第26話 霞、影の作法を教える
尾張の道は、広いところほど危ない。
それが霞の持論だった。
焼け残る小社をあとにし、三人が再び街道へ戻ったとき、日はまだ高かった。桶狭間の勝ち戦の噂はさらに尾張中を巡り、道を行く人の数も朝より増えている。商人、百姓、寺社詣での老人、勝ち馬に乗ろうとするような軽薄な顔つきの者、逆に何かに怯えている者。
人が多い道は、一見すると安全に見える。
だが霞は、そういう場所ほど油断するなと言った。
「人が多いと、隠れやすい」
霞が前を見たまま言う。
「誰が」
かなめが問う。
「誰でも」
「雑ですね」
「雑じゃない。人混みって、見てる側も“誰かが何とかするでしょ”って気が緩む」
「……」
「そこに紛れるのが一番楽」
若き僧は頷いた。
「たしかに」
「巡修殿まで」
かなめが眉を寄せる。
「何です」
「納得が早いです」
「事実ですので」
「最近、本当にその返しで全部通そうとしていませんか」
「便利ですので」
「開き直りましたね」
「少しだけ」
「少し、ではないです」
霞は小さく鼻で笑った。
「巫女、そこじゃない」
「では、どこです」
「こういう道で立ち止まらないこと」
「……」
「今みたいに、会話に気を取られて足が止まる」
「そんなに止まっていましたか」
「半歩」
「半歩」
「半歩で十分。半歩止まれば、誰かが近づける」
かなめは少しだけ悔しそうに黙った。
若き僧は横目でそれを見ながら、霞の言葉を待った。彼女は今、忍びとして生きてきた技を、初めて“教える側”として使っている。単に自分が生き残るためではなく、他人を守るために。そこに本人がどれだけ自覚的かは分からないが、少なくとも行動はそうなっていた。
霞は歩きながら、指先で道端の草を軽く払った。
「まず、歩幅」
「歩幅?」
かなめが聞く。
「巫女、社の中だと綺麗に歩くでしょ」
「それは」
「そういう歩き方、街道だとすぐ覚えられる」
「覚えられる?」
「うん。“あの巫女、さっきも見たな”って」
「……」
「坊主も、たまに考え事しながら同じ歩幅になる」
「それは自覚があります」
若き僧が言う。
「素直」
霞が言う。
「褒めてはいませんが」
「今のはちょっと褒めた」
「そうでしたか」
「そう」
かなめが呆れたように言う。
「では、どう歩けばいいのです」
「一定にしない」
「そんなこと」
「できる」
霞は即答した。
「三歩だけ少し狭くして、次は普通、また少し広く、とか」
「不自然になりませんか」
「ならない程度にやるの」
「それ、かなり難しくないですか」
「最初はね」
そう言うと霞は、実際に数歩先を歩いて見せた。
一見すると何も変わらない。
軽い。
まっすぐ。
だが、見ているとたしかに一定ではない。歩幅も重心も、ほんの僅かずつ揺らしている。それなのに不格好ではないのだ。
かなめが目を細める。
「……ずるいですね」
「何が」
「それだけ自然にできるのが」
「訓練だから」
「私は巫女です」
「知ってる」
「なら」
「だから教えてる」
「……」
「嫌ならやめる?」
「やります」
かなめはきっぱり言った。
霞は少しだけ口元を緩める。
「素直」
「あなたに言われたくありません」
「でもやるんだ」
「必要なのでしょう」
「そういうとこ、嫌いじゃない」
「気持ち悪いことを言わないでください」
「ひど」
若き僧は少し離れてそのやり取りを見ながら、静かに感心していた。
かなめは元来、真面目だ。必要だと納得すれば、どんな不本意なことでもきちんと取り込もうとする。
霞は霞で、教える相手が素直に飲み込むと、つい余計な一言までつける。
この二人は、噛み合い始めると案外早いのかもしれない。
「次」
霞が言う。
「気配の残し方」
「残し方」
かなめが繰り返す。
「消すんじゃなくて?」
「全部消すのは無理」
「……」
「なら、別のものに混ぜる」
