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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第33話 信長、次を見ている

 翌朝、三人はまだ日が高くなりきらぬうちに野営地を発った。


 国境近くの朝は、尾張の内側より少しだけ冷える。

 風そのものが違うのだ。尾張の空気は、桶狭間の勝ち戦のあともなお熱を抱いて前へ流れている。だが美濃のほうから来る風は、冷たいというより、温度を均そうとする。突出したものを削り、燃えすぎたものを抑え、何もかもを“中”へ閉じ込めようとするような風だった。


 若き僧は、歩きながら何度か北を見た。


 美濃はまだ静かだ。

 だが静かなものほど、時に大きな声より厄介である。

 尾張が火なら、美濃は囲いだ。

 どちらが上等とか下等ではなく、理の向きがまるで違う。


「……また見てる」

 霞が言った。

「私がですか」

 若き僧が問い返す。

「うん。しかも今度は、“向こうを見てるのに向こうじゃないものも見てる顔”」

「難しい表現ですね」

「でも分かる」

 かなめが静かに言った。

「巡修殿、今は美濃だけではなく」

「はい」

「信長の火のほうも、同時に見ていますね」

「ええ」


 若き僧はあっさり認めた。


 桶狭間が終わり、尾張は勝った。

 だが問題はそこではない。

 その勝利を得た火が、ここから先どこまで伸びるのか。

 それを見なければ、国境の囲いが何を拒もうとしているのかも、老術者が敗北のあと何を見極めようとしているのかも、半分しか分からない。


「ほんと、面倒くさい坊主」

 霞がぼそりと言う。

「よく言われます」

「最近それ、自分でちょっと気に入ってるでしょ」

「少しだけ」

「ほら」

 かなめが半眼になった。

「やはり」

「やはり、ではありません」


 三人は尾張側の緩やかな坂を下り、街道の分岐へ出た。

 ここから西へ取れば村々へ、北へ取れば美濃の境へ、南東へ戻れば信長の勢力圏へ繋がる。

 人の流れも分かれていた。

 戦の噂を追う者、商いの匂いを嗅ぐ者、様子見のために動く武士の使い。

 その中で、若き僧だけが、別の流れを見ていた。


 赤い。


 まだ昨日ほど露骨ではない。

 だが、たしかにある。

 信長の火が、どこかで次を見ている。


「止まってください」


 若き僧が不意に言った。


 かなめも霞も、すぐに足を止める。

 かなめは周囲を見回した。


「何か来ますか」

「来る、というより」

 若き僧は息を整えた。

「もういる」

「何が」

「火です」


 霞が首を傾げる。


「信長?」

「おそらく」

「近いの?」

「姿が見えるほどではありません」

 若き僧は答えた。

「ですが、気配ははっきりしている」

「それって」

 かなめが低く言う。

「桶狭間のときみたいな」

「ええ。ただし、少し違う」

「どう違うのです」

「昨日の火は、勝った直後の火でした」

「はい」

「今はもう、次へ向けて測る火です」


 風が、ひとつ、街道の土を撫でていった。


 その風に混じる気配を、若き僧は逃さない。

 人の熱だけではない。

 地の上を、まるで細い刃先のように進む意志の線がある。

 尾張の内を一度めぐり、それからもう、国境の先を見始めている。


「……本当に」

 かなめが息を呑んだ。

「落ち着かない火ですね」

「はい」

「勝ったのに、休んでいない」

「そうですね」

「むしろ勝ったから、さらに前へ出ている」

「その通りです」


 霞は道の先を見ながら、小さく舌を鳴らした。


「怖」

「ええ」

 若き僧が答える。

「でも」

「でも?」

「これが覇王の火なんでしょうね」

「……」


 かなめは返事をしなかった。

 だが、その顔にははっきりとした緊張が浮かんでいた。

 信長の火を“すごい”と思うことと、“好き”になることは違う。

 彼女はむしろ、その火の止まらなさに本能的な恐れを抱いているのだろう。


 しばらくして、街道の向こうから、馬ではなく徒歩の一団が現れた。


 武家の小者たち。

 多くはない。

 だが、その動きには尾張の勝ちを受けた独特の張りがある。兵としての威圧ではない。何かが上向き始めたときの、あの落ち着かぬ速さだ。

 一団の中央には、ひときわ空気の違う若武者がいた。


 姿そのものは、前に見たときと大きくは違わない。

 だが今の彼からは、桶狭間前の“火種”のような焦れがやや薄れていた。代わりにあるのは、明らかな方向性だ。

 熱が、定まっている。


「……信長」

 かなめがごく小さく呟いた。

「はい」

 若き僧が答える。


 織田信長は、供回りとともに街道を進んでいる。

 だが視線は、道の先ばかりを見てはいない。左右の土地、風、遠い林、国境のうねり、その全てを勘で拾っているかのようだった。

