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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第16話 老術者の禁

桶狭間の勝敗が決したその夜、尾張の空は奇妙に静かだった。


 雨は夕刻にはほとんど上がり、雲だけが低く残っている。

 戦の後なら、勝った側の喧騒や負けた側の混乱が、もっとあからさまに天地を揺らしてもよさそうなものだ。だが今の静けさは、安堵によるものではなかった。

 むしろ逆だ。


 あまりに多くのものが、一度に切れた。

 今川義元の命。

 それを軸にして張られていた東海の守り。

 大軍の威圧。

 古い秩序の重み。

 それらが崩れたあとに生じる“空白”が、尾張の上へ沈んでいるのだ。


 若き僧は、それを肌で感じていた。


 熱田を離れ、かなめの社へ戻る道で、彼は何度も足を止めた。

 見えるからである。

 勝者の歓声より先に、敗者の無念が地へ沈むのが。

 名も残らぬ兵の断末魔が、草に、泥に、折れた枝に絡みつくのが。

 戦に勝ったからといって、土地がすぐに清まるわけではない。むしろ戦後こそ、怨みは濃くなる。


 かなめもそれに気づいているらしかった。


「……嫌な感じが、ずっと増えていく」

「ええ」

 若き僧が答える。

「勝ったのに」

「勝ったからでしょう」

「その言い方」

「喜べぬ時に喜ばぬのは、悪いことではありません」

「……」

「ただし」

「ただし?」

「このまま放っておくのは、もっと悪い」


 霞が道の前を見たまま言う。


「それ、あの老爺のせい?」

「可能性は高いです」

「義元が死んだなら、守りの術も終わるんじゃないの」

「普通は」

「普通じゃない?」

「はい」


 若き僧は夜の林を見渡した。


「東海の古い術は、今川を守るためだけに組まれていたのではない」

「……」

「今川を芯にしつつ、もっと広く“東海の理を尾張へ被せる”ためのものだった」

「だから」

 かなめが低く言う。

「義元が討たれても、その余波がまだ地に残っている」

「ええ」

「しかも、勝敗がついた今のほうが危ない?」

「はい。綻びを埋め戻すのではなく、崩れたものを全部、怨みに変えることができる」


 霞が顔をしかめた。


「趣味悪すぎ」

「そうですね」

 若き僧が言う。

「かなり」

「今日はその返しいいよ」

「ありがとうございます」

「褒めてない」


 三人が社へ戻り着く頃には、村の空気もまた微妙に変わっていた。

 昼までの“何かが来る”不安ではない。

 代わりに、何が終わったのか分からぬまま、ざわつきだけが村の戸口や垣の向こうに溜まっている。戦場から離れている村人たちは、勝ったか負けたかさえまだ定かではない。だが土地の気だけが大きく動いたことを、身体のどこかで感じ取っているのだ。


 かなめの社へ入った瞬間、若き僧の表情が変わった。


「……来ている」

「何が」

 かなめが問いかけた瞬間、自分でも分かったらしく息を呑む。

「これ、昨日までと違う」

「ええ」

「社の外縁ではない」

「もっと深い」

 若き僧は頷く。

「井戸跡です」


 三人はすぐに社裏へ回った。


 月は雲に隠れ、星もない。

 それでも井戸跡のあたりだけ、暗さの質が違った。黒いのではない。濁っている。濁りが空気に混ざって、音まで鈍くしているような感じだ。


 かなめが神楽鈴を握りしめる。


「こんなの、昨日までなかった」

「戦後だからです」

 若き僧が答える。

「戦で死んだ者の無念と、崩れた東海の古術の残滓とを、この社の小さな結びへ流し込もうとしている」

「誰が」

「おそらく」


 そのときだった。


 井戸跡の向こう、木立の暗がりから、声がした。


「よく分かる」


 静かな声。

 老人のものだ。

 しかし弱々しさはない。むしろ、長く人の上に立って命じることに慣れた声だった。


 三人の視線が一斉に向く。


 そこに立っていたのは、白い狩衣をまとった老人だった。

 神主とも見えるし、貴人に仕える祈祷師とも見える。だが、その立ち方は社家の者に特有の“神へ仕える者の低さ”とは違っていた。むしろ、自分が理を知る側であり、神域すら扱う側だと思っている者の立ち方だ。

