第35話 尾張を越える理由
夜が深まるほど、国境の気配はむしろ輪郭を増した。
焚き火は小さいままにしてある。
木を節約したいからではない。大きく燃やせば、それだけ人にも、理にも、ここに三人がいると知らせてしまうからだ。
火は今、守るものではなく、隠しながら使うものだった。
若き僧は火の向こうに揺れるかなめと霞の顔を見ながら、静かに考えていた。
桶狭間の勝利から、まだ幾日も経っていない。
だがその短いあいだに、見たものは多かった。
勝ち戦の熱に浮く尾張。
敗者の影が城下へ流れ込む様。
小社に残る祈り。
国境に教え込まれた閉じた理。
そして、遠くからなお信長の火を測る老術者の気配。
ここまで見てなお、尾張の内に留まるという選択は、もはや半端だった。
だが同時に、国境を越えるというのは、ただ次の土地へ歩くことではない。
理の違う国へ入ること。
自分たちが見てきたものの“外側”へ出ることだ。
かなめが最初に口を開いた。
「……巡修殿」
「はい」
「さっきから、ずっと同じことを考えていますね」
若き僧は少しだけ目を細めた。
「そんなに分かりますか」
「分かります」
かなめは火を見つめたまま続けた。
「国境を越えるかどうか、でしょう」
「……ええ」
「しかも、もう半分以上は決めている顔です」
「かなめ殿」
「何です」
「最近、本当に鋭いですね」
「その褒め方、今は少し腹が立ちます」
「申し訳なく」
「でも、合っています」
かなめは小さく息を吐いた。
「私も、同じことを考えていました」
霞が膝を抱えたまま、二人を見比べる。
「巫女も?」
「ええ」
「へえ」
「何です」
「いや、てっきり巫女はもう少し悩むかと思ってた」
「悩んでいます」
かなめは即答した。
「かなり」
霞が思わず口元を押さえる。
「……今のはずるい」
「何がです」
「使い方」
「合っていましたか」
「合ってた」
「なら結構です」
「いや、結構じゃないけど」
若き僧は、火の向こうでやり取りする二人を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
こういう何でもない言葉の応酬があるだけで、夜の重さはほんの少し軽くなる。
だが、決めるべきことは決めねばならない。
「かなめ殿」
「はい」
「あなたは、本来なら尾張の社へ戻るべき立場です」
「ええ」
「ここから先は、美濃の理の中へ入ることになります」
「はい」
「それは、あなたにとって自分の神域の外側を、さらにもう一段深く歩くことになる」
「……」
「だから、残るという選択も正しい」
かなめはすぐには答えなかった。
焚き火の明かりが、その横顔に小さな揺れを作っている。
若い巫女だ。
だが、この数日のうちに、何度も自分の本分と外の現実のあいだで選ばされてきた。そのたびに彼女は、ただ感情で飛び出すのではなく、迷いごと抱えて立っていた。
「……残るのが正しい、と言われると」
かなめがようやく口を開く。
「はい」
「余計に、残れなくなりますね」
「かなめ殿」
「ずるいです」
「そうでしょうか」
「そうです。巡修殿は、たぶん本当に“どちらも正しい”と思っているのでしょう」
「ええ」
「だから余計に、こちらが決めるしかなくなる」
「……」
「その言い方、少し嫌いです」
「申し訳なく」
「でも」
かなめは、火ではなく国境の向こうの闇を見た。
「今の私には、必要な嫌さです」
若き僧は、そこで言葉を挟まなかった。
かなめが自分で辿り着くべき答えだからだ。
霞が、少しだけ声を落として言う。
「巫女」
「何です」
「戻りたい?」
かなめはすぐには答えなかった。
社のことを思い出しているのだろう。
白榊の小さな社。
井戸跡。
村人たち。
あの場所はかなめがいなければ守れぬ。
それは事実だ。
「……戻りたいです」
かなめは、はっきりとそう言った。
「自分の社ですから」
「うん」
「村の朝を守りたい。井戸の水も、子どもの眠りも、あの小さな社の呼吸も」
「ええ」
