第5話 盗まれた神符
その日の夕刻、空はまだ晴れていた。
だが晴れていることと、穏やかであることは違う。
尾張の空は明るいまま、どこか薄く張り詰めていた。熱田へ連なる神域の流れと、外から押し込まれる重い圧とが、水面下でじりじりと押し合っているのが分かる。春の夕暮れ特有の柔らかさはあっても、安らぎはなかった。
若き僧は社の周辺をひと回りして戻ってきた。
鳥居の外、石段の脇、北東の林、社裏の井戸跡。どこにも決定的な綻びは見つからなかったが、それは安心材料にはならない。むしろ逆だ。痕跡を残さぬように動ける相手が、まだ近くにいるということになる。
鳥居をくぐると、社前にかなめの姿があった。
白衣の袖をたくし上げ、拝殿の戸前に何やら細かく札を並べている。昼間の険しさはそのままだが、肩の力は少しだけ抜けていた。こちらへ気づくと、神楽鈴を脇へ置いて顔を上げる。
「戻りましたか」
「ええ」
「どうでした」
「こちらを見ている気配は、まだあります」
「やはり」
「ただ、今は近づいてきません」
「それは良いこと?」
「半分は」
「半分は?」
「何かを待っているのでしょう」
「……嬉しくない言い方をしますね」
「見えたものは、だいたいそのまま言う性分でして」
「たまには柔らかく包んでください」
「努力はします」
「また努力」
かなめは小さく鼻を鳴らした。けれど本気で怒ってはいないらしい。
若き僧は社前へ進み、札の並びを見下ろした。
「これは?」
「鎮めの並べ替えです。今夜、たぶんまた押してきます」
「同感です」
「同感で済ませず、手も貸してください」
「もちろん」
二人は並んで作業にかかった。
かなめが札を置き、若き僧が位置を微調整する。彼女の札は神域に属する理で清めを回し、彼の小さな法具は外から差し込まれる異質な圧を逸らす。それぞれの術理は異なるが、ぶつかりはしなかった。むしろ、互いが空けた隙間を埋めるように働く。
かなめは何度か不思議そうな目で彼の指先を見た。
「それ、やっぱり異国の法具ですよね」
「ええ」
「見たことがありません」
「たぶん尾張では、あまり」
「尾張だけではなく、京でも見たことがないと思います」
「それはそうかもしれません」
「さらっと言いましたね」
若き僧は小さな輪を地に置き、地脈の細い流れへ角度を合わせる。
「向こうでも、神域に手を入れる者はいました」
「異国にも?」
「人がいて、願いがあれば、だいたいどこにも」
「夢がありません」
「夢がないのではなく、夢を見るために争うのでしょう」
「もっと夢がありません」
かなめは言いながらも、札を置く手は止めない。
夕暮れの光が白衣と緋袴をやわらかく染めていた。こうしていると、年相応の娘に見える。昼間のように神域を背負ってこちらを撃ち抜く目をしていないぶん、かえってその若さが見えた。
「かなめ殿」
「はい」
「社の中に、特に触れられては困るものはありますか」
「急に何です」
「一応、確かめておこうかと」
「それは全部困ります」
「ええ、もちろん」
「特に、という話ならあります」
かなめの顔が引き締まる。
彼女は社殿のほうを見やった。
「拝殿の奥に、小さな神符箱があります」
「神符箱」
「この社に伝わる古い符が納められている箱です。熱田ほど大きなものではありませんが、この社の結の芯に関わる札が入っている」
「なるほど」
「普段は外へ出しません。祭礼と、よほどの異変のときだけ」
「今は」
「今はまだ、開けていません」
「それは賢明かと」
「分かっています。分かっていますけど……」
かなめは言いかけて、拝殿を見つめたまま唇を閉じた。
「いざというときのために置いてあるものがあると、人は早めに使いたくなる」
若き僧が静かに言う。
かなめは少し驚いた顔をした。
「……分かるのですか」
「多少は」
「その多少が厄介です」
