表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/35

第15話 覇王、雨を裂く

高みへ出るころには、雨の幕はさらに形を変えていた。


 弱くはなっていない。

 だが、一面を塗り潰すような降りではなく、風に引きちぎられた布のように、ところどころで厚みが違う。強く白く落ちる筋があれば、その隣では薄くなり、向こうの景色がかすかに透ける。

 空の上で、まだ何かが争っているのだ。


 若き僧と白榊かなめ、霞の三人は、熱田から少し外れた高まりへ出ていた。人目を避け、町の喧騒から離れ、尾張の地と桶狭間の方向とを同時に見渡せる場所。

 雨の中で地面はぬかるみ、足を取られやすい。だがここなら、地脈の流れも、風の向きも、戦場の気配も、まとめて拾いやすい。


 若き僧は高まりの端に立ち、雨に濡れるのも構わず遠くを見ていた。

 かなめは少し後ろで神楽鈴を袖に隠し、熱田の神気がどこまで伸びているかを探っている。

 霞はもっと低く身を沈め、林際や人の動く影ばかりを追っていた。


「……見えますか」

 かなめが問う。

「はい」

 若き僧は答えた。

「どちらが」

「両方です」

「便利」

 霞がぼそりと言う。

「便利ではあります」

 若き僧は珍しくあっさり認めた。

「認めるんだ」

「役に立つなら」


 かなめは雨の向こうを見つめた。


「私は、火まではまだはっきり見えません」

「ええ」

「でも、分かる」

「何が」

「空気が変わっている」


 それはその通りだった。


 先ほど窪地で守った綻びは、今もなお今川本陣側の結界へ細い歪みを残している。完全に破れたわけではない。だが、あれほど整っていた東海の古い術の“面”に、わずかなズレが生じた。