「全部、私にとっては大事です」
「はい」
「でも」
かなめの声は少しだけ低くなる。
「桶狭間のあと、熱田が揺れているのを見た」
「……」
「国境の小さな社が、美濃の囲いで痩せているのも見た」
「はい」
「信長の火が、もう尾張の中だけに収まらないのも見た」
「ええ」
「それを見てしまったのに、自分の社だけへ戻って“見なかったこと”にはできません」
火が、ぱち、と鳴った。
かなめは真っ直ぐ前を見たまま続ける。
「守るために、知る必要がある」
「……」
「尾張を越えて、理がどう変わるのか」
「はい」
「美濃が何を囲い、何を拒んでいるのか」
「ええ」
「それを見なければ、たぶん私は、これから先、自分の社すら守れません」
若き僧は静かに頷いた。
「その通りだと思います」
「やはり、そう言うのですね」
「はい」
「嬉しいのですが、今は少し悔しいです」
「どうして」
「私の中で、答えがもう決まってしまうからです」
「……」
かなめはゆっくりと息を吐いた。
「私は行きます」
「かなめ殿」
「尾張の巫女として」
「ええ」
「守るために、美濃を見に行きます」
その声には、もう揺れがなかった。
霞が少しだけ肩をすくめる。
「巫女、思ったより決めると早いね」
「悩みました」
「うん」
「かなり」
「それはもう分かった」
霞は小さく笑ってから、火を見下ろした。
今度は若き僧が彼女を見る番だった。
「霞」
「何」
「あなたは」
「……」
「尾張へ残っても構いません」
「またそれ言う」
「選べるべきですので」
「だから、それがずるいんだって」
霞は膝の上に顎を乗せ、しばらく黙った。
風が少し吹き、火の先が赤く細くなる。
「私さ」
「ええ」
「最初は、本当に借りだけだった」
「はい」
「林で助けられて、社に入れられて、切られなかった」
「ええ」
「だから、その分を返すまではって思ってた」
「はい」
「でも今は、もうちょっと面倒」
かなめが、少しだけ首を傾ける。
「面倒?」
「うん」
霞は火から目を離さずに言う。
「借りを返すだけなら、たぶんもう半分くらい返してる」
「……」
「坊主にも巫女にも、何回か助けられたけど、何回か私も役立ったし」
「そうですね」
若き僧が答えた。
「だろ?」
「ええ」
「でも、それで終わりにしていい感じがしない」
「……」
「国境の向こう、気持ち悪いし」
「はい」
「老爺もまだ見てるし」
「ええ」
「信長の火も、どう見ても止まらないし」
「そうですね」
「それで」
霞はようやく顔を上げた。
「このまま尾張に残って、“あとは知らない”ってやるの、たぶん無理」
かなめが静かに聞く。
「なぜです」
「……見ちゃったから」
「何を」
「いろいろ」
霞は少しだけ困ったように笑った。
「小さい社とか」
「……」
「巫女がよその神様にちゃんと礼を通してるとことか」
「……」
「坊主が、面倒くさいくせに、見たこと全部ちゃんと覚えようとしてるとことか」
「それは」
若き僧が言いかける。
「今は黙って」
霞が即座に返した。
「……はい」
「素直」
かなめがぼそりと言う。
「巫女までうるさい」
「聞こえています」
「それ今の使い方違うでしょ」
それでも、霞の顔には前のような刺々しさが薄かった。
「戻れないって分かった夜にさ」
霞は続けた。
「じゃあ今どこにいるんだって考えた」
「ええ」
「たぶん、まだ途中」
「途中」
「うん。使われる側でもないし、完全に誰かの味方って割り切れるほど綺麗でもない」
「……」
「でも、少なくとも今は」
霞は火の向こうで、かなめと若き僧を交互に見た。
「こっちにいたい」
「……」
かなめの目が少しだけ揺れる。
若き僧は何も言わなかった。
この一言は、霞にとってかなり大きい告白なのだと分かるからだ。
「だから」
霞は言う。
「借りの続きでもいいし、護衛でもいいし、面倒ごとの見張りでもいいけど」
「はい」
若き僧が促す。
「美濃まで行く」
「……」
「行って、向こうの理が何なのか、自分の目でも見たい」
