第16話 老術者の禁
桶狭間の勝敗が決したその夜、尾張の空は奇妙に静かだった。
雨は夕刻にはほとんど上がり、雲だけが低く残っている。
戦の後なら、勝った側の喧騒や負けた側の混乱が、もっとあからさまに天地を揺らしてもよさそうなものだ。だが今の静けさは、安堵によるものではなかった。
むしろ逆だ。
あまりに多くのものが、一度に切れた。
今川義元の命。
それを軸にして張られていた東海の守り。
大軍の威圧。
古い秩序の重み。
それらが崩れたあとに生じる“空白”が、尾張の上へ沈んでいるのだ。
若き僧は、それを肌で感じていた。
熱田を離れ、かなめの社へ戻る道で、彼は何度も足を止めた。
見えるからである。
勝者の歓声より先に、敗者の無念が地へ沈むのが。
名も残らぬ兵の断末魔が、草に、泥に、折れた枝に絡みつくのが。
戦に勝ったからといって、土地がすぐに清まるわけではない。むしろ戦後こそ、怨みは濃くなる。
かなめもそれに気づいているらしかった。
「……嫌な感じが、ずっと増えていく」
「ええ」
若き僧が答える。
「勝ったのに」
「勝ったからでしょう」
「その言い方」
「喜べぬ時に喜ばぬのは、悪いことではありません」
「……」
「ただし」
「ただし?」
「このまま放っておくのは、もっと悪い」
霞が道の前を見たまま言う。
「それ、あの老爺のせい?」
「可能性は高いです」
「義元が死んだなら、守りの術も終わるんじゃないの」
「普通は」
「普通じゃない?」
「はい」
若き僧は夜の林を見渡した。
「東海の古い術は、今川を守るためだけに組まれていたのではない」
「……」
「今川を芯にしつつ、もっと広く“東海の理を尾張へ被せる”ためのものだった」
「だから」
かなめが低く言う。
「義元が討たれても、その余波がまだ地に残っている」
「ええ」
「しかも、勝敗がついた今のほうが危ない?」
「はい。綻びを埋め戻すのではなく、崩れたものを全部、怨みに変えることができる」
霞が顔をしかめた。
「趣味悪すぎ」
「そうですね」
若き僧が言う。
「かなり」
「今日はその返しいいよ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
三人が社へ戻り着く頃には、村の空気もまた微妙に変わっていた。
昼までの“何かが来る”不安ではない。
代わりに、何が終わったのか分からぬまま、ざわつきだけが村の戸口や垣の向こうに溜まっている。戦場から離れている村人たちは、勝ったか負けたかさえまだ定かではない。だが土地の気だけが大きく動いたことを、身体のどこかで感じ取っているのだ。
かなめの社へ入った瞬間、若き僧の表情が変わった。
「……来ている」
「何が」
かなめが問いかけた瞬間、自分でも分かったらしく息を呑む。
「これ、昨日までと違う」
「ええ」
「社の外縁ではない」
「もっと深い」
若き僧は頷く。
「井戸跡です」
三人はすぐに社裏へ回った。
月は雲に隠れ、星もない。
それでも井戸跡のあたりだけ、暗さの質が違った。黒いのではない。濁っている。濁りが空気に混ざって、音まで鈍くしているような感じだ。
かなめが神楽鈴を握りしめる。
「こんなの、昨日までなかった」
「戦後だからです」
若き僧が答える。
「戦で死んだ者の無念と、崩れた東海の古術の残滓とを、この社の小さな結びへ流し込もうとしている」
「誰が」
「おそらく」
そのときだった。
井戸跡の向こう、木立の暗がりから、声がした。
「よく分かる」
静かな声。
老人のものだ。
しかし弱々しさはない。むしろ、長く人の上に立って命じることに慣れた声だった。
三人の視線が一斉に向く。
そこに立っていたのは、白い狩衣をまとった老人だった。
神主とも見えるし、貴人に仕える祈祷師とも見える。だが、その立ち方は社家の者に特有の“神へ仕える者の低さ”とは違っていた。むしろ、自分が理を知る側であり、神域すら扱う側だと思っている者の立ち方だ。
指が長い。