 そのわずかなズレが、雨の幕の中で致命的な意味を持ち始めている。


 向こうはまだ本陣を守っている。

 だが、守りの輪の一部が、もはや一枚ではない。


 若き僧は、その綻びの先に別のものを感じていた。


 赤い。


 それも、ただ燃えている赤ではない。

 濡れた空気の中で、なお芯を失わぬ熱。

 尾張の内側から、まっすぐに進んでくる意志の色。


 覇王の火。


 織田信長だ。


 あの男の火は、晴れた空では誰の目にも異様に見えただろう。

 だが今は違う。

 雨が火を隠す。

 見えぬからこそ、火はより深く、より危うく、近づいてくる。


「巡修殿」

 かなめが低く呼ぶ。

「はい」

「まさか」

「ええ」

「来る?」

「来ています」

「……!」


 かなめの顔色が変わった。


 兵の数や陣形を、ここから肉眼で正確に見るのは難しい。雨の幕が視界を削り、地形の起伏が輪郭を呑んでいる。だが若き僧には分かる。

 火の動きが速い。

 迷っていない。

 しかも、まっすぐ過ぎるほどまっすぐだ。


 霞が短く言う。


「今川の方は?」

「重いままです」

 若き僧が答える。

「でも、さっきより鈍い」

「綻びのせい?」

 かなめが問う。

「ええ。それに」

「それに?」

「たぶん、向こうはまだ“ここまで来る”と思っていない」

「……」

「この雨と、この圧の中を」


 かなめが息を呑む。


 その一言で、彼女にも見えたのだろう。

 ただの奇襲ではない。

 ただの戦の妙でもない。

 この雨が作る“見えない道”を、あの火は躊躇なく踏んでいる。


「正気じゃない」

 かなめが呟く。

「そうですね」

 若き僧は答える。

「ですが、正気でできることではないからこそ」

「勝てる?」

「可能性がある」

「その言い方……」

「ええ。まだ確定ではありません」


 霞が雨を拭いもせず、目だけを細める。


「でも、坊主」

「はい」

「今、ちょっと嬉しそう」

「そう見えますか」

「見える」

「……否定はできません」


 若き僧は正直に言った。


 嬉しい、というのは少し違うかもしれない。

 だが、見届ける者としての震えに近いものがあった。

 乱世を押し潰そうとする重い古術。

 熱田の神域。

 地脈の綻び。

 そのすべてを呑み込みながら、なお踏み込む火。


 そんなものを前にして、何も感じぬほうが不自然だ。


 そのとき、雨の向こうで、空気がひとつ裂けた。


 音ではない。

 だが若き僧には、結界の“外側”を通る何かが、一線を越えたと分かった。


「今」

 彼が言う。

「本陣の外縁を抜けた」

「信長が?」

 かなめが問う。

「おそらく」

「そんな、こんなに早く」

「向こうの守りが、一瞬だけ遅れた」

「私たちが作った綻び」

「ええ」


 かなめは言葉を失った。

 自分たちが窪地で守った、ほんのわずかな歪み。

 その一瞬が、今、戦場のどこかで実際の道になっている。


 霞が低く笑った。


「ほんと、戦ってこういうので決まるんだ」

「ええ」

 若き僧が答える。

「兵の数だけじゃない」

「もちろん、数は重いです」

「でも、それだけじゃない」

「はい」


 若き僧の目には、今川本陣を守る古い術の輪が、ほんの僅かにゆがんで見えていた。

 完璧な円ではなくなったのだ。

 そしてその歪みの一部に、覇王の火が食い込んでいく。


 強引だった。

 無謀ですらある。

 だが、その火には迷いがない。

 勝てるかどうかではなく、ここで踏み込む以外に道がないと知っている火だ。


「……この人」

 かなめが、ほとんど独り言のように言う。

「信長、ですね」

 若き僧が応じる。

「はい」

「祈ったから勝つのではなく」

「ええ」

「祈ってなお、自分で取りに行く」

「そういう人です」

「怖い」

「はい」

「でも」

「でも?」

「こういう人でなければ、あの今川の本陣へは届かない」


 若き僧は頷いた。


 まさにその通りだ。

 古術も、兵数も、格式も、常識も、すべてが今川側に厚く積まれている。その中へ突っ込むには、戦上手だけでは足りない。

 理そのものを押し切るだけの“火”が要る。


 雨が風に叩かれ、景色がまた少しだけ薄れた。

 だが、その薄れ方の中で、今度は別のものが見えた。


 重い圧の一角が、崩れたのだ。


「……!」

 若き僧の目が見開かれる。

「どうしました」

 かなめが問う。

「今川本陣の守りが」

「はい」

「一つ、落ちた」

「本当に!?」

「ええ」


 霞が低く呟く。


「中まで入った」

「そうでしょう」

 若き僧が答える。

「なら」

「ここから先は、人の刃です」


 東海の古い術が守りきれぬところまで踏み込めば、最後は結局、人が決める。

 どれだけ結界があっても、どれだけ霊脈を押さえていても、最後の一瞬を決するのは、人の意志と刃だ。


 若き僧はそのことを、どこかで安堵に近い気持ちで受け止めていた。

 神秘は戦を傾ける。

 だが神秘だけで天下は取れない。

 人が取りに行くしかない。


「巡修殿」

 かなめが、雨の向こうから目を離さず言う。

「はい」

