第28話 勝者の城下、敗者の影
尾張の城下へ近づくにつれ、道の空気はまた違う熱を帯び始めた。
村々を巡る噂の熱とは違う。
もっと近く、もっと生臭く、もっと人間の欲に触れている熱だ。
勝った国の城下町というものは、祝賀だけで膨らむわけではない。勝ったからこそ、商いは早く動き、口は軽くなり、野心は表へ出る。敗者の影は薄れず、むしろ人の群れの足元で長く伸びる。
若き僧は街道の土を踏みながら、城下の気配をじっと読んでいた。
尾張の火はたしかに広がっている。
だがそれは、城の天守にだけ宿るものではない。城下の市へ、武家地の塀沿いへ、酒の匂いの残る裏路地へ、勝ち馬に乗りたがる者たちの視線の中へ、ばらばらの火となって散り始めている。
この段階の火は、まだ覇王の炎そのものではない。
それに照らされて、人がそれぞれ勝手に燃え始めるのだ。
「……嫌な感じ」
霞が、町へ入る手前で眉をひそめた。
「どう嫌なのです」
かなめが問う。
「浮かれてるのに、浮かれきってない」
「……」
「勝ったって騒いでるくせに、誰も完全には安心してない」
「ええ」
若き僧が答える。
「よく見ていますね」
「こういう空気、嫌いだから」
「嫌いなものほど分かる?」
「そう。あと、嫌いな空気ってだいたい面倒ごとが起きる」
かなめは小さく息をついた。
「今のところ、その霞の勘はよく当たります」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「それ、坊主のうつってる」
「不本意です」
「でも似てきた」
「……否定しきれません」
三人が城下へ入ると、すぐにその違和感は目に見える形で現れた。
表通りは賑わっている。
商人が声を張り、布や塩や油を売る者が慌ただしく往来し、武家の小者たちが早足に駆けていく。勝ち戦の直後らしく、どこかよそよそしい興奮が町全体を包んでいた。
だが、顔をよく見れば分かる。
皆が笑っているわけではない。
目だけが忙しい者。
口元だけで調子よく勝ちを語る者。
誰がこれから重く用いられ、誰が逆に見捨てられるかを、互いに測り合っている顔だ。
「……勝ったあとの町って、もっと素直に喜ぶものかと思っていました」
かなめが低く言う。
「そういう町もあります」
若き僧が答えた。
「ここは違う」
「はい。尾張の勝ちは大きい。だからこそ、次に誰が得をするかを皆が見始めている」
「嫌ですね」
「ええ」
「かなり」
霞が言う。
「今の使い方は正しいですね」
若き僧が頷く。
「でしょ」
「二人とも、最近それで会話をまとめるのやめてください」
かなめが半眼になる。
「分かりやすいので」
「それが嫌なのです」
若き僧は表通りを外れ、少し細い道へ入った。
そこは店の裏手や荷置き場に通じるような通りで、表の賑わいに比べれば人の数も少ない。だが、こういう場所にこそ“勝者の城下の裏側”が溜まる。
霞がすぐに気づいた。
「……いる」
「何が」
かなめが問う。
「崩れたの」
「今川残党?」
「たぶん、それも混ざってる」
若き僧も足を緩めた。
道の角。
軒の陰。
荷車の裏。
町人に紛れきれぬ緊張を背負った者が、何人もいる。槍や刀をむき出しにしているわけではない。だが、身の置き所が定まらぬ兵の気配は、いくら格好を変えても完全には消えない。
「城下にまで、こんなに」
かなめが眉を寄せる。
「勝った町ほど、人は流れ込みます」
若き僧が答える。
「食うために。隠れるために。あるいは何かを掴むために」
「……」
そのときだった。
表通りの向こうから、怒鳴り声がひとつ響いた。
「待て、こら!」
続いて、何かが倒れる鈍い音。
城下のざわめきが、一瞬だけ形を変える。人々は完全に散るわけではない。だが、面倒ごとへ巻き込まれぬよう、そこだけ薄く輪が開く。
「行く?」
霞が訊く。
かなめがすぐに若き僧を見る。
「どうします」
「見ます」
若き僧は短く答えた。
三人が人垣の端へ寄ると、そこには一人の若い男が転がっていた。
着物は泥と血で汚れ、足取りもおぼつかない。今川の兵だったのだろう、着崩した布の下から、もとは東海側の色をしていたと思しき装いが覗いている。
その前に立っているのは、尾張の町人風の男たち三人。棒を持ち、口では威勢よく罵っているが、顔つきからすると町の自警というより“弱った者を叩ける時だけ強い”類の者たちだ。