雨上がりの闇の中で、その白い指先だけが妙に目についた。
霞の顔から血の気が引く。
「……あんた」
老人の視線が霞へ滑る。
「見たことがある顔だ」
「……」
「惜しいな。捨てるにはまだ使えた」
「っ……!」
若き僧が半歩前へ出た。
かなめも同時に位置を取る。
「東海の古い術を組んでいた方ですね」
「そう呼ばれているやもしれぬ」
老人は淡々と言った。
「だが、名などどうでもよい」
「こちらにとっては、あまり」
若き僧が答える。
「分かる気がします」
「ほう」
「名を残すことより、理を残すほうに興味がありそうですので」
「……」
老人の口元が、初めてわずかに歪んだ。
笑みというには冷たすぎる。
「僧にしては目が利く」
「ありがとうございます」
「だが、若い」
「それも、よく言われます」
霞が横でぼそりと呟く。
「その返し、ほんと便利だね」
かなめが小さく返す。
「今そこじゃないです」
「分かってる」
老人はかなめへ目を向けた。
「尾張の巫女」
「何です」
「小さき社の結びを守って、何になる」
「村が眠れます」
かなめは即答した。
「子どもが泣かずに済みます。朝、水が濁らずに済みます」
「些末」
「あなたにはそうでしょう」
「天下の傾きを前に、村の井戸や子の熱など」
「その“些末”を踏みにじる者が、天下を語るのですか」
かなめの声は震えていなかった。
怒っている。
だがその怒りは、もう林での感情的なものとは違う。自分の社、自分の村を代表して言っている巫女の怒りだった。
老人はそれにも顔色一つ変えない。
「大は小を呑む」
「それは」
若き僧が言う。
「理ではなく、都合でしょう」
「都合と理の何が違う」
「弱い側に選べぬなら、理とは呼びません」
「……」
老人の目が、若き僧を正面から捉える。
それだけで、空気がひとつ重くなるようだった。
「異国帰りか」
「はい」
「だから余計な慈悲を覚える」
「慈悲ではありません」
「なら何だ」
「線引きです」
「ほう」
「生きるために汚れることと、弱いものを踏んで整うと称することは違う」
「若い」
「そうでしょうね」
老人は一歩も動かぬまま、指先で何かを弄ぶような仕草を見せた。
その途端、井戸跡の濁りが一段濃くなる。
かなめが息を詰める。
「来ます!」
「ええ!」
若き僧が答えた。
老人は直接攻撃してくるのではない。
戦後の無念を、井戸跡の小さな結びへ流し込み、社の内側から腐らせようとしているのだ。
かなめの社は小さい。
だから、こういうやり方がいちばん効く。
「かなめ殿!」
「はい!」
「怨みを祓わなくていい、通さないで!」
「……!」
かなめは神楽鈴を高くは上げなかった。
胸の前。
自分の内へ引き寄せるように持つ。
そして舞うのではなく、足元へ“こちら側”を刻むような、静かな所作で鈴を鳴らした。
りん、と澄んだ音が落ちる。
老人の濁りが、井戸跡へ流れ込もうとする。
かなめの理が、それを祓うのではなく、井戸の縁で“ここより内は通さぬ”と境を立てる。
それだけでも苦しい。
小さな社の巫女が受けるには、相手が古すぎ、重すぎる。
霞が舌打ちした。
「これ、正面からじゃだめだ」
「ええ」
若き僧が短く答える。
「影を切って」
「影?」
「老人の背後。糸を持つ手がある」
霞の目が鋭くなる。
彼女には見えない。
だが若き僧の言葉を信じた。もうそれくらいの関係にはなっている。
霞は闇へ滑った。
雨上がりの土を蹴っても、音はほとんどない。
老人の視線はかなめと若き僧へ向いたままだ。
その背後、木立の影に、たしかに細い補助の糸がいくつも張られている。怨念をこの社へ集めるための導きだ。
「見つけた」
霞が低く言う。
次の瞬間、短刀が閃く。
一本。
二本。
三本。
糸が切れるたび、井戸跡へ流れ込む濁りが一瞬だけ乱れる。
老人の目が初めて鋭く動いた。
「余計な真似を」
「捨て駒だった子に切られる気分は?」
霞が吐き捨てる。
老人の声は冷たいままだった。
「自ら道を閉ざしたか」
