第27話 老術者の残した手
尾張の風は、勝ち戦のあとほど油断ならない。
若き僧は、そう思いながら街道脇の土を見下ろしていた。
昼はよく晴れている。
空だけを見れば、桶狭間で何があったのかなど信じられぬほど穏やかな日だった。田には水が光り、畦には小さな花が揺れ、遠くの林は初夏に向かう濃さを少しずつ増している。
だが、その足元に残るものは、光ではごまかせない。
白榊かなめが若き僧の視線の先を追って、しゃがみ込んだ。
「……これ、ただの紙ではないですね」
「ええ」
若き僧が答える。
「見たことありますか」
「いいえ。ですが、神符とも違う」
「はい」
「神前のものというより」
「術の導きです」
街道の脇、草に半ば埋もれるようにして、小さな紙片が挟まっていた。
人が見れば、ただの濡れた屑紙にしか見えぬかもしれない。
だがかなめのように神域の気配に敏い者なら、その紙が妙に“乾いて”いることに気づく。周囲の草は風と湿りを帯びているのに、その紙だけがよそよそしい。
土地と仲良くしていない紙だ。
霞が一歩遅れて二人の後ろから覗き込む。
「それ、東海のやつ?」
「可能性は高い」
若き僧が言う。
「見て分かるの?」
「半分は」
「その半分便利だね」
「かなり助かっています」
「その返し、今日はちょっと腹立つ」
かなめは紙片へ指を伸ばしかけて、止めた。
「触れないほうがいいですか」
「はい」
「やはり」
「これは“効かせる符”ではありません」
「では」
「見るための符です」
「……」
かなめの顔が険しくなる。
「何を」
「通るものを」
「私たちを」
「ええ」
霞が小さく舌打ちした。
「ほんと、嫌な仕事する」
「向こうらしいです」
若き僧は静かに言った。
「尾張に残った手、ですね」
かなめが低く言う。
「はい。老術者本人ではなくても、その理が残していった爪痕です」
三人は今、尾張北部へ向かう途中にあった。
桶狭間の勝利で一息ついたとはいえ、尾張の地のすべてが一様に明るくなったわけではない。むしろ、今川の大軍と東海の古術が通った場所、あるいは通り損ねた場所には、妙な“残り方”をした気配がいくつもあった。
若き僧がそれを確かめたいと言い、かなめも必要だと頷き、霞は「どうせ嫌なものしか出ない」と言いながらついてきている。
今見つかったこの紙も、その一つだった。
「霞」
若き僧が言う。
「何」
「こういうの、見覚えは」
「……ある」
霞は少しだけ目を細めた。
「完全に同じじゃないけど、系統は」
「やはり」
「街道とか林の縁とか、そういう“人が必ず通るけど、誰も気にしない場所”に仕込む」
「目的は」
「通る人間の気配を拾うとか、流れを読むとか、場合によってはそこから先に札を繋げるとか」
「……」
「正面から大きい術をかける前に、まず小さい目を置いとく感じ」
かなめが吐き捨てるように言う。
「本当に、趣味が悪い」
「うん」
霞が素直に頷く。
「そこは全力で同意」
若き僧は袖の中から細い木片を取り出し、紙片の少し手前の土へ落とした。
紙は動かない。
だが若き僧には見える。落ちた木片のわずかな振動が、紙片の周囲に見えぬ輪を生み、それが道の先のほうへ細く流れていく。
「繋がっている」
「どこへ」
かなめが問う。
「北です」
「美濃のほう?」
霞がすぐに言う。
「ええ。その可能性が高い」
「うわ」
「まだ国境までも行っていないのに」
かなめの声にも緊張が混じる。
「はい」
若き僧は頷いた。
「だからこそです」
「だからこそ?」
「尾張の内へ、まだ手を残している」
「敗けたのに」
「敗けたからでしょう」
かなめが息を呑む。
「老術者は、桶狭間で終わっていない」
「はい」
「それどころか」
「敗北のあとを、次の手へ繋げようとしている」
「……」
霞が腕を組んだ。
「分かる気がする」
「何が」
かなめが問う。
「今川が勝ってれば、そのまま押し潰して終わり」
「ええ」
「でも負けたから、今度は尾張に残った熱とか、人の動きとか、そこから拾えるものだけ拾って次に回す」
