」
「だからです」
「だから?」
「同じ条件なら、知っている側が少し有利になる」
「私たちが?」
「尾張の地脈は、こちらのほうが分かる」
「なるほど」
霞がようやく頷いた。
かなめは神楽鈴を袖の中へ収め、羽織を少しきつく合わせた。
「では、どこまで」
「まずは、熱田と今川方の流れがぶつかる縁」
「そこから先は?」
「見て決めます」
「またそれ」
「事実ですので」
「今日はもう諦めます」
三人は庇を出た。
雨はなお降っている。
だが、先ほどまでのように世界の輪郭を根こそぎ奪う降り方ではなくなっていた。横へ流れる幕になったぶん、地の近くはかえって読みやすい。
若き僧はそれを確かめながら進む。
かなめは神気の揺れを拾い、霞は人の痕跡と罠の気配を探る。
やがて熱田の森の外縁を回り込んだところで、若き僧が再び立ち止まった。
「ここです」
「何が」
かなめが問う。
「結界の綻びが、尾張側へ最初に漏れる場所」
「……分かるんですか」
「ええ。今は」
そこは、一見するとただの低い土手と林のあいだの窪地だった。
だが若き僧には見える。
空の上で崩れた均衡が、ここへ細く落ちている。
向こう――今川本陣側を守る結界の綻びが、尾張側の地脈へと“影”を落とし、その影がここでわずかに揺らいでいるのだ。
かなめが息を呑む。
「……本当に」
「はい」
「結界が、裂けている」
「完全ではありません」
「でも」
「ほんの一瞬、噛み合いを失った」
霞が低く言う。
「これ、埋めに来る」
「そうでしょう」
若き僧が答える。
「誰が」
「補助の術者か、忍びか」
「あるいは」
かなめが続ける。
「両方」
三人は自然と声を落とした。
雨音がまだある。
だが、その向こうに、別の音が混じり始めている。
人の足音。
ぬかるみを避ける、抑えた走り。
複数ではない。
少数。
だが、迷いなくここへ向かってくる。
霞の顔つきが変わる。
「来た」
「何人」
かなめが問う。
「二……いや、三」
「こちらへ?」
「うん。しかも、場所を知ってる」
「当然でしょうね」
若き僧が言う。
「向こうにとっても、ここは塞ぎたい場所でしょうから」
かなめが神楽鈴を握り直す。
霞は返された短刀を抜いた。
若き僧は袖の中で小さな法具へ指をかける。
雨の中、三人は低い窪地の陰へ身を沈めた。
今川本陣の結界に生まれた、わずかな綻び。
それをこちらは見つけた。
そして、向こうもまた埋めに来る。
見えぬ戦いは、ついに“どちらが先に触れるか”の段へ入っていた。