「今川の残党め!」
「尾張の城下で何してやがる!」
「勝ったからって、こういうのまで増えるなんて最悪だな……」
霞が低く言った。
若い男は立ち上がろうとして、また膝をついた。
もう戦う力はほとんど残っていないように見える。
だが、その目だけがまだ死んでいなかった。追い詰められた獣のように、人垣の向こうまで見ている。
かなめがわずかに前へ出た。
「巡修殿」
「ええ」
「見過ごせません」
「分かっています」
若き僧は人垣を割って進み出た。
「そこまでに」
声音は強くない。
だが、よく通った。
棒を持った男たちが振り返る。
「何だ、坊主」
「ただの坊主ではありません。朝廷の御朱印状を預かる旅の僧です」
「……」
「城下で私闘は感心しません」
「私闘だぁ?」
男の一人が吐き捨てる。
「今川の残党がいるんだぞ!」
「それでもです」
「こいつらのせいで、尾張は危なかったんだ!」
「ええ」
若き僧は静かに答えた。
「ですが、今ここで棒を振るう相手は、もう戦場にいません」
「何だと」
「これは勝ち戦の始末ではなく、弱った者への鬱憤晴らしでしょう」
「……っ」
言い当てられたからだろう。
男たちの顔色が変わる。
かなめがその横に立った。
白衣と緋袴は、こういう場では思いのほか効く。
町人たちも、ただの流れ者には強く出られても、巫女を相手にあからさまな無礼はしづらいらしい。
「勝ったのなら」
かなめが言う。
「なおさら、こうした振る舞いは慎むべきです」
「巫女さま、でもこいつは……」
「人です」
「……」
「敵兵であったとしても、ここはもう戦場ではありません」
「……」
最後の一人がなお何か言い募ろうとしたとき、霞が少し前へ出た。
「それ以上やるなら、城下の見回り呼ぶよ」
「……!」
「今の尾張で、勝ち戦のあとに町で私刑みたいな真似してるって知られたら、どっちが面倒になると思う?」
その言い方は、かなめや若き僧と違って、綺麗ごとではない。
だが、こういう相手にはよほど効くらしい。
男たちは顔を見合わせ、舌打ちして棒を引いた。
「……ちっ、面倒くせえ」
「今度見かけたら追い出すぞ」
「どうぞ」
霞が鼻を鳴らす。
「でも、そのときはちゃんと城下の役人に言ってからね」
「……」
男たちは結局、悪態だけ残して去っていった。
人垣もすぐに薄くなる。
町の人間は、面白いものは見るが、長く関わりはしない。
残ったのは、泥に膝をついた若い男と、三人だけだった。
かなめがそっと近づく。
「立てますか」
「……」
男はすぐには答えず、三人を見上げた。かなめの白衣、若き僧の法衣、霞の夜色の衣。どういう組み合わせだと思ったのか、ひどく訝しげな顔をする。
「敵じゃない」
霞が先に言う。
「少なくとも今は」
「その言い方」
かなめが小さく咎める。
「でも本当でしょ」
「……」
若い男は咳き込み、ようやく低い声を出した。
「なぜ、助ける」
「なぜ、ですか」
若き僧が答える。
「ここが戦場ではないからです」
「……」
「それでは足りませんか」
「……坊主の言うことは分からん」
若き僧は少しだけ苦笑した。
「よく言われます」
「今それ、本人に言う?」
霞が呆れたように言う。
「事実なので」
「もうそういうとこだよ」
かなめが若い男の腕を取り、立たせようとする。
男は一度だけ身を引きかけたが、かなめの顔を見て力を抜いた。よほど消耗しているらしい。
「今川方ですか」
かなめが問う。
「……だった」
男が答える。
「だった?」
「もう、どこにも帰れん」
「……」
その一言で、若き僧は男の纏う気配の理由を理解した。
敗者の影だ。
今川義元が討たれ、大軍が崩れたあと、散っていく兵の中にはこういう者が少なくないのだろう。主を失い、陣を失い、帰る先を失い、それでもまだ生きている者。
勝ち戦の城下にとって、最も扱いづらい存在の一つだ。
霞が低く言った。
「こういうのが増える」
「ええ」
若き僧が答える。
「勝者の城下に」
「そういうことです」
かなめは男の腕を支えながら、厳しい顔で言った。
「でも、放っておけば野盗になる」
「あるいは恨みを抱いたまま、裏へ潜る」
若き僧が続ける。
「勝った城下ほど、そういう影を生む」
「……最悪」
霞が言う。
「かなり」
若き僧が答えた。
かなめが思わず額へ手を当てる。