「そういうことですね」
若き僧が言った。
「ほんとに執念深い」
「はい」
「かなり」
霞が先に言う。
若き僧がわずかに口元を緩める。
「その使い方は正しいかと」
「でしょ」
「何その会話」
かなめが呆れたように言う。
「最近ほんとに増えましたね」
「かなめ殿もいずれ」
「嫌です」
「たぶん似合います」
「褒めていませんよね?」
「半分は」
「その半分が怪しいんです」
若き僧は紙片を直接触らず、周囲の土へ小さな円を描くように指を走らせた。
「消せますか」
かなめが訊く。
「はい。ただし」
「ただし?」
「消すというより、切ります」
「繋がりを」
「ええ」
「それで向こうに気づかれませんか」
「少しは」
「少し」
「完全には避けられません」
「……」
「ですが、こちらが気づいたと分からせるのも時には必要です」
霞が鼻を鳴らした。
「坊主、そういうとこ妙に正面から行くよね」
「そうでしょうか」
「うん。もっとこう、こっそり誤魔化す道もありそうなのに」
「あります」
「あるんだ」
「ええ」
「じゃあ何でそっちにしないの」
「今回は、気づいたこと自体を知らせたほうがいい」
「何で」
「向こうに“尾張の中にまだ目がある”と見せるためです」
「……」
「老術者は、尾張が勝ったことで油断して散るとは思っていないでしょう」
「はい」
「ならこちらも、“まだこちらは見ている”と返したほうがいい」
「面倒くさい戦い方」
「見えぬ側は、たいていそうです」
かなめは紙片を見つめたまま、小さく言う。
「こういうものが、いくつ残っているのでしょう」
「一つや二つではないでしょうね」
若き僧が答える。
「尾張の街道、林、村の結び目、熱田へ連なる外縁」
「そんなに」
「ええ」
「……」
かなめの表情が曇る。
尾張の小さな神域を一つずつ守ろうとする者にとって、それは重すぎる現実だ。
老術者は負けた。
だが、負ける前に置けるだけの目を置き、残せるだけの手を残している。
若き僧はかなめの顔を横目で見ながら言う。
「かなめ殿」
「はい」
「全部を一度にどうにかしようとしてはいけません」
「……」
「そうと分かっていても、悔しいです」
「ええ。分かります」
「巡修殿も?」
「はい」
「……少しだけ、救われます」
「そうですか」
「ええ」
「ですが」
「ですが?」
「悔しいものは悔しいですね」
「はい」
かなめは素直に頷いた。
「かなり」
霞が思わず吹き出した。
「今の、それはちょっと良かった」
「何ですか」
かなめが眉を寄せる。
「使い方」
「……不本意です」
「でも合ってた」
「嬉しくありません」
「でも覚えてる」
「……否定しません」
若き僧は小さく息をついたあと、低く唱えた。
「見よと置かれし紙よ、ここにて目を閉じよ。尾張の土に触れながら、尾張の息を盗むことなかれ。汝の繋がりはここに絶え、向こうへ返るものはただ“見られた”という事実のみで足れ」
指先で切る。
紙片は燃えない。
破れもしない。
だが、その周囲に張りついていた見えぬ筋が、すっと音もなく切れた。
かなめにもそれは分かったらしい。空気が少しだけ軽くなる。
「切れました」
「ええ」
若き僧が答える。
「綺麗に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「向こうに“切られた”とは伝わるでしょう」
「……」
「それで十分です」
霞が紙片の近くへしゃがみ込んだ。
「もう触っても平気?」
「はい」
「ほんと?」
「たぶん」
「その“たぶん”嫌」
「私も時々そう思います」
「絶対嘘」
霞は木の小枝で紙片を持ち上げた。
裏面には細い文字と印が刻まれている。神符に似ているが、神へ祈るための配置ではない。もっと乾いた、記号に近い並びだった。
「……老爺っぽい」
「分かるのですか」
かなめが問う。
「正確には、その下の連中っぽい」
「下」
「うん。老爺本人っていうより、“あの人のやり方を真似てる手慣れの連中”」
