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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第35話 尾張を越える理由

 夜が深まるほど、国境の気配はむしろ輪郭を増した。


 焚き火は小さいままにしてある。

 木を節約したいからではない。大きく燃やせば、それだけ人にも、理にも、ここに三人がいると知らせてしまうからだ。

 火は今、守るものではなく、隠しながら使うものだった。


 若き僧は火の向こうに揺れるかなめと霞の顔を見ながら、静かに考えていた。


 桶狭間の勝利から、まだ幾日も経っていない。

 だがその短いあいだに、見たものは多かった。

 勝ち戦の熱に浮く尾張。

 敗者の影が城下へ流れ込む様。

 小社に残る祈り。

 国境に教え込まれた閉じた理。

 そして、遠くからなお信長の火を測る老術者の気配。


 ここまで見てなお、尾張の内に留まるという選択は、もはや半端だった。


 だが同時に、国境を越えるというのは、ただ次の土地へ歩くことではない。

 理の違う国へ入ること。

 自分たちが見てきたものの“外側”へ出ることだ。


 かなめが最初に口を開いた。


「……巡修殿」


「はい」


「さっきから、ずっと同じことを考えていますね」


 若き僧は少しだけ目を細めた。


「そんなに分かりますか」


「分かります」


 かなめは火を見つめたまま続けた。


「国境を越えるかどうか、でしょう」


「……ええ」


「しかも、もう半分以上は決めている顔です」


「かなめ殿」


「何です」


「最近、本当に鋭いですね」


「その褒め方、今は少し腹が立ちます」


「申し訳なく」


「でも、合っています」


 かなめは小さく息を吐いた。


「私も、同じことを考えていました」


 霞が膝を抱えたまま、二人を見比べる。


「巫女も?」


「ええ」


「へえ」


「何です」


「いや、てっきり巫女はもう少し悩むかと思ってた」


「悩んでいます」


 かなめは即答した。


「かなり」


 霞が思わず口元を押さえる。


「……今のはずるい」


「何がです」


「使い方」

「合っていましたか」

「合ってた」

「なら結構です」

「いや、結構じゃないけど」


 若き僧は、火の向こうでやり取りする二人を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 こういう何でもない言葉の応酬があるだけで、夜の重さはほんの少し軽くなる。