「今のはもう分かっていても少し腹が立ちます」
「申し訳なく」
「本当に、そう思ってます?」
「半分くらいは」
「やはり」
かなめは若い男を見た。
「あなた、行くあては」
「ない」
「傷は」
「深くはない」
「嘘ですね」
「……」
「歩けないでしょう」
「……」
男は何も言えず、目を逸らした。
若き僧は少し考え、それから言った。
「かなめ殿」
「はい」
「このまま城下に残しては、また同じことになるでしょう」
「ええ」
「ですが、社へ連れ帰るのも違う」
「そうですね」
「では」
「はい」
「城下の外れにある寺へ預けましょう」
「寺」
「戦のあと、こういう者を一時的に寝かせる場所があるはずです」
「分かりますか」
「少しは」
若き僧は答えた。
「御朱印状もありますので」
霞が男の顔を覗き込みながら言う。
「嫌ならここで別れてもいいけど」
「……」
「ただ、次はもっと容赦ないのに当たると思う」
「……」
「今の尾張、そういう空気だし」
「霞」
かなめが半眼になる。
「もっと言い方があるでしょう」
「でも本当」
「それは」
「ええ。本当です」
若き僧も静かに言った。
「ですから、歩けるうちに動いたほうがいい」
男はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
その頷きは礼ではなかった。
諦めに近い。
それでも今の彼にとっては、それが唯一の前進なのだろう。
三人は男を支え、城下の外れへ向かった。
歩きながら、若き僧は周囲の空気を改めて読んでいた。
勝者の城下。
商いの熱。
人心の浮き立ち。
そして、その足元に溜まり始めた敗者の影。
今、尾張を巡る火は明るく見える。
だが火が明るいほど、そこからこぼれる影も濃い。
それを見失えば、次に歪むのは町の内側だ。
「巡修殿」
かなめが前を見たまま言った。
「はい」
「これも、記すのですね」
「ええ」
「勝ち戦のあと、勝者の城下に、敗者の影が流れ込むことを」
「はい」
「信長の火が広がるとき、その足元にこういうものも生まれると」
「その通りです」
「……」
「嫌ですか」
「嫌です」
かなめは率直に答えた。
「でも、必要です」
「ええ」
「だから、覚えておきます」
「はい」
霞が、少し前を歩きながら肩越しに言った。
「巫女」
「何です」
「そういうとこ、ちょっと強いよね」
「……」
「私はまだ、嫌なもん見たら嫌だで終わることある」
「それでいいのですよ」
かなめが言う。
「何で」
「それを嫌だと思えることが、大事なこともあります」
「……」
「巡修殿も、たぶん同じことを言います」
「ええ」
若き僧がすぐに答えた。
「その通りです」
「うわ、早い」
「たまには」
「ほんと、こういうときだけ息合うよね、二人」
「不本意です」
「かなめ殿、それは少し冷たいかと」
「今のは半分本気です」
「半分なんだ」
「もう半分は、感謝しています」
「……」
霞は少しだけ目を丸くした。
「素直」
「今のは、かなり」
若き僧が言う。
「そこ、今は要らないです!」
かなめが本気で抗議したので、霞は思わず吹き出した。
城下の外れに、小さな寺は本当にあった。
戦のあとに行き場を失った者や、怪我を負った旅人を寝かせることも多いらしく、老僧は若き僧の御朱印状とかなめの装いを見ると、詳しい詮索をせず男を引き取ってくれた。
去り際、男は一度だけ振り返り、何か言おうとした。
だが結局何も言わず、寺の中へ消えた。
「……ああいうの、いっぱいいるんだろうね」
霞が呟く。
「いるでしょう」
若き僧が答える。
「じゃあ、尾張の勝ちって、全然すっきりしない」
「勝ちとは、だいたいそういうものです」
「そういうの、早めに教えてほしかった」
「今言っているつもりですが」
「たしかに」
霞は苦く笑った。
かなめは寺の山門を見つめながら、小さく言う。
「勝者の城下、敗者の影……」
「はい」
「嫌な題です」
「ですが、内容には近い」
「ええ」
「これもまた、尾張の今なのでしょう」
「その通りです」
若き僧は空を見上げた。
晴れている。
だが、晴れているからこそ見えるものもある。
火に照らされた町の輪郭。
その足元に伸びる影。
そして、そのどちらも飲み込んで先へ伸びようとする、信長の気配。
尾張の火は、もう人の口だけではなく、町の形そのものを変え始めていた。