「例えば」
「匂い」
かなめが少し顔をしかめた。
「霞、それは」
「いや、変な意味じゃなくて」
「そこは分かっています」
「ならその顔やめて」
「何の顔です」
「ちょっと嫌そうな顔」
「……少し嫌でした」
「素直すぎ」
霞は自分の袖口を持ち上げた。
「私はいつも、香りが強すぎない草の汁とか、煙の残りとかをちょっとつける」
「どうして」
「人ってね、“誰の匂いか分からない匂い”には気づきにくい」
「……」
「でも何もなさすぎると逆に残る」
「それは」
若き僧が口を開いた。
「よく分かります」
「坊主は分かりすぎ」
霞が言う。
「ええ、少しだけ」
「少しじゃないでしょ」
「そこは否定しません」
「便利な返し」
かなめが真顔で言う。
「私は、そういう草の汁をつけて歩けばよいのですか」
「いや」
霞が首を振った。
「巫女は巫女の匂いでいい」
「え?」
「白檀とか、紙とか、神前の香とか、そういうの」
「……」
「無理に変えると逆に不自然」
「つまり」
「隠すより、“それっぽく”いるほうがいいときもある」
「なるほど」
若き僧が頷く。
「役割に合わせる」
「そう」
霞は少し嬉しそうだった。
「坊主はたまに分かりが早いから楽」
「光栄です」
「褒めてないけど」
「最近その流れが多いですね」
「多いね」
霞は笑った。
かなめは少し考え込むような顔で、自分の袖口を見た。
「では、私は“尾張の巫女らしく”あるほうがいい」
「場所によるけどね」
「場所」
「街道なら、多少そう見えてもいい」
「なぜ」
「御朱印状持ちの坊主と一緒にいるんでしょ」
「ええ」
「だったら、むしろ半端に隠すほうが変」
「……」
「でも、夜や国境近くは別」
「そこでは?」
「目立つ部分だけ崩す。袖を少したくし上げるとか、歩幅を変えるとか、視線を下げすぎないとか」
「難しいですね」
「だから練習」
「霞」
「何」
「あなた、案外ちゃんと教えるのですね」
「どういう意味」
「もっと雑に“こうしろ”だけ言うのかと思っていました」
「……」
「今のは褒めています」
「……うるさい」
「照れていますね」
「照れてない」
「聞こえています」
「それ今の使い方違う」
若き僧はそこで、少し前へ出た。
「では、私も試してみます」
「坊主も?」
霞が言う。
「ええ」
「必要?」
「かなめ殿だけにさせるのも」
「たしかに」
霞は少し考え、それから指で若き僧の歩き方を示した。
「坊主は、目が先に行きすぎ」
「目」
「うん。考えると、視線がちょっと遠くなる」
「……」
「そうすると“見てる人”って分かる」
「それは」
「かなり分かる」
「申し訳なく」
「そこは謝っても仕方ない」
「では」
「だから、時々“見ない”」
「見ない」
「道の先じゃなくて、すぐ横の草とか、石とか、そういうどうでもいいものを見る」
「……なるほど」
「考えるのはやめなくていい。でも顔に出すなってこと」
「それは、かなり難しい」
「そうだね」
霞が楽しそうに言った。
「でも、坊主ならできるでしょ」
「どうしてそう思うのです」
「静かな顔作るの得意そうだから」
「それは」
かなめが横から言う。
「少し分かります」
「かなめ殿まで」
「だって、巡修殿、たまに何を考えているのか全く見えないときがあります」
「そうですか」
「ええ」
「それは良いほうでしょうか」
「今は」
かなめは少しだけ笑った。
「役に立つと思います」
三人はそのまま街道脇の少し人通りの少ない道へ入り、歩き方の練習を始めた。
かなめは最初、明らかにぎこちなかった。
歩幅を変えようとして逆に意識しすぎ、袖の扱いも不自然になり、視線だけが忙しい。
霞はそれを容赦なく指摘する。
「今の変」
「分かっています」
「分かってるなら直して」
「言われなくても」
「その返ししてると、また歩幅戻る」
「……っ」
「ほら」
「悔しい」