「すみません」
「謝るときだけ素直ですね」
「そこは長所として受け取っていただければ」
「今はまだ保留です」
作業が終わる頃には、日がかなり傾いていた。
社前の白砂は橙色を帯び、木立の影が長く伸びている。鳥居の外を吹く風が、昼間より冷たくなった。
かなめが立ち上がり、腰を軽く伸ばした。
「少し水を取ってきます」
「一人で?」
「社の脇です。井戸ではなく、水甕に」
「なら」
「そこまで過保護にしないでください」
「過保護というより、慎重に」
「言い方を変えただけです」
そう言いつつ、かなめの声音には刺が薄かった。
彼女は社殿の脇へ回り、水甕から柄杓で水を汲み始める。若き僧はその間、拝殿前に残って札の流れを確かめた。夕暮れの神域は、人の営みの時間と神の時間が擦れ合う。異変が起きるなら、このあたりから夜半にかけてが多い。
そのとき、風がひとつ、妙に甘い匂いを運んだ。
かなめではない。
神前の香でもない。
林で嗅いだ、あの微かな香油に似た甘さだ。
若き僧の目が細まる。
「かなめ殿」
「はい?」
「今、誰か」
言いかけた、その瞬間だった。
社殿の奥で、ほとんど耳に届かぬほど小さな音がした。
木が鳴る音。
だが風ではない。
誰かが、そこに触れた音だ。
若き僧は一歩で拝殿へ上がった。
「巡修殿?」
「中へ入った者がいます!」
かなめの声色が一変する。
柄杓が石へ当たり、軽い金属音を立てた。
若き僧は戸前へ回り込んだ。外から鍵を掛けた形跡はない。だが、内側の気配が薄い。さっきまで確かにあった神符箱の気配が、奥で揺れている。
「まさか……!」
かなめが駆け寄り、戸を引いた。
開く。
拝殿の中は薄暗く、夕暮れの光が斜めに差し込んでいる。供物台、榊、古い灯明、整えられた祭具。荒らされた様子はない。だが奥の小さな棚が、ほんの僅かに開いていた。
かなめが息を呑む。
「神符箱……!」
彼女はほとんど飛び込むように棚へ寄り、箱を引き出す。蓋は半ば開いたまま。中を見たかなめの顔から、血の気が引いた。
「ない」
「何が」
「一枚、抜かれてる……!」
若き僧が箱を覗く。
札の束の中に、不自然な隙間がある。
この社の理に結びついた神符のうち、一枚だけがきれいに抜かれていた。
「どの札です」
「結びの符です」
「要ですね」
「はい……この社単独ではなく、熱田へ連なる小脈との繋がりを保つための札……!」
若き僧の胸の内で、いくつかの線が一気に繋がった。
ただ圧をかけるだけではなく、神域の反応を鈍らせ、なおかつ結びの札を抜く。これで今夜さらに押せば、この社は外からの重みに対して格段に脆くなる。
「外へ!」
二人は同時に社を飛び出した。
鳥居の外、石段の下、林の手前。
白砂の上に、新しい足跡は残っていない。
だが若き僧には分かった。香りが残っている。甘い、しかしきつすぎぬ香油。風の上を滑るように、まだ消えきっていない。
「あっちです」
彼は鳥居を出て右手、林へ続く獣道を指した。
かなめは一瞬だけ驚いたが、すぐに護符を抜き、後を追う。
林へ入ると、気配が一段濃くなる。
人を食ったように軽い。
近くにいる。だが、まともに姿は晒さない。樹の上か、幹の裏か、あるいは既に抜けたか。
「出てきなさい!」
かなめの声が林に響く。
返事はない。
若き僧は目を閉じ、風の向きだけを追った。
甘い香り。松脂。鉄。湿った土。
その混ざり方から、相手がまだ動いていると知れる。
「左上!」
言葉とほぼ同時に、かなめの護符が飛ぶ。
白い紙片が枝葉を裂き、ぱし、と乾いた音を立てる。人影がひとつ、枝から跳んだ。
今度ははっきり見えた。
少女だった。
年のころは、かなめとそう変わらぬ。
夜の色を溶かしたような衣をまとい、長くはないが艶のある黒髪を後ろで括っている。顔立ちは幼さの残る線だが、目だけが鋭い。猫科の獣のような、光を細く返す眼だ。手には短い刃。もう片方の指には、奪った神符が二本の指で挟まれていた。
