第29話 霊脈は国境を嫌う
城下を離れ、尾張の北へ向かうにつれて、道の空気はまた少しずつ変わっていった。
勝ち戦の熱は、城下では人の欲や打算と混ざって濁っていたが、城を離れると今度はもっと素直な形で地へ染みている。村々では今川の重みが消えたことへの安堵が先に立ち、街道では商人たちが次の商いの流れを探り始め、武家の者たちは信長の次の一手を噂し合っている。
けれど、その流れが北へ向かうほど、若き僧の胸の内には別種のざらつきが増していた。
尾張の火が外へ向かっている。
それは間違いない。
だが、その先にあるものが、ただ受け入れる地ではないこともまた明らかになりつつあった。
昼を少し過ぎたころ、三人は尾張と美濃の境に近い丘陵地へ入った。
地形はゆるやかにうねり、低い林と畑と小川が入り組んでいる。景色だけ見ればのどかだ。人の背ほどの草が揺れ、風は乾き、空も高い。戦国の国境というには、あまりに静かで穏やかですらある。
かなめが足を止めた。
「……変です」
「ええ」
若き僧がすぐに答える。
「やっぱり」
「何が?」
霞が問う。
「空気」
かなめは真正面を見たまま言う。
「尾張の側は、まだ火が前へ流れていく感じがある」
「ええ」
若き僧が頷く。
「でも、この先」
「美濃側ですね」
「はい。何というか……」
かなめは少し言葉を探した。
「閉じている」
「その通りです」
霞が眉をひそめる。
「閉じてる、って?」
「道があるのに、道じゃない感じ」
かなめが答えた。
「は?」
「分かりにくいですね」
「かなり」
霞が言う。
「今のはその使い方でいいんですか」
かなめが半眼になる。
「今日はわりと自由です」
「ずるい」
霞が肩をすくめた。
「で、坊主。どういうこと」
「霊脈が、国境で嫌がっているのです」
若き僧が静かに言った。
その言葉に、かなめの表情がさらに引き締まる。
霞は少しだけ嫌そうな顔をした。
「地面が、国境を?」
「正確には、美濃の理が尾張の火をそのまま通したがらない」
「……」
「桶狭間の勝利で、信長の火は尾張全体へ印を広げ始めました」
「ええ」
かなめが頷く。
「それが北へ伸びれば、当然、美濃側も感じ取る」
「はい」
「でも、まだ何も起きていないのに?」
「起きているのです」
若き僧は前方の地面を見た。
「静かに」
三人はそのまま国境へ続く細道を少し進んだ。
歩いているだけなら何もない。
だが若き僧には、地の下を流れる細い脈が、尾張側から美濃側へ入る直前で、わずかに“ほどけている”のが見えた。川が堰で止められているのではない。もっと厄介だ。
流れそのものが、境を越える前に自分から勢いを失う。
まるで、この先へ行くのをためらっているように。
「……霊脈が、痩せてる」
かなめが呟いた。
「ええ」
若き僧が答える。
「かなめ殿にも見えますか」
「見えるというより、感じるだけですが」
「十分です」
「それ、今日何回目でしょう」
「かなり」
霞が先に言った。
かなめが思わず吹き出しかけて、すぐ咳払いでごまかす。
「……今のは少しだけ悔しいです」
「巫女、だいぶ慣れてきたね」
「嬉しくありません」
若き僧はしゃがみ込み、道端の土へ指先を触れた。
乾いている。
だが冷たさが不自然だ。
尾張側の土が持つ、人の気や火の名残が、ここから先だけすっと薄くなる。自然な地の移り変わりではない。誰かが意図して“大きな流れ”を通しにくくしている。
「……囲いだ」
若き僧は小さく呟いた。
「囲い?」
霞が聞き返す。
「ええ。押し返すのではなく、通るものの勢いを削ぐ」
「東海の老爺のやり方と違う?」
「かなり」
若き僧が言う。
「向こうは上から押し被せる理でした」
「うん」
「こちらは、外から来る流れを疲れさせる」
「……嫌だね」
「はい」
「しかも、地味に嫌」
「そういう術ほど長持ちします」
「最悪」
「かなり」
かなめは国境の向こう、美濃側の木立をじっと見た。
そこに派手な敵意はない。
殺気のような分かりやすい悪意もない。
ただ、よそ者を歓迎しない静けさがある。
それがかえって不気味だった。
「巡修殿」
「はい」
「これは、誰かが意図して組んだ理ですよね」
「その可能性が高い」
「自然ではない」
「ええ」
「美濃の神域がそういう性質なのか、それとも人が手を入れているのか」
「まだ断じきれません」
「……」
「ですが、どちらであれ」
「はい」
「尾張の火は、そのままではこの先で勢いを削がれる」
「つまり」
かなめが静かに続けた。
「信長が本当に美濃へ目を向けるなら、そこにはまた別種の神秘の壁がある」
「そういうことです」
霞が腕を組んだ。
「国ごとに癖があるのは分かる」
「ええ」
「でも、これはちょっと露骨すぎない?」
「そこが気になるところです」
若き僧が答える。
「普通の国境の神域なら、もう少し自然です」
「つまり?」