「素直でよろしい」
若き僧は若き僧で、視線の落とし方を変えようとして逆に考え込む癖が出ていた。
霞が呆れたように言う。
「坊主、そこまで真面目にやると逆に変」
「難しいものですね」
「適当にやるくらいでいいの」
「それが一番難しい」
「……それはちょっと分かる」
かなめがぼそりと言った。
「かなめ殿も?」
「私は何事も、ちゃんとやろうとしてしまうので」
「巫女、それ自覚あるんだ」
「ええ」
「何か安心した」
「どういう意味です」
「いや、ちょっと」
こうして見ると、かなめと若き僧は妙なところで似ている。
真面目すぎるのだ。
霞はそのことを言葉にはしなかったが、表情にははっきり出ていた。
やがて、かなめの歩き方にほんの少しだけ変化が出てきた。
視線の置き方。
歩幅の揺らし方。
白衣の袖のさばき方。
まだ巫女ではある。だが“ただの巫女”ではなくなってきている。
「……どうですか」
かなめが少し不安そうに訊く。
霞は腕を組んでじっと見た。
「さっきより全然いい」
「本当ですか」
「うん」
「では」
「でも、まだ“頑張ってる巫女”」
「……」
「そこが抜けるともっといい」
「それは難しいですね」
「だから練習」
「分かっています」
若き僧はそのかなめの横顔を見て、少しだけ目を細めた。
神域の中で立つかなめも美しい。
だがこうして、社の外で不器用に“影の作法”を学んでいるかなめもまた、違う意味で強い。守るために必要なら、自分の在り方を少し変えることも受け入れる。その覚悟があるのだ。
霞が今度は若き僧へ向き直る。
「坊主」
「はい」
「今度はあんた」
「ええ」
「もっと“疲れてる旅僧”っぽく歩いて」
「疲れているつもりですが」
「顔が平気すぎる」
「……」
「あと、考えるなって言ってるのに、顔がちょっと立派」
「立派」
「そう。賢そうすぎ」
「それは少し困りました」
「困って」
「います」
「よろしい」
かなめが思わず小さく笑った。
「今の、少し面白かったです」
「私としては、かなり真面目なのですが」
「そこが面白いのです」
「かなめ殿まで」
「ええ、少しだけ」
霞が肩を震わせる。
「やっぱ巫女、前より馴染んできたね」
「何にです」
「この坊主の面倒くささに」
「嬉しくありません」
「でも役には立ってる」
「それは」
かなめは一瞬だけ考え、
「否定しません」
「ほら」
「あなたも、少し嬉しそうですね」
「……別に」
「今、少しだけ」
「別にって言ってるでしょ」
三人のあいだに、少しだけ笑いが落ちた。
街道の端。
尾張の道。
覇王の火がどこか遠くで広がりつつあり、美濃の国境はまだ先にある。
それでも今この瞬間は、巫女と僧と元くノ一が、歩き方と視線と匂いの混ぜ方を学び合っていた。
戦国神秘録という大きな題の中では、あまりに小さなことかもしれない。
だが若き僧は、こういう小さな作法こそ、実際には命を分けるのだと知っていた。
「霞」
若き僧が言う。
「何」
「ありがとう」
「は?」
「教えていただきましたので」
「……」
「かなり助かります」
「……その“かなり”の使い方、今ずるい」
「そうでしょうか」
「そう」
霞はそっぽを向いた。
「でも、まあ」
「はい」
「役に立つなら、いい」
「ええ」
「……それだけ」
「十分です」
かなめがそれを見て、少しだけ柔らかな目をした。
霞はすぐに気づいて顔をしかめる。
「巫女」
「何です」
「今、変な目した」
「していません」
「した」
「気のせいです」
「絶対した」
「聞こえています」
「だからそれ違うって!」
三人は再び歩き出した。
かなめは以前より少しだけ自然に。
若き僧は少しだけ力を抜いて。
霞は前を見ながら、だが時折後ろの二人を確認するように。
護衛役として。
まだ自覚しきってはいなくても、彼女はもうそういう位置へ立ち始めていた。




