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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第32話 霞、帰る場所を失った夜

 その夜、国境近くの空は妙に広く見えた。


 尾張の内に戻れば、まだ人の気配がある。村の灯、遅くまで続く話し声、勝ち戦の噂を確かめ合う戸口のざわめき。

 だが国境に近づくほど、そうした“人のぬくもり”は途切れ途切れになり、代わりに風の音だけが大きくなる。

 美濃を覆う囲いの気は、夜になるといっそうはっきりしていた。押し返すわけでも、威嚇するわけでもない。ただ、越えてくるものを静かに疲れさせる、あの閉じた理だ。


 三人はその夜、尾張側の小さな村外れで野営することにした。


 街道から少し外れた、低い林と田のあいだ。

 かなめは最初、野宿にあまり乗り気ではなかった。巫女として社のある屋根の下にいることに慣れているし、何より野外は神域の守りが薄い。

 だが今は、そうも言っていられない。美濃の国境を見続けるなら、町や村の中心で眠るより、こうして境に近い夜の気配を拾える場所のほうが都合がよかった。


 火は小さく。

 煙は少なく。

 霞がそう決めた。


「大きくすると?」

 かなめが問う。

「見つかる」

 霞が即答する。

「誰に」

「誰にでも」

「また雑ですね」

「雑じゃない。夜の火は、それだけで“ここに人がいる”って言う札になる」

「……」

「坊主の御朱印状は便利だけど、便利だからって毎回堂々と寝てたら死ぬ」

「それは、たしかに」

 若き僧が頷く。

「巡修殿まで」

 かなめが半眼になる。

「いや、そこは同意します」

「ええ」

「最近、二人ともこういうときだけやけに息が合いますね」

「かなめ殿も、いずれ」

「嫌です」

 霞が少し笑う。

「でも、その顔でだいぶ慣れてきてる」

「……否定しきれません」


 野営の支度を整えたあと、かなめは湯を少しだけ温め、若き僧は周囲の気配を探り、霞は林際を回って戻ってきた。

 問題はない。

 少なくとも、人の追跡は今夜のところ近くにはない。

 だが、問題がない夜ほど、人は逆に自分の内側と向き合わされる。


 火の向こうで、霞が珍しく静かだった。


 いつもなら、かなめの言葉へ一つ返し、若き僧の物言いへ半分嫌そうに絡み、そうやって空気を流す。

 けれど今夜は違った。

 頬杖をつき、膝を抱えて、火の芯だけを見ている。

 顔はいつものように不機嫌そうなのに、その不機嫌さに“外へ向いている刃”がない。


 かなめが最初にそれに気づいた。


「……霞」

「何」

「静かですね」

「うるさい巫女」

「今のは、少しだけ心配しているのです」

「……」

「何か考え込んでいるでしょう」

「別に」

「別に、という顔ではありません」

「そういうの分かるようになったの、あの坊主のせい?」

「半分くらいは」

「うわ」

「不本意です」

「でも合ってる」


 霞はそう言って、また火へ目を戻した。


 若き僧はしばらく黙っていた。

 無理に聞き出しても、今の霞は閉じるだけだろう。

 彼女は元来、問い詰められると棘で返す。

 だが、自分から言葉を探し始めたときは、押さぬほうがいい。


 かなめもそれが分かったらしく、それ以上すぐには踏み込まなかった。


 火が、ぱち、と小さく鳴った。


 夜の風は冷たくない。

 だが、国境の近くの風には、どこか“帰る場所を測る”ような気配がある。

 その風の中で、霞がぽつりと言った。


「……戻れないなって」


 かなめがゆっくり顔を上げる。

 若き僧は何も言わず、火の向こうの霞を見た。


「何に」

 かなめが静かに問うた。

「向こう」

「東海の側に」

「うん」


 霞は笑っていなかった。


「頭では、分かってた」

「……」

「林で切られたときから、ああ、もうこれ終わったなって」

「ええ」

 若き僧が短く応じる。

「でも、どっかでまだ、“上手く立ち回れば戻れるかも”って思ってたのかも」

「……」

「使われる側ってさ」

 霞は指先で地面の小石をいじった。

「切り捨てられても、次の主人探すとか、前のやつにまた売り込むとか、そういうの、普通にある」

「そうでしょうね」

 若き僧が答える。

「うん。でも」

「でも?」

「今は、それすらもう嫌」


 かなめの目がわずかに揺れる。

 それは同情ではなく、初めて“帰る場所を失う”という言葉の重みを、その年の近い少女の口から聞いた驚きだった。


「老爺に戻れないとか、東海の連中に戻れないとか、それだけじゃない」

 霞は続けた。

「もっと、こう……」

「何です」

 かなめが問う。

「前みたいに、“誰かに使われる側”に戻るのが嫌」

「……」


 若き僧はその言葉を、静かに受け止めた。


 林で切られそうになったこと。

 かなめの社で、敵としてではなく“ここにいていい”と言われたこと。

 熱田で信長の火を見たこと。

 国境の小さな社にかなめが祈る姿を見たこと。

 それら全部が、霞の中で何かを変えたのだろう。


「じゃあ」

 かなめが言う。

「今は、どこにいるのです」

「……」

「戻れないのは分かりました」

「うん」

「でも、今ここにいる理由は」

 霞は少しだけ眉を寄せた。

