第21話 戦の翌朝、尾張の空
桶狭間の翌朝、尾張の空はあまりにも静かだった。
雲は薄く、雨上がりの名残をほんの少し残して高みに引いている。陽はすでに昇っているのに、空気はどこかひんやりとしていた。戦の夜を越えた大地が、まだ自分の呼吸を取り戻しきれていない、そんな冷たさだった。
若き僧は鳥居の前に立ち、空を見上げていた。
昨日まで、この空の下では、人の思惑と神域の揺らぎと東海の古い術がぶつかり合っていた。熱田の神気が押し返し、今川本陣の理が綻び、覇王の火がそこへ踏み込んだ。雨は天から落ちたのではない。乱れた霊脈が、天地の境をひしゃげさせて降らせたものだった。
だが今朝、空だけを見れば、そんなことは何一つ分からない。
それがかえって不気味だった。
「……本当に、勝ったのですね」
後ろから白榊かなめの声がした。
若き僧は振り向いた。
かなめは社殿の前で朝の結を確かめ終えたところだった。白衣の袖口はきちんと整えられ、緋袴の裾も泥を払ってある。けれど、その立ち姿は桶狭間以前と同じではない。疲れがある。迷いもある。だがそのどれもを隠さずに立っているぶん、かえって芯が見えるようになっていた。
「はい」
若き僧は静かに答えた。
「尾張は、今のところは」
「今のところ、ですか」
「ええ」
「……そう言うだろうとは思いました」
かなめは少しだけ苦笑した。
その横から、霞が欠伸を噛み殺しながら出てくる。社の裏手を見回ってきたらしく、髪の先に朝露をつけていた。
「坊主、また空見てる」
「ええ」
「何かある?」
「たくさん」
「うわ、嫌な答え」
「事実ですので」
「そこまで含めて嫌」
霞はそう言って鳥居の柱へ背を預けた。
彼女もまた、第一章の頃とはもう少し違う顔をしていた。鋭さや油断のなさは変わらない。だが今は、どこか“留まっている”感じがある。ただ逃げ場を探している目ではない。ここ数日、自分が何を見て、誰と動いているのかを考え始めた者の目だ。
若き僧は三人の立つ社の前を見渡した。
村道には朝の支度をする人の気配が出始めている。桶を運ぶ音。戸を開ける音。馬ではなく、人の足で歩く日常の音。昨日の夜まではそれすらどこかよそよそしかった。けれど今朝は、人々がまだ恐れを抱えながらも、いつもの営みへ戻ろうとしているのが分かった。
「村の空気が違います」
かなめが言った。
「ええ」
若き僧は頷く。
「勝ったと知っているわけではないでしょうに」
「知る前から、身体が先に感じることがあります」
「地の重みが消えたから?」
「一つは」
若き僧は言った。
「今川の大軍が押しつけていた重さがなくなった」
「それだけではない?」
「はい。尾張の内側にあった火が、昨日までは押し返すために燃えていた。今朝はそれが、前へ流れ始めている」
「……火」
かなめが小さく繰り返す。
「信長の」
「ええ」
霞が面倒くさそうに空を見上げた。
「私はまだ、その“火”があんまり見えない」
「見えなくてもいいと思います」
若き僧が言う。
「でも、分かる」
「何が」
「昨日までとは違う感じ」
「ええ。それで十分です」
「それって便利な言い方?」
「かなり」
「今日はその返し、ちょっと合ってる」
かなめが鳥居の外へ一歩出た。
朝の風が、彼女の白衣の袖を揺らす。
その風は昨日のように湿ってはいない。だが乾いてもいない。まだどちらへでも転がりうる、軽いようでいて不安定な風だった。
「巡修殿」
「はい」
「私は、今まで戦というものを、もっと単純に考えていたのかもしれません」
「どのように」
「勝てば守られ、負ければ壊れる、と」
「……」
「でも昨日見たのは、勝っても終わらない景色でした」
「そうですね」
「義元が散り、今川の理が崩れて、信長が勝った。それでも死者は残り、余波は社にまで届き、老術者もまだ消えない」
「はい」
「なら、桶狭間は“終わり”ではない」
「ええ」
「むしろ」
