第22話 名もなき兵の無念
尾張の朝は、戦の勝ちを知った者から順に色を変えていく。
村を抜ける頃には、すでに人の口が熱を持ち始めていた。
今川義元が討たれた。
織田が勝った。
そんな噂が、井戸端や畦道や軒先を、風より少し遅い速さで渡っていく。誰もが半信半疑だ。だが半信半疑だからこそ、言葉は何度も口にされ、そのたびに少しずつ形を帯びる。
若き僧は、その熱の広がりを肌で感じながら歩いていた。
かなめは村の子どもたちが少しだけ外へ出ているのを見て、ほっとしたような顔をしていた。
霞は逆に、そういう時ほど刃傷沙汰や盗みが増えると知っているのか、目だけは忙しく周囲を見ていた。
三人とも、同じ尾張の朝を見ている。だが拾っているものはそれぞれ違う。
「今日は、どこまで行くのです」
かなめが問うた。
若き僧は、道の先を見たまま答える。
「桶狭間そのものまでは行きません」
「では」
「その手前です」
「手前?」
「戦場から流れてくるものが、最初に溜まりやすい場所を見ます」
「……」
かなめは言葉の意味を測りかねたように少しだけ黙った。
霞が代わりに言う。
「死に損ないとか、負傷兵とか?」
「それもあるでしょう」
「“それも”」
「もっと見えぬほうです」
霞が眉を寄せる。
「またそういう言い方」
「事実ですので」
「便利だね」
「助かっています」
「その返し、ちょっとずるい」
かなめは小さく息をついた。
「つまり、戦場そのものへ近づくのではなく」
「ええ」
「戦場の余波が、村や林へしみ出してくるところを見る」
「その通りです」
「……嫌な役目です」
「かなめ殿にとっては」
「巡修殿にとっては違うのですか」
「いえ。私にとっても」
「なら」
「嫌でも見ねばなりません」
「……」
かなめは何かを言い返しかけて、結局やめた。
この僧は、怖いものを怖いと言う。だが、それを理由に目を逸らしはしない。そういう男だと、彼女ももう知っている。
村を離れるにつれて、道は細くなった。
昨日の雨が残したぬかるみは、陽が当たるところから乾き始めている。田の水は濁りを沈め、林の葉からはまだ雫がときおり落ちた。
見た目には穏やかだった。
だが、若き僧は何度か足を止めた。
風だ。
桶狭間の方角から来る風に、薄く鉄の匂いが混じっている。血の匂いはもう遠い。だが死の匂いはまだ残る。そして、それに混じって、ごく淡く、形になりかけた“声”の気配があった。
かなめも、それに気づき始めていた。
「……空気が重い」
「ええ」
若き僧が答える。
「昨日の雨のせいではない」
「はい」
「もっと、下から来る感じがする」
「そうです」
「地面が、何かを飲み込みきれていない」
「その通りです」
霞は足元の土を見下ろした。
「私には、そこまでは分かんない」
「分からなくてもいいと思います」
若き僧が言う。
「でも、嫌な感じはする」
「それで十分です」
「それ、今日何回目?」
「三回目くらいでしょうか」
「数えてるんだ」
「少しだけ」
「やっぱ面倒くさい坊主」
道はやがて、低い林と湿地のあいだを抜ける細道へ変わった。
そこは人が集まる場所ではない。戦の前なら、誰もわざわざ長居したくないような、日陰の多い地だ。
だからこそ、溜まる。
名もなきものが。
若き僧は林の入口で足を止めた。
かなめも、霞も、自然と立ち止まる。
「ここです」
「ここ?」
かなめが見回す。
「何もないように見えます」
「見えないのが普通です」
「それ言われると、ちょっと腹が立ちます」
「すみません」
「最近その流れに慣れてきた自分も少し嫌です」
「そこはかなめ殿の良さかと」
「褒めても何も出ません」
若き僧は草の少ない地面へ膝をついた。
掌を置く。
土はまだ湿っていた。
その冷たさの下に、別の冷えがある。
