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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第二章 美濃残火編 ――覇王の火、国境を越えて伸び始める

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第25話 尾張の小社、焼け残る祈り

尾張の火がどれほど大きくなろうと、街道の端には相変わらず、小さな祈りの場所が点々と残っている。


 若き僧はそれを見逃さなかった。


 熱田を離れ、尾張の道をさらに北へ取った三人は、昼過ぎ、街道から少し外れた低い丘の中腹で足を止めた。林に半ば埋もれるように、小さな社が建っていたからだ。

 大きくはない。鳥居も低く、拝殿も質素だ。熱田のような壮麗さはなく、かなめの社ほど整ってもいない。雨風に削られた板壁と、苔の生えた石段。だが、それでもここが長く人の願いを受け止めてきた場所だということだけは、ひと目で分かった。


 かなめが先に気づいた。


「……ここ、荒れている」

「ええ」

 若き僧が答える。

「戦で、ですか」

「直接焼かれたわけではありません」

「でも」

「人が減ったのでしょう」

「……」


 かなめは石段の下で立ち止まり、社を見上げた。


 戦が来れば、兵火に巻き込まれる社もある。略奪され、焼かれ、神体ごと失われる場所もある。

 だが、もっと多いのはこういう場所だ。

 戦場から少し外れ、焼かれはしない。

 それでも人が逃げ、神職がいなくなり、供えだけが細る。

 神域は壊されずとも、忘れられそうになる。


 霞は辺りを見回しながら言った。


「見た感じ、野盗が根城にしたとかではなさそう」

「はい」

 若き僧が答える。

「穢れ方が違います」

「そういうの分かるんだ」

「ええ。ここは荒らされたというより、手が足りなくなった」

「なるほど」

 霞は少し肩をすくめた。

「一番じわじわくるやつだ」


 三人が石段を上がろうとしたとき、拝殿の陰からひとりの老婆が現れた。


 驚くほど小柄で、腰も少し曲がっている。だがその手には榊と水桶があり、今しがた掃除をしていたことが分かる。

 かなめが一瞬だけ緊張したが、老婆の目に敵意はなかった。ただ、見知らぬ三人を前にして不安そうな色を浮かべている。


「どなたさまです」


 かなめが一歩前へ出た。


「尾張の巫女です」

「巫女さま……?」

「白榊と申します。この社の前を通りかかって」

「そうかい……」


 老婆はそれだけで少し安心したようだった。

 巫女という言葉には、こういう小さな社を守る人々にとって、まだ十分な重みがあるらしい。


 若き僧は柔らかく問う。


「こちらの社は、今どなたが」

「本来なら社守りの一家がおるのですがな」

 老婆は小さく息をついた。

「戦の前に若い者が二人、尾張の城下へ出て、そのまま帰っておらん」

「神職の方々ですか」

「いえ、社家というほど立派なものではありませぬ。ただ代々、掃除と供えを欠かさぬ家でして」

「……」

「わしが近くに住んでおるので、見られる日は見ておりますが、老いぼれ一人ではなかなか」


 かなめの顔が曇る。


 それは、戦のあとによくある壊れ方だった。

 兵に焼かれたわけでもなく、敵に穢されたわけでもない。

 ただ人が足りなくなり、祈りの手が細っていく。

 小さな神域は、それだけで弱る。


「中を見てもよろしいでしょうか」

 かなめが丁寧に問うた。

 老婆は何度も頷く。

「どうぞどうぞ。巫女さまに見ていただけるなら、これほどありがたいことはありませぬ」


 拝殿の中は、見た目以上に静かだった。


 神気が死んではいない。

 だが細い。

 まるで長く声を出していない人の喉のように、かすれている。

 供えは粗末だが、切らしてはいない。米粒が少し、塩、水、そして野の花。豪奢ではない。だが、続けようとする意志だけは残っている。


 かなめは拝殿の中央に立ち、目を閉じた。

 若き僧は少し離れた位置で、その様子を見守る。

 霞は入口の脇で腕を組み、いつでも外の気配へ反応できるようにしていたが、ここではさすがに刃を抜くような空気ではないと判断したらしく、少しだけ肩の力を抜いている。


「……弱ってはいるけれど」

 かなめが静かに言った。

「まだ、ちゃんと残っています」

「ええ」

 若き僧が答える。

「焼け残っている」

「はい」

「この社、戦の大きな流れから外れていたぶん、逆に見捨てられかけただけなんですね」

「そういうことです」


 かなめは拝殿の柱にそっと手を置いた。


「熱田のように大きくはない」

「ええ」

「でも、ここにも神さまはいる」

「はい」

「村の人たちの願いもある」

「あります」

「だったら」

 かなめは若き僧を見た。

「放っておくのは違う気がします」

「私もそう思います」


 霞が脇から口を挟む。


「巫女、今すごい“巫女っぽい”こと言った」

「何ですか、それは」

「そのまま」

「私は巫女です」

「そうなんだけど」

「何か不満ですか」

「不満ではないけど、何かちょっと格好いい」

「……」

 かなめは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく咳払いした。

「褒めても何も出ません」

「うわ、出た」

「何です」

「坊主のがうつってる」

「違います」

「いや、それ同じ流れ」

 若き僧が小さく言う。

「たしかに」

「巡修殿まで」

「少しだけ面白かったので」

「今のは本当に腹が立ちます」


 それでも、かなめの口元はわずかに緩んでいた。


 彼女はそのまま、社の前へ進み出た。


「少し、整えます」

「かなめ殿」

「はい」

「無理のない範囲で」

「分かっています」

「本当に?」

「……最近、その問い方がずるいです」

「気をつけます」

「気をつけないでください。たぶん意味がありません」


