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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第34話 東海の老術者、遠くから嗤う

 その夜は、火を焚いても妙に暖かくならなかった。


 風が冷たいわけではない。

 むしろ季節は少しずつ夏へ寄り始めている。尾張の野に吹く風も、日が落ちたあとは確かに涼しいが、肌を刺すほどではない。

 それなのに、三人が囲む小さな焚き火のまわりだけ、どこか熱が地へ吸われているような感じがあった。


 若き僧は、その理由を知っていた。


 桶狭間が終わり、今川義元は散った。

 それでも、東海の古い術そのものが消えたわけではない。

 むしろ、敗北したからこそ、その理はしぶとく尾を引く。勝てば広く押し被せる。敗ければ細く残って、どこで何が生まれるかを見張る。

 そういう厄介さが、今夜の尾張の空気にはまだ残っていた。


 かなめは火の向こうで、神楽鈴の緒を指先で整えていた。

 今日は国境近くの社に立ち、帰り道に信長の火を見て、そしてその火が次を見ていると知った。言葉にはしないが、疲れているのだろう。

 霞は少し離れた木の根元に背を預け、膝を立てて座っている。目は閉じているが眠ってはいない。ああいうときの彼女は、半分休み、半分は気配を聞いている。


 若き僧は火を見つめていた。


 ぱち、と薪が鳴る。


 その音の向こうに、別の“静かすぎるもの”がある。


「……また考えてる」

 霞が目を閉じたまま言った。

「私がですか」

 若き僧が問い返す。

「うん」

「どんなふうに」

「今度は、考えてるっていうより聞いてる顔」

「……」

「何か聞こえる?」

 かなめが顔を上げた。

「ええ」

 若き僧は静かに答える。

「風の向こうに」

「何が」

「執着です」


 かなめの手が止まる。


「老術者」

「はい」


 その名を口にした瞬間、火の向こうの空気が一段だけ引き締まった。

 今はここに姿を現していない。

 けれど三人とも、あの白い指と冷たい声を忘れてはいない。戦の余波を井戸跡へ落とし込もうとした、東海守護の古い理の担い手。

 義元が死に、本陣の結界が綻び、それでもまだ消えぬ執念。


「近いのですか」

 かなめが低く問う。

「いいえ」

 若き僧が首を振る。

「むしろ遠い」

「遠い?」

「かなり」

 霞が先に言う。

 かなめが半眼になる。

「今それを挟みますか」

「いや、ちょっと合いそうだったから」

「合っています」

 若き僧が答える。

「ほら、坊主まで」

「今のは使い方が正しいかと」

「二人とも最近楽しんでません?」

「不本意です」

 かなめが即答した。

「そこだけは同意」

 霞も言う。


 若き僧は少しだけ口元を緩めたが、すぐに火の向こうへ意識を戻した。


「老術者本人の姿が近いわけではありません」

「では」

 かなめが促す。

「気配だけがある?」

「ええ。もっと正確に言えば」

 若き僧は言葉を選んだ。

「向こうが、こちらと尾張の火を“見ている”気配です」

「……」

「桶狭間で敗けたのに?」

 霞が問う。

「敗けたからでしょう」

 若き僧は答えた。

「勝っていれば、そのまま押し広げればよかった」

「うん」

「ですが敗けた以上、次は“何が生まれるか”を見極める必要がある」

「それが信長の火」

「おそらく、それが最優先でしょう」


 かなめは火を見つめた。


「つまり老術者は」

「はい」

「今川の勝敗より、もっと先を見ている」

「その可能性が高い」

「……」

「東海の理を守るために」

「はい」

「信長の火がどこまで焼くのかを、敗者の側から測ろうとしている」

「そういうことです」


 霞が舌打ちした。


「本当に性格悪い」

「かなり」

 若き僧が言う。

「今のは合ってる」

 霞が頷く。

「でも腹立つ」

「そこは同意します」

 かなめも低く言った。


 風がひとつ、野を渡った。


 その風の中に、ほんの一瞬だけ、あの老人の気配が混じる。

 香ではない。

 匂いでもない。

 もっと乾いたものだ。

 長い年月、自分の理こそが世の骨組みだと信じて疑わなかった者の、冷たい執着。

 若き僧はそれを、耳で聞くより先に、胸の奥で知った。


「……嗤っている」

 小さく、彼は言った。

「え?」

 かなめが思わず聞き返す。

「何をです」

「桶狭間の敗北を、というより」

 若き僧は目を閉じる。

「その先に起きることを」

「……」

「信長の火が、今川を破って終わるとは思っていない」

「そりゃまあ、私たちも思ってないけど」

 霞が言う。

「ええ」

「でも、老爺もそう思ってる」

「はい」

「それで?」

「その火が、いずれ東海だけでなく、もっと広いものを焼くと見ている」

