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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第14話 巫女の舞、くノ一の影

窪地へ身を沈めた瞬間、雨の音が一段深くなったように聞こえた。


 実際には強まっていない。

 ただ、三人の意識が外へ鋭く向き、余計なものを切り落とした結果、雨音だけが鮮やかに残ったのだ。

 若き僧は膝を折り、ぬかるみへ片手をついて、今川本陣側から漏れてくる“綻びの影”を読み取っていた。地面は冷たい。だが、その冷たさの下を、何か細い熱が走っている。


 結界の綻びはまだ閉じきっていない。

 ほんのわずかな歪みだ。

 それでも、確かにここへ漏れている。


「二人目、左」

 霞が囁く。

「三人目は、たぶん後ろを回る」

 かなめが目を細める。

「見えているの?」

「見えてるっていうか……音」

「そんなに分かるもの?」

「巫女は雨の音しか聞いてないでしょ」

「言いましたね」

「事実」


 若き僧が低く言う。


「かなめ殿」

「はい」

「前へ出ないでください。今は神域の理を整えることを優先して」

「でも」

「ここで正面から迎えれば、向こうの術者に位置を教えることになる」

「……」

「あなたの役目は、ここを“熱田の側”へ繋ぎ止めることです」

「分かりました」


 かなめは一度だけ強く頷いた。

 戦う気はある。むしろ強い。

 だが今ここで一番重要なのは、目の前の敵を倒すことではなく、綻びを敵の理へ戻さぬことだと分かっている。


 霞が短刀の刃を逆手に構えた。


「で、私は?」

「影を切ってください」

 若き僧が言う。

「向こうがここへ正しく辿り着けぬように」

「雑」

「あなたなら分かるかと」

「……腹立つけど、分かる」


 霞は唇の端を少しだけ吊り上げた。


 忍びの戦いは、いつも相手を殺すことではない。

 見失わせ、遅らせ、踏み外させる。

 自分が通ってきたやり口だからこそ、彼女にはそれが読める。


 若き僧は袖の中から小さな金属輪と薄い板札を取り出した。異国の法具だ。かなめの祝詞とも、霞の忍び道具とも違う、どこか乾いた光を持つもの。

 彼は窪地の縁へそれを置き、低く息を整えた。


「巡修殿」

 かなめが囁く。

「ええ」

「相手は」

「補助です」

「補助?」

「主たる術者ではない。ここを埋め戻すための手足」

「じゃあ」

「油断は禁物ですが、老爺本人ほどではない」

「それ、安心材料になってるようで全然なっていません」

「すみません」

「もう慣れました」


 その言葉の直後、右前方の草がわずかに沈んだ。


 霞が動いた。


 音もなく。

 ぬかるみを踏んだはずなのに、跳ねる水音さえ最小だった。

 彼女は草を踏み分けるのではなく、そこに“元から自分の足場がある”かのように滑った。闇に慣れた者の動きだ。

 次の瞬間、くぐもった呻きが一つ。

 短刀の切っ先ではない。柄頭で首の下を打ったのだろう。


「一人」

 霞の声が低く落ちる。

「あと二」


 かなめが思わずそちらを見かけて、若き僧に止められる。


「見ないで」

「え?」

「今は」

「……はい」


 かなめは唇を引き結び、意識を前へ戻した。

 神楽鈴を胸の前で持ち、静かに息を吸う。

 巫女の理は、剣や短刀のように直接相手を断つものではない。境を整え、祈りを通し、神域の呼吸を乱さぬように保つ。

 派手さはない。

 だが一つ崩れれば、他の全てが崩れる。


 かなめは白い指を鈴に沿わせ、小さく振った。


 りん――と、澄んだ音が一つ。


 雨音の中でその音は妙に遠くまで通った。

 若き僧には見える。熱田から伸びる細い流れが、鈴の音に呼応してわずかに持ち上がる。まるで雨の幕の向こうで、見えぬ神気がこちらを振り向いたようだった。


「そのまま」

 若き僧が囁く。

「はい」

「大きく呼ばないで。今は、ここが“まだこちら側だ”と知らせるだけでいい」

「分かりました」


 かなめの顔つきが変わる。


 凛とした巫女の顔。

 怒りや焦りをいったん沈め、ただ神域の通り道として自分を整える顔だ。

 若き僧はその横顔に一瞬だけ見入った。白衣緋袴の鮮やかさではない。神域を預かる者として、今この瞬間に迷いを脇へ置けることの美しさだった。


 そのとき、窪地の正面で、空気がわずかにねじれた。


「来る」

 若き僧が言う。


 今度は人の足音ではない。

 札を使う者の気配だ。


 雨の向こうに、二つの影が立った。

 一人は神職に似せた直垂の男。もう一人はその後ろ、低い姿勢で札筒を持った若い補助役。どちらも今川本陣の側から綻びを埋めに来たのだろう。

 男は窪地を一目見ただけで、こちらに誰かいることを察したらしい。声を張らずに言う。


「尾張の地に、妙な手が入っているな」

「東海側の方ですか」

 若き僧が静かに返す。

 男は笑いもしない。

「僧か。しかも、正しき理を知らぬ外法混じり」

「外法、ですか」

「神域の脈へ異国の輪を差すとは、慎みがない」


 かなめの目が鋭くなる。

 自分の神域へ手を入れている側に言われたくない、という怒りがはっきり顔へ出た。


 若き僧はそれでも冷静だった。


「慎みなく押し込んでいるのは、そちらかと」

「押し込む?」

 男は初めて少しだけ口元を歪めた。

「海道の古き理を、尾張の小さな結びへ思い出させてやっているだけだ」

「思い出す?」

「格をな」


 若き僧は、その言葉にわずかに目を細めた。

 なるほど、と内心で思う。

 この手合いは、侵食を侵食と思っていない。古い秩序こそが本来の形であり、それ以外は正すべき歪みだと思っているのだ。


 かなめが低く言った。


「あなたたちは、尾張の神域を鈍らせている」

「鈍るのではない」

 男が即座に返す。

「身の丈に戻るだけだ」

「……!」

「熱田も、尾張の小社も、海道の大勢に抗して立てるほど強くはない」


 その言い方に、かなめの怒りが静かに燃え上がる。

 彼女は神楽鈴を強く握り、前へ出かけた。

 若き僧がその袖を軽く押さえる。


「かなめ殿」

「分かっています」

「ええ」

「分かっています。でも」

「怒ってください」

「……」

「その怒りを、前へ投げないで。神へ通してください」

「……!」


 かなめは息を呑んだ。

 その言葉で、怒りが散らず、逆に一本の線になったらしい。

 彼女は一歩引き、鈴を胸の前へ戻す。


「なら、見ていてください」

「ええ」


 かなめは目を閉じた。

 雨音の中で、祝詞というほど長くない祈りを紡ぐ。

 村の社で舞うための舞ではない。

 大きな神域の外縁へ、細い糸を投げるような祈りだ。


 鈴が鳴る。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 白い袖が雨の幕の薄明かりを受け、滑らかに動く。

 緋袴の裾が泥に汚れるのも構わず、かなめは窪地の縁で小さく舞った。派手な舞ではない。足を踏み鳴らすこともしない。ただ、乱れた地脈の上へ、神域の“こちら側”を刻みつけるような所作だった。


