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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第28話 勝者の城下、敗者の影

尾張の城下へ近づくにつれ、道の空気はまた違う熱を帯び始めた。


 村々を巡る噂の熱とは違う。

 もっと近く、もっと生臭く、もっと人間の欲に触れている熱だ。

 勝った国の城下町というものは、祝賀だけで膨らむわけではない。勝ったからこそ、商いは早く動き、口は軽くなり、野心は表へ出る。敗者の影は薄れず、むしろ人の群れの足元で長く伸びる。


 若き僧は街道の土を踏みながら、城下の気配をじっと読んでいた。


 尾張の火はたしかに広がっている。

 だがそれは、城の天守にだけ宿るものではない。城下の市へ、武家地の塀沿いへ、酒の匂いの残る裏路地へ、勝ち馬に乗りたがる者たちの視線の中へ、ばらばらの火となって散り始めている。

 この段階の火は、まだ覇王の炎そのものではない。

 それに照らされて、人がそれぞれ勝手に燃え始めるのだ。


「……嫌な感じ」


 霞が、町へ入る手前で眉をひそめた。


「どう嫌なのです」

 かなめが問う。

「浮かれてるのに、浮かれきってない」

「……」

「勝ったって騒いでるくせに、誰も完全には安心してない」

「ええ」

 若き僧が答える。

「よく見ていますね」

「こういう空気、嫌いだから」

「嫌いなものほど分かる?」

「そう。あと、嫌いな空気ってだいたい面倒ごとが起きる」


 かなめは小さく息をついた。


「今のところ、その霞の勘はよく当たります」

「褒めてる?」

「半分くらいは」

「それ、坊主のうつってる」

「不本意です」

「でも似てきた」

「……否定しきれません」


 三人が城下へ入ると、すぐにその違和感は目に見える形で現れた。


 表通りは賑わっている。

 商人が声を張り、布や塩や油を売る者が慌ただしく往来し、武家の小者たちが早足に駆けていく。勝ち戦の直後らしく、どこかよそよそしい興奮が町全体を包んでいた。

 だが、顔をよく見れば分かる。


 皆が笑っているわけではない。

 目だけが忙しい者。

 口元だけで調子よく勝ちを語る者。

 誰がこれから重く用いられ、誰が逆に見捨てられるかを、互いに測り合っている顔だ。


「……勝ったあとの町って、もっと素直に喜ぶものかと思っていました」

 かなめが低く言う。

「そういう町もあります」

 若き僧が答えた。

「ここは違う」

「はい。尾張の勝ちは大きい。だからこそ、次に誰が得をするかを皆が見始めている」

「嫌ですね」

「ええ」

「かなり」

 霞が言う。

「今の使い方は正しいですね」

 若き僧が頷く。

「でしょ」

「二人とも、最近それで会話をまとめるのやめてください」

 かなめが半眼になる。

「分かりやすいので」

「それが嫌なのです」


 若き僧は表通りを外れ、少し細い道へ入った。

 そこは店の裏手や荷置き場に通じるような通りで、表の賑わいに比べれば人の数も少ない。だが、こういう場所にこそ“勝者の城下の裏側”が溜まる。


 霞がすぐに気づいた。


「……いる」

「何が」

 かなめが問う。

「崩れたの」

「今川残党?」

「たぶん、それも混ざってる」


 若き僧も足を緩めた。

 道の角。

 軒の陰。

 荷車の裏。

 町人に紛れきれぬ緊張を背負った者が、何人もいる。槍や刀をむき出しにしているわけではない。だが、身の置き所が定まらぬ兵の気配は、いくら格好を変えても完全には消えない。


「城下にまで、こんなに」

 かなめが眉を寄せる。

「勝った町ほど、人は流れ込みます」

 若き僧が答える。

「食うために。隠れるために。あるいは何かを掴むために」

「……」


 そのときだった。


 表通りの向こうから、怒鳴り声がひとつ響いた。


「待て、こら!」


 続いて、何かが倒れる鈍い音。

 城下のざわめきが、一瞬だけ形を変える。人々は完全に散るわけではない。だが、面倒ごとへ巻き込まれぬよう、そこだけ薄く輪が開く。


「行く?」

 霞が訊く。

 かなめがすぐに若き僧を見る。

「どうします」

「見ます」

 若き僧は短く答えた。


 三人が人垣の端へ寄ると、そこには一人の若い男が転がっていた。

 着物は泥と血で汚れ、足取りもおぼつかない。今川の兵だったのだろう、着崩した布の下から、もとは東海側の色をしていたと思しき装いが覗いている。

 その前に立っているのは、尾張の町人風の男たち三人。棒を持ち、口では威勢よく罵っているが、顔つきからすると町の自警というより“弱った者を叩ける時だけ強い”類の者たちだ。