 若き僧は、その目の危うさを改めて思う。

 理を知らぬわけではない。

 ただ、理に従うより先に、理を押し切って進んでしまう目だ。


「前に見たときより」

 かなめが言う。

「ええ」

 若き僧が頷く。

「怖いです」

「その通りかと」

「そこ、否定しないんですね」

「できません」

「……」


 霞は小さく息を吐いた。


「なんか、分かる」

「何が」

 かなめが問う。

「今のあれ、勝った人の顔じゃない」

「では」

「次に勝つ人の顔」

「……」

 若き僧もかなめも、すぐには言葉を返さなかった。

 だが、その表現は驚くほど正確だった。


 桶狭間の勝利に酔う男なら、もっと広がり、もっと高ぶる。

 けれど今の信長は違う。

 むしろ、勝ったという事実を自分の内へ素早く沈め、次にどこを破るかだけを見ている。

 だから、怖い。


 一行はそのまま通り過ぎるかと思われた。

 だが信長は、道の分岐の手前でふと歩みを緩めた。


 ほんの一瞬だけ。


 視線が、かなめたちのいるあたりを掠める。


 かなめの呼吸が止まり、霞が反射的に重心をずらし、若き僧は動かなかった。

 その一瞬で十分だった。

 見られた。

 いや、存在を“拾われた”のだ。


 信長は何も言わない。

 だが、その目の明るさが一拍だけ深くなった気がした。

 そして次の瞬間には、もう歩を進めている。まるで最初から立ち止まらなかったかのように。


「……今の」

 かなめが小声で言う。

「ええ」

 若き僧が答えた。

「気づかれましたか」

「おそらく」

「嫌ですね」

「かなり」

「今のは許します」

 かなめが真顔のまま言ったので、霞が吹き出しかけた。


「巫女、それ今言う?」

「今だからです」

「ちょっと慣れてきてるの腹立つ」


 若き僧はまだ、信長の去った方角を見ていた。


 火が、街道の上を細く長く引いている。

 それは尾張の勝ちを背負う火であると同時に、もう美濃の方角を測る火でもあった。

 明らかだった。

 信長は桶狭間で止まらない。

 そしてその火は、自分でもまだ全部を分かっていないまま、国を一つずつ巻き込んでいくのだろう。


「巡修殿」

 かなめが静かに呼んだ。

「はい」

「今、何を思いましたか」

「……」

 若き僧は少しだけ間を置いて答えた。

「厄介だと」

「ええ」

「そして」

「そして?」

「止まらぬだろうと」

「……」


 かなめの顔から、わずかに色が引く。

 それでも目は逸らさない。


「美濃の囲いも」

「ええ」

「老術者の残した手も」

「はい」

「そういうものを、全部押しながら進む?」

「押すというより」

 若き僧は低く言った。

「ぶつかりながら進むでしょう」

「同じことでは」

「少し違います」

「どう」

「押して進む者は、止まれば終わる」

「ええ」

「ですが、ぶつかりながら進む火は、相手ごと自分も形を変える」

「……」

「たぶん、信長の火はそちらです」


 霞が腕を組んだ。


「つまり、美濃に入る頃には、また別の火になるかもしれない」

「はい」

「ほんと、最悪」

「かなり」

 若き僧が言う。

「でも」

 霞は少しだけ口元を歪めた。

「ちょっと見たい」

「……」

「何です、その顔」

 かなめが聞く。

「いや、嫌なんだよ」

「ええ」

「でも、さっきの見たら、あれがどうぶつかるか、ちょっと見たくなる」

「……」

「私も」

 かなめがぽつりと言った。

「巫女まで?」

「ええ」

「まじか」

「怖いです」

 かなめは正直に言う。

「でも、目を逸らせない」

「……」

「熱田が見たものの意味も、国境の囲いが何を拒もうとしているかも、あの火を見ないと分からない気がします」

「そうでしょうね」

 若き僧が頷く。

「二人とも、完全に坊主の旅の病うつってる」

 霞が嫌そうに言う。

「それは少し心外です」

「でも否定しない」

「たぶん、もともとの気質かと」

「そこ、ほんとずるい」


 三人は、しばらくその分岐に立っていた。


 信長はもう遠い。

 だが火だけはまだ残っている。

 そしてその火は、尾張の内に留まるものではなくなった。

 国境の向こう、美濃の静かな囲いへ、間違いなく届く。


 若き僧はそのことを、深いところで理解していた。

 桶狭間の勝利は、今やただの戦果ではない。

 次の国へ火を運ぶための、最初の風になっている。


 だからこそ、次の章へ進まねばならない。


 美濃の囲いが、何を守り、何を隠し、何を削ごうとしているのか。

 覇王の火が、それにぶつかったとき何が起きるのか。

 見届ける者として、そして必要ならほんの少しだけ手を入れる者として、彼らはもう引き返せなかった。

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