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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第7話 熱田神宮、沈黙の祈り

 熱田の町は、祈りと噂でできていた。


 その日、若き僧と白榊かなめが歩いた道には、戦支度の匂いが満ちていた。乾いた土、馬の汗、油をひいた革、打ち直された金具、握り飯の塩気、そして人の不安。

 だがその上に、もう一つ別のものが薄く張っている。神域に集まる祈りだ。熱田神宮へ向かう人々は、皆が皆、純粋な信心だけで足を運んでいるわけではない。勝ちを願う武士もいれば、巻き込まれぬことを願う商人もいる。何となく人の流れに押されて参る者もいれば、噂の尾張の若殿を一目見たいだけの者もいるだろう。

 それでも、多くの願いが同じ方角へ向けば、そこには確かな重みが生まれる。


 若き僧には、その重みが見えていた。


 熱田の神域は大きい。

 尾張の一社、ひと村の鎮守とは比べものにならぬほど大きく、古く、深い。

 だからこそ、ここにかかる圧もまた大きかった。


 神域そのものはまだ折れていない。

 むしろ強い。太い。長い年月の祈りに支えられた芯がある。

 しかし、その周囲に今、見えぬ手がいくつも伸びていた。東海の古い術理が外側から静かに押し、尾張側の急いた火が内側から熱を帯びさせ、その狭間で人々の願いが渦を巻いている。


「こうして見ると、熱田は社というより、ひとつの大きな炉みたいですね」


 かなめが、道の先に見えてきた神域の森を見ながら言った。


 若き僧は頷く。


「ええ。しかも今は、火が入る直前です」

「巡修殿の言い方、毎回ちょっと嫌なところを突いてきます」

「すみません」

「謝らなくていいので、たまには『大丈夫です』とか言ってください」

「大丈夫ではないので」

「ですよね」

「はい」

「分かっていました」


 かなめは小さく肩を落としたが、その目は熱田の森から逸れない。

 社を預かる者だからだろう。大きな神域を前にしたとき、畏れと同時に、どこか憧れに似た感情もあるように見えた。


 熱田へ近づくにつれ、人の流れはさらに濃くなった。

 神宮の正面近くでは、武士らしき男たちが行き交い、町の端では物売りが声を張り、社家の使いらしい若者が小走りに駆ける。その一つ一つが戦の前触れだ。普段の祭礼や縁日とは違う、切羽詰まったざわめきである。


 若き僧は道を外れ、人通りの少ない脇へかなめを誘った。


「こちらへ」

「どこへ行くのです」

「正面からは入りません」

「なぜ」

「今日は参詣に来たのではなく、流れを見に来たので」

「……正面から参るのが礼では?」

「礼は大事です」

「なら」

「ですが、今の正面は人の願いが多すぎます」

「多すぎる?」

「ええ。勝ってほしい、負けるな、死ぬな、巻き込むな、どうか目をかけてくれ――そういう声が重なりすぎて、本来の流れが見えにくい」

「なるほど」

「なので少し外から」


 かなめは一瞬だけむっとしたが、すぐに納得したようだった。

 神域を知る者なら、正面に集まるものが必ずしも清浄とは限らぬと知っている。祈りは美しいが、同時に重く濁ることもある。


 二人は森の外縁に沿って歩いた。

 ここまで来ると、熱田神宮の気配が肌ではっきり感じられる。木立の奥から吹く風が、町なかのざらついた気とは違う。ひやりとして、それでいて乾きすぎない。長く守られた場所だけが持つ気配だ。


