第6話 熱田へ向かう火
夜は、長かった。
神符を奪い返したとはいえ、白榊かなめの社に差し込まれた異物が消えたわけではない。むしろ敵は、こちらが反応したことを確かめ、社の要を見切ろうとしたうえで引いたのだ。
つまり次は、もっと深く、もっと厄介な手が来る。
若き僧とかなめは、その夜ほとんど眠らなかった。
拝殿の灯明をひとつだけ残し、社前と裏手を交互に見回る。かなめは神楽鈴と護符を手放さず、若き僧もまた異国渡りの小さな法具を袖の内へ収めたまま、耳と肌で神域の乱れを拾い続けた。
夜半を過ぎた頃、一度だけ北東の林がざわついた。
かなめが即座に鳥居の外へ護符を放ち、若き僧が裏手の井戸跡へ短い調律の法を打ち込む。
それで終わった。
大きな襲撃ではない。試しだ。
こちらが眠っていないか、神符を戻したか、どこまで備えているか。それだけを確かめるような、嫌に頭の回る触れ方だった。
「本当に腹が立ちますね……」
かなめが、夜明け前の白い息と一緒にそう漏らしたとき、若き僧も静かに同意した。
「ええ。かなり」
「巡修殿が、そこまできっぱり言うとちょっと安心します」
「怒るときくらいは」
「普段から、もう少し分かりやすくしていてください」
「善処します」
「またその言い方」
そのやり取りを最後に、夜はようやく薄れていった。
東の空が白むころ、神域の気はほんのわずかに持ち直していた。かなめの結界と、奪い返した神符、それに若き僧が裏で流れを整え続けたことが効いたのだろう。
だがそれは、傷口に布を当てて血を止めたにすぎない。
根は別のところにある。
熱田だ。
尾張の火種も、東海から押してくる古い圧も、そこへ向かって集まりつつある。かなめの社は、その大きな流れの枝先にすぎない。ここだけ守っても、やがて本流が暴れれば同じことだ。
朝の拝殿で、かなめは神前へ深く頭を下げてから振り向いた。
「……行きます」
「熱田へ」
「はい。もう、ここだけ見ていて済む段ではありません」
「同感です」
「ただ、社を空けるのは本来なら許されない」
「ですが、今はあなたしか見に行けない」
「ええ」
かなめは悔しそうに頷いた。
若い巫女が一社を背負うには、今の尾張は重すぎる。だが彼女は、それでも逃げる顔をしなかった。
「宮司さまが戻るまでは、この社の結を最低限保てるようにしておきます」
「私も手伝います」
「巡修殿は、私を止めるかと思いました」
「止める理由がありません」
「危ないから、とか」
「危ないです」
「やっぱり」
「ですが、危ないから行かぬという段でもないのでしょう」
「……そうです」
かなめは小さく笑った。
「たまに、ずいぶん話が早いですよね」
「たまに?」
「たまに、です」
「それは残念」
「全部早いと困るので、今くらいでちょうどいいです」
朝のうちに、二人は社の内外を整えた。
かなめが神符を組み替え、若き僧が裏の流れへ小さな法輪を置く。人の目にはただの木片と石ころにしか見えぬが、土地に触れる者なら、その並びが最低限の防備だと分かるはずだ。
かなめは最後に社殿の柱へ額を寄せ、極めて短い祈詞をささやいた。
それは長い祝詞ではない。むしろ、家を出る前に家族へ一言だけ声をかけるような、素の声に近い祈りだった。
「留守をお願いします」
若き僧はそれを聞かぬふりで待った。
神と人の関係には、他者が土足で立ち入ってはならぬ時間がある。
やがてかなめは顔を上げた。
「行きましょう」
「はい」
鳥居を出ると、朝の空気は昨夜より乾いていた。
尾張の村は、明らかに昨日よりせわしない。道を急ぐ男が増え、女たちは井戸端でも笑わず、小さな子どもまで大人の顔色を窺っている。今川の大軍という噂は、もはやただの噂としてではなく、現実の足音として人々の胸へ入り込んでいた。