 指が長い。

 雨上がりの闇の中で、その白い指先だけが妙に目についた。


 霞の顔から血の気が引く。


「……あんた」

 老人の視線が霞へ滑る。

「見たことがある顔だ」

「……」

「惜しいな。捨てるにはまだ使えた」

「っ……!」


 若き僧が半歩前へ出た。

 かなめも同時に位置を取る。


「東海の古い術を組んでいた方ですね」

「そう呼ばれているやもしれぬ」

 老人は淡々と言った。

「だが、名などどうでもよい」

「こちらにとっては、あまり」

 若き僧が答える。

「分かる気がします」

「ほう」

「名を残すことより、理を残すほうに興味がありそうですので」

「……」


 老人の口元が、初めてわずかに歪んだ。

 笑みというには冷たすぎる。


「僧にしては目が利く」

「ありがとうございます」

「だが、若い」

「それも、よく言われます」

 霞が横でぼそりと呟く。

「その返し、ほんと便利だね」

 かなめが小さく返す。

「今そこじゃないです」

「分かってる」


 老人はかなめへ目を向けた。


「尾張の巫女」

「何です」

「小さき社の結びを守って、何になる」

「村が眠れます」

 かなめは即答した。

「子どもが泣かずに済みます。朝、水が濁らずに済みます」

「些末」

「あなたにはそうでしょう」

「天下の傾きを前に、村の井戸や子の熱など」

「その“些末”を踏みにじる者が、天下を語るのですか」


 かなめの声は震えていなかった。

 怒っている。

 だがその怒りは、もう林での感情的なものとは違う。自分の社、自分の村を代表して言っている巫女の怒りだった。


 老人はそれにも顔色一つ変えない。


「大は小を呑む」

「それは」

 若き僧が言う。

「理ではなく、都合でしょう」

「都合と理の何が違う」

「弱い側に選べぬなら、理とは呼びません」

「……」


 老人の目が、若き僧を正面から捉える。

 それだけで、空気がひとつ重くなるようだった。


「異国帰りか」

「はい」

「だから余計な慈悲を覚える」

「慈悲ではありません」

「なら何だ」

「線引きです」

「ほう」

「生きるために汚れることと、弱いものを踏んで整うと称することは違う」

「若い」

「そうでしょうね」


 老人は一歩も動かぬまま、指先で何かを弄ぶような仕草を見せた。

 その途端、井戸跡の濁りが一段濃くなる。


 かなめが息を詰める。


「来ます!」

「ええ!」

 若き僧が答えた。


 老人は直接攻撃してくるのではない。

 戦後の無念を、井戸跡の小さな結びへ流し込み、社の内側から腐らせようとしているのだ。

 かなめの社は小さい。

 だから、こういうやり方がいちばん効く。


「かなめ殿!」

「はい!」

「怨みを祓わなくていい、通さないで!」

「……!」


 かなめは神楽鈴を高くは上げなかった。

 胸の前。

 自分の内へ引き寄せるように持つ。

 そして舞うのではなく、足元へ“こちら側”を刻むような、静かな所作で鈴を鳴らした。


 りん、と澄んだ音が落ちる。


 老人の濁りが、井戸跡へ流れ込もうとする。

 かなめの理が、それを祓うのではなく、井戸の縁で“ここより内は通さぬ”と境を立てる。

 それだけでも苦しい。

 小さな社の巫女が受けるには、相手が古すぎ、重すぎる。


 霞が舌打ちした。


「これ、正面からじゃだめだ」

「ええ」

 若き僧が短く答える。

「影を切って」

「影?」

「老人の背後。糸を持つ手がある」


 霞の目が鋭くなる。

 彼女には見えない。

 だが若き僧の言葉を信じた。もうそれくらいの関係にはなっている。


 霞は闇へ滑った。

 雨上がりの土を蹴っても、音はほとんどない。

 老人の視線はかなめと若き僧へ向いたままだ。

 その背後、木立の影に、たしかに細い補助の糸がいくつも張られている。怨念をこの社へ集めるための導きだ。


「見つけた」

 霞が低く言う。

 次の瞬間、短刀が閃く。


 一本。

 二本。

 三本。


 糸が切れるたび、井戸跡へ流れ込む濁りが一瞬だけ乱れる。

 老人の目が初めて鋭く動いた。


「余計な真似を」

「捨て駒だった子に切られる気分は?」

 霞が吐き捨てる。

 老人の声は冷たいままだった。

「自ら道を閉ざしたか」

「最初から、そっちに道なんかなかった」


 若き僧はその言葉を聞きながら、懐の法具を取り出した。

 今こそ必要だった。

 ここで怨みを祓いきることはできない。だが、社の井戸跡へ“門”のように流し込むのは止められる。


 彼は印を切った。

 呼吸を整える。

 今までより長い詠唱が必要だ。


「諸天善神、冥路の門に触れるものよ、いまこの狭き社の結びを、戦野の無念へ開くを許したまうな。流るるものは流れに還し、迷うものは境に留め、怒りをそのまま井へ落とすことを断て。東より来たる古き理も、西より返る新しき火も、ここではただ、人の眠りを踏みにじることなかれ――」