「やはり強い」


 若き僧が低く言う。

 かなめも同じことを感じていたらしく、小さく頷いた。


「尾張の外れの社とは比べものにならない」

「はい」

「でも」

「でも?」

「今、少しだけ怖いです」

「なぜ」

「これほど強い神域が、あの火に呼応している気がするから」


 若き僧はかなめの横顔を見た。

 その感覚は間違っていなかった。


 熱田はただ静かに見守っているだけではない。

 神域の側もまた、あの火を感じている。

 織田信長という若武者が持つ、時代を押し出すような熱を。


 良し悪しではなく、互いに無視できぬ存在なのだろう。


「かなめ殿」

「はい」

「昨日の社で感じた“外からの圧”と、ここで感じるものは少し違います」

「どう違うのです」

「向こうは押さえ込むための力でした」

「ええ」

「こちらは……試している」

「熱田を?」

「熱田も、尾張も、それから」

「それから?」

「信長を」


 かなめは息を呑んだ。


「人ひとりを、神域が試すのですか」

「そういうこともあります」

「そんな……」

「人は神仏を試し、神仏もまた人を試す。珍しい話ではありません」

「巡修殿の口から出ると、珍しい話が全部『珍しくない』になりますね」

「それは少し困りました」

「私も困っています」


 林の陰へ入ったそのときだった。


 ざわり、と前方の空気が揺れた。


 町側からではない。

 森の内側からでもない。

 ちょうどその境のような場所で、誰かの強い意志が一度だけ空気の向きを変えたのだ。


 若き僧は反射的に足を止めた。かなめも同じように立ち止まる。


「来ます」

「誰が」

「さきほど見た火の主です」


 次の瞬間、木立の切れ目の向こうに、武士たちの姿が見えた。


 先頭に立つ者が一人。

 周囲に従う者が数名。

 人数としては多くない。大軍の長というより、むしろ気軽に歩いているようにも見える。だが、その“気軽さ”が異様だった。

 普通の若武者なら、戦を前にもっと肩に力が入る。周囲を気にし、威厳を作り、見せる顔を決める。

 だがその男は、そういう作りものをまとっていなかった。


 織田信長。


 若き僧が道で一度見た熱の中心が、今は目の前を通る。


 かなめが知らず息を潜めたのが分かった。


 信長は、熱田の森のほうへ目を向けていた。

 神前へ出る前の、わずかな静けさ。

 口数は多くない。

 だが、その沈黙に妙な圧がある。黙っていることで周囲の空気を自分のものにしてしまう類の男だった。


 供の武士たちもまた一様ではない。

 誰もが強そうに見せるわけではないが、皆どこか普通ではない熱を帯びている。若き僧は、そこにもひとつの答えを見る。

 強い火のまわりには、強い火種か、あるいは燃え移る材が集まる。

 織田家の周辺には、未完成なまま尖った者が多いのだ。


 かなめが小さな声で言った。


「本当に……」

「ええ」

「空気が熱い」

「はい」

「歩いているだけなのに」

「歩いているだけだから、でしょう」

「どういう意味です」

「気負いすぎていない」

「戦が近いのに?」

「だからこそ」


 若き僧の言葉は、ほとんど独白だった。


 覇王の火は、怒鳴るだけでは足りない。

 むしろ静かなときほど、芯が見える。

 今の信長にはそれがあった。


 そして、もっと異様なのは、熱田の森がその気配を拒んでいないことだった。

 警戒はしている。

 見定めてもいる。

 だが、完全な拒絶ではない。

 まるで、危ういと知りながらも、神域そのものがその火を無視できぬでいるように。


 信長は神前へ上がる手前で、一度だけ立ち止まった。


 そのときだった。


 若き僧の背筋に、別の気配が走る。


 軽い。

 細い。

 だが消えてはいない。


「……!」


 屋根だ。


 かなめも遅れて気づいたらしく、視線を上げる。

 社殿に連なる建物の一角、その高い瓦屋根の端に、ほんの一瞬だけ小さな影がいた。

 夜色の衣。

 風に紛れるような姿勢。

 黒い目だけが、じっと下を見ている。


 あの少女だ。


 かなめが思わず身を固くする。


「また……!」

「静かに」


 若き僧は低く言った。

 今ここで騒げば、熱田側の人間が動く。信長の近くでもある。余計な波は立てたくない。


 かなめもそれは分かっているらしく、奥歯を噛みしめて押し黙る。

 だが、その目には明らかな怒りがあった。


「……何をしているの、あの女」

「見ている」

「誰を」

「全部でしょう」

「嫌な言い方」

「事実です」


 屋根の上の影は、こちらだけを見ていたのではない。

 若き僧にもかなめにも、そして信長にも、熱田の神域にも、同時に目を配っていた。

 つまり、ただの手癖の悪い盗人ではない。

 仕事として見ている。判断材料を集めている。そういう視線だ。


 若き僧は、無意識にその少女の表情を読もうとした。


 遠い。

 だが完全には見失わない。


 冷たい顔をしている。

 けれど、そこに宿る光は単なる無機質ではない。若い獣が、自分より大きな炎を前にして、怖れと好奇心を同時に覚えているような目だった。


 かなめが唇をほとんど動かさずに囁く。


「追いますか」

「無理です」

「やっぱり」

「今は」

「今“も”です」

「周囲の人間が多すぎる。それに、向こうは逃げることも含めて位置を取っています」

「……悔しい」

「ええ」


 そのとき、信長が神前へ進み出た。


 供の者たちが少し距離を取り、周囲のざわめきが不思議と一段落ちる。誰も声をかけぬわけではない。だが、この男が神前で何を見せるのか、皆が息を止めて待っているようだった。


