第33話 信長、次を見ている
翌朝、三人はまだ日が高くなりきらぬうちに野営地を発った。
国境近くの朝は、尾張の内側より少しだけ冷える。
風そのものが違うのだ。尾張の空気は、桶狭間の勝ち戦のあともなお熱を抱いて前へ流れている。だが美濃のほうから来る風は、冷たいというより、温度を均そうとする。突出したものを削り、燃えすぎたものを抑え、何もかもを“中”へ閉じ込めようとするような風だった。
若き僧は、歩きながら何度か北を見た。
美濃はまだ静かだ。
だが静かなものほど、時に大きな声より厄介である。
尾張が火なら、美濃は囲いだ。
どちらが上等とか下等ではなく、理の向きがまるで違う。
「……また見てる」
霞が言った。
「私がですか」
若き僧が問い返す。
「うん。しかも今度は、“向こうを見てるのに向こうじゃないものも見てる顔”」
「難しい表現ですね」
「でも分かる」
かなめが静かに言った。
「巡修殿、今は美濃だけではなく」
「はい」
「信長の火のほうも、同時に見ていますね」
「ええ」
若き僧はあっさり認めた。
桶狭間が終わり、尾張は勝った。
だが問題はそこではない。
その勝利を得た火が、ここから先どこまで伸びるのか。
それを見なければ、国境の囲いが何を拒もうとしているのかも、老術者が敗北のあと何を見極めようとしているのかも、半分しか分からない。
「ほんと、面倒くさい坊主」
霞がぼそりと言う。
「よく言われます」
「最近それ、自分でちょっと気に入ってるでしょ」
「少しだけ」
「ほら」
かなめが半眼になった。
「やはり」
「やはり、ではありません」
三人は尾張側の緩やかな坂を下り、街道の分岐へ出た。
ここから西へ取れば村々へ、北へ取れば美濃の境へ、南東へ戻れば信長の勢力圏へ繋がる。
人の流れも分かれていた。
戦の噂を追う者、商いの匂いを嗅ぐ者、様子見のために動く武士の使い。
その中で、若き僧だけが、別の流れを見ていた。
赤い。
まだ昨日ほど露骨ではない。
だが、たしかにある。
信長の火が、どこかで次を見ている。
「止まってください」
若き僧が不意に言った。
かなめも霞も、すぐに足を止める。
かなめは周囲を見回した。
「何か来ますか」
「来る、というより」
若き僧は息を整えた。
「もういる」
「何が」
「火です」
霞が首を傾げる。
「信長?」
「おそらく」
「近いの?」
「姿が見えるほどではありません」
若き僧は答えた。
「ですが、気配ははっきりしている」
「それって」
かなめが低く言う。
「桶狭間のときみたいな」
「ええ。ただし、少し違う」
「どう違うのです」
「昨日の火は、勝った直後の火でした」
「はい」
「今はもう、次へ向けて測る火です」
風が、ひとつ、街道の土を撫でていった。
その風に混じる気配を、若き僧は逃さない。
人の熱だけではない。
地の上を、まるで細い刃先のように進む意志の線がある。
尾張の内を一度めぐり、それからもう、国境の先を見始めている。
「……本当に」
かなめが息を呑んだ。
「落ち着かない火ですね」
「はい」
「勝ったのに、休んでいない」
「そうですね」
「むしろ勝ったから、さらに前へ出ている」
「その通りです」
霞は道の先を見ながら、小さく舌を鳴らした。
「怖」
「ええ」
若き僧が答える。
「でも」
「でも?」
「これが覇王の火なんでしょうね」
「……」
かなめは返事をしなかった。
だが、その顔にははっきりとした緊張が浮かんでいた。
信長の火を“すごい”と思うことと、“好き”になることは違う。
彼女はむしろ、その火の止まらなさに本能的な恐れを抱いているのだろう。
しばらくして、街道の向こうから、馬ではなく徒歩の一団が現れた。
武家の小者たち。
多くはない。
だが、その動きには尾張の勝ちを受けた独特の張りがある。兵としての威圧ではない。何かが上向き始めたときの、あの落ち着かぬ速さだ。
一団の中央には、ひときわ空気の違う若武者がいた。
姿そのものは、前に見たときと大きくは違わない。
だが今の彼からは、桶狭間前の“火種”のような焦れがやや薄れていた。代わりにあるのは、明らかな方向性だ。
熱が、定まっている。
「……信長」
かなめがごく小さく呟いた。
「はい」
若き僧が答える。
織田信長は、供回りとともに街道を進んでいる。
だが視線は、道の先ばかりを見てはいない。左右の土地、風、遠い林、国境のうねり、その全てを勘で拾っているかのようだった。
