表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/35

第6話 熱田へ向かう火

夜は、長かった。


 神符を奪い返したとはいえ、白榊かなめの社に差し込まれた異物が消えたわけではない。むしろ敵は、こちらが反応したことを確かめ、社の要を見切ろうとしたうえで引いたのだ。

 つまり次は、もっと深く、もっと厄介な手が来る。


 若き僧とかなめは、その夜ほとんど眠らなかった。


 拝殿の灯明をひとつだけ残し、社前と裏手を交互に見回る。かなめは神楽鈴と護符を手放さず、若き僧もまた異国渡りの小さな法具を袖の内へ収めたまま、耳と肌で神域の乱れを拾い続けた。


 夜半を過ぎた頃、一度だけ北東の林がざわついた。


 かなめが即座に鳥居の外へ護符を放ち、若き僧が裏手の井戸跡へ短い調律の法を打ち込む。

 それで終わった。


 大きな襲撃ではない。試しだ。

 こちらが眠っていないか、神符を戻したか、どこまで備えているか。それだけを確かめるような、嫌に頭の回る触れ方だった。


「本当に腹が立ちますね……」


 かなめが、夜明け前の白い息と一緒にそう漏らしたとき、若き僧も静かに同意した。


「ええ。かなり」

「巡修殿が、そこまできっぱり言うとちょっと安心します」

「怒るときくらいは」

「普段から、もう少し分かりやすくしていてください」

「善処します」

「またその言い方」


 そのやり取りを最後に、夜はようやく薄れていった。


 東の空が白むころ、神域の気はほんのわずかに持ち直していた。かなめの結界と、奪い返した神符、それに若き僧が裏で流れを整え続けたことが効いたのだろう。

 だがそれは、傷口に布を当てて血を止めたにすぎない。


 根は別のところにある。


 熱田だ。


 尾張の火種も、東海から押してくる古い圧も、そこへ向かって集まりつつある。かなめの社は、その大きな流れの枝先にすぎない。ここだけ守っても、やがて本流が暴れれば同じことだ。


 朝の拝殿で、かなめは神前へ深く頭を下げてから振り向いた。


「……行きます」

「熱田へ」

「はい。もう、ここだけ見ていて済む段ではありません」

「同感です」

「ただ、社を空けるのは本来なら許されない」

「ですが、今はあなたしか見に行けない」

「ええ」


 かなめは悔しそうに頷いた。

 若い巫女が一社を背負うには、今の尾張は重すぎる。だが彼女は、それでも逃げる顔をしなかった。


「宮司さまが戻るまでは、この社の結を最低限保てるようにしておきます」

「私も手伝います」

「巡修殿は、私を止めるかと思いました」

「止める理由がありません」

「危ないから、とか」

「危ないです」

「やっぱり」

「ですが、危ないから行かぬという段でもないのでしょう」

「……そうです」


 かなめは小さく笑った。


「たまに、ずいぶん話が早いですよね」

「たまに?」

「たまに、です」

「それは残念」

「全部早いと困るので、今くらいでちょうどいいです」


 朝のうちに、二人は社の内外を整えた。

 かなめが神符を組み替え、若き僧が裏の流れへ小さな法輪を置く。人の目にはただの木片と石ころにしか見えぬが、土地に触れる者なら、その並びが最低限の防備だと分かるはずだ。


 かなめは最後に社殿の柱へ額を寄せ、極めて短い祈詞をささやいた。

 それは長い祝詞ではない。むしろ、家を出る前に家族へ一言だけ声をかけるような、素の声に近い祈りだった。


「留守をお願いします」


 若き僧はそれを聞かぬふりで待った。

 神と人の関係には、他者が土足で立ち入ってはならぬ時間がある。


 やがてかなめは顔を上げた。


「行きましょう」

「はい」


 鳥居を出ると、朝の空気は昨夜より乾いていた。

 尾張の村は、明らかに昨日よりせわしない。道を急ぐ男が増え、女たちは井戸端でも笑わず、小さな子どもまで大人の顔色を窺っている。今川の大軍という噂は、もはやただの噂としてではなく、現実の足音として人々の胸へ入り込んでいた。