「今川の残党め!」

「尾張の城下で何してやがる!」

「勝ったからって、こういうのまで増えるなんて最悪だな……」

 霞が低く言った。


 若い男は立ち上がろうとして、また膝をついた。

 もう戦う力はほとんど残っていないように見える。

 だが、その目だけがまだ死んでいなかった。追い詰められた獣のように、人垣の向こうまで見ている。


 かなめがわずかに前へ出た。


「巡修殿」

「ええ」

「見過ごせません」

「分かっています」


 若き僧は人垣を割って進み出た。


「そこまでに」


 声音は強くない。

 だが、よく通った。

 棒を持った男たちが振り返る。


「何だ、坊主」

「ただの坊主ではありません。朝廷の御朱印状を預かる旅の僧です」

「……」

「城下で私闘は感心しません」

「私闘だぁ?」

 男の一人が吐き捨てる。

「今川の残党がいるんだぞ!」

「それでもです」

「こいつらのせいで、尾張は危なかったんだ!」

「ええ」

 若き僧は静かに答えた。

「ですが、今ここで棒を振るう相手は、もう戦場にいません」

「何だと」

「これは勝ち戦の始末ではなく、弱った者への鬱憤晴らしでしょう」

「……っ」


 言い当てられたからだろう。

 男たちの顔色が変わる。


 かなめがその横に立った。

 白衣と緋袴は、こういう場では思いのほか効く。

 町人たちも、ただの流れ者には強く出られても、巫女を相手にあからさまな無礼はしづらいらしい。


「勝ったのなら」

 かなめが言う。

「なおさら、こうした振る舞いは慎むべきです」

「巫女さま、でもこいつは……」

「人です」

「……」

「敵兵であったとしても、ここはもう戦場ではありません」

「……」


 最後の一人がなお何か言い募ろうとしたとき、霞が少し前へ出た。


「それ以上やるなら、城下の見回り呼ぶよ」

「……!」

「今の尾張で、勝ち戦のあとに町で私刑みたいな真似してるって知られたら、どっちが面倒になると思う?」


 その言い方は、かなめや若き僧と違って、綺麗ごとではない。

 だが、こういう相手にはよほど効くらしい。

 男たちは顔を見合わせ、舌打ちして棒を引いた。


「……ちっ、面倒くせえ」

「今度見かけたら追い出すぞ」

「どうぞ」

 霞が鼻を鳴らす。

「でも、そのときはちゃんと城下の役人に言ってからね」

「……」


 男たちは結局、悪態だけ残して去っていった。


 人垣もすぐに薄くなる。

 町の人間は、面白いものは見るが、長く関わりはしない。

 残ったのは、泥に膝をついた若い男と、三人だけだった。


 かなめがそっと近づく。


「立てますか」

「……」

 男はすぐには答えず、三人を見上げた。かなめの白衣、若き僧の法衣、霞の夜色の衣。どういう組み合わせだと思ったのか、ひどく訝しげな顔をする。

「敵じゃない」

 霞が先に言う。

「少なくとも今は」

「その言い方」

 かなめが小さく咎める。

「でも本当でしょ」

「……」


 若い男は咳き込み、ようやく低い声を出した。


「なぜ、助ける」

「なぜ、ですか」

 若き僧が答える。

「ここが戦場ではないからです」

「……」

「それでは足りませんか」

「……坊主の言うことは分からん」


 若き僧は少しだけ苦笑した。


「よく言われます」

「今それ、本人に言う?」

 霞が呆れたように言う。

「事実なので」

「もうそういうとこだよ」


 かなめが若い男の腕を取り、立たせようとする。

 男は一度だけ身を引きかけたが、かなめの顔を見て力を抜いた。よほど消耗しているらしい。


「今川方ですか」

 かなめが問う。

「……だった」

 男が答える。

「だった?」

「もう、どこにも帰れん」

「……」


 その一言で、若き僧は男の纏う気配の理由を理解した。


 敗者の影だ。

 今川義元が討たれ、大軍が崩れたあと、散っていく兵の中にはこういう者が少なくないのだろう。主を失い、陣を失い、帰る先を失い、それでもまだ生きている者。

 勝ち戦の城下にとって、最も扱いづらい存在の一つだ。


 霞が低く言った。


「こういうのが増える」

「ええ」

 若き僧が答える。

「勝者の城下に」

「そういうことです」


 かなめは男の腕を支えながら、厳しい顔で言った。


「でも、放っておけば野盗になる」

「あるいは恨みを抱いたまま、裏へ潜る」

 若き僧が続ける。

「勝った城下ほど、そういう影を生む」

「……最悪」

 霞が言う。

「かなり」

 若き僧が答えた。

 かなめが思わず額へ手を当てる。

「今のはもう分かっていても少し腹が立ちます」

「申し訳なく」

「本当に、そう思ってます?」