「美濃は“閉じる理由”を持っている」
「……」
「ただ外から守るだけではなく、中で何かを囲っているようにも見える」
かなめの背筋がわずかに震えた。
「それ、あまり良い話ではないですね」
「ええ」
「良い話であってほしいのですが」
「そういう願いは大事です」
「今、それを言われると少しだけ腹が立ちます」
「申し訳なく」
「でも、言われなかったらもっと不安です」
「かなめ殿」
「何です」
「今のはかなり素直でした」
「やめてください」
「褒めているのです」
「今は要りません」
「そうでしたか」
霞がぼそりと笑う。
「ほんと、この二人見てると飽きない」
若き僧は国境に近い小さな祠を見つけた。
石が二つ、粗末に積まれ、その奥に小さな木の屋根があるだけのものだ。尾張側の旅人が道中の無事を祈るための、簡素な境の社なのだろう。
かなめもそれに気づき、自然と歩み寄った。
「ここも、弱っている」
「はい」
若き僧が答える。
「国境の圧を受けて」
「ええ。通る人の祈りはある。だが、向こうからの“閉じる理”が少しずつ痩せさせている」
「……」
かなめはしゃがみ込み、社前へ手を合わせた。
熱田のように大きな神域でもなく、自分の社のように深く結びついている場所でもない。
それでも、こういう小さな祠を見れば、彼女は放っておけないのだ。
「かなめ殿」
若き僧が言う。
「はい」
「ここで大きく祈るのはやめてください」
「え?」
「向こうに気づかれます」
「……」
「今は、見るだけで」
「分かりました」
かなめは頷き、長い祝詞ではなく、ただ一言だけを落とした。
「忘れていません」
それだけで、祠のまわりの空気がほんの少しだけ和らいだ。
霞が、少し意外そうな顔をした。
「それだけ?」
「それだけでいいときもあります」
かなめが答える。
「全部を救えなくても?」
「はい」
「……巫女っぽい」
「私は巫女です」
「そうだけど」
「何です」
「何か、前よりそれが格好よく聞こえる」
「……」
かなめは少し黙り、それから小さく言った。
「今のは、ありがとうございます」
「素直」
「あなたに言われたくありません」
「だよね」
若き僧はそのやり取りを聞きながら、美濃側の林へ意識を伸ばしていた。
風はある。
鳥の声もする。
だが、その奥に人の暮らしの温度が見えにくい。
まるで、美濃の地そのものが“軽々しく読み取られること”を拒んでいるようだった。
「……これは」
若き僧が低く言う。
「どうしました」
かなめが問う。
「美濃に入るなら、尾張と同じ感覚では危うい」
「何が違うのです」
「尾張の火は、押し返しながら前へ出る」
「はい」
「美濃は、その火をそのまま受けず、まず囲い、削ぎ、弱らせる」
「……」
「人も、神域も、霊脈も」
「つまり」
霞が言った。
「真正面からぶつかると、こっちが知らないうちに削られる」
「その通りです」
「ほんと嫌な国」
「まだ国そのものがそうとは限りません」
かなめが言う。
「理の一部かもしれない」
「でも、こういうのが国境にある時点で、だいぶ面倒でしょ」
「それは……否定しません」
かなめが苦い顔をした。
若き僧はゆっくり立ち上がった。
「かなめ殿」
「はい」
「霞」
「何」
「第二章の次の一歩は、ここで決まるかもしれません」
「……」
「この閉じた理が、美濃全体のものなのか」
「はい」
「それとも、もっと局所的な誰かの術なのか」
「それを見極める必要がある」
「ええ」
「つまり」
霞が肩をすくめた。
「やっぱり国境は越える流れ」
「そうなるでしょう」
「嫌だなあ」
「本音が出ています」
かなめが言う。
「だって嫌だよ。こういう閉じたとこって、絶対面倒だし」
「分かります」
若き僧が頷いた。
「でも」
かなめが静かに言う。
「見に行かなければ、守れない」
「はい」
「尾張の火がこの先どこまで伸びるかも」
「ええ」
「熱田が何を警戒していたのかも」
「はい」
「……」
「かなめ殿」
「何です」
「かなり覚悟が固まってきましたね」
「その言い方はやめてください」
「どうして」
「図星だからです」
「それは……」
「言わないでください」
「承知しました」
「本当に?」
「半分くらいは」
「今のはだめです!」
霞が吹き出した。
国境の風が吹いた。
尾張側からは、まだ熱が来る。
美濃側からは、それを静かに拒む空気が返る。
そのぶつかりあいは、まだ刃を交える前のものだ。
だが若き僧には、それがもう十分に“戦いの入口”に見えていた。
霊脈は国境を嫌う。
いや、正確には――
人が国境へ意味を与えすぎると、霊脈までそれを学んでしまうのだろう。
この先へ進めば、尾張とは違う理がある。
桶狭間でひらいた火が、そこへぶつかったとき、何が起きるか。
三人はまだ知らない。
だが、知らぬままではいられなくなっていた。