 それでも熱田へ向かう者はいる。

 祈るため、商いのため、命令のため、あるいは好奇心のため。

 乱世では、人は危ういものへ近づきもする。


 若き僧とかなめは、その流れへ紛れた。

 かなめは白衣と緋袴のままでは目立ちすぎるため、上から地味な羽織を重ねている。それでも隠しきれぬ清冽さがあるのは、彼女自身の気配のせいだろう。通りすがりの者は巫女と気づくまではいかずとも、どこかの社家の娘くらいには見たかもしれない。


「尾張の人間は、あまりこちらを見ませんね」


 道を歩きながら、かなめが低く言った。


「見ています」

「見ていますか」

「ただ、長く見ない」

「どう違うのです」

「戦が近いときの人の目は、だいたいそうなります」

「……余裕がない」

「それもあります。あとは、余計なものを見てしまうと現実になりそうで嫌なのです」

「縁起でもないものから目を逸らす、と」

「ええ。たとえば、よそ者や、法衣の僧や」

「巫女とか」

「それは私が言いたかったのに」


 かなめは不満そうだったが、その横顔は昨日より少しだけ柔らかい。

 一晩を共に警戒し、同じ異変へ備えたことが、わずかな連帯を生んだのだろう。


 道の先に、小高い土手があった。二人がそこを上がりきった瞬間、若き僧は不意に足を止めた。


「巡修殿?」

「……」


 返事の代わりに、彼は遠くを見た。


 かなめも遅れて視線を上げる。


 熱田の方角。

 朝の陽を受けた空の下、町と社と、その周辺の気配が一帯となって揺れている。人の目には何の変哲もない景色だろう。だが若き僧の目には、明らかに違って見えた。


 熱い。


 空気そのものが、熱を孕んでいる。


 火事のような燃え方ではない。

 もっと乾いた、意志の温度だ。何かが焦れている。何かが時を待っている。

 そしてその中心に、ひときわ強い赤があった。


 昨夜まで“火種”に見えていたものが、今ははっきりと一本の柱のように立ち上がっている。


「まさか……」


 かなめの声がかすれる。


「あれが」

「ええ」

「人の気なのですか」

「そう見えます」

「でも、あんな」

「常人ではないのでしょう」


 若き僧は息を吸い、ゆっくり吐いた。


 覇の火。


 昨夜も感じた。

 村の鎮守でも、林の向こうでも、その存在は既に地へ痕を残していた。

 だが距離が縮まった今、ようやく分かる。


 これは単なる勇将の気ではない。

 勝ちたい、守りたい、その程度の願いでは生まれぬ熱だ。


 もっと大きい。

 国そのものを塗り替えようとするような、無茶で、傲慢で、それでいて妙に真っ直ぐな火。


「あれが、織田信長……?」


 かなめはほとんど独り言のように言った。


「おそらく」

「見たことがないのに」

「はい」

「それで分かるのですか」

「はい」

「……便利なのか、不便なのか分かりませんね」

「私も時々、そう思います」


 二人は土手を下り、さらに熱田へ近づいた。


 人の数が増える。

 荷駄が増える。

 武家の小者が駆ける。

 どこかで馬がいななき、どこかで怒鳴り声が上がり、どこかで神職が急ぎ足にすれ違う。

 表面上はまとまりのない喧騒だが、その全体が一つの大きな呼吸をしているようだった。吸って、止めて、まだ吐かない。そんな息苦しさがある。


 かなめが、ふいに袖の内から小さな紙片を取り出した。指先でつまみ、風へかざす。紙はすぐには動かず、一拍遅れて東へ流れた。


「風まで変です」

「押されています」

「今川に?」

「今川だけなら、もう少し生臭い」

「生臭い」

「兵の多さの乱れなら、もっと人の焦りが前に出るはずです」

「では」

「もっと古いものが混じっている」


 かなめは唇を引き結ぶ。


「東海側の術者」

「はい」

「正面からではなく、土地ごと押してくる」

「そしてその押し方が、綺麗すぎる」


 若き僧は、道脇の小祠に目を止めた。

 誰が置いたものか、小さな榊が供えられている。だがその葉先が、本来向くべきではない方向へわずかに反っていた。


「……行儀のいい乱し方です」

「それ、褒めてます?」

「まさか」

「ならいいです」


 熱田近くの町へ入ると、いよいよ人の密度が変わった。

 尾張の町衆だけではない。どこかよそから来たらしい顔ぶれも多い。商人、武士、寺社関係者、雑兵。誰もが何かを待っている。だが何を待っているのか、自分で明言できる者は少ないだろう。


 織田は滅ぶのか。

 今川が呑み込むのか。

 それとも、まだ誰も知らぬ何かが起きるのか。


 かなめは自然と歩幅を詰め、若き僧の半歩後ろへついた。警戒しているのだ。人混みは神域よりずっと厄介で、敵意も悪意も雑音に紛れる。


「大丈夫ですか」

「はい。ですが、社にいるときとは別の疲れ方をします」

「人が多いですから」

「それだけではありません」

 かなめは人波の向こうを見つめた。

「皆が、何かを恐れている」

「ええ」

「でも同時に、少し期待している」

「そうですね」

「戦に?」

「戦そのものではなく、今の膠着が動くことに」

「それは、良いことですか」

「人によります」

「またその言い方」

「嘘をつくよりは」

「たしかに」


 そのときだった。


 前方の人波が、一度だけざわめいた。

 ざわめきは悲鳴ではない。

 道を譲るときのざわめきだ。


 若き僧は、反射的にそちらを見た。


 最初に見えたのは、槍でも馬でもない。

 空気だった。


 前方の通り、その中央だけ、周囲より僅かに揺らいで見える。陽炎に似ているが、朝の道で立つには早すぎる。しかもその揺らぎは、ただ熱いだけではない。近づく者の呼吸と視線を呑み込みながら、静かに道を開かせている。