 かなめが、その詠唱に呼応するように鈴を鳴らす。

 澄んだ音が一つでは足りず、二つ、三つと重なる。


 老人の濁りが、それでも押してくる。

 今川の敗勢で行き場を失った怨念と古い術の残滓を、最後に尾張の小さな社へ落とし込もうという執念だ。


 かなめの頬を汗が伝う。

 雨の湿りではない。

 鈴を持つ手が微かに震える。


 若き僧は最後の一句を落とした。


「――破邪、調伏、鎮魂、三印一つに帰して、ここに門を閉ざせ。

 真言秘法・冥路鎮結。」


 空気が、低く鳴った。


 爆ぜはしない。

 光りもしない。

 だが井戸跡の濁りが、はっきりと“行き場を失った”。

 流れ込むはずだった怨みが、門を閉ざされたことで社の内へ入れず、外縁で渦を巻く。


 かなめが鈴を打ち込む。


「ここより内は、我が神の眠るところ――入るな!」


 鈴の音が強く響き、濁りが井戸跡の縁で弾かれる。


 霞は最後の糸を切った。

 その瞬間、老人の理が一度、大きく揺らいだ。


「……!」


 初めて老人の顔に、明確な不快が浮かぶ。

 若き僧はそこを見逃さない。


「かなめ殿、そのまま!」

「はい!」

「霞、引いて!」

「了解!」


 三人の動きが噛み合った。


 老人は、ここで押し切れぬと見たのだろう。

 濁りを無理に通さず、すっと指を引く。

 井戸跡に渦巻いていた重さも、完全には消えぬまま、社の外へ散っていく。


「……今日は、ここまでか」

 老人が言う。

「今日は?」

 かなめが鋭く返す。

「また来るつもりですか」

「尾張が燃えるなら、残り火は拾わねばならぬ」

「あなたたちは、何を守りたいのです」

 かなめの問いに、老人は静かに答えた。

「古い形だ」

「そんなもののために」

「新しき火は、世を明るくもする。だが、焼き過ぎる」

「……」


 その言葉だけは、若き僧の胸に少しだけ残った。

 それが理屈として完全に間違っているわけではないと、どこかで分かるからだ。

 信長の火は、たしかに時代を進める。

 だが同時に、多くを焼くだろう。


 老人はそれ以上何も言わず、闇へ下がった。

 霞が追おうと半歩出たが、若き僧が止める。


「今はだめです」

「でも」

「ここを持たせたことが先」

「……」

「今夜は、それで十分」


 霞は悔しげに歯を鳴らしたが、引いた。


 かなめはその場で膝をつきそうになり、若き僧がすぐ支えた。


「大丈夫ですか」

「……何とか」

「無理をした」

「無理をしないと、通された」

「ええ」

「でも」

 かなめは息を整えながら、井戸跡を見た。

「守れた」

「はい」


 霞が短刀を収め、少しだけ照れくさそうに言った。


「巫女、あの鈴、すごかった」

「……あなたも」

 かなめが答える。

「糸を切るの、助かりました」

「知ってる」

「そこは素直でいいです」

「何それ」


 若き僧は二人を見て、ようやく小さく息をついた。


 老術者本人が来た。

 しかも、戦後の無念を小さな社へ落とし込もうとした。

 だが三人で防ぎ切った。


 それは、大きい。


「巡修殿」

 かなめがまだ息の浅いまま言う。

「はい」

「この人が」

「ええ」

「東海守護の古い術の芯」

「その可能性が高い」

「……そうですか」


 かなめは井戸跡から目を離し、闇の向こうを見た。


「では、もう逃げられませんね」

「何から」

「この戦の裏側からです」


 若き僧は答えなかった。

 必要がなかったからだ。


 すでに三人とも、十分すぎるほど、その裏側へ足を踏み入れている。

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