それでも熱田へ向かう者はいる。
祈るため、商いのため、命令のため、あるいは好奇心のため。
乱世では、人は危ういものへ近づきもする。
若き僧とかなめは、その流れへ紛れた。
かなめは白衣と緋袴のままでは目立ちすぎるため、上から地味な羽織を重ねている。それでも隠しきれぬ清冽さがあるのは、彼女自身の気配のせいだろう。通りすがりの者は巫女と気づくまではいかずとも、どこかの社家の娘くらいには見たかもしれない。
「尾張の人間は、あまりこちらを見ませんね」
道を歩きながら、かなめが低く言った。
「見ています」
「見ていますか」
「ただ、長く見ない」
「どう違うのです」
「戦が近いときの人の目は、だいたいそうなります」
「……余裕がない」
「それもあります。あとは、余計なものを見てしまうと現実になりそうで嫌なのです」
「縁起でもないものから目を逸らす、と」
「ええ。たとえば、よそ者や、法衣の僧や」
「巫女とか」
「それは私が言いたかったのに」
かなめは不満そうだったが、その横顔は昨日より少しだけ柔らかい。
一晩を共に警戒し、同じ異変へ備えたことが、わずかな連帯を生んだのだろう。
道の先に、小高い土手があった。二人がそこを上がりきった瞬間、若き僧は不意に足を止めた。
「巡修殿?」
「……」
返事の代わりに、彼は遠くを見た。
かなめも遅れて視線を上げる。
熱田の方角。
朝の陽を受けた空の下、町と社と、その周辺の気配が一帯となって揺れている。人の目には何の変哲もない景色だろう。だが若き僧の目には、明らかに違って見えた。
熱い。
空気そのものが、熱を孕んでいる。
火事のような燃え方ではない。
もっと乾いた、意志の温度だ。何かが焦れている。何かが時を待っている。
そしてその中心に、ひときわ強い赤があった。
昨夜まで“火種”に見えていたものが、今ははっきりと一本の柱のように立ち上がっている。
「まさか……」
かなめの声がかすれる。
「あれが」
「ええ」
「人の気なのですか」
「そう見えます」
「でも、あんな」
「常人ではないのでしょう」
若き僧は息を吸い、ゆっくり吐いた。
覇の火。
昨夜も感じた。
村の鎮守でも、林の向こうでも、その存在は既に地へ痕を残していた。
だが距離が縮まった今、ようやく分かる。
これは単なる勇将の気ではない。
勝ちたい、守りたい、その程度の願いでは生まれぬ熱だ。
もっと大きい。
国そのものを塗り替えようとするような、無茶で、傲慢で、それでいて妙に真っ直ぐな火。
「あれが、織田信長……?」
かなめはほとんど独り言のように言った。
「おそらく」
「見たことがないのに」
「はい」
「それで分かるのですか」
「はい」
「……便利なのか、不便なのか分かりませんね」
「私も時々、そう思います」
二人は土手を下り、さらに熱田へ近づいた。
人の数が増える。
荷駄が増える。
武家の小者が駆ける。
どこかで馬がいななき、どこかで怒鳴り声が上がり、どこかで神職が急ぎ足にすれ違う。
表面上はまとまりのない喧騒だが、その全体が一つの大きな呼吸をしているようだった。吸って、止めて、まだ吐かない。そんな息苦しさがある。
かなめが、ふいに袖の内から小さな紙片を取り出した。指先でつまみ、風へかざす。紙はすぐには動かず、一拍遅れて東へ流れた。
「風まで変です」
「押されています」
「今川に?」
「今川だけなら、もう少し生臭い」
「生臭い」
「兵の多さの乱れなら、もっと人の焦りが前に出るはずです」
「では」
「もっと古いものが混じっている」
かなめは唇を引き結ぶ。
「東海側の術者」
「はい」