 その中心に、一人の若武者がいた。


 背は高すぎない。だが低くもない。

 華美な装いではない。戦を前にした武家の実用と、どこか人目を意識した軽さが同居している。顔立ちは端正というより鋭い。眼が、妙に明るい。

 整っているのに落ち着かぬ。落ち着かぬのに、不思議と視線が逸らせない。

 そして何より、その男のまわりだけ、春の朝には似つかわしくない熱が立っていた。


 火だ。


 見えぬはずの火が、若き僧には見えた。


 男の足元から立ち上がるのではない。

 胸の内に燃え、背に沿って揺らめき、歩くたびに周囲の空気へ薄く散っていく。

 それは暴れる炎ではなかった。もっと芯が強い。炉の奥で白くなるほど熱した鉄のような、制御された狂気だった。


 かなめが息を呑む音がした。


「あれ……」

「ええ」

「人、ですよね」

「人です」

「でも」

「その“でも”の先にいる人です」


 若き僧はほとんど無意識に、道の脇へ半歩退いていた。

 頭を下げるためではない。

 ただ、火に近づくときの本能的な距離の取り方だ。


 通りの両側の人々は、畏れるように、しかし露骨ではない態度で道を空けている。

 噂の尾張の若殿。

 うつけと笑う者もあれば、何をするか分からぬと恐れる者もいる男。

 だが目の前の姿は、少なくとも“ただのうつけ”ではなかった。


 男――織田信長は、ふいに進みながら視線を横へ流した。


 人波の一人一人を見ているわけではない。

 だがその一瞬、若き僧は自分たちのいるあたりに、その視線が触れたと感じた。


 かなめの肩が僅かに震える。


「見られました」

「ええ」

「気づかれた?」

「どうでしょう」

「その曖昧さは困るのですが」

「私もです」


 だが若き僧には分かっていた。

 あの男は、ただ人を見てはいない。

 空気の中にある“違和”を嗅ぎ分ける獣のような目をしている。

 かなめの神気。

 自分の法力。

 そういうものを、理屈ではなく勘で拾う種類の男だ。


 信長は何も言わず、そのまま通り過ぎていった。

 だが彼が去ったあとも、道にはしばらく熱が残っていた。


 かなめが、緊張をほどくように細く息を吐く。


「……怖い」

「ええ」

「でも、嫌な怖さではないですね」

「その違いが分かりますか」

「何となく」


 かなめは視線を信長の去った方角へ向けたまま続けた。


「社を穢すものの怖さとは違う。もっと……」

「前へ押される感じ」

「それです」


 若き僧は頷いた。

 破壊の火ではある。だが同時に、停滞を焼き払ってでも進む火でもある。良い悪いではない。ただ、そういう質だ。


「覇王の火、ですね」

 かなめがぽつりと言った。

「ぴったりです」

「褒めても何も出ませんよ」

「では心の中で」

「それならご自由に」


 二人はその場でしばらく動かなかった。


 人波が再び元へ戻っていく。

 ざわめきも戻る。

 だが若き僧の胸の内では、何かがはっきりと定まっていた。