「この勝ち方は」

「ええ」

「術で勝つのではないですね」

「はい」

「術が作った歪みを、胆力で踏み越える」

「そういうことです」

「……本当に、火の人だ」


 若き僧は否定しなかった。


 覇王の火。

 言葉としては何度も口にした。

 だが今、実際にその火が、雨と術と兵数の壁を突き破るところを見て、ようやくその言葉の重みを実感した気がした。


 そのときだった。


 雨幕の向こう、今川側の重い圧の中心で、ふっと大きな空白が生まれた。


 若き僧は息を止めた。


 切れた。


 守りではない。

 もっと中心。

 この雨と火と古術を束ねていた、一本の太い線が切れたのだ。


「……義元」

 若き僧の口から、名が漏れた。


 かなめが振り向く。


「まさか」

「はい」

「討たれた?」

「おそらく」


 それは、あまりに大きな変化だった。


 今川義元という“人”の死だけではない。

 彼を中心に組まれていた東海側の理、その象徴、その重み、その全部が、一瞬で“過去”へ押しやられたのだ。


 雨の向こうで、重い圧が崩れ始める。

 完全に消えはしない。

 だが、もう一枚岩ではない。

 守るべき芯を失った術は、急速に意味を失っていく。


 霞が、珍しく真顔のまま言う。


「終わった」

「ええ」

 若き僧が答える。

「……終わりました」

「これで、信長の勝ち?」

 かなめが問う。

「戦としては」

「はい」

「でも、何だか」

「何でしょう」

「始まりみたいです」


 若き僧はゆっくりと頷いた。


「その通りです」


 義元が討たれた。

 それは一つの戦の終わりだ。

 だが同時に、もっと大きな火が、ここから本格的に燃え広がる始まりでもある。


 若き僧の目には、雨の幕の向こうで、覇王の火が一気に高まるのが見えた。

 派手に噴き上がる炎ではない。

 むしろ、これまで押さえ込まれていた熱が、ようやく風を得たような広がり方だった。


 かなめはその気配に思わず身を震わせる。


「……怖い」

「ええ」

 若き僧が答える。

「勝ったのに、怖い」

「そういう勝ち方です」

「向こうの大軍も、古い術も、全部を押しのけてしまった」

「はい」

「こんなの、尾張の一国の話では済まない」


 若き僧は雨に濡れた袖を握った。


「済まないでしょう」

「じゃあ、この先」

「もっと燃えます」

「そんなにあっさり」

「たぶん」

「……」


 かなめが苦い顔をする。

 霞は逆に、少しだけ遠くを見るような目をしていた。


「ねえ、坊主」

「はい」

「これで東海の古い術は終わり?」

「いいえ」

「やっぱり」

「今川本陣の守りは崩れました。義元も落ちた」

「うん」

「ですが、理までは死なない」

「……」

「むしろ、この敗北で、もっと執念深くなる者もいるでしょう」

「最悪」

「かなり」

「もうそれ禁止」


 若き僧は少しだけ笑った。

 かなめも呆れたように息をつき、それでも視線は雨の向こうから離せない。


 しばらくして、雨脚がさらに変わった。


 強い幕の役目を終えたのか、少しずつ、ただの雨へ戻り始めている。

 空の上で争っていた均衡が、一応の決着を見たのだろう。

 戦場の勝敗が、空へも伝わったのかもしれない。


 若き僧は、高みから一歩だけ下がった。


「戻りましょう」

「もういいのですか」

 かなめが問う。

「見届けるべきものは見ました」

「……はい」

「かなめ殿」

「何です」

「あなたの舞が、綻びを守りました」

「……」

「霞」

「何」

「あなたの影が、補助を断った」

「……うん」

「その結果です」


 かなめは目を伏せた。

 霞は照れ隠しのように鼻を鳴らす。


「大げさ」

「いいえ」

 若き僧は静かに言う。

「戦は、大きな名だけで動くのではありません」

「……」

「見えぬところの、小さな手で傾くこともある」


 かなめが小さく息を吐いた。


「それを言われると、少し救われます」

「ええ」

「でも、同時に」

「はい」

「この先も、そういう場所へ行かねばならないのだと分かってしまう」

「そうでしょうね」


 霞が濡れた前髪をかき上げた。


「じゃあ、次は?」

「まだです」

 若き僧が答える。

「今は、まずこの勝ちが尾張へどう返るかを見る」

「勝った後まで見るの?」

「そこまでが戦です」

「……ほんと、面倒くさい坊主」

「よく言われます」

「それ、自慢じゃないからね」

「そうでしたか」


 三人は高みを降り始めた。

 雨はもう、ただの雨に近づいている。

 けれど若き僧には分かっていた。


 桶狭間の戦いは、今終わった。

 だが本当に始まるのは、ここからだ。


 義元が散り、今川の重みが崩れ、信長の火が天下へ向かって道を得た。

 熱田の神域も、尾張の小さな社も、この変化からは逃れられない。

 そして自分たちもまた、もうそのただ中へ足を踏み入れている。


 若き僧は、雨に濡れた尾張の空を一度だけ振り返った。


 覇王の火は、今もなお、見えぬところで燃えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