「正面からではなく、土地ごと押してくる」
「そしてその押し方が、綺麗すぎる」
若き僧は、道脇の小祠に目を止めた。
誰が置いたものか、小さな榊が供えられている。だがその葉先が、本来向くべきではない方向へわずかに反っていた。
「……行儀のいい乱し方です」
「それ、褒めてます?」
「まさか」
「ならいいです」
熱田近くの町へ入ると、いよいよ人の密度が変わった。
尾張の町衆だけではない。どこかよそから来たらしい顔ぶれも多い。商人、武士、寺社関係者、雑兵。誰もが何かを待っている。だが何を待っているのか、自分で明言できる者は少ないだろう。
織田は滅ぶのか。
今川が呑み込むのか。
それとも、まだ誰も知らぬ何かが起きるのか。
かなめは自然と歩幅を詰め、若き僧の半歩後ろへついた。警戒しているのだ。人混みは神域よりずっと厄介で、敵意も悪意も雑音に紛れる。
「大丈夫ですか」
「はい。ですが、社にいるときとは別の疲れ方をします」
「人が多いですから」
「それだけではありません」
かなめは人波の向こうを見つめた。
「皆が、何かを恐れている」
「ええ」
「でも同時に、少し期待している」
「そうですね」
「戦に?」
「戦そのものではなく、今の膠着が動くことに」
「それは、良いことですか」
「人によります」
「またその言い方」
「嘘をつくよりは」
「たしかに」
そのときだった。
前方の人波が、一度だけざわめいた。
ざわめきは悲鳴ではない。
道を譲るときのざわめきだ。
若き僧は、反射的にそちらを見た。
最初に見えたのは、槍でも馬でもない。
空気だった。
前方の通り、その中央だけ、周囲より僅かに揺らいで見える。陽炎に似ているが、朝の道で立つには早すぎる。しかもその揺らぎは、ただ熱いだけではない。近づく者の呼吸と視線を呑み込みながら、静かに道を開かせている。
その中心に、一人の若武者がいた。
背は高すぎない。だが低くもない。
華美な装いではない。戦を前にした武家の実用と、どこか人目を意識した軽さが同居している。顔立ちは端正というより鋭い。眼が、妙に明るい。
整っているのに落ち着かぬ。落ち着かぬのに、不思議と視線が逸らせない。
そして何より、その男のまわりだけ、春の朝には似つかわしくない熱が立っていた。
火だ。
見えぬはずの火が、若き僧には見えた。
男の足元から立ち上がるのではない。
胸の内に燃え、背に沿って揺らめき、歩くたびに周囲の空気へ薄く散っていく。
それは暴れる炎ではなかった。もっと芯が強い。炉の奥で白くなるほど熱した鉄のような、制御された狂気だった。
かなめが息を呑む音がした。
「あれ……」
「ええ」
「人、ですよね」
「人です」
「でも」
「その“でも”の先にいる人です」
若き僧はほとんど無意識に、道の脇へ半歩退いていた。
頭を下げるためではない。
ただ、火に近づくときの本能的な距離の取り方だ。
通りの両側の人々は、畏れるように、しかし露骨ではない態度で道を空けている。
噂の尾張の若殿。
うつけと笑う者もあれば、何をするか分からぬと恐れる者もいる男。
だが目の前の姿は、少なくとも“ただのうつけ”ではなかった。
男――織田信長は、ふいに進みながら視線を横へ流した。
人波の一人一人を見ているわけではない。
だがその一瞬、若き僧は自分たちのいるあたりに、その視線が触れたと感じた。
かなめの肩が僅かに震える。
「見られました」
「ええ」
「気づかれた?」
「どうでしょう」
「その曖昧さは困るのですが」
「私もです」
だが若き僧には分かっていた。
あの男は、ただ人を見てはいない。
空気の中にある“違和”を嗅ぎ分ける獣のような目をしている。
かなめの神気。