「……」


 かなめの顔が少し強ばる。


「それを、止めようとするのではなく?」

「止めたいでしょう」

 若き僧は答えた。

「ですが今は、止める前に測っている」

「何を」

「どこまで燃えるか」

「……」

「そして、その火に焼かれて崩れるものの数を」


 火がまた、小さく爆ぜた。


 今この夜、信長本人はここにいない。

 美濃の囲いもまだ動いてはいない。

 それでも、尾張の外の誰かが、覇王の火をじっと見ている。

 そのことが分かるだけで、焚き火の明かりがどこか頼りなく感じられた。


「巡修殿」

 かなめが言う。

「はい」

「老術者は、敵ですよね」

「ええ」

「でも」

「でも?」

「今の話を聞いていると、ただ倒せば済む相手には思えません」

「……」

「嫌な言い方ですが」

「言ってください」

「信長の火の危うさを、一番早く理解しているのが老術者なのかもしれない」

「……かなめ殿」

「何です」

「今のは、かなり本質的です」

「それ、褒めてますか」

「はい」

「嬉しいですが、今はあまり嬉しくないです」

「分かります」

 若き僧は頷いた。


 その通りだった。


 老術者は、古い理を守る側の人間だ。

 その思想も、やり方も、若き僧には到底賛同できない。

 小さな社から壊し、人の暮らしを“些末”として踏みにじる、そのあり方は間違っている。

 だが一方で、覇王の火が世を押し進めると同時に、多くを焼くだろうこともまた、老術者はかなり正確に見ているのだろう。


 それが厄介だった。


 ただの悪ではない。

 だからこそ、長く敵でいられる。


「ねえ」

 霞が火を見ながら言った。

「何でしょう」

 若き僧が答える。

「私、前はさ」

「ええ」

「使われる側だったから、ああいう老爺みたいなのって、正直“偉くて強い人”で終わってた」

「……」

「でも今は、嫌い」

「はい」

「かなり嫌い」

「そこは素直ですね」

 かなめが言う。

「うるさい」

「聞こえています」

「それ今の使い方違うって」


 霞は少しだけ口元を歪めた。


「何で嫌いか、ちょっと分かった」

「何故です」

 かなめが問う。

「人を使うくせに、自分では汚れないから」

「……」

「負けても、自分は後ろから見てるだけでいい。勝っても負けても、次の理屈がある」

「……」

「そういうの、今は嫌」

「霞」

 かなめが静かに呼ぶ。

「何」

「それを嫌だと思えるのは、たぶん大事なことです」

「……」

「今のあなたには」

「……巫女」

「何です」

「今の、ちょっとだけやさしい」

「少しだけです」

「それで十分かも」

「……それなら、よかった」


 若き僧は、そのやり取りを聞きながら火へ薪をひとつ足した。


 小さな火が少しだけ強くなる。

 だが、周囲の闇を押し返すには足りない。

 それでも、足りないなりに灯しておく意味はある。


「巡修殿」

 かなめが今度は、少しだけ声を落として言う。

「はい」

「この先、美濃へ入れば」

「ええ」

「老術者のような理とは、また別の敵がいるかもしれない」

「その可能性は高い」

「でも、老術者はなお遠くから見ている」

「はい」

「つまり」

 かなめは火をまっすぐ見つめた。

「第二章の先でも、この人は消えない」

「そうでしょうね」

「……」


 若き僧は頷いた。


「桶狭間で勝敗は決しました」

「はい」

「ですが、思想や理の争いは、あれでは終わらない」

「ええ」

「信長の火が広がれば広がるほど」

「反発もまた、広がる」

「そういうことです」


 霞が膝を抱え直す。


「ほんと、面倒な時代」

「ええ」

 若き僧が答える。

「かなり」

「今のはちょっと自分で言いたかった」

「失礼しました」

「でも合ってたからいい」

「助かります」

「やっぱり少し楽しんでるでしょ」

「否定はしません」

「ほら」


 焚き火の向こうで、かなめが少しだけ笑った。

 その笑みはすぐに消えたが、完全な緊張だけの顔ではなくなっていた。


 老術者は、今夜ここに現れない。

 だが遠くから見ている。

 信長の火もまた、こちらからは見えぬ場所で次の国を見ている。

 そして自分たちは、その狭間で、小さな火を囲んでいる。


 若き僧は思った。


 この夜の静けさこそが、第二章の本質かもしれない。

 大きな戦は終わった。

 だが、大きなもの同士が、次の衝突の前に互いを見定めている。

 その間に立たされた者たちは、まだ剣も交えぬうちに、もう選ばされ始めているのだ。


 かなめは巫女として。

 霞は影の者として。

 若き僧は記録者にして介入者として。


 どこに立ち、どこまで踏み込むのかを。

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