 この男だ。


 尾張に立ち上っていた赤い火の正体。

 村の鎮守を軋ませ、熱田の空気を焦がし、東海の重い圧と真正面からぶつかろうとしている中心。


 織田信長。


 見ただけで分かる。

 この男は、ただ守るために立っているのではない。

 乱世を終わらせるかどうかはまだ分からぬ。だが少なくとも、乱世を今のままでは終わらせぬ男だ。


 かなめが、小さく言った。


「巡修殿」

「はい」

「このまま、本当に戦になるのですね」

「ええ」

「しかも、ただの合戦ではない」

「はい」

「尾張の神域も、熱田も、今川の大軍も、さっきの信長も、全部がどこかで繋がっている」

「その通りです」

「……嫌になります」

「正常です」

「でも」

「でも?」

「少しだけ、見届けたくもなりました」


 若き僧はかなめを見た。

 彼女は自分で言ってから、少し気まずそうに眉を寄せる。


「不謹慎でしょうか」

「そうは思いません」

「そうですか」

「人は、大きな火を前にすると、恐れながらも目を逸らせぬものです」

「巡修殿も?」

「ええ」


 若き僧は熱田の方角を見つめた。


「私もです」


 風が吹いた。

 先ほどよりも、少しだけ熱を帯びて。


 その風の中に、ほんの一瞬だけ、あの甘い香りが混じった気がした。

 林で、社で、神符を奪って走ったあの少女の気配。


 若き僧の視線が、人波の向こうの屋根の上を掠める。


 いた。


 ほんの一瞬だけ、瓦の端に小さな影がしゃがんでいた。

 夜色の衣。軽い体。細い目。

 こちらを見て、すぐに消える。


「……やはり」


 かなめがぎょっとする。


「いましたか?」

「ええ」

「どこに」

「もういません」

「そればかり」


 かなめはむっとしたが、若き僧の視線を追って屋根の方を睨んだ。


「追うべきですか」

「今は無理でしょう」

「また無理」

「人が多すぎます。それに」

「それに?」

「向こうも、信長を見に来ていたのかもしれません」

「……」

「そういう顔をするということは、かなめ殿も考えていましたね」

「少しだけ」

「ですよね」


 かなめは不本意そうに黙った。


 敵もまた、この火を見ている。

 今川方の術者も、尾張の神域も、忍びも、旅僧も。

 誰もが、これから起きる何かの予兆として、あの男を見ているのだ。


 若き僧はゆっくりと歩き出した。


「どこへ」

「熱田の気の流れをもう少し見ます」

「では私も」

「もちろん」


 二人は再び人波へ紛れた。

 熱田の町はざわめき続けている。

 戦の前の町の顔だ。

 だがその奥で、若き僧にはもっと大きなものが見えていた。


 覇王の火。

 古き東海の圧。

 熱田の神気。

 そしてその間を、細い刃のようにすり抜ける忍びの影。


 すべてが、まだ槍を交える前から、すでに戦っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