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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第26話 霞、影の作法を教える

尾張の道は、広いところほど危ない。


 それが霞の持論だった。


 焼け残る小社をあとにし、三人が再び街道へ戻ったとき、日はまだ高かった。桶狭間の勝ち戦の噂はさらに尾張中を巡り、道を行く人の数も朝より増えている。商人、百姓、寺社詣での老人、勝ち馬に乗ろうとするような軽薄な顔つきの者、逆に何かに怯えている者。

 人が多い道は、一見すると安全に見える。

 だが霞は、そういう場所ほど油断するなと言った。


「人が多いと、隠れやすい」

 霞が前を見たまま言う。

「誰が」

 かなめが問う。

「誰でも」

「雑ですね」

「雑じゃない。人混みって、見てる側も“誰かが何とかするでしょ”って気が緩む」

「……」

「そこに紛れるのが一番楽」


 若き僧は頷いた。


「たしかに」

「巡修殿まで」

 かなめが眉を寄せる。

「何です」

「納得が早いです」

「事実ですので」

「最近、本当にその返しで全部通そうとしていませんか」

「便利ですので」

「開き直りましたね」

「少しだけ」

「少し、ではないです」


 霞は小さく鼻で笑った。


「巫女、そこじゃない」

「では、どこです」

「こういう道で立ち止まらないこと」

「……」

「今みたいに、会話に気を取られて足が止まる」

「そんなに止まっていましたか」

「半歩」

「半歩」

「半歩で十分。半歩止まれば、誰かが近づける」


 かなめは少しだけ悔しそうに黙った。

 若き僧は横目でそれを見ながら、霞の言葉を待った。彼女は今、忍びとして生きてきた技を、初めて“教える側”として使っている。単に自分が生き残るためではなく、他人を守るために。そこに本人がどれだけ自覚的かは分からないが、少なくとも行動はそうなっていた。