 若き僧もかなめも、屋根の上の影さえ、一瞬だけそちらへ意識を奪われる。


 信長は頭を垂れた。


 派手な所作ではない。

 長々と祈詞を唱えるわけでもない。

 だが、その沈黙は浅くなかった。


 若き僧には見えた。

 男の胸の内で、火が静かに沈んでいく。消えるのではない。神前にだけ、一時的に刃を収めるように、火が芯へ戻る。

 それは敬虔さと言うには少し違う。

 もっと本能的な、強いもの同士が互いを認めるときの沈黙に近かった。


「……変ですね」


 かなめが呟く。

「何が」

「私、あの方が神を信じているようにはあまり思えないんです」

「ええ」

「でも、今のは不遜ではない」

「そうですね」

「信じていないのに、軽んじてもいない」

「はい」

「何なんでしょう、あの人」

「さあ」


 若き僧は信長から目を離さずに答える。


「たぶん、神仏を自分の都合で利用する男ではない」

「でも、従う男でもない」

「ええ」

「最悪では」

「たぶん、かなり」

「かなりですか」

「かなりです」


 かなめは呆れたように息をついた。

 だが、その口元は僅かに緩んでいた。

 目の前にいるのが、ただ怖いだけの人物ではなく、理解しきれないからこそ目を離せない類の男だと、彼女も感じているのだろう。


 そのとき、不意に、屋根の上の影が動いた。


 かなめが即座にそちらを見る。

 少女は瓦の端から一歩下がり、音もなく位置を変える。その目が、今度は若き僧とかなめを捉え、それから下の信長へと流れた。

 まるで、どちらがより厄介かを測っているような視線だった。


 若き僧は、ごく小さく言った。


「……やはり若い」

「何がです」

「あの忍びです」

「見て分かるのですか」

「少し」

「どうして」

「年を経た者なら、あそこで信長ばかりは見ません」

「……」

「もっと周囲の配置へ意識を割く」

「つまり」

「好奇心が勝っている」

「それは、弱みになる?」

「状況によります」

「便利なようで便利でない答えですね」

「便利に言い切れるなら、もっと楽なのですが」


 信長の祈りは長くなかった。


 だが終わったあと、熱田の空気が明らかに変わった。

 人のざわめきは戻る。

 供の武士たちも動き出す。

 それなのに、神域の底に沈んでいた流れが、一度だけ深く鳴ったのだ。


 かなめが目を見開く。


「今、熱田が」

「ええ」

「応えた?」

「完全にではありません」

「でも」

「印はつけた、くらいでしょうか」

「神域が、人に?」

「たぶん、そういうことです」


 かなめは言葉を失ったようだった。

 巫女として、神域が人へ目を留めることの意味は重い。

 それが良いことか悪いことかは、まだ誰にも分からない。

 だが、何もなかったとはもう言えない。


 信長はそのまま向きを変え、供の者たちとともに去っていく。

 去り際もやはり速い。立ち止まって余韻に浸るような男ではない。祈るべきときに祈り、次にはもう前を見ている。

 その背に沿って、火がまた立ち上る。


 かなめがその背を見送りながら、小さく言った。


「尾張の若殿、というより」

「ええ」

「火そのものですね」

