第32話 霞、帰る場所を失った夜
その夜、国境近くの空は妙に広く見えた。
尾張の内に戻れば、まだ人の気配がある。村の灯、遅くまで続く話し声、勝ち戦の噂を確かめ合う戸口のざわめき。
だが国境に近づくほど、そうした“人のぬくもり”は途切れ途切れになり、代わりに風の音だけが大きくなる。
美濃を覆う囲いの気は、夜になるといっそうはっきりしていた。押し返すわけでも、威嚇するわけでもない。ただ、越えてくるものを静かに疲れさせる、あの閉じた理だ。
三人はその夜、尾張側の小さな村外れで野営することにした。
街道から少し外れた、低い林と田のあいだ。
かなめは最初、野宿にあまり乗り気ではなかった。巫女として社のある屋根の下にいることに慣れているし、何より野外は神域の守りが薄い。
だが今は、そうも言っていられない。美濃の国境を見続けるなら、町や村の中心で眠るより、こうして境に近い夜の気配を拾える場所のほうが都合がよかった。
火は小さく。
煙は少なく。
霞がそう決めた。
「大きくすると?」
かなめが問う。
「見つかる」
霞が即答する。
「誰に」
「誰にでも」
「また雑ですね」
「雑じゃない。夜の火は、それだけで“ここに人がいる”って言う札になる」
「……」
「坊主の御朱印状は便利だけど、便利だからって毎回堂々と寝てたら死ぬ」
「それは、たしかに」
若き僧が頷く。
「巡修殿まで」
かなめが半眼になる。
「いや、そこは同意します」
「ええ」
「最近、二人ともこういうときだけやけに息が合いますね」
「かなめ殿も、いずれ」
「嫌です」
霞が少し笑う。
「でも、その顔でだいぶ慣れてきてる」
「……否定しきれません」
野営の支度を整えたあと、かなめは湯を少しだけ温め、若き僧は周囲の気配を探り、霞は林際を回って戻ってきた。
問題はない。
少なくとも、人の追跡は今夜のところ近くにはない。
だが、問題がない夜ほど、人は逆に自分の内側と向き合わされる。
火の向こうで、霞が珍しく静かだった。
いつもなら、かなめの言葉へ一つ返し、若き僧の物言いへ半分嫌そうに絡み、そうやって空気を流す。
けれど今夜は違った。
頬杖をつき、膝を抱えて、火の芯だけを見ている。
顔はいつものように不機嫌そうなのに、その不機嫌さに“外へ向いている刃”がない。
かなめが最初にそれに気づいた。
「……霞」
「何」
「静かですね」
「うるさい巫女」
「今のは、少しだけ心配しているのです」
「……」
「何か考え込んでいるでしょう」
「別に」
「別に、という顔ではありません」
「そういうの分かるようになったの、あの坊主のせい?」
「半分くらいは」
「うわ」
「不本意です」
「でも合ってる」
霞はそう言って、また火へ目を戻した。
若き僧はしばらく黙っていた。
無理に聞き出しても、今の霞は閉じるだけだろう。
彼女は元来、問い詰められると棘で返す。
だが、自分から言葉を探し始めたときは、押さぬほうがいい。
かなめもそれが分かったらしく、それ以上すぐには踏み込まなかった。
火が、ぱち、と小さく鳴った。
夜の風は冷たくない。
だが、国境の近くの風には、どこか“帰る場所を測る”ような気配がある。
その風の中で、霞がぽつりと言った。
「……戻れないなって」
かなめがゆっくり顔を上げる。
若き僧は何も言わず、火の向こうの霞を見た。
「何に」
かなめが静かに問うた。
「向こう」
「東海の側に」
「うん」
霞は笑っていなかった。
「頭では、分かってた」
「……」
「林で切られたときから、ああ、もうこれ終わったなって」
「ええ」
若き僧が短く応じる。
「でも、どっかでまだ、“上手く立ち回れば戻れるかも”って思ってたのかも」
「……」
「使われる側ってさ」
霞は指先で地面の小石をいじった。
「切り捨てられても、次の主人探すとか、前のやつにまた売り込むとか、そういうの、普通にある」
「そうでしょうね」
若き僧が答える。
「うん。でも」
「でも?」
「今は、それすらもう嫌」
かなめの目がわずかに揺れる。
それは同情ではなく、初めて“帰る場所を失う”という言葉の重みを、その年の近い少女の口から聞いた驚きだった。
「老爺に戻れないとか、東海の連中に戻れないとか、それだけじゃない」
霞は続けた。
「もっと、こう……」
「何です」
かなめが問う。
「前みたいに、“誰かに使われる側”に戻るのが嫌」
「……」
若き僧はその言葉を、静かに受け止めた。
林で切られそうになったこと。
かなめの社で、敵としてではなく“ここにいていい”と言われたこと。
熱田で信長の火を見たこと。
国境の小さな社にかなめが祈る姿を見たこと。
それら全部が、霞の中で何かを変えたのだろう。
「じゃあ」
かなめが言う。
「今は、どこにいるのです」
「……」
「戻れないのは分かりました」
「うん」
「でも、今ここにいる理由は」
霞は少しだけ眉を寄せた。
「それ、ずるい聞き方」
「どうして」
