第8話 闇討ちの娘
熱田の外縁を離れるころには、陽はすでに西へ傾き始めていた。
空はまだ明るい。だが、戦の近い土地の夕方には、昼とも夜ともつかぬ妙な薄さがある。人の気が重なり、神域の流れがざわつき、そこへさらに見えぬ術まで絡むと、光そのものが少しだけ濁るのだ。
若き僧と白榊かなめは、町の喧噪を背に、社へ戻る道を選んでいた。
かなめは黙って歩いていた。
熱田で見たものを、頭の中で何度も並べ直している顔である。
覇王の火。
沈黙の祈り。
熱田の神域が返した微かな応え。
そして、屋根の上からすべてを見ていたあの忍びの少女。
若き僧もまた、同じものを反芻していた。ただ彼の場合、それは感想ではなく、組み合わせるための思考に近い。尾張の地脈。熱田の気配。東海の古い術。神符を狙う手足。そして信長の火。ばらばらに見えるそれらが、どこで結び、どこで衝突しようとしているかを、ひたすら探っている。
「巡修殿」
かなめが不意に口を開いた。
「はい」
「あの忍び、やはり神符だけが狙いだったのでしょうか」
「違うでしょう」
「やっぱり」
「神符は重要です。ですが、あれだけの手練れなら、ただ盗むだけならもっと静かにやれたはずです」
「では」
「こちらの反応を見ること自体が目的の一つだった」
「私と、巡修殿の」
「ええ。それから」
「それから?」
「熱田に来たかどうかも」
かなめは眉を寄せた。
「つまり、私たちの行動を逐一読まれている」
「その可能性は高いです」
「……嫌になりますね」
「ええ」
「なのに巡修殿は、そういうときだけやけに落ち着いています」
「慌てても、相手が速くなるわけではないので」
「それ、前向きなようでいて全然前向きではありません」
「すみません」
「謝ってくださいとは言っていません」
「では、今のは取り消します」
「それもどうなんですか」
かなめは呆れたように息をつき、それでも完全に気を緩めはしなかった。
街道へ戻れば人の目もあるが、外れの細道へ入れば話は別だ。あの少女が本気で仕掛けてくるなら、むしろ人の少ないところを狙う。
そのことを、二人とも分かっていた。
だからこそ、社へ戻る途中で若き僧は急に足を止めた。
「どうしました」
「少し、道を外れます」
「なぜ」
「こちらがいつも同じ道を通ると知れれば、向こうに都合がよい」
「……試すのですね」
「はい。追ってくるかどうか」
「来たら」
「歓迎はしませんが、分かりやすくはなります」
「本当に、たまに言うことが物騒です」
「たまに、ですか」
「今はその話ではありません」
若き僧は道端の細い獣道へ折れた。
村外れの畑と林のあいだを縫うような道だ。人ひとりがやっと通れる幅で、左右の草が膝を撫でる。向こうがこちらを見ているなら、いかにも仕掛けやすい場所だった。
かなめが低く問う。
「本当に来ると思いますか」
「向こうが“試す”のを好むなら」
「試す」
「ええ。昨日も今日も、あの少女はそうしていました。神符を盗るときも、姿を見せた。熱田でも、見える位置へいた」
「たしかに」
「もし、ただ命じられた仕事だけをこなすなら、もっと乾いた動きをします」
「……若いから」
「そうでしょう」
「またそれ」
「外れている可能性もあります」
「そこを自分で言うあたりが、ずるいです」
獣道は、やがて低い林へ続いていた。
背の高い木ではなく、雑木と若い杉が混じる、身を隠すにはちょうどいい林だ。夕方の光がまだらに落ち、地面には乾いた葉が薄く敷かれている。
若き僧はそこへ入るなり、歩幅を少し変えた。草鞋の底を無理に忍ばせず、しかし不用意な音も立てぬ歩き方で進む。
かなめも遅れてそれを真似る。
「何か分かりますか」
「まだ」
「“まだ”」
「はい。ですが」
「ですが?」
「少し甘い香りが残っています」
「……また匂いですか」
「ええ」
「本当に、そういうの得意なのですね」
「便利なこともあります」
「今まさに便利ですね」
かなめがそう言った瞬間だった。
右手の藪が、ふ、と揺れた。
風ではない。
動いたのは一箇所だけ。
かなめの護符が即座に指へ挟まれる。若き僧は半歩前へ出た。