「半分くらいは」

「やはり」


 かなめは若い男を見た。


「あなた、行くあては」

「ない」

「傷は」

「深くはない」

「嘘ですね」

「……」

「歩けないでしょう」

「……」


 男は何も言えず、目を逸らした。


 若き僧は少し考え、それから言った。


「かなめ殿」

「はい」

「このまま城下に残しては、また同じことになるでしょう」

「ええ」

「ですが、社へ連れ帰るのも違う」

「そうですね」

「では」

「はい」

「城下の外れにある寺へ預けましょう」

「寺」

「戦のあと、こういう者を一時的に寝かせる場所があるはずです」

「分かりますか」

「少しは」

 若き僧は答えた。

「御朱印状もありますので」


 霞が男の顔を覗き込みながら言う。


「嫌ならここで別れてもいいけど」

「……」

「ただ、次はもっと容赦ないのに当たると思う」

「……」

「今の尾張、そういう空気だし」

「霞」

 かなめが半眼になる。

「もっと言い方があるでしょう」

「でも本当」

「それは」

「ええ。本当です」

 若き僧も静かに言った。

「ですから、歩けるうちに動いたほうがいい」


 男はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。


 その頷きは礼ではなかった。

 諦めに近い。

 それでも今の彼にとっては、それが唯一の前進なのだろう。


 三人は男を支え、城下の外れへ向かった。


 歩きながら、若き僧は周囲の空気を改めて読んでいた。


 勝者の城下。

 商いの熱。

 人心の浮き立ち。

 そして、その足元に溜まり始めた敗者の影。


 今、尾張を巡る火は明るく見える。

 だが火が明るいほど、そこからこぼれる影も濃い。

 それを見失えば、次に歪むのは町の内側だ。


「巡修殿」

 かなめが前を見たまま言った。

「はい」

「これも、記すのですね」

「ええ」

「勝ち戦のあと、勝者の城下に、敗者の影が流れ込むことを」

「はい」

「信長の火が広がるとき、その足元にこういうものも生まれると」

「その通りです」

「……」

「嫌ですか」

「嫌です」

 かなめは率直に答えた。

「でも、必要です」

「ええ」

「だから、覚えておきます」

「はい」


 霞が、少し前を歩きながら肩越しに言った。


「巫女」

「何です」

「そういうとこ、ちょっと強いよね」

「……」

「私はまだ、嫌なもん見たら嫌だで終わることある」

「それでいいのですよ」

 かなめが言う。

「何で」

「それを嫌だと思えることが、大事なこともあります」

「……」

「巡修殿も、たぶん同じことを言います」

「ええ」

 若き僧がすぐに答えた。

「その通りです」

「うわ、早い」

「たまには」

「ほんと、こういうときだけ息合うよね、二人」

「不本意です」

「かなめ殿、それは少し冷たいかと」

「今のは半分本気です」

「半分なんだ」

「もう半分は、感謝しています」

「……」

 霞は少しだけ目を丸くした。

「素直」

「今のは、かなり」

 若き僧が言う。

「そこ、今は要らないです!」

 かなめが本気で抗議したので、霞は思わず吹き出した。


 城下の外れに、小さな寺は本当にあった。

 戦のあとに行き場を失った者や、怪我を負った旅人を寝かせることも多いらしく、老僧は若き僧の御朱印状とかなめの装いを見ると、詳しい詮索をせず男を引き取ってくれた。

 去り際、男は一度だけ振り返り、何か言おうとした。

 だが結局何も言わず、寺の中へ消えた。


「……ああいうの、いっぱいいるんだろうね」

 霞が呟く。

「いるでしょう」

 若き僧が答える。

「じゃあ、尾張の勝ちって、全然すっきりしない」

「勝ちとは、だいたいそういうものです」

「そういうの、早めに教えてほしかった」

「今言っているつもりですが」

「たしかに」

 霞は苦く笑った。


 かなめは寺の山門を見つめながら、小さく言う。


「勝者の城下、敗者の影……」

「はい」

「嫌な題です」

「ですが、内容には近い」

「ええ」

「これもまた、尾張の今なのでしょう」

「その通りです」


 若き僧は空を見上げた。


 晴れている。

 だが、晴れているからこそ見えるものもある。

 火に照らされた町の輪郭。

 その足元に伸びる影。

 そして、そのどちらも飲み込んで先へ伸びようとする、信長の気配。


 尾張の火は、もう人の口だけではなく、町の形そのものを変え始めていた。

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