 だが、決めるべきことは決めねばならない。


「かなめ殿」


「はい」


「あなたは、本来なら尾張の社へ戻るべき立場です」


「ええ」


「ここから先は、美濃の理の中へ入ることになります」

「はい」

「それは、あなたにとって自分の神域の外側を、さらにもう一段深く歩くことになる」

「……」

「だから、残るという選択も正しい」


 かなめはすぐには答えなかった。


 焚き火の明かりが、その横顔に小さな揺れを作っている。

 若い巫女だ。

 だが、この数日のうちに、何度も自分の本分と外の現実のあいだで選ばされてきた。そのたびに彼女は、ただ感情で飛び出すのではなく、迷いごと抱えて立っていた。


「……残るのが正しい、と言われると」


 かなめがようやく口を開く。


「はい」


「余計に、残れなくなりますね」


「かなめ殿」


「ずるいです」

「そうでしょうか」

「そうです。巡修殿は、たぶん本当に“どちらも正しい”と思っているのでしょう」

「ええ」

「だから余計に、こちらが決めるしかなくなる」

「……」

「その言い方、少し嫌いです」

「申し訳なく」

「でも」

 かなめは、火ではなく国境の向こうの闇を見た。

「今の私には、必要な嫌さです」


 若き僧は、そこで言葉を挟まなかった。

 かなめが自分で辿り着くべき答えだからだ。


 霞が、少しだけ声を落として言う。


「巫女」


「何です」


「戻りたい?」


 かなめはすぐには答えなかった。


 社のことを思い出しているのだろう。

 白榊の小さな社。

 井戸跡。

 村人たち。

 あの場所はかなめがいなければ守れぬ。

 それは事実だ。


「……戻りたいです」


 かなめは、はっきりとそう言った。


「自分の社ですから」

「うん」

「村の朝を守りたい。井戸の水も、子どもの眠りも、あの小さな社の呼吸も」

「ええ」

「全部、私にとっては大事です」

「はい」

「でも」

 かなめの声は少しだけ低くなる。

「桶狭間のあと、熱田が揺れているのを見た」

「……」

「国境の小さな社が、美濃の囲いで痩せているのも見た」

「はい」

「信長の火が、もう尾張の中だけに収まらないのも見た」

「ええ」

「それを見てしまったのに、自分の社だけへ戻って“見なかったこと”にはできません」


 火が、ぱち、と鳴った。


 かなめは真っ直ぐ前を見たまま続ける。


「守るために、知る必要がある」

「……」

「尾張を越えて、理がどう変わるのか」

「はい」

「美濃が何を囲い、何を拒んでいるのか」

「ええ」

「それを見なければ、たぶん私は、これから先、自分の社すら守れません」


 若き僧は静かに頷いた。


「その通りだと思います」


「やはり、そう言うのですね」


「はい」


「嬉しいのですが、今は少し悔しいです」

「どうして」

「私の中で、答えがもう決まってしまうからです」

「……」


 かなめはゆっくりと息を吐いた。


「私は行きます」

「かなめ殿」

「尾張の巫女として」

「ええ」

「守るために、美濃を見に行きます」


 その声には、もう揺れがなかった。


 霞が少しだけ肩をすくめる。


「巫女、思ったより決めると早いね」


「悩みました」


「うん」


「かなり」


「それはもう分かった」


 霞は小さく笑ってから、火を見下ろした。


 今度は若き僧が彼女を見る番だった。


「霞」


「何」


「あなたは」


「……」


「尾張へ残っても構いません」


「またそれ言う」


「選べるべきですので」


「だから、それがずるいんだって」


 霞は膝の上に顎を乗せ、しばらく黙った。

 風が少し吹き、火の先が赤く細くなる。


「私さ」


「ええ」


「最初は、本当に借りだけだった」


「はい」


「林で助けられて、社に入れられて、切られなかった」

「ええ」

「だから、その分を返すまではって思ってた」

「はい」


「でも今は、もうちょっと面倒」


 かなめが、少しだけ首を傾ける。


「面倒?」


「うん」


 霞は火から目を離さずに言う。


「借りを返すだけなら、たぶんもう半分くらい返してる」

「……」

「坊主にも巫女にも、何回か助けられたけど、何回か私も役立ったし」

「そうですね」

 若き僧が答えた。

「だろ?」

「ええ」

「でも、それで終わりにしていい感じがしない」

「……」

「国境の向こう、気持ち悪いし」

「はい」

「老爺もまだ見てるし」

「ええ」

「信長の火も、どう見ても止まらないし」

「そうですね」

「それで」

 霞はようやく顔を上げた。

「このまま尾張に残って、“あとは知らない”ってやるの、たぶん無理」


 かなめが静かに聞く。


「なぜです」


「……見ちゃったから」


「何を」


「いろいろ」


 霞は少しだけ困ったように笑った。


「小さい社とか」

「……」

「巫女がよその神様にちゃんと礼を通してるとことか」

「……」

「坊主が、面倒くさいくせに、見たこと全部ちゃんと覚えようとしてるとことか」

「それは」

 若き僧が言いかける。

「今は黙って」

 霞が即座に返した。

「……はい」

「素直」

 かなめがぼそりと言う。

「巫女までうるさい」

「聞こえています」