「出てきなさい」
かなめの声が林に落ちる。
返事はない。
だが返事の代わりに、左手の高い枝から、細い金属音がひとつ降ってきた。
若き僧の目が鋭くなる。
「上です!」
かなめが振り向いたときには、もう影が落ちていた。
黒ではない。
夕方の影そのものを纏ったような色合いの衣。
軽い。
速い。
小柄な体が枝から枝へと滑り、その途中で一閃、細い刃が光った。
かなめが身をひねる。
刃は白衣の袖だけを浅く裂いた。
「っ……!」
少女は着地せず、そのまま幹を蹴って距離を取る。
若き僧はかなめの前へ回り込み、袖から小さな金属輪を指へ掛けた。
「やはり来ましたね」
林の奥から、女の声が返る。
「来ると思ってた?」
「ええ」
「嫌な坊主」
声は若い。
乾いている。
だがどこかに、面白がる響きがある。
木々のあいだから姿を現したのは、やはりあの少女だった。
年のころは十六か十七。
かなめとそう変わらぬはずなのに、纏う空気はまるで違う。白衣緋袴の代わりに、身軽さを最優先した衣。袖も裾も抑え、髪も邪魔にならぬ長さでまとめている。顔立ちは整っているが、可憐というより鋭利だ。目元には隙がなく、口元には人を食ったような笑みだけがある。
「昨日の盗人」
かなめが低く言う。
少女は肩をすくめた。
「ひどい言い草」
「ひどくありません。事実です」
「じゃあ巫女は、札を抱えて震えてるだけの箱入り?」
「言ってくれますね」
「言うわよ。だってそう見えるもの」
かなめの目が細まる。
若き僧はその間に、少女の足元と周囲の枝を見た。
糸はない。煙玉の位置も見えぬ。
つまり今回は、本当に斬り込むつもりで来ている。
「名を聞いても?」
若き僧が言う。
少女は目だけを向けた。
「敵に?」
「名があれば、呼びやすいので」
「変な理由」
「よく言われます」
「私は言ってない」
「これからでも」
「……本当に嫌な坊主」
少女はほんの一瞬、唇の端を上げた。
「霞よ」
「霞」
「そう。で、そっちは?」
「巡修です」
「それ、本名じゃないでしょ」
「そういうことにしています」
「やっぱり嫌な坊主だ」
かなめが間に割って入る。
「雑談をしに来たのではありません。何のつもりです」
「試し」
「……!」
「巫女がどれだけ動けるか。坊主がどれだけ見えるか。二人まとめて切ったら、あっさり終わるかどうか」
その言い方は軽い。
だが内容は軽くない。
「ふざけるな」
かなめが吐き捨てる。
「ふざけてないわ。仕事だもの」
「人の神域を荒らして?」
「神域なんて、戦になれば誰だって踏むでしょ」
「踏んでいいわけがない!」
「そう思ってるから、箱入りなのよ」
かなめの怒気が強まるのを感じ、若き僧は僅かに手を上げた。
制するためではない。霞の視線を、かなめから少しでも外すためだ。
「霞殿」
「殿なんていらない」
「では霞」
「馴れ馴れしい」
「では何と」
「……そのままでいい」
自分でも面倒だと思ったのか、霞は舌打ちしそうな顔をして言う。
その隙に、かなめが護符をひとつ切る。
白い紙片が霞へ飛ぶ。
霞は幹を蹴って横へずれる。
速い。
若き僧の目にも、その動きは無駄がなかった。
「当たりませんよ」
霞が言う。
「なら、止まってみなさい」
「嫌」
今度は霞の側から仕掛けた。
短刀を逆手に持ち、音もなく間合いへ入る。狙いはかなめではなく、若き僧だ。護符と法具、その両方を扱う者のほうが厄介だと判断したのだろう。
若き僧は一歩退かず、金属輪を指で弾いた。
澄んだ音が、林の中で小さく鳴る。
霞の足が、ほんの僅かに止まった。
空気の“床”がずれたのだ。
目に見えぬほど小さな法だが、高速で動く相手にはそれで十分だった。
「っ……!」
その瞬間を、かなめが逃さない。
「そこ!」
護符が霞の肩口を掠める。
紙片は肉を裂かない。だが神域由来の清めは、異質な気配を纏う忍びの体表を焼くように打つ。霞が舌打ちし、すぐに距離を取った。
「痛……っ」
「当たれば効くでしょう」
「巫女の札って、ほんと趣味が悪い」
「褒め言葉として受け取ります」
「誰が褒めたのよ」
だが霞の口ぶりには、まだ余裕があった。