 かなめは袖を整え、小さく鈴を鳴らした。


 りん、と音が拝殿の中を渡る。


 熱田のような大きな神域へ触れるときとは、鈴の響きが違った。

 こちらはもっと近い。

 もっと土に寄っている。

 村人の台所や畑や、夜の戸締まりに近い音だ。


 かなめは舞というより、掃き清めるような所作で社前の空気を整えていく。

 崩れた理を押し返すのではない。

 弱ったものが、もう一度自分の形を思い出すように、静かに促しているのだ。


 若き僧はそれを見て、胸の奥で小さく納得していた。


 白榊かなめは、もともと“戦う巫女”として出会った。

 だが彼女の本質は、やはりこちらなのだろう。

 小さな神域の声を拾い、人の祈りが完全に途切れぬように繋ぐこと。

 その姿は、老術者のような大きな理を振り回す強さとは別の意味で、確かな強さだった。


 霞がぼそりと言う。


「こういうの見るとさ」

「何でしょう」

 若き僧が問う。

「何で老爺は、こういう小さい社から壊したがるのかなって思う」

「……」

「熱田みたいな大きいのに正面から行くのも面倒だから、っていうのは分かる」

「ええ」

「でも、それだけじゃなくて」

「何かを嫌っている」

「そう」

 霞は珍しく真面目な顔をしていた。

「こういう、小さくて、地味で、でも毎日続いてるやつ」

「……」

「古い理とか、大きい秩序とか言ってるくせに、一番邪魔なの、こういうのなんじゃないかなって」

 若き僧は静かに頷いた。

「そうかもしれません」

「何で」

「大きな理は、上から形を決めようとする」

「うん」

「ですが、小さな祈りは、土地ごとに違う形で根を張る」

「……」

「つまり、扱いにくいのです」

「最悪」

「かなり」

「今日はその返し、ちょっと好きかも」

「助かります」


 老婆は拝殿の脇で、かなめの所作を見守っていた。

 その目には、ただありがたいというだけではない、どこか泣きそうなものが浮かんでいる。

 たぶん、誰かが“ここはまだ死んでいない”と認めてくれたことが、嬉しいのだろう。


「巫女さま」

 かなめが手を止めたあと、老婆が小さく声をかけた。

「はい」

「この社は、まだ大丈夫でしょうか」

「……」

 かなめは少し考え、それからゆっくり答えた。

「今すぐ消えることはありません」

「本当ですか」

「はい。ただ」

「ただ?」

「毎日でなくてよいので、水と、少しの塩と、声をかけてください」

「声」

「“忘れていない”と伝えるだけで違います」

「……」

 老婆は何度も頷いた。

「できます。ええ、それくらいなら」

「十分です」

「本当に?」

「はい」

「……ありがたい」


 その声を聞いて、かなめはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 若き僧はそれを見ながら、この章の“守るべきもの”の輪郭を、改めて心に刻んでいた。


 天下を巡る霊脈争い。

 覇王の火。

 東海の古い術。

 そうした大きなものは確かに面白いし、目を離せぬ。

 だが、その大きな流れが最終的に焼き、潰し、守るのは、結局こういう小さな場所なのだ。


 焼け残る祈り。

 人が戻るまで、たった一人の老婆が繋ぐ神域。

 かなめの鈴に、やっと少しだけ息を吹き返す社。


 これを守れぬなら、大きな理も天下も、空しいのだろうと彼は思った。


 かなめが拝殿から戻る。


「終わりました」

「お疲れさまでした」

「少しだけです」

「それでも」

「ええ。少しだけでも」


 霞がかなめを見て言う。


「巫女」

「何です」

「さっきの、良かった」

「……」

「今度は本気で褒めてる」

「そうですか」

「うん」

「ありがとうございます」

「素直」

「あなたに言われたくありません」

「それはそう」


 三人は社をあとにした。

 石段を下り、街道へ戻る途中で、若き僧は一度だけ振り返る。


 小さな社は相変わらず質素で、目立たない。

 それでも、来たときより少しだけ“息をしている”ように見えた。


 かなめが隣で、同じように振り返っていた。


「何ですか」

 若き僧が問う。

「いえ」

 かなめは静かに答える。

「私が守りたいものって、たぶんこういうものなのだと思って」

「ええ」

「熱田のような大きな神域も大事です」

「はい」

「でも、それだけではなく」

「こういう小さな社があるからこそ、熱田も熱田でいられる」

「……」

「そういうことなのでしょう」

「その通りです」


 かなめは少しだけ目を伏せ、それから前を向いた。


 彼女の歩き方が、また少し変わった気がした。

 一社の巫女でありながら、一社の外を見ざるを得なくなった巫女。

 その矛盾ごと抱えて、前へ進み始めている。


 霞が二人の少し前を歩きながら、ぼそりと言った。


「坊主」

「はい」

「美濃に行っても、こういう小さい社あるかな」

「あるでしょう」

「だったら」

「はい」

「たぶん、また巫女が放っとけない顔する」

「……」

 かなめが眉を寄せる。

「何ですか、その言い方」

「だってするでしょ」

「……するかもしれません」

「ほら」

「でも、あなたもきっと助けるでしょう」

 かなめが返す。

「え」

「今のあなたなら」

「……」

「違いますか」

「……違わないかも」

「素直ですね」

「今だけだって」


 若き僧はそのやり取りを聞きながら、小さく息を吐いた。


 尾張の火は、確かに外へ向かっている。

 だがその旅路の途中には、こういう小さな祈りの場所が無数にある。

 その一つ一つが、国を形作っている。


 戦国神秘録は、覇王や軍神だけを書けばよいものではない。

 こういう焼け残る祈りもまた、きちんと記しておかねばならない。


 彼はそう思いながら、尾張の道を再び歩き出した。

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