 霞は歩きながら、指先で道端の草を軽く払った。


「まず、歩幅」

「歩幅?」

 かなめが聞く。

「巫女、社の中だと綺麗に歩くでしょ」

「それは」

「そういう歩き方、街道だとすぐ覚えられる」

「覚えられる?」

「うん。“あの巫女、さっきも見たな”って」

「……」

「坊主も、たまに考え事しながら同じ歩幅になる」

「それは自覚があります」

 若き僧が言う。

「素直」

 霞が言う。

「褒めてはいませんが」

「今のはちょっと褒めた」

「そうでしたか」

「そう」


 かなめが呆れたように言う。


「では、どう歩けばいいのです」

「一定にしない」

「そんなこと」

「できる」

 霞は即答した。

「三歩だけ少し狭くして、次は普通、また少し広く、とか」

「不自然になりませんか」

「ならない程度にやるの」

「それ、かなり難しくないですか」

「最初はね」


 そう言うと霞は、実際に数歩先を歩いて見せた。


 一見すると何も変わらない。

 軽い。

 まっすぐ。

 だが、見ているとたしかに一定ではない。歩幅も重心も、ほんの僅かずつ揺らしている。それなのに不格好ではないのだ。

 かなめが目を細める。


「……ずるいですね」

「何が」

「それだけ自然にできるのが」

「訓練だから」

「私は巫女です」

「知ってる」

「なら」

「だから教えてる」

「……」

「嫌ならやめる?」

「やります」


 かなめはきっぱり言った。

 霞は少しだけ口元を緩める。


「素直」

「あなたに言われたくありません」

「でもやるんだ」

「必要なのでしょう」

「そういうとこ、嫌いじゃない」

「気持ち悪いことを言わないでください」

「ひど」


 若き僧は少し離れてそのやり取りを見ながら、静かに感心していた。

 かなめは元来、真面目だ。必要だと納得すれば、どんな不本意なことでもきちんと取り込もうとする。

 霞は霞で、教える相手が素直に飲み込むと、つい余計な一言までつける。

 この二人は、噛み合い始めると案外早いのかもしれない。


「次」

 霞が言う。

「気配の残し方」

「残し方」

 かなめが繰り返す。

「消すんじゃなくて?」

「全部消すのは無理」

「……」

「なら、別のものに混ぜる」

「例えば」

「匂い」

 かなめが少し顔をしかめた。

「霞、それは」

「いや、変な意味じゃなくて」

「そこは分かっています」

「ならその顔やめて」

「何の顔です」

「ちょっと嫌そうな顔」

「……少し嫌でした」

「素直すぎ」


 霞は自分の袖口を持ち上げた。


「私はいつも、香りが強すぎない草の汁とか、煙の残りとかをちょっとつける」

「どうして」

「人ってね、“誰の匂いか分からない匂い”には気づきにくい」

「……」

「でも何もなさすぎると逆に残る」

「それは」

 若き僧が口を開いた。

「よく分かります」

「坊主は分かりすぎ」

 霞が言う。

「ええ、少しだけ」

「少しじゃないでしょ」

「そこは否定しません」

「便利な返し」


 かなめが真顔で言う。


「私は、そういう草の汁をつけて歩けばよいのですか」

「いや」

 霞が首を振った。

「巫女は巫女の匂いでいい」

「え?」

「白檀とか、紙とか、神前の香とか、そういうの」

「……」

「無理に変えると逆に不自然」

「つまり」

「隠すより、“それっぽく”いるほうがいいときもある」

「なるほど」

 若き僧が頷く。

「役割に合わせる」

「そう」

 霞は少し嬉しそうだった。

「坊主はたまに分かりが早いから楽」

「光栄です」

「褒めてないけど」

「最近その流れが多いですね」

「多いね」

 霞は笑った。


 かなめは少し考え込むような顔で、自分の袖口を見た。


「では、私は“尾張の巫女らしく”あるほうがいい」

「場所によるけどね」

「場所」

「街道なら、多少そう見えてもいい」

「なぜ」

「御朱印状持ちの坊主と一緒にいるんでしょ」

「ええ」

「だったら、むしろ半端に隠すほうが変」

「……」

「でも、夜や国境近くは別」

「そこでは?」

「目立つ部分だけ崩す。袖を少したくし上げるとか、歩幅を変えるとか、視線を下げすぎないとか」

「難しいですね」

「だから練習」

「霞」

「何」

「あなた、案外ちゃんと教えるのですね」

「どういう意味」

「もっと雑に“こうしろ”だけ言うのかと思っていました」

「……」

「今のは褒めています」

「……うるさい」

「照れていますね」

「照れてない」

「聞こえています」

「それ今の使い方違う」


 若き僧はそこで、少し前へ出た。


「では、私も試してみます」

「坊主も?」

 霞が言う。

「ええ」

「必要?」

「かなめ殿だけにさせるのも」

「たしかに」

 霞は少し考え、それから指で若き僧の歩き方を示した。

「坊主は、目が先に行きすぎ」

「目」

「うん。考えると、視線がちょっと遠くなる」

「……」

「そうすると“見てる人”って分かる」

「それは」

「かなり分かる」

「申し訳なく」

「そこは謝っても仕方ない」

「では」

「だから、時々“見ない”」

「見ない」

「道の先じゃなくて、すぐ横の草とか、石とか、そういうどうでもいいものを見る」

「……なるほど」