「それ、ずるい聞き方」

「どうして」

「答えなきゃいけない感じする」

「したくなければしなくていいです」

「……」

「でも、聞きたいです」

「巫女」

「何です」

「最近ほんと、そういうとこある」

「巡修殿の影響なら嫌です」

「かなり受けてると思う」

「不本意です」


 若き僧は少しだけ口元を緩めたが、何も挟まなかった。

 今はかなめが聞くほうがいい。

 巫女であり、同じ年頃の娘でもある彼女の声は、霞が一番受け取りやすいのだろう。


 霞はしばらく火を見つめ、それから言った。


「借り、って言ったでしょ」

「ええ」

 かなめが頷く。

「林で助けられて、社に置いてもらって、そういうの」

「はい」

「最初は、それだけだった」

「ええ」

「でも今は、ちょっと違う」

「……」


 かなめも、若き僧も、黙って待った。


「坊主たちって」

 霞は言葉を探すようにゆっくり続ける。

「甘くないじゃん」

「……」

「助けるけど、何したかはちゃんと覚えてる。巫女なんか特にそう」

「それは」

 かなめが少しだけ目を細める。

「当然です」

「うん。でも」

「でも?」

「それなのに、“戻れないなら死ね”っては言わない」

「……」

「“じゃあどうする”って聞いてくる」

「はい」

「それが、何か……」

「何です」

「嫌じゃない」


 最後の一言は、ほとんど聞き取れぬほど小さかった。

 だがかなめには届いたし、若き僧にも当然届いていた。


「それは」

 かなめが慎重に言う。

「良かったです」

「……そういう真面目な返し、やめて」

「何故です」

「照れるから」

「霞」

「何」

「今のは、かなり素直でした」

「うわあ」

 霞が顔を覆う。

「やっぱり言うと思った!」

「言います」

「最悪」

「かなり?」

 かなめが少しだけ意地悪く返す。

 霞が、火の向こうで本気で嫌そうな顔をした。

「巫女まで覚えた」

「不本意です」

「でも使ってる」

「……否定しません」

 若き僧がそこで、静かに口を開いた。


「霞」

「何」

「戻る場所を失ったのは、辛いことだと思います」

「……」

「誰にでも耐えられることではありません」

「うん」

「ですが」

「出た、その“ですが”」

「はい」

「……聞く」

「今ここで、自分で選んでいるなら」

「……」

「それは、前より良い立ち方です」

「……」

「使われる側ではなく」


 霞は少しだけ目を細めた。


「今、ちょっと格好いいこと言った?」

「そうでしょうか」

「うん」

「光栄です」

「でも、そういうのさらっと言うから腹立つ」

「申し訳なく」

「たぶん反省してない」

「少しは」

「その“少し”怪しいんだよね」


 かなめが火の向こうで、ほんの少しだけ柔らかい顔をした。


「霞」

「何」

「今ここにいる理由が、借りだけでなくなったのなら」

「……」

「それは、良いことだと思います」

「……」

「護衛でも」

「うん」

「同行者でも」

「うん」

「何でもいいですけれど」

「何それ、雑」

「本音です」

「巫女の本音、たまにひどい」

「あなたに言われたくありません」

「それはそう」


 若き僧は、その二人のやり取りを見ながら、胸の内で静かに頷いた。


 霞はまだ完全には変わっていない。

 尖っているし、逃げ道も残している。

 だが、“使われる側へ戻りたくない”と自分で言ったのなら、もう半分以上は前へ出ている。

 あとは、その技を何のために使うかを、自分で積み重ねていくだけだ。


 夜は静かに更けていく。


 火は小さい。

 だが暖かい。

 かなめはいつの間にか肩の力を少し抜いていて、霞も膝を抱えたまま、さっきほどには硬くない顔をしていた。


 しばらくして、霞がぽつりと呟く。


「ねえ、坊主」

「はい」

「記録に、こういうのも書くの」

「書きます」

「……うわ」

「だめでしょうか」

「だめっていうか、嫌」

「ですが、大事なことかと」

「どこが」

「あなたが、帰る場所を失った夜のことです」

「それ題っぽく言うのやめて」

「今、少し格好いいと思ったのですが」

「思わなくていい!」

「でも」

 かなめが言う。

「たしかに、記しておくべきことではあります」

「巫女まで」

「だって、これも旅の始まりの一つでしょう」

「……」

「嫌ですか」

「……嫌じゃない」

「それなら」

「でも、かっこよくは書かないで」

「どうして」

「そんな器じゃないし」

「分かりました」

 若き僧が頷く。

「そのまま書きます」

「それもやだ」

「注文が多いですね」

「うるさい」


 かなめが笑いを堪えきれず、少しだけ肩を震わせた。


 夜風が火を揺らした。

 美濃の囲いはなお近く、尾張の火はなお遠くで広がり続けている。

 その狭間で、三人は小さな火を囲んでいた。


 巫女。

 僧。

 くノ一。

 本来なら交わるはずのない理と人生が、今こうして同じ夜を分け合っている。


 若き僧は、その光景を静かに心へ刻んだ。


 乱世の裏側は、いつも刃や術だけで形作られるわけではない。

 こうして、誰かが“もう戻りたくない”と口にする夜もまた、確かに一つの転機なのだ。

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