人の死が濃いところは、空気だけでなく地面も変わる。
熱が奪われる、という言い方が近い。だがそれだけではない。帰るべき気配が帰れず、薄い膜のように地へ貼りついているのだ。
「……名もない」
若き僧が小さく呟いた。
「何が」
かなめが問う。
「兵です」
「敵の?」
「味方も」
「……」
「このあたりは、本戦そのものではありません」
「ええ」
「ですが、敗走した者、追った者、そこで切られた者、傷を抱えたまま倒れた者がいる」
「それが、残っている」
「はい」
かなめは目を閉じ、静かに呼吸を整えた。
巫女として神域の清濁には敏い。だが“戦場の残り”は、社の穢れとは違う。もっと人間に近く、もっと生々しい。
「……苦しい」
かなめが低く言う。
「ええ」
若き僧が頷く。
「これは祓っていいものではありません」
「では、どうするのです」
「聞きます」
「聞く」
「そして、境を立てる」
「それだけ?」
霞が言う。
「足りるの?」
「今は、それしかできません」
「……」
霞は口を閉じた。
彼女もまた、林の空気にどこかいつもと違うものを感じているのだろう。見えなくても、人は自分と同じくらいの歳の誰かが泥の中で死んだ気配くらいは、肌で拾うことがある。
若き僧は、そのまま瞼を閉じた。
風が吹く。
林の上を渡る。
そしてその風の奥に、声とも息ともつかぬものが混じっていた。
水。
喉。
帰れぬ。
誰か。
母。
痛い。
明瞭な言葉ではない。
だが、確かに“人のまま死に切れなかった気配”がそこにあった。
若き僧の眉がわずかに寄る。
かなめはその顔を見て、背筋を伸ばした。
霞は無意識に短刀の柄へ手をかけるが、今ここで斬る相手がいるわけではないとすぐ思い出し、少しだけ気まずそうに手を離す。
「かなめ殿」
「はい」
「鈴を」
「どこへ」
「林の入口に。中へではなく」
「……分かりました」
かなめは神楽鈴を胸の前へ持ち、林に向けてではなく、自分たちの立っている側へ、つまり“こちらは人の眠る側だ”と示すように、一度だけ鳴らした。
りん。
鈴の音は澄んでいた。
小さな社で聞くよりも、むしろこの湿った林の前で鳴るほうが、はっきり意味を持つ音だった。
若き僧はそれに合わせて低く唱える。
「戦野に散りし名もなきものよ。勝ちも負けも、今はまだここへ持ち込むな。人の家へ、子の寝所へ、井戸の水へ、今宵の眠りへ、汝らの痛みを混ぜることなかれ」
声は大きくない。
だが、かなめの鈴が立てた境に、その言葉は静かに乗った。
林の空気が、少しだけ変わる。
濁りが消えたわけではない。
死が慰められたわけでもない。
だが、こちらへじわじわと染み出してこようとしていたものが、ひとまず入口で足を止めたのだ。
「……薄くなった」
霞がぽつりと言った。
「分かるのですか」
かなめが振り向く。
「少しだけ」
「何が」
「さっきまで、背中のとこがぞわぞわしてた」
「ええ」
「今は、それがちょっと遠くなった」
「十分です」
若き僧が言う。
「そこで留まっていれば、村へは入れません」
「じゃあ」
かなめが慎重に問う。
「これで、助かったのですか」
「……今朝は」
「今朝は」
「はい」
「……」
かなめは、どこか悔しそうに唇を引き結んだ。
巫女である彼女にとって、“今朝だけ”という答えはたぶん物足りないのだろう。神域とは、本来もっと長く守るものだからだ。
だが若き僧は言葉を濁さなかった。
「かなめ殿」
「はい」
「戦の残りは、一度の祈りで消えるほど軽くありません」
「ええ」
「ですから今は、無理に鎮めようとしないほうがいい」
「……」
「今は、境を立て、村へ入れず、時間を置く」
「そうしないと」
「こちらまで呑まれます」
かなめはしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「でも」
