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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第17話 義元、散る

 老術者が去ったあともしばらく、社の裏手は静まりきらなかった。


 風は弱い。

 雨ももう、葉先から落ちる雫の名残ばかりだ。

 それなのに、井戸跡の周囲だけは、まだ水底に鈍い波が残っているような空気を湛えていた。かなめの社は守られた。門は閉じた。怨念の濁流は通さなかった。

 だが、何もなかったことにはならない。


 戦があり、死があり、勝敗がついた。

 それが地へ落とした影は、術で一度拒んだからといって消えはしない。


 若き僧は井戸跡の縁へ膝をつき、冷えた石へそっと手を置いた。

 かなめは少し離れたところで呼吸を整えている。神楽鈴を持つ手は汗と雨で濡れ、指先にはまだ力が入りきっていた。霞は林際に立ち、闇の向こうに老術者の気配が完全に消えたかを見ている。


「……まだ、ざわついてる」


 かなめが低く言った。


「ええ」

 若き僧が答える。

「社の内側は守れました」

「でも、外は」

「戦の余波が残っています」

「こんなに、すぐ」

「すぐ、だからこそです」


 かなめは疲れを滲ませたまま息を吐いた。


「勝ったのですよね」

「ええ」

「尾張は」

「おそらく」

「なのに、どうして」

「勝った側も、負けた側も、人は死にます」

 若き僧は石に触れたまま言う。

「勝利は光ります。ですが、死者の声まで照らして消すことはできない」


 霞が林際から戻ってきた。


「もう追ってこない」

「ええ」

 若き僧が頷く。

「今夜は」

「今夜は?」

「老術者も、本陣の崩れと義元の死で手いっぱいでしょう」

「……」


 かなめが、その名に反応した。


「本当に、義元は討たれたのですね」

「はい」

「それが、分かるのですか」

「はっきりと」

「どういうふうに」

「中心が、消えたのでしょう」

 若き僧は少しだけ目を閉じた。

「重く整いすぎていた東海の理が、一瞬で“支えるものを失った”」

「……」

「術の綻びではなく、もっと深いところで」

「義元本人が、芯だった」

「そういうことです」


 霞が腕を組み、夜空を見た。


「今川って、あんなに大軍だったんでしょ」

「ええ」

「だったら、殿様が死んでもすぐ全部が崩れるわけじゃない」

「その通りです」

「でも、崩れた」

「今夜、かなり」

「それだけ、義元の上に術も兵も重なってたんだね」

「おそらく」


 若き僧はそこで立ち上がった。


「かなめ殿」

「はい」

「今夜は、社の内だけでなく、戦場そのものの“残り”も見ておく必要があります」

「戦場の残り」

「ええ」

「まさか」

 かなめの顔が引き締まる。

「桶狭間まで?」

「そこまでは行きません」

「……」

「ですが、ここへ届き始めている余波がどの質のものか、確かめねばなりません」

「また危ないことを」

 霞が言った。

「今度は本当に、死体の気配とかだよ」

「ええ」

 若き僧は静かに答える。

「だからこそです」


 かなめは即答しなかった。

 巫女として社を離れたくない気持ちはまだある。だが、今やこの社の井戸跡にまで戦場の影が届いている。ならば目を逸らすほうが危ういと、彼女自身も分かっているのだろう。


「……私も行きます」

「かなめ殿」

「社の外へ出ることには、もう慣れません」

「はい」

「でも、外から来るものを知らないまま守るほうが、もっと怖い」

「ええ」

「だから見ます」

「分かりました」


 霞が少しだけ肩をすくめる。


「じゃあ、私も」

「逃げてもいいのですよ」

 若き僧が言う。

「何それ」

「選べる、という意味です」

「今さら?」

「今だからこそ」

「……」

 霞は鼻を鳴らした。

「逃げるなら、もっと前に逃げてる」

「そうですか」

「そう。だいたい、こんな後味悪い夜に一人で林へ戻るとか、嫌すぎる」

「それは……」

 かなめが少しだけ言葉を探した。

「正直でよろしいかと」

「巫女に褒められた」

「褒めてはいません」

「でも否定もしてない」

「……今はいいです」


 三人は社の裏手から、村の外れへ続く細い道を取った。

 夜は深い。

 だが、戦の後の夜は完全な闇ではない。遠くの空に、微かに赤が残ることがある。火の手ではない。人の気配の残照のようなものだ。


 尾張の空にもそれがあった。


 かなめは歩きながら、袖の内で神楽鈴を握り直した。


「……空が変」

「ええ」

 若き僧が答える。

「雨は上がったのに、まだ湿っている」

「戦の湿りです」

「嫌な言葉」

「事実ですので」

「本当に、今日そればっかりですね」

「すみません」

「もう慣れました」


 村を抜けると、風が少しだけ強くなった。

 田と林のあいだ、昼間なら虫の声と水の匂いだけがある場所だ。