「ええ」
「それで、もし本当にあの老爺みたいなのと同じか、それ以上に嫌な何かがあるなら」
「はい」
「今度は、使われる側じゃなくて、ちゃんと切る側に立つ」
「……霞」
かなめが静かに呼ぶ。
「何」
「今のは」
「うん」
「かなり覚悟のある言い方でした」
「やっぱそれ言う?」
「言います」
「うわあ」
「でも」
かなめは小さく息をついた。
「少し、嬉しいです」
「……」
「あなたが、自分で決めたのなら」
「……うん」
「なら、私はそれを信じます」
「……巫女」
「何です」
「今の、ずるい」
「どうして」
「ちょっと泣きそうになるから」
「え」
かなめが本気で戸惑う。
「それは」
「嘘だけど」
「霞!」
「半分くらい」
「その言い方を覚えないでください!」
「無理」
霞が、ようやく少しだけ笑った。
若き僧は、その二人のやり取りを見ながら、胸の内でひとつ答えを定めていた。
これでいい。
かなめは巫女として、美濃へ行く理由を持った。
霞は、もう“借りだけ”ではない理由で同行すると決めた。
ならば、自分もまた、記録者であるだけでは足りない地点へ、一歩進まねばならない。
「二人とも」
「はい」
かなめが応じる。
「何」
霞も顔を上げる。
「私も行きます」
「それは知ってる」
霞が即答した。
「ええ」
かなめも頷く。
「そこは疑っていません」
「……」
若き僧は少しだけ困ったように笑った。
「そうでしたか」
「今さら、坊主だけ尾張に残るとか言い出したら殴る」
霞が言う。
「それは少し怖いですね」
「かなり」
かなめが返した。
「今の使い方は上手いです」
「嬉しくありません」
若き僧は、焚き火の向こうの二人を見た。
「では、改めて言います」
「はい」
「うん」
「尾張を越えます」
「ええ」
かなめが答える。
「美濃の理を見に行く」
「はい」
「覇王の火がぶつかる前に」
「ええ」
「老術者が何を見ようとしているのかも、確かめる」
「そのつもりです」
「なら」
霞が言う。
「段取り決めよっか」
「段取り」
「うん。どうやって越えるか。どこで一泊するか。国境で誰にどう見せるか」
「……」
「もう“行く”は決まったんでしょ」
「はい」
「じゃあ、ここからは具体的」
「霞」
「何」
「今のは、かなり護衛っぽいです」
「やめて」
「褒めています」
「やめてってば」
かなめが笑いを堪えながら、膝を寄せるように座り直した。
「では、まず」
「はい」
「御朱印状を使うとしても、美濃の囲いが私たちを歓迎していないのは確かです」
「ええ」
「目立たぬ越え方が要る」
「はい」
「霞」
「何」
「あなたの作法が必要です」
「分かった」
「そして」
かなめは若き僧を見る。
「巡修殿」
「はい」
「向こうの理に触れたとき、どこまで測れるか」
「それを見ます」
「……やはり、そこで戻るという選択肢はないのですね」
「ない、わけではありません」
「ありますか」
「理屈の上では」
「……」
「ですが、たぶん戻りません」
「そこは素直」
霞が言う。
「最近、その言葉が多いですね」
「うん。今夜は大事だから」
夜風が、三人のあいだを抜けた。
国境の向こうはまだ暗い。
美濃の囲いは、その闇の中で静かに閉じている。
信長の火も、今はここから見えない。
老術者の気配もまた、遠くに薄い。
それでも、次の舞台はもう決まった。
尾張の内で起きたことを、ただ見届けるだけの時間は終わる。
ここからは、自分たちの足で境を越え、違う理の中へ入っていく章になる。
「では」
若き僧が言った。
「明日、具体の段取りを組みましょう」
「はい」
かなめが答える。
「うん」
霞も頷く。
「尾張を越える理由は」
若き僧は続けた。
「もう、三人とも持っている」
「……」
「そうですね」
かなめが静かに言う。
「ええ」
「借りじゃなくても、もう十分」
霞が小さく呟いた。
「はい」
若き僧は答えた。
「かなり、です」
今度は、かなめも霞も止めなかった。