「答えなきゃいけない感じする」
「したくなければしなくていいです」
「……」
「でも、聞きたいです」
「巫女」
「何です」
「最近ほんと、そういうとこある」
「巡修殿の影響なら嫌です」
「かなり受けてると思う」
「不本意です」
若き僧は少しだけ口元を緩めたが、何も挟まなかった。
今はかなめが聞くほうがいい。
巫女であり、同じ年頃の娘でもある彼女の声は、霞が一番受け取りやすいのだろう。
霞はしばらく火を見つめ、それから言った。
「借り、って言ったでしょ」
「ええ」
かなめが頷く。
「林で助けられて、社に置いてもらって、そういうの」
「はい」
「最初は、それだけだった」
「ええ」
「でも今は、ちょっと違う」
「……」
かなめも、若き僧も、黙って待った。
「坊主たちって」
霞は言葉を探すようにゆっくり続ける。
「甘くないじゃん」
「……」
「助けるけど、何したかはちゃんと覚えてる。巫女なんか特にそう」
「それは」
かなめが少しだけ目を細める。
「当然です」
「うん。でも」
「でも?」
「それなのに、“戻れないなら死ね”っては言わない」
「……」
「“じゃあどうする”って聞いてくる」
「はい」
「それが、何か……」
「何です」
「嫌じゃない」
最後の一言は、ほとんど聞き取れぬほど小さかった。
だがかなめには届いたし、若き僧にも当然届いていた。
「それは」
かなめが慎重に言う。
「良かったです」
「……そういう真面目な返し、やめて」
「何故です」
「照れるから」
「霞」
「何」
「今のは、かなり素直でした」
「うわあ」
霞が顔を覆う。
「やっぱり言うと思った!」
「言います」
「最悪」
「かなり?」
かなめが少しだけ意地悪く返す。
霞が、火の向こうで本気で嫌そうな顔をした。
「巫女まで覚えた」
「不本意です」
「でも使ってる」
「……否定しません」
若き僧がそこで、静かに口を開いた。
「霞」
「何」
「戻る場所を失ったのは、辛いことだと思います」
「……」
「誰にでも耐えられることではありません」
「うん」
「ですが」
「出た、その“ですが”」
「はい」
「……聞く」
「今ここで、自分で選んでいるなら」
「……」
「それは、前より良い立ち方です」
「……」
「使われる側ではなく」
霞は少しだけ目を細めた。
「今、ちょっと格好いいこと言った?」
「そうでしょうか」
「うん」
「光栄です」
「でも、そういうのさらっと言うから腹立つ」
「申し訳なく」
「たぶん反省してない」
「少しは」
「その“少し”怪しいんだよね」
かなめが火の向こうで、ほんの少しだけ柔らかい顔をした。
「霞」
「何」
「今ここにいる理由が、借りだけでなくなったのなら」
「……」
「それは、良いことだと思います」
「……」
「護衛でも」
「うん」
「同行者でも」
「うん」
「何でもいいですけれど」
「何それ、雑」
「本音です」
「巫女の本音、たまにひどい」
「あなたに言われたくありません」
「それはそう」
若き僧は、その二人のやり取りを見ながら、胸の内で静かに頷いた。
霞はまだ完全には変わっていない。
尖っているし、逃げ道も残している。
だが、“使われる側へ戻りたくない”と自分で言ったのなら、もう半分以上は前へ出ている。
あとは、その技を何のために使うかを、自分で積み重ねていくだけだ。
夜は静かに更けていく。
火は小さい。
だが暖かい。
かなめはいつの間にか肩の力を少し抜いていて、霞も膝を抱えたまま、さっきほどには硬くない顔をしていた。
しばらくして、霞がぽつりと呟く。
「ねえ、坊主」
「はい」
「記録に、こういうのも書くの」
「書きます」
「……うわ」
「だめでしょうか」
「だめっていうか、嫌」
「ですが、大事なことかと」
「どこが」
「あなたが、帰る場所を失った夜のことです」
「それ題っぽく言うのやめて」
「今、少し格好いいと思ったのですが」
「思わなくていい!」
「でも」
かなめが言う。
「たしかに、記しておくべきことではあります」
「巫女まで」
「だって、これも旅の始まりの一つでしょう」
「……」
「嫌ですか」
「……嫌じゃない」
「それなら」
「でも、かっこよくは書かないで」
「どうして」
「そんな器じゃないし」
「分かりました」
若き僧が頷く。
「そのまま書きます」
「それもやだ」
「注文が多いですね」
「うるさい」
かなめが笑いを堪えきれず、少しだけ肩を震わせた。
夜風が火を揺らした。
美濃の囲いはなお近く、尾張の火はなお遠くで広がり続けている。
その狭間で、三人は小さな火を囲んでいた。
巫女。
僧。
くノ一。
本来なら交わるはずのない理と人生が、今こうして同じ夜を分け合っている。
若き僧は、その光景を静かに心へ刻んだ。
乱世の裏側は、いつも刃や術だけで形作られるわけではない。
こうして、誰かが“もう戻りたくない”と口にする夜もまた、確かに一つの転機なのだ。