「はい」
「嫌です」
「それは、そうでしょう」
「戦って、勝って、でもこんなふうに名もない兵の無念が残るなら」
「ええ」
「私は、何を守っているのだろうと思ってしまう」
「かなめ殿……」
「村の朝?」
かなめは自分で言って、自嘲するように目を伏せた。
「それだけでは、あまりに小さい」
そこで、霞が珍しく真面目な声で言った。
「小さくないよ」
「……」
「私みたいなのからすると、むしろそっちのほうが大きい」
「霞」
「だって、勝った負けたって、結局、最後に残るのは朝でしょ」
「……」
「子どもが熱出さないとか、井戸水が変じゃないとか、そういうの」
「……」
「それがなかったら、誰が勝っても意味なくない?」
かなめは目を見開いた。
若き僧もまた、少しだけ意外に思いながら霞を見た。
霞は気まずそうに顔をそらした。
「何」
「いえ」
「変な顔しないで」
「いえ、少し」
「何」
「良いことを言うのだなと」
「……うるさい坊主」
「かなり素直では」
「やめて」
「褒めているのです」
「褒めなくていい!」
かなめは思わず小さく笑ってしまった。
すぐに真顔へ戻したが、その目元の強張りは少しだけほどけていた。
「……ありがとう」
かなめが霞に言う。
霞はますます顔をしかめる。
「やめて」
「何が」
「巫女に真面目に礼言われるの、落ち着かない」
「知りません」
「そこは知って」
「聞こえています」
「いや、それ違うやつ」
若き僧は二人のやり取りを聞きながら、もう一度林を見た。
濁りはまだある。
死はそこにある。
だが今は、ひとまずこちらへは来ない。
名もなき兵たちだ。
今川の側も、織田の側もいるのだろう。勝った者、負けた者、その区別すらもう曖昧になりながら、ただ死に切れぬ気配だけが林の湿りへ残っている。
若き僧はそっと手を合わせた。
「いずれ、もう少し静かな形で送りましょう」
「できるのですか」
かなめが問う。
「少しずつなら」
「全部は」
「無理でしょう」
「……」
「それでも、少しずつです」
「その言い方」
「気に入りませんか」
「いえ」
かなめは静かに首を振った。
「今は、好きです」
若き僧は答えず、ただわずかに目を伏せた。
桶狭間は終わった。
だが勝ち戦のあとにこうして林へ溜まる名もなき兵の無念を見れば、それがただの英雄譚でないことは明らかだ。
覇王の火は美しい。
だが、その美しさの下にこういうものを残す。
それもまた、記しておかねばならぬのだと、彼は思った。
かなめが鈴を納める。
「戻りましょうか」
「はい」
若き僧が頷く。
「ここは今朝のうちは持ちます」
「今朝のうちは」
「ええ」
「やはりそこは変わらないのですね」
「変わりません」
「……最近、少しその言い方に慣れてきた自分が嫌です」
「かなめ殿、それちょっと分かる」
霞が言う。
「あなたまで」
「だって坊主、そういうとこ本当に変わんないし」
「よく言われます」
「それ、もう口癖だよ」
三人は林を離れた。
朝の光は少しずつ高くなり、尾張の空は一見穏やかなままだ。
だが若き僧には、その穏やかさの裏で確かに別の流れが動き始めているのが見えた。
勝利の熱。
死者の影。
そして、国境の向こう――美濃のほうから吹いてくる、まだ名のつかぬ違和感。
桶狭間で生まれた火は、もう尾張の中だけに収まるものではない。
その火を見届ける旅もまた、ここから先へ進まねばならぬだろう。
若き僧はそう思いながら、かなめと霞の後ろ姿を見た。
小さな社の巫女と、元くノ一。
本来なら交わらぬ二つの存在が、今は同じ尾張の朝を歩いている。
それもまた、戦のあとに残った、数少ない良きものの一つかもしれないと、彼は静かに思った。