「返しなさい!」
かなめが怒鳴る。
少女は答えない。
だがその口元が、ほんの僅かに笑ったように見えた。
「……そうきますか」
若き僧が低く呟いた。
この距離。
この目。
ただ盗みに来ただけではない。こちらの動きを見た上で、わざわざ姿をさらしている。試しているのだ。
少女は枝を蹴った。
一気に後退する。
速い。
かなめが追おうとしたその前へ、若き僧が半歩出る。
「かなめ殿、待って」
「でも!」
「地面です」
次の瞬間、少女のいた枝の真下で、細い糸が光った。
追えば足を取られ、その先に何があるか分からぬ。かなめはぎり、と歯を食いしばって踏みとどまる。
「卑怯な……!」
「忍びですから」
「慰めになっていません」
「すみません」
少女はそのやり取りを聞いたのか聞かぬのか、枝の上で一度だけ振り向いた。
夕暮れの光の中、彼女の横顔がちらりと見える。冷たくはない。むしろ、年若いのに冷たく見せようとしている顔だと若き僧は思った。
その一瞬、少女の目が若き僧へ向く。
鋭い。
だが、その奥に、奇妙な揺れがあった。
単なる敵意だけではない。値踏みするような、あるいは問いかけるような色。
若き僧はあえて声を張らずに言った。
「その札は、あなた自身のためにはなりません」
少女の動きが一瞬だけ止まる。
「返してもらいます」
今度は、口元がはっきり歪んだ。
初めて声が落ちてきた。
「取れるものなら、どうぞ」
若い女の声。
思ったより低く、乾いていた。
直後、彼女はふっと姿を沈めるように消した。
枝の向こう。幹の陰。次の瞬間にはもう、別の木の上へ移っている。かなめの護符が追うが、紙一重で躱される。少女の動きは軽く、ためらいがなく、そして美しかった。
忍び慣れている。
それも、よく鍛えられた手の動きだ。
若き僧は少女の移動先を追いながら、一歩だけ踏み込んだ。追うのではない。進路を読むために。
「巡修殿!」
かなめが叫ぶ。
「大丈夫です」
少女の落ち先、その少し先に、地脈の細い膨らみがある。そこは神域外縁の流れが表へ近づく場所だ。もし彼女が神符を持ったままそこを踏めば、札の理が一瞬だけ社へ返る。若き僧はそこを狙って、懐から小さな金属輪を取り出した。
指先で弾く。
澄んだ、小さな音。
輪は木の幹へ当たって落ちただけに見えた。
だがその音が、周囲の流れを一瞬だけ揺らした。
少女が着地した場所で、ふっと空気が逆巻く。
「っ……!」
彼女の足がほんの僅かに遅れた。
その隙を、かなめは見逃さない。
「そこ!」
護符が走る。
少女は体を捻って避けたが、完全には逃れきれなかった。袖が裂ける。そこから白い肌がひとすじ見え、同時に挟んでいた神符が宙へ舞った。
「戻れ!」
かなめが叫ぶ。
神符は風に乗りかけたが、若き僧が半歩踏み込み、袖の端で受けた。指先へ、紙一枚とは思えぬほどの熱が伝わる。社の結びの札だ。やはり要の一枚だった。
少女は木の幹へ片足をかけたまま、神符を失ったことを悟る。
かなめが今度こそ追い詰めようと動いた。
「待ちなさい!」
「嫌よ」
少女は短く返すと、木の上から小さな玉をふたつ投げた。地面で弾け、白い煙が広がる。
「下がって!」
若き僧がかなめの肩を引く。
煙は毒ではない。だが目と鼻を一瞬奪うには十分だ。かなめは袖で口元を覆いながらも、怒りを滲ませた。
「……逃げた」
「ええ」
「取り返せたのに」
「札は戻りました」
「でも、あの女は」
「また来ます」
「来てほしくありません」
「こちらが見張りになったと知りましたから、むしろ来ざるを得ないでしょう」
「もっと嫌です」
煙が流れ、林の輪郭が戻る。
もう少女の気配はない。
ただ、さっきまで彼女がいた枝が、まだわずかに揺れていた。