「それ今の使い方違うでしょ」


 それでも、霞の顔には前のような刺々しさが薄かった。


「戻れないって分かった夜にさ」

 霞は続けた。

「じゃあ今どこにいるんだって考えた」

「ええ」

「たぶん、まだ途中」

「途中」

「うん。使われる側でもないし、完全に誰かの味方って割り切れるほど綺麗でもない」

「……」

「でも、少なくとも今は」

 霞は火の向こうで、かなめと若き僧を交互に見た。

「こっちにいたい」

「……」


 かなめの目が少しだけ揺れる。

 若き僧は何も言わなかった。

 この一言は、霞にとってかなり大きい告白なのだと分かるからだ。


「だから」

 霞は言う。

「借りの続きでもいいし、護衛でもいいし、面倒ごとの見張りでもいいけど」

「はい」

 若き僧が促す。

「美濃まで行く」

「……」

「行って、向こうの理が何なのか、自分の目でも見たい」

「ええ」

「それで、もし本当にあの老爺みたいなのと同じか、それ以上に嫌な何かがあるなら」

「はい」

「今度は、使われる側じゃなくて、ちゃんと切る側に立つ」

「……霞」

 かなめが静かに呼ぶ。

「何」

「今のは」

「うん」

「かなり覚悟のある言い方でした」

「やっぱそれ言う?」

「言います」

「うわあ」

「でも」

 かなめは小さく息をついた。

「少し、嬉しいです」

「……」

「あなたが、自分で決めたのなら」

「……うん」

「なら、私はそれを信じます」

「……巫女」

「何です」

「今の、ずるい」

「どうして」

「ちょっと泣きそうになるから」

「え」

 かなめが本気で戸惑う。

「それは」

「嘘だけど」

「霞!」

「半分くらい」

「その言い方を覚えないでください!」

「無理」

 霞が、ようやく少しだけ笑った。


 若き僧は、その二人のやり取りを見ながら、胸の内でひとつ答えを定めていた。


 これでいい。


 かなめは巫女として、美濃へ行く理由を持った。

 霞は、もう“借りだけ”ではない理由で同行すると決めた。

 ならば、自分もまた、記録者であるだけでは足りない地点へ、一歩進まねばならない。


「二人とも」


「はい」

 かなめが応じる。


「何」

 霞も顔を上げる。


「私も行きます」


「それは知ってる」

 霞が即答した。

「ええ」

 かなめも頷く。

「そこは疑っていません」

「……」

 若き僧は少しだけ困ったように笑った。

「そうでしたか」

「今さら、坊主だけ尾張に残るとか言い出したら殴る」

 霞が言う。

「それは少し怖いですね」

「かなり」

 かなめが返した。

「今の使い方は上手いです」

「嬉しくありません」


 若き僧は、焚き火の向こうの二人を見た。


「では、改めて言います」

「はい」

「うん」

「尾張を越えます」

「ええ」

 かなめが答える。

「美濃の理を見に行く」

「はい」

「覇王の火がぶつかる前に」

「ええ」

「老術者が何を見ようとしているのかも、確かめる」

「そのつもりです」

「なら」

 霞が言う。

「段取り決めよっか」

「段取り」

「うん。どうやって越えるか。どこで一泊するか。国境で誰にどう見せるか」

「……」

「もう“行く”は決まったんでしょ」

「はい」

「じゃあ、ここからは具体的」

「霞」

「何」

「今のは、かなり護衛っぽいです」

「やめて」

「褒めています」

「やめてってば」


 かなめが笑いを堪えながら、膝を寄せるように座り直した。


「では、まず」

「はい」

「御朱印状を使うとしても、美濃の囲いが私たちを歓迎していないのは確かです」

「ええ」

「目立たぬ越え方が要る」

「はい」

「霞」

「何」

「あなたの作法が必要です」

「分かった」

「そして」

 かなめは若き僧を見る。

「巡修殿」

「はい」

「向こうの理に触れたとき、どこまで測れるか」

「それを見ます」

「……やはり、そこで戻るという選択肢はないのですね」

「ない、わけではありません」

「ありますか」

「理屈の上では」

「……」

「ですが、たぶん戻りません」

「そこは素直」

 霞が言う。

「最近、その言葉が多いですね」

「うん。今夜は大事だから」


 夜風が、三人のあいだを抜けた。


 国境の向こうはまだ暗い。

 美濃の囲いは、その闇の中で静かに閉じている。

 信長の火も、今はここから見えない。

 老術者の気配もまた、遠くに薄い。


 それでも、次の舞台はもう決まった。


 尾張の内で起きたことを、ただ見届けるだけの時間は終わる。

 ここからは、自分たちの足で境を越え、違う理の中へ入っていく章になる。


「では」

 若き僧が言った。

「明日、具体の段取りを組みましょう」

「はい」

 かなめが答える。

「うん」

 霞も頷く。

「尾張を越える理由は」

 若き僧は続けた。

「もう、三人とも持っている」

「……」

「そうですね」

 かなめが静かに言う。

「ええ」

「借りじゃなくても、もう十分」

 霞が小さく呟いた。

「はい」

 若き僧は答えた。

「かなり、です」


 今度は、かなめも霞も止めなかった。

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