浅い。
本気の傷ではない。
彼女は枝の低い位置へ片足を掛け、そこを起点にまた跳ぶ。
若き僧はそこで初めて、彼女の動きに違和感を覚えた。
足音が軽すぎる。
体重移動が綺麗すぎる。
それなのに、殺気の混ぜ方だけが少し若い。抑えきれていないのだ。
「……やはり」
「何」
霞が鋭く問う。
「何でも」
「嘘」
「若いな、と」
「は?」
かなめが横で一瞬ぽかんとした顔になる。
霞の目が怒りに細まった。
「馬鹿にしてる?」
「いえ」
「してる」
「半分は感心です」
「残り半分が腹立つ」
霞は今度こそ本気で間合いを詰めてきた。
低い。
速い。
しかも今度は真正面ではなく、若き僧の斜め後ろ――かなめの死角を狙って回り込む。片方へ意識を寄せれば片方が開く位置取りだ。よく訓練されている。二人組を崩す動きである。
かなめが振り返るより先に、若き僧が言った。
「かなめ殿、下がらないで」
「え」
「一歩だけ右へ」
「……!」
かなめは言われた通り、迷いなく右へ踏み込んだ。
そこへ霞の刃が落ちる。
だが半歩ずれただけで、軌道は外れた。
若き僧はそのすれ違いざま、霞の手首へ触れた。
触れるだけ。
強くは掴まない。
それでも霞の体が一瞬強張る。
法印だ。
異国の理を混ぜた、ごく短い拘束。
「っ、離せ!」
霞はすぐに身をひねり、手首を抜いた。完全には捕まらない。だがその顔から、初めて余裕が少しだけ消えた。
「今の……何」
「止めるための法です」
「そんな便利そうに言わないで」
「便利ではありません」
「そう見える!」
霞は距離を取りながら、若き僧の手を睨んだ。
そこには血も刃もない。
だが、彼女のような身軽さと速度を信じる者には、その“触れるだけで止める”という在り方が気味悪く映るのだろう。
かなめが護符を構え直し、低く言う。
「もうやめなさい」
「嫌」
「神域を荒らすのも、こうして仕掛けてくるのも」
「だから仕事だって言ってるでしょ」
「その仕事とやらで、弱い社を潰して何になるの」
「何にもならないかもね」
「……!」
「でも、命じる奴はそういうの好きなの。小さいところを崩して、大きいところを鈍らせるの」
かなめの顔から、怒りとは別の色が引き出された。
現実を知らされた顔だ。
若き僧は静かに霞を見た。
「あなたは、それでいいのですか」
「何が」
「命じられたまま、こうして使われて」
「……」
一瞬だけ、霞の目が揺れた。
だがすぐに消える。
「使うとか使われるとか、綺麗なところにいる坊主は好きね、そういう言葉」
「綺麗なところにいたつもりはありません」
「そう見えるのよ」
「では」
若き僧は一歩だけ前へ出た。
「少なくとも、弱い社を踏み荒らして生きるしかない道は、良い道ではない」
「説教?」
「半分は」
「残り半分は?」
「本気です」
霞が鼻で笑った。
「本気で言ってるなら、なお悪い。そんな綺麗ごとで生きられるなら、最初から誰も汚れない」
「汚れることと」
若き僧の声が少し低くなる。
「弱い者を踏みにじることは違う」
「……!」
「生きるために刃を持つのは分かる。だが、それで守るべきものも分からなくなったなら、その刃はもう誰のものでもない」
林の空気が、ぴたりと止まったようだった。
かなめでさえ息を呑んでいた。
霞の顔から笑みが消える。
「何を知ってるの」
「全部は知りません」
「なら」
「ですが、今のあなたが、自分の足で立っている顔には見えない」
霞の目が見開かれる。
それは怒りより先に、打たれた者の反応だった。
「……っ、うるさい!」
霞は短刀を逆手に握り直し、今度こそ殺気を濃くした。
かなめが護符を切り、若き僧も身を沈める。
だが、その瞬間――
林のさらに奥、もっと低い位置から、別の気配が走った。
若き僧の眼が鋭くなる。
「下がって!」
叫んだのは、かなめでも霞でもなく、彼だった。
霞は反射的に振り返った。
そのすぐ背後を、細い針のようなものが三本、音もなく抜ける。
「っ……!」
霞の顔が変わった。
仲間ではない。
いや、正確には“味方でいてくれるつもりのない側”から撃たれたと、一瞬で悟った顔だった。