自分の法力。
そういうものを、理屈ではなく勘で拾う種類の男だ。
信長は何も言わず、そのまま通り過ぎていった。
だが彼が去ったあとも、道にはしばらく熱が残っていた。
かなめが、緊張をほどくように細く息を吐く。
「……怖い」
「ええ」
「でも、嫌な怖さではないですね」
「その違いが分かりますか」
「何となく」
かなめは視線を信長の去った方角へ向けたまま続けた。
「社を穢すものの怖さとは違う。もっと……」
「前へ押される感じ」
「それです」
若き僧は頷いた。
破壊の火ではある。だが同時に、停滞を焼き払ってでも進む火でもある。良い悪いではない。ただ、そういう質だ。
「覇王の火、ですね」
かなめがぽつりと言った。
「ぴったりです」
「褒めても何も出ませんよ」
「では心の中で」
「それならご自由に」
二人はその場でしばらく動かなかった。
人波が再び元へ戻っていく。
ざわめきも戻る。
だが若き僧の胸の内では、何かがはっきりと定まっていた。
この男だ。
尾張に立ち上っていた赤い火の正体。
村の鎮守を軋ませ、熱田の空気を焦がし、東海の重い圧と真正面からぶつかろうとしている中心。
織田信長。
見ただけで分かる。
この男は、ただ守るために立っているのではない。
乱世を終わらせるかどうかはまだ分からぬ。だが少なくとも、乱世を今のままでは終わらせぬ男だ。
かなめが、小さく言った。
「巡修殿」
「はい」
「このまま、本当に戦になるのですね」
「ええ」
「しかも、ただの合戦ではない」
「はい」
「尾張の神域も、熱田も、今川の大軍も、さっきの信長も、全部がどこかで繋がっている」
「その通りです」
「……嫌になります」
「正常です」
「でも」
「でも?」
「少しだけ、見届けたくもなりました」
若き僧はかなめを見た。
彼女は自分で言ってから、少し気まずそうに眉を寄せる。
「不謹慎でしょうか」
「そうは思いません」
「そうですか」
「人は、大きな火を前にすると、恐れながらも目を逸らせぬものです」
「巡修殿も?」
「ええ」
若き僧は熱田の方角を見つめた。
「私もです」
風が吹いた。
先ほどよりも、少しだけ熱を帯びて。
その風の中に、ほんの一瞬だけ、あの甘い香りが混じった気がした。
林で、社で、神符を奪って走ったあの少女の気配。
若き僧の視線が、人波の向こうの屋根の上を掠める。
いた。
ほんの一瞬だけ、瓦の端に小さな影がしゃがんでいた。
夜色の衣。軽い体。細い目。
こちらを見て、すぐに消える。
「……やはり」
かなめがぎょっとする。
「いましたか?」
「ええ」
「どこに」
「もういません」
「そればかり」
かなめはむっとしたが、若き僧の視線を追って屋根の方を睨んだ。
「追うべきですか」
「今は無理でしょう」
「また無理」
「人が多すぎます。それに」
「それに?」
「向こうも、信長を見に来ていたのかもしれません」
「……」
「そういう顔をするということは、かなめ殿も考えていましたね」
「少しだけ」
「ですよね」
かなめは不本意そうに黙った。
敵もまた、この火を見ている。
今川方の術者も、尾張の神域も、忍びも、旅僧も。
誰もが、これから起きる何かの予兆として、あの男を見ているのだ。
若き僧はゆっくりと歩き出した。
「どこへ」
「熱田の気の流れをもう少し見ます」
「では私も」
「もちろん」
二人は再び人波へ紛れた。
熱田の町はざわめき続けている。
戦の前の町の顔だ。
だがその奥で、若き僧にはもっと大きなものが見えていた。
覇王の火。
古き東海の圧。
熱田の神気。
そしてその間を、細い刃のようにすり抜ける忍びの影。
すべてが、まだ槍を交える前から、すでに戦っていた。