「なるほど」
若き僧が頷いた。
「つまり、頭は一人でも、手は複数いる」
「そういうこと」
「今さらですけど、本当に面倒な相手ですね」
かなめが言う。
「はい」
若き僧が答える。
「かなり」
今度は三人とも少しだけ笑った。
笑ったあとで、かなめは真顔に戻る。
「こういうものが尾張に残っているなら」
「はい」
「老術者は、尾張そのものをまだ諦めていない」
「ええ」
「信長の火を、見続けている」
「その可能性が高い」
「そして」
かなめの目が少し鋭くなる。
「次は、美濃の側から見るつもりかもしれない」
「はい」
「……」
霞が立ち上がった。
「じゃあ、私たちも見に行くしかないね」
「そうなります」
若き僧が言う。
「嫌だけど」
「それは知っています」
「何で分かるの」
「顔に出ているので」
「……坊主に言われると、ちょっと腹立つ」
「申し訳なく」
「今の謝り方はたぶん反省してない」
「少しは」
「少しね」
三人は紙片をそのままにはせず、かなめが持っていた布に包んだ。
証拠として残すためだ。
若き僧は念のため周囲も見た。草の向き、土の踏まれ方、風の流れ。
そして二つ目、三つ目の小さな痕をすぐ近くで見つけた。
「まだありますか」
かなめが眉をひそめる。
「ええ」
「全部同じ?」
「似ていますが、少しずつ配置が違う」
「何が違うの」
霞が聞く。
「見ているものです」
「……」
「一つは道を通る人。次は、北へ向かう気配。もう一つは、おそらく神気の揺れ」
「そこまで分けてるの?」
「やるなら、そうするでしょう」
「うわあ」
霞が本気で嫌そうな顔をした。
「執念」
「はい」
若き僧が頷く。
「かなり」
「もう会話として完成してるね、それ」
かなめは少しだけ視線を落とした。
「桶狭間に勝った」
「ええ」
「それで尾張の火は広がり始めた」
「はい」
「でも、その広がりを、もう向こうは拾い始めている」
「そういうことです」
「……」
「かなめ殿」
「はい」
「怖いですか」
「怖いです」
かなめは正直に答えた。
「勝ったのに、まだこんなふうに足元を見られていると思うと」
「ええ」
「でも」
「でも?」
「だからこそ、見に行かないといけない気もします」
「そうでしょうね」
「また、そういう」
「正しいことを」
「そんな顔で言わないでください」
「どんな顔でしょう」
「分かっていて言ってる顔です」
「……」
「図星ですね」
「少しだけ」
「少し、ではありません」
若き僧は答えず、ただ風の向きを見た。
尾張の風は、たしかにもう北へ流れている。
覇王の火は尾張の内を巡りながら、その先を探っている。
そして老術者の手もまた、尾張の中に目を残しながら、その火の行方を追おうとしている。
ならば、自分たちも行くしかない。
見に。
記すために。
そして必要なら、ほんの少しだけ手を入れるために。
霞が布包みを若き僧へ渡した。
「これ、記録する?」
「ええ」
「やっぱり」
「はい」
「本当にまめだね」
「忘れたくないので」
「……」
「それに」
「何」
「向こうが残した手を、こちらも残しておく必要があります」
「証拠ってこと?」
「それもあります」
「他には」
「次に見つけたとき、すぐ分かるように」
「……たしかに」
霞は少しだけ真面目な顔で頷いた。
「それ、大事かも」
かなめもまた、静かに息をついた。
「では」
「はい」
「尾張に残る手を、見つけられるだけ見つけながら、北へ」
「ええ」
「美濃へ向かうのですね」
「そのつもりです」
三人は再び歩き出した。
街道は静かに見える。
だが、その端には老術者の残した小さな目が潜み、尾張の火の動きを拾おうとしている。
桶狭間は、たしかに終わった。
だが老術者の戦は、まだ終わっていない。
若き僧はそのことを胸の内で反芻した。
敗者の側にも、まだ理がある。
その理が消えぬかぎり、火はただ勝つだけでは済まない。
見られ、測られ、次の手を呼ぶ。
それもまた、戦後の現実だった。