若き僧は考える前に動いていた。
一歩。
二歩。
霞の襟元を掴み、横へ引く。
同時に、かなめの護符が飛び、残る針を地へ叩き落とした。
霞は地面へ半ば投げ出される形になり、すぐ受け身を取る。だがその目に、さっきまでの余裕はもうない。
「今の……」
「あなたを狙った」
若き僧が言う。
「嘘」
「本当です」
「だって……!」
霞が言い返そうとしたその先で、林の奥の気配はもう消えかけていた。
針の筋は細い。
忍びの補助役か、あるいは術者側の別働だろう。
若き僧は舌の裏で小さく苦味を覚えた。
使いに迷いが見えた。
だから切る。
そういうやり方だ。
かなめが、地へ落ちた針を見て険しい声を出す。
「毒」
「おそらく」
若き僧は短く答えた。
「しかも、浅くても効く類です」
霞は地面に片膝をついたまま、針と、消えた奥の気配と、若き僧の手を順に見た。
理解が追いついていない。
いや、追いつきたくないのかもしれない。
「……捨て駒」
かなめが低く言う。
霞がぎろりと睨む。
「言うな」
「でも事実でしょう」
「言うなって言った!」
その声は、怒鳴るというより、叫びに近かった。
若き僧は霞の顔を見た。
怒り。
屈辱。
そしてほんのわずかな、痛みに似たもの。
彼女は、知っていたのだろう。
こういう目に遭う可能性を。
だが、知っていることと、実際に切られることは違う。
「霞」
若き僧が言う。
「……何」
「今のが答えです」
「答え?」
「あなたを使う者が、あなたをどう見ているかの」
「……」
霞の唇がわずかに震えた。
反論しようとして、できない。
自分でも分かっているからだ。
かなめはまだ警戒を解かないまま、しかし先ほどより明らかに違う目で霞を見ていた。怒りはある。だが、ただの敵を見る目ではなくなっている。
「立てますか」
若き僧が問う。
霞はすぐには答えず、歯を食いしばって立ち上がった。
「……このくらい」
「なら、ここを離れます」
「は?」
「向こうはあなたごとこちらを消すつもりで撃ってきた」
「……」
「今は林の中に留まるほうが危険です」
霞はなお警戒と意地で目を細めたが、否定はしなかった。
その沈黙そのものが、半ば認めているようなものだった。
かなめが若き僧へ視線を寄越す。
「連れて行くのですか」
「今ここに置けば、次は間違いなく死にます」
「それは」
「かなめ殿が嫌なら、私だけでも」
「嫌とは言っていません」
かなめはきっぱり言った。
そして霞を見た。
「ただし」
「何」
「あなたを信用したわけではありません」
「こっちだって、されたいなんて言ってない」
「なら話が早いです」
「巫女のくせに、性格悪い」
「褒め言葉ですね」
「誰が」
霞は吐き捨てるように言ったが、先ほどまでの余裕はもう戻らない。
若き僧はそれを見て、胸の内で小さく息を吐いた。
ここから先が難しい。
敵として斬り合うほうが、実はずっと単純だ。
だが、この少女はもう単なる敵ではいられないところまで来てしまっている。
若き僧は林の奥を一度だけ見た。
もう気配はない。
完全に切ったつもりなのだろう。
だが、そう簡単に人は切れない。
少なくとも、この少女の心までは。
「行きましょう」
若き僧が言う。
かなめがうなずく。
霞は一瞬だけ迷い、それから小さく舌打ちした。
「……最悪」
「そうですね」
「返事すんな」
「すみません」
「それも腹立つ」
三人は林を抜けるように歩き出した。
先頭は若き僧。
右後ろにかなめ。
少し距離を置いて霞。
まだ並び立つには遠い。
けれど、もう先ほどまでのように、ただ刃を交えるだけの関係でもなかった。
夕暮れはさらに深まっていく。
尾張の空の下、覇王の火はなおどこかで燃え、東海の古い圧はそれを押し潰そうとし、神域と忍びと僧と巫女が、その狭間でそれぞれの理を抱えて歩いている。
若き僧は前を見たまま思った。
この少女――霞は、きっとまだ戻りきらない。
だが、今夜の林で一度切られたものは、そう簡単には元に戻らない。
命令への盲従も。
自分を捨て駒とする側への信頼も。
そしておそらく、それこそが、彼女をこれから最も苦しめる。