「考えるのはやめなくていい。でも顔に出すなってこと」

「それは、かなり難しい」

「そうだね」

 霞が楽しそうに言った。

「でも、坊主ならできるでしょ」

「どうしてそう思うのです」

「静かな顔作るの得意そうだから」

「それは」

 かなめが横から言う。

「少し分かります」

「かなめ殿まで」

「だって、巡修殿、たまに何を考えているのか全く見えないときがあります」

「そうですか」

「ええ」

「それは良いほうでしょうか」

「今は」

 かなめは少しだけ笑った。

「役に立つと思います」


 三人はそのまま街道脇の少し人通りの少ない道へ入り、歩き方の練習を始めた。


 かなめは最初、明らかにぎこちなかった。

 歩幅を変えようとして逆に意識しすぎ、袖の扱いも不自然になり、視線だけが忙しい。

 霞はそれを容赦なく指摘する。


「今の変」

「分かっています」

「分かってるなら直して」

「言われなくても」

「その返ししてると、また歩幅戻る」

「……っ」

「ほら」

「悔しい」

「素直でよろしい」


 若き僧は若き僧で、視線の落とし方を変えようとして逆に考え込む癖が出ていた。

 霞が呆れたように言う。


「坊主、そこまで真面目にやると逆に変」

「難しいものですね」

「適当にやるくらいでいいの」

「それが一番難しい」

「……それはちょっと分かる」

 かなめがぼそりと言った。

「かなめ殿も?」

「私は何事も、ちゃんとやろうとしてしまうので」

「巫女、それ自覚あるんだ」

「ええ」

「何か安心した」

「どういう意味です」

「いや、ちょっと」


 こうして見ると、かなめと若き僧は妙なところで似ている。

 真面目すぎるのだ。

 霞はそのことを言葉にはしなかったが、表情にははっきり出ていた。


 やがて、かなめの歩き方にほんの少しだけ変化が出てきた。

 視線の置き方。

 歩幅の揺らし方。

 白衣の袖のさばき方。

 まだ巫女ではある。だが“ただの巫女”ではなくなってきている。


「……どうですか」

 かなめが少し不安そうに訊く。

 霞は腕を組んでじっと見た。

「さっきより全然いい」

「本当ですか」

「うん」

「では」

「でも、まだ“頑張ってる巫女”」

「……」

「そこが抜けるともっといい」

「それは難しいですね」

「だから練習」

「分かっています」


 若き僧はそのかなめの横顔を見て、少しだけ目を細めた。

 神域の中で立つかなめも美しい。

 だがこうして、社の外で不器用に“影の作法”を学んでいるかなめもまた、違う意味で強い。守るために必要なら、自分の在り方を少し変えることも受け入れる。その覚悟があるのだ。


 霞が今度は若き僧へ向き直る。


「坊主」

「はい」

「今度はあんた」

「ええ」

「もっと“疲れてる旅僧”っぽく歩いて」

「疲れているつもりですが」

「顔が平気すぎる」

「……」

「あと、考えるなって言ってるのに、顔がちょっと立派」

「立派」

「そう。賢そうすぎ」

「それは少し困りました」

「困って」

「います」

「よろしい」


 かなめが思わず小さく笑った。


「今の、少し面白かったです」

「私としては、かなり真面目なのですが」

「そこが面白いのです」

「かなめ殿まで」

「ええ、少しだけ」


 霞が肩を震わせる。


「やっぱ巫女、前より馴染んできたね」

「何にです」

「この坊主の面倒くささに」

「嬉しくありません」

「でも役には立ってる」

「それは」

 かなめは一瞬だけ考え、

「否定しません」

「ほら」

「あなたも、少し嬉しそうですね」

「……別に」

「今、少しだけ」

「別にって言ってるでしょ」


 三人のあいだに、少しだけ笑いが落ちた。


 街道の端。

 尾張の道。

 覇王の火がどこか遠くで広がりつつあり、美濃の国境はまだ先にある。

 それでも今この瞬間は、巫女と僧と元くノ一が、歩き方と視線と匂いの混ぜ方を学び合っていた。


 戦国神秘録という大きな題の中では、あまりに小さなことかもしれない。

 だが若き僧は、こういう小さな作法こそ、実際には命を分けるのだと知っていた。


「霞」

 若き僧が言う。

「何」

「ありがとう」

「は?」

「教えていただきましたので」

「……」

「かなり助かります」

「……その“かなり”の使い方、今ずるい」

「そうでしょうか」

「そう」

 霞はそっぽを向いた。

「でも、まあ」

「はい」

「役に立つなら、いい」

「ええ」

「……それだけ」

「十分です」


 かなめがそれを見て、少しだけ柔らかな目をした。

 霞はすぐに気づいて顔をしかめる。


「巫女」

「何です」

「今、変な目した」

「していません」

「した」

「気のせいです」

「絶対した」

「聞こえています」

「だからそれ違うって!」


 三人は再び歩き出した。


 かなめは以前より少しだけ自然に。

 若き僧は少しだけ力を抜いて。

 霞は前を見ながら、だが時折後ろの二人を確認するように。


 護衛役として。

 まだ自覚しきってはいなくても、彼女はもうそういう位置へ立ち始めていた。

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