かなめは息を整えながら、若き僧の手の中の神符を見る。
「無事ですか」
「ええ」
「見せてください」
若き僧が札を渡すと、かなめは両手で受け取って素早く傷を確かめた。
破れも汚れもない。だが、彼女の顔は晴れない。
「一度、外へ持ち出された……」
「そうですね」
「最悪だわ」
「そこまで?」
「ええ。符そのものが壊れていなくても、“どこを抜けば効くか”を向こうに知られたことが問題です」
「なるほど」
「ただでさえ神域を押されているのに、その上で芯を盗られかけた」
「相手は急いでいるのでしょう」
「なぜ」
「戦が近いからです」
かなめは札を胸元へ抱え、しばらく黙った。
木々の間から差す夕日が、彼女の横顔を強く照らす。怒りと、悔しさと、それ以上に責任を感じている顔だった。
「私の落ち度です」
「そうでしょうか」
「そうです。社から目を離した」
「一瞬です」
「神域を預かる者にとって、一瞬で足りるのです」
「では」
若き僧は静かに言った。
「次からは、一瞬も一人にならぬようにしましょう」
「……」
「落ち度を責めるより、手を増やすほうが先です」
「そう簡単に言いますね」
「簡単ではありません。ただ、今はその順です」
かなめは少しだけ目を伏せた。
叱られたわけではない。慰められたわけでもない。
ただ、次にすべきことだけを差し出された。
そのことが、かえって彼女の呼吸を整えたらしい。
「……分かりました」
「はい」
「でも、あの女」
「ええ」
「ただの盗人ではないですね」
「そうですね」
「神符を盗るだけなら、姿を見せる必要はなかった」
「ありません」
「なのに、見せた」
「こちらの反応を見たかったのでしょう」
「腹が立ちます」
「同感です」
「そこだけは気が合いますね」
「光栄です」
かなめは一瞬だけ笑いかけて、すぐに真顔へ戻った。
「戻りましょう。神符を箱へ戻して、結を組み直します」
「ええ」
「今夜は眠れません」
「最初から、そのつもりでした」
「……そういう顔には見えませんでした」
「眠そうに?」
「いえ。ちゃんと眠れそうな顔に」
「それは少し意外です」
「意外ですか」
「だいたい、怖がられるか怪しまれます」
「今も怪しいです」
「まだですか」
「まだです」
だがその「まだ」は、もはや拒絶の言葉ではなかった。
二人は社へ戻った。
夕暮れはさらに濃くなり、鳥居の向こうの空は茜色から紫へ変わり始めている。拝殿へ入る前、若き僧は一度だけ林を振り返った。
もう気配はない。
だが、完全に遠ざかったわけでもない。
あの少女は、また来る。
刃を持ち、軽やかに木々を渡り、こちらの隙と心を測りに来る。
そしておそらく、あの手際なら、誰かの命で動いている。
若き僧はふと、彼女の最後の目を思い出した。
若い。
鋭い。
だが、あれは生まれついての冷酷さだけではない。そういうふうに生きるしかなかった者の目だ。
それを今ここで口にする気はなかった。
かなめはまず怒るだろうし、実際、怒る権利がある。神域を乱され、神符を盗まれたのだから。
拝殿の中で、かなめが神符箱を開け、丁重に札を戻す。
若き僧はその傍らで小さく護法の印を切った。
夕闇の中、社の理が少しだけ落ち着きを取り戻す。
「巡修殿」
「はい」
「今夜、もしまた来たら」
「ええ」
「今度は逃がしません」
「できれば穏やかに」
「無理です」
「でしょうね」
「ええ。無理です」
かなめはきっぱり言い切った。
若き僧は苦笑しながらも、その強さが少し頼もしいと思った。
神域を守る者に必要なのは、優しさだけではない。踏み越えられたときに怒れることもまた、大事な資質なのだ。
外では、風がひとつ木立を鳴らした。
夜が来る。
そしてその闇のどこかで、あの少女――まだ名も知らぬ忍びが、こちらを見ている。
神符は取り返した。
だが見えぬ戦は、ここからが本番だった。