 若い補助役が顔色を変える。


「押し返されます」

 だが神職風の男は低く言った。

「埋めろ」

「しかし」

「埋めろ」


 その声の冷たさに、若き僧は背筋の内側が少し冷えた。

 老爺本人ではない。

 だが、その下で理を実行する者もまた、かなり冷たい。


 若い補助役が札を切る。

 窪地へ、細い黒い筋のような術が落ちる。

 それを見た若き僧は、袖の中の金属輪を弾いた。


 ちん、と乾いた音。


 黒い筋が、ほんのわずかに角度を失う。

 かなめの鈴の音がそこへ重なる。

 神域の糸が、黒い筋を包まず、ただ“通り道ではない”と拒む。


 補助役の札が、宙で揺れた。


「何……!」


「霞!」

 若き僧が呼ぶ。


 その声に応じるように、窪地の左の闇から霞が滑り出た。

 彼女は最初からそこにいなかったかのような静かさで補助役の背後へ回り込み、札筒を持つ腕の内側へ短刀の峰を叩き込む。

 悲鳴は上がらない。

 息が詰まる音だけ。


 札筒が泥へ落ちた。


「っ、貴様……!」

 神職風の男が振り向く。

 霞はもう次の位置へ移っている。

 真正面から斬り結ばない。

 影を縫い、足場を奪い、術の補助を断つ。

 忍びとして最も厄介な戦い方だった。


「神域を鈍らせる暇なんて、なくすといいよ」

 霞が言う。

 その声は冷たい。

 だが林でかなめの社を荒らしていたときより、どこか真っ直ぐだった。

 自分が今、誰の側で刃を振るっているのか、もう彼女自身も分かっているのだろう。


 男は懐から別の符を抜いた。

 若き僧がすかさず前へ出る。


「それは使わせません」

「僧風情が」


 男の符と、若き僧の法具が、窪地の上でぶつかった。

 火花は散らない。

 だが空気が裂けるような圧があった。

 東海の古い術は、整いすぎた理で上から押す。若き僧の法は、ずらし、受け流し、綻びを広げすぎぬよう整える。


 男の符が落ち切る前に、若き僧は低く唱えた。


「諸流帰脈、異相不侵、乱れし道はそのままに、越ゆべからざる境のみを残せ」


 短い。

 長大な詠唱ではない。

 だが今ここでは十分だった。


 符の筋が一瞬ずれ、窪地を通り損ねる。

 かなめの舞がその隙へ差し込み、神域の糸をさらに濃くする。

 霞は補助役の手足を完全に封じ、次の札を出させない。


 三人の動きが、また噛み合った。


 神職風の男が初めて顔を歪める。


「尾張の巫女ごときが……!」

「ごとき、で結構です」


 かなめは舞を止めなかった。

 雨で濡れた髪が頬へ張りついている。

 それでも目はまっすぐだった。


「小さな社でも、村の祈りでも、踏みつけていいものではありません」

「それを決めるのは」

「あなたたちではない!」


 鈴の音が強く響いた。


 その瞬間、熱田から伸びていた細い流れが、窪地へふっと落ちる。

 かなめの舞が、ついに神域の“こちら側”をこの場へ刻み込んだのだ。


 男の符が、今度こそ明確に弾かれた。


「……!」


 若き僧が見逃さない。


 今だ。


 東海側の術が押し返されたというより、綻びの上から“通れぬ”と拒まれた。

 これで向こうの埋め戻しは遅れる。

 わずかでも、十分だ。


「引いてください!」

 若き僧がかなめと霞へ言う。

「ここで勝ち切る場ではない!」


 かなめは舞の終わりを最小にまとめ、一歩下がる。

 霞は補助役の札筒を蹴り飛ばし、窪地の外へ跳んだ。


「逃がすのか」

 かなめが言う。

「今は」

 若き僧が答える。

「綻びを守るほうが先です」