「最初から、そっちに道なんかなかった」
若き僧はその言葉を聞きながら、懐の法具を取り出した。
今こそ必要だった。
ここで怨みを祓いきることはできない。だが、社の井戸跡へ“門”のように流し込むのは止められる。
彼は印を切った。
呼吸を整える。
今までより長い詠唱が必要だ。
「諸天善神、冥路の門に触れるものよ、いまこの狭き社の結びを、戦野の無念へ開くを許したまうな。流るるものは流れに還し、迷うものは境に留め、怒りをそのまま井へ落とすことを断て。東より来たる古き理も、西より返る新しき火も、ここではただ、人の眠りを踏みにじることなかれ――」
かなめが、その詠唱に呼応するように鈴を鳴らす。
澄んだ音が一つでは足りず、二つ、三つと重なる。
老人の濁りが、それでも押してくる。
今川の敗勢で行き場を失った怨念と古い術の残滓を、最後に尾張の小さな社へ落とし込もうという執念だ。
かなめの頬を汗が伝う。
雨の湿りではない。
鈴を持つ手が微かに震える。
若き僧は最後の一句を落とした。
「――破邪、調伏、鎮魂、三印一つに帰して、ここに門を閉ざせ。
真言秘法・冥路鎮結。」
空気が、低く鳴った。
爆ぜはしない。
光りもしない。
だが井戸跡の濁りが、はっきりと“行き場を失った”。
流れ込むはずだった怨みが、門を閉ざされたことで社の内へ入れず、外縁で渦を巻く。
かなめが鈴を打ち込む。
「ここより内は、我が神の眠るところ――入るな!」
鈴の音が強く響き、濁りが井戸跡の縁で弾かれる。
霞は最後の糸を切った。
その瞬間、老人の理が一度、大きく揺らいだ。
「……!」
初めて老人の顔に、明確な不快が浮かぶ。
若き僧はそこを見逃さない。
「かなめ殿、そのまま!」
「はい!」
「霞、引いて!」
「了解!」
三人の動きが噛み合った。
老人は、ここで押し切れぬと見たのだろう。
濁りを無理に通さず、すっと指を引く。
井戸跡に渦巻いていた重さも、完全には消えぬまま、社の外へ散っていく。
「……今日は、ここまでか」
老人が言う。
「今日は?」
かなめが鋭く返す。
「また来るつもりですか」
「尾張が燃えるなら、残り火は拾わねばならぬ」
「あなたたちは、何を守りたいのです」
かなめの問いに、老人は静かに答えた。
「古い形だ」
「そんなもののために」
「新しき火は、世を明るくもする。だが、焼き過ぎる」
「……」
その言葉だけは、若き僧の胸に少しだけ残った。
それが理屈として完全に間違っているわけではないと、どこかで分かるからだ。
信長の火は、たしかに時代を進める。
だが同時に、多くを焼くだろう。
老人はそれ以上何も言わず、闇へ下がった。
霞が追おうと半歩出たが、若き僧が止める。
「今はだめです」
「でも」
「ここを持たせたことが先」
「……」
「今夜は、それで十分」
霞は悔しげに歯を鳴らしたが、引いた。
かなめはその場で膝をつきそうになり、若き僧がすぐ支えた。
「大丈夫ですか」
「……何とか」
「無理をした」
「無理をしないと、通された」
「ええ」
「でも」
かなめは息を整えながら、井戸跡を見た。
「守れた」
「はい」
霞が短刀を収め、少しだけ照れくさそうに言った。
「巫女、あの鈴、すごかった」
「……あなたも」
かなめが答える。
「糸を切るの、助かりました」
「知ってる」
「そこは素直でいいです」
「何それ」
若き僧は二人を見て、ようやく小さく息をついた。
老術者本人が来た。
しかも、戦後の無念を小さな社へ落とし込もうとした。
だが三人で防ぎ切った。
それは、大きい。
「巡修殿」
かなめがまだ息の浅いまま言う。
「はい」
「この人が」
「ええ」
「東海守護の古い術の芯」
「その可能性が高い」
「……そうですか」
かなめは井戸跡から目を離し、闇の向こうを見た。
「では、もう逃げられませんね」
「何から」
「この戦の裏側からです」
若き僧は答えなかった。
必要がなかったからだ。
すでに三人とも、十分すぎるほど、その裏側へ足を踏み入れている。