「はい」


 若き僧は、去っていく信長から、ふと別の気配へ目を移した。


 屋根の上の少女は、もういなかった。


 まるで最初から何もなかったかのように、瓦の上には春の光だけが残っている。

 だが気配は完全には消えていない。

 離れながら、まだどこかで見ている。

 あの少女もまた、この覇王の火を目に焼きつけたのだろう。


「行きましたね」


 かなめが少し悔しそうに言う。

 若き僧は頷いた。


「ええ」

「毎回、ひどく腹立たしい去り方をします」

「上手いのでしょう」

「褒めないでください」

「褒めてはいません」

「巡修殿は、たまにそういうところがあります」

「どのあたりが」

「相手が敵でも、腕が立てば腕が立つと認めてしまうところです」

「事実ですので」

「だから腹が立つんです」

「すみません」

「それも、謝ることではありません」


 かなめは一度深呼吸して、熱田の森を見上げた。


「……でも、来てよかった」

「そうですね」

「社に籠もっていたら、見えなかった」

「何が」

「あの火も、熱田の応えも、あの忍びの目も」

「ええ」

「全部が繋がっているのですね」

「はい」

「今川の大軍、東海の術者、尾張の神域、熱田、そして信長」

「その通りです」

「もう、ただの小さな社の問題ではない」

「最初から、そうだったのでしょう」

「嫌になります」

「ええ」

「でも」

「でも?」

「まだ見届けるしかない気がします」

「それも、たぶん正しい」


 若き僧はそう答えながら、自分の胸の内にも同じ感情があることを認めていた。


 これはもう、ただの巡察ではない。

 尾張の地で、何か大きなものが火を噴こうとしている。

 それを見てしまった以上、目を逸らして京へ帰ることはできない。


 熱田の森の上を、風が渡る。

 その風は、神前の静けさと戦前のざらつきを同時に運んできた。


「かなめ殿」

「はい」

「そろそろ、次を考えましょう」

「次」

「ええ。向こうは、こちらが二人で動いていることも、熱田を見に来たことも知った」

「……」

「つまり、次はより直接的に試してきます」

「嫌な予感しかしません」

「奇遇です。私もです」

「奇遇で済ませるには、だいぶ重い話ですよ」

「たしかに」


 かなめは呆れたように笑い、それから表情を引き締めた。


「では、どうします」

「まず、今夜どこまで押してくるかを見る」

「社へ戻る?」

「戻ります。ただ、その前に少し熱田の外縁を見たい」

「まだですか」

「今の祈りで流れがどう変わったか、確かめておきたいので」

「……本当に巡修殿は、見たいものが多いですね」

「仕事ですから」

「それ、便利な言葉ですね」

「かなり」

「そこは認めるんだ」


 二人は再び歩き出した。

 熱田の神域は背後でなお静かに息づき、去った信長の火は尾張のどこかでさらに勢いを増していく。

 その間を、見えぬ圧と、見えぬ影が走る。


 戦はまだ始まっていない。

 だが、槍を交えるより前の戦いは、すでに十分すぎるほど始まっていた。

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