 そこに今夜は、別のものが混ざっている。


 鉄。

 泥。

 濡れた革。

 そして、血。


 かなめが立ち止まり、顔をしかめた。


「……来る」

「はい」

 若き僧も立ち止まる。

「これは」

「まだ“怨霊”ではありません」

「では」

「死者の気配が、風で運ばれているだけです」

「だけって」

 霞が言う。

「その“だけ”全然だけじゃないから」

「たしかに」

 若き僧は素直に頷いた。


 彼は目を閉じた。

 風の流れを読む。

 桶狭間そのものまで行かずとも、勝敗が決した戦場の空気は、水のように低い地を伝い、林を抜け、村の端へと届く。

 今はまだ、個々の死者ではない。

 だが、このまま放っておけば、土地の弱い継ぎ目から“声”になっていく。


「かなめ殿」

「はい」

「ここが境です」

「境」

「ええ。戦場の余波が村へ入り始める境」

「……」

「ここで一度、鎮めます」

「祓うのではなく?」

「今夜は」

「……」

「義元が散り、今川の理が崩れ、勝者の火が広がった直後です。祓うより、まず境を立てる」

「分かりました」


 かなめは一歩前へ出た。

 小さな社の巫女であっても、こうした“境”に鈴を鳴らすことはできる。

 むしろ、大きな神域に属していないからこそ、村と野の境目に立つのが似合う。

 彼女はゆっくりと鈴を上げ、今夜は舞わずに、ただ静かに鳴らした。


 りん。


 澄んだ音が、田の上を滑るように伸びる。


 若き僧はそれに重ねるように低く唱えた。


「流るるものは流れのままに、帰るべきものは帰るべき方へ。いま此処を越えて人の寝所を乱すことなかれ。勝つ者の息も、敗るる者の無念も、今宵ひとまずこの境に留まれ」


 霞は周囲を見張っていた。

 目に見える敵はいない。

 だが彼女にも、風の質が少し変わったのが分かる。


「……薄くなった」

「ええ」

 若き僧が答える。

「今夜はこれで足ります」

「“今夜は”ってことは」

「明日はまた違うでしょう」

「ほんとに嫌な坊主」

「否定はしません」


 かなめが鈴を下ろし、遠くを見た。


「義元、散ったのですね」

「はい」

 若き僧が答える。

「まだ、よく分からない」

「何が」

「敵の大将が死んだと聞けば、もっと晴れるものかと思っていました」

「……」

「でも、ちっとも晴れない」

「そういう死もあります」

「戦って」

「ええ」

「勝っても、こんな匂いが残る」

「はい」


 かなめはしばらく黙っていた。

 巫女として、神域の中で人の祈りを見てきた娘だ。

 だが、“勝利”のあとに残るものを、こうして直に感じるのは初めてなのだろう。


 霞が小さく言う。


「私、義元に会ったことない」

「ええ」

 若き僧が答える。

「でも」

「でも?」

「たぶん、そんなに簡単に死んでいい人じゃなかったんだろうなって、今ちょっと思う」

「……」


 かなめが霞を見る。

 その目には驚きがあった。

 若き僧もまた、霞の横顔を見た。


 若いくノ一は、冷たく見えるときほど、自分の中にまだ温度があることを隠している。

 義元を慕っていたわけではないだろう。

 だが“大きなものが落ちる”感覚には、彼女なりに感じるものがあるのだ。


 若き僧は静かに言った。


「その通りでしょう」

「何が」

「簡単に死んでいい人ではなかった」

「……」

「だからこそ、散ったあとの影も大きい」

「坊主」

「はい」

「そういう言い方、たまにずるい」

「よく言われます」

「その返し、たぶん今は違う」

「そうでしたか」

「うん。今は、ちゃんと聞いてる」


 三人はそのまま、しばらく風の中に立っていた。

 境を立てたとはいえ、戦場の余波はまだ遠くにある。

 だが、少なくとも今夜、この村がそのまま無念に呑まれることは避けられた。


 やがて若き僧が振り返る。


「戻りましょう」

「はい」

 かなめが頷く。

「今夜は、社を休ませる」

「かなめ殿も」

「……努力します」

「“努力”」

「巡修殿に言われたくありません」

「たしかに」

 霞が笑った。

「そこは本当にそう」


 帰り道、若き僧はふと、尾張の空を見上げた。


 雲の裂けた隙間に、わずかに月が出ている。

 その下で、覇王の火が広がり始めているのが分かる。

 桶狭間で勝った。

 それは一つの戦の終わりであると同時に、もっと大きな炎の始まりでもある。


 義元が散ったことで、失われたものも多い。

 けれど、世はその喪失の上に次の形を作っていく。


 若き僧はそのことに、ぞっとするような感覚と、見届けねばならぬという感覚を同時に覚えていた。


 これから先、もっと多くの死を見るだろう。

 もっと大きな火を見るだろう。

 そして、そのたびに誰かが散り、その影が地へ残る。


 後に天海と呼ばれることになるこの若き僧は、まだその入口に立ったばかりだった。

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