若き僧は、その目の危うさを改めて思う。
理を知らぬわけではない。
ただ、理に従うより先に、理を押し切って進んでしまう目だ。
「前に見たときより」
かなめが言う。
「ええ」
若き僧が頷く。
「怖いです」
「その通りかと」
「そこ、否定しないんですね」
「できません」
「……」
霞は小さく息を吐いた。
「なんか、分かる」
「何が」
かなめが問う。
「今のあれ、勝った人の顔じゃない」
「では」
「次に勝つ人の顔」
「……」
若き僧もかなめも、すぐには言葉を返さなかった。
だが、その表現は驚くほど正確だった。
桶狭間の勝利に酔う男なら、もっと広がり、もっと高ぶる。
けれど今の信長は違う。
むしろ、勝ったという事実を自分の内へ素早く沈め、次にどこを破るかだけを見ている。
だから、怖い。
一行はそのまま通り過ぎるかと思われた。
だが信長は、道の分岐の手前でふと歩みを緩めた。
ほんの一瞬だけ。
視線が、かなめたちのいるあたりを掠める。
かなめの呼吸が止まり、霞が反射的に重心をずらし、若き僧は動かなかった。
その一瞬で十分だった。
見られた。
いや、存在を“拾われた”のだ。
信長は何も言わない。
だが、その目の明るさが一拍だけ深くなった気がした。
そして次の瞬間には、もう歩を進めている。まるで最初から立ち止まらなかったかのように。
「……今の」
かなめが小声で言う。
「ええ」
若き僧が答えた。
「気づかれましたか」
「おそらく」
「嫌ですね」
「かなり」
「今のは許します」
かなめが真顔のまま言ったので、霞が吹き出しかけた。
「巫女、それ今言う?」
「今だからです」
「ちょっと慣れてきてるの腹立つ」
若き僧はまだ、信長の去った方角を見ていた。
火が、街道の上を細く長く引いている。
それは尾張の勝ちを背負う火であると同時に、もう美濃の方角を測る火でもあった。
明らかだった。
信長は桶狭間で止まらない。
そしてその火は、自分でもまだ全部を分かっていないまま、国を一つずつ巻き込んでいくのだろう。
「巡修殿」
かなめが静かに呼んだ。
「はい」
「今、何を思いましたか」
「……」
若き僧は少しだけ間を置いて答えた。
「厄介だと」
「ええ」
「そして」
「そして?」
「止まらぬだろうと」
「……」
かなめの顔から、わずかに色が引く。
それでも目は逸らさない。
「美濃の囲いも」
「ええ」
「老術者の残した手も」
「はい」
「そういうものを、全部押しながら進む?」
「押すというより」
若き僧は低く言った。
「ぶつかりながら進むでしょう」
「同じことでは」
「少し違います」
「どう」
「押して進む者は、止まれば終わる」
「ええ」
「ですが、ぶつかりながら進む火は、相手ごと自分も形を変える」
「……」
「たぶん、信長の火はそちらです」
霞が腕を組んだ。
「つまり、美濃に入る頃には、また別の火になるかもしれない」
「はい」
「ほんと、最悪」
「かなり」
若き僧が言う。
「でも」
霞は少しだけ口元を歪めた。
「ちょっと見たい」
「……」
「何です、その顔」
かなめが聞く。
「いや、嫌なんだよ」
「ええ」
「でも、さっきの見たら、あれがどうぶつかるか、ちょっと見たくなる」
「……」
「私も」
かなめがぽつりと言った。
「巫女まで?」
「ええ」
「まじか」
「怖いです」
かなめは正直に言う。
「でも、目を逸らせない」
「……」
「熱田が見たものの意味も、国境の囲いが何を拒もうとしているかも、あの火を見ないと分からない気がします」
「そうでしょうね」
若き僧が頷く。
「二人とも、完全に坊主の旅の病うつってる」
霞が嫌そうに言う。
「それは少し心外です」
「でも否定しない」
「たぶん、もともとの気質かと」
「そこ、ほんとずるい」
三人は、しばらくその分岐に立っていた。
信長はもう遠い。
だが火だけはまだ残っている。
そしてその火は、尾張の内に留まるものではなくなった。
国境の向こう、美濃の静かな囲いへ、間違いなく届く。
若き僧はそのことを、深いところで理解していた。
桶狭間の勝利は、今やただの戦果ではない。
次の国へ火を運ぶための、最初の風になっている。
だからこそ、次の章へ進まねばならない。
美濃の囲いが、何を守り、何を隠し、何を削ごうとしているのか。
覇王の火が、それにぶつかったとき何が起きるのか。
見届ける者として、そして必要ならほんの少しだけ手を入れる者として、彼らはもう引き返せなかった。