「……悔しいですが、分かります」


 神職風の男は、追ってはこなかった。

 いや、追えなかったのだろう。

 かなめの舞が刻んだ神域の糸がまだ残っている今、ここへ無理に踏み込めば、向こう自身の術がさらに乱れる。


 男は泥の中に立ったまま、低く言い捨てた。


「尾張の僧も巫女も、分を違えるな」

「そちらこそ」

 若き僧が返す。

「尾張の理を、東海の都合で測らないでいただきたい」


 男は答えず、補助役を引き起こして雨の向こうへ退いた。

 その背を、霞が鋭く睨む。


「追う?」

「だめです」

 かなめが即答する。

「今は」

「分かってる」

 霞は舌打ちしながらも引いた。

「でも、あの顔覚えた」

「十分です」

 若き僧が言う。


 三人は窪地から少し離れた。


 雨はまだ降っている。

 だがさきほどまでとは違う。

 窪地の上では、今川本陣側から漏れた綻びの影が、まだ細く尾張へ通っていた。完全には閉じていない。

 それを見て、若き僧は小さく息をつく。


「間に合った」

「はい」

 かなめも息を整えながら頷く。

「完全ではないが、向こうの埋め戻しは遅らせた」

「ええ」

「でも」

 霞が言う。

「老爺本人が来たら、こんなんじゃ済まない」

「その通りです」

 若き僧が答える。

「だからこそ、今ここで位置を知れたのは大きい」

「位置?」

「向こうが本陣をどう守り、どこで綻ぶか」

「……」

「これで、尾張側の火がどこを突けるかも、少し見えてきました」


 かなめが、そこで若き僧を見た。


「巡修殿」

「はい」

「あなた、今」

「ええ」

「信長がどこを通るか、考えましたね」

「少しだけ」

「少しで済む顔ではありません」

「かなめ殿も鋭い」

「嬉しくありません」


 霞が濡れた髪をかき上げながら、ぼそりと言う。


「でも、巫女の舞、良かった」

「……何です急に」

「綺麗だったし、ちゃんと効いてた」

「当然です」

「そこ胸張るんだ」

「張ります」

「うわ」

「何です」

「何でもない。ちょっと見直しただけ」

「……あなたも」

 かなめは言いかけて、咳払いした。

「あなたも、影の切り方は見事でした」

「え」

「事実です」

「……」

「褒めているのです」

「分かってる」

「なら、そういう顔をしないでください」

「どういう顔」

「妙に黙る顔です」

「うるさい巫女」

「聞こえています」


 若き僧は二人を見て、わずかに口元を緩めた。


 濡れた白衣。

 泥を跳ねた緋袴。

 雨に張りつく夜色の衣。

 まるで交わるはずのなかった二つの理が、この尾張の雨の中で偶然結び合わされたようだと思う。


「行きましょう」

 若き僧が言う。

「どこへ」

 かなめが問う。

「少し高い場所へ」

「なぜ」

「この綻びが、尾張の火へどう届くかを見たい」

「また危ないことを」

「でも必要です」

「知ってます」


 霞が短刀を収めながら言った。


「ほんと、坊主はこういうとき迷わないよね」

「迷っています」

「見えない」

「内心では」

「それ余計たち悪い」


 三人は再び雨の中を歩き出した。


 窪地の綻びは、まだ閉じていない。

 かなめの舞が神域の糸を落とし、霞の影が補助を断ち、若き僧の法が向こうの筋をずらした。

 その結果として、今川本陣を守る東海の古い術は、ほんのわずかに遅れた。


 わずかでいい。

 戦は、そのわずかで決まることがある。

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