「始まりです」
かなめは若き僧を見た。
「本当に、そう思うのですね」
「はい」
「少し、怖い」
「ええ。怖いことだと思います」
「でも」
かなめは空を見上げた。
「見てしまった以上、見なかった頃には戻れない気もします」
「その通りでしょう」
「……」
霞がそこで口を挟む。
「巫女、それちょっと分かる」
「あなたも?」
「うん」
「何が」
「昨日までなら、今川が負けたって聞いたら“へえ”で終わってたと思う」
「はい」
「でも今は、そのあとどこがどう崩れて、誰がそれを拾って、次にどこへ行くのかが気になる」
「……」
「最悪だよね」
霞は鼻を鳴らした。
「坊主にうつった」
「それは少し心外です」
若き僧が言う。
「だってそうでしょ」
「たぶん、もともとの気質もあるかと」
「自分でそう言うんだ」
「多少は」
「多少どころじゃない」
三人は並んで村道のほうを見た。
朝の村は、少しずつ動いていた。
老人が水を運び、女たちが洗い物をし、子どもが恐る恐る外へ出る。
それだけなら平穏だ。
だがその平穏の下では、確実に大きな変化が走っていた。
若き僧には分かる。
桶狭間で生まれたものは、今や尾張という一国の内に収まる熱ではない。
信長の火は、土地へ印をつけ始めている。
それは圧政の火でもなければ、ただの戦勝の昂ぶりでもない。国の形そのものを押し変えようとする意志の熱だ。
「かなめ殿」
「はい」
「熱田は、まだ揺れるでしょう」
「ええ」
「尾張の小社も、しばらくは落ち着かない」
「はい」
「ですが、それでも今朝の尾張は、昨日とは違う」
「勝ったから」
「それもあります」
「それだけではない?」
「地脈が、“次”を探し始めています」
「……次」
「はい。次にどこへこの火が伸びるかを」
かなめはそこで、ふっと息を呑んだ。
「それは、つまり」
「尾張の外です」
霞が低く言った。
「美濃?」
「可能性は高い」
若き僧が答える。
「すぐに?」
「今すぐとは限りません」
「でも、見る価値はある」
「ええ」
「……やっぱり」
霞は舌打ちしそうな顔になった。
「坊主、そういうこと考えてたんだ」
「少し前から」
「少しじゃないでしょ、それ」
「そこは否定しません」
かなめが鳥居の柱へ指先を触れたまま、静かに言う。
「この社を離れたくない気持ちは、今もあります」
「ええ」
「でも、この火が尾張を越えるなら、その先を知らずに守ることはできません」
「はい」
「なら、私は」
かなめは目を閉じ、それからはっきりと目を開いた。
「見に行くべきなのですね」
「かなめ殿がそう思うなら」
「その言い方、ずるいです」
「どうして」
「私に決めさせているからです」
「それは大事なことです」
「正しいことを、そんな静かな顔で言わないでください」
「……申し訳なく」
「本当にそう思ってます?」
「かなり」
「今日はその返しを多用しますね」
「便利ですので」
「やっぱりそうなんだ」
霞が少し笑った。
かなめも呆れたように肩をすくめる。
こうした小さなやり取りが、三人のあいだに“旅の空気”を作り始めているのを、若き僧は感じていた。
そのとき、村の向こうで誰かの声が上がった。
「今川様が討たれたってよ!」
それは、噂がついに村の表へ届いた瞬間だった。
すぐに別の声が重なる。
「本当か?」
「尾張の殿様が勝ったらしい!」
「そんな馬鹿な!」
「でも、街道の向こうから来た奴が言ってたぞ!」
戸口が開き、垣の陰から顔が出る。
村の空気が、一気に熱を持つ。
恐れが消えるわけではない。だが“押し潰される側”の諦めが、今この瞬間だけは揺らいだのだ。
かなめがその様子を見ながら、ぽつりと言う。
「……始まりましたね」
「はい」
若き僧が答える。
「火が」
「そうでしょう」
「怖い」
「ええ」
「でも、目を逸らせない」
「その通りです」
霞が腕を組み、眩しそうに目を細めた。
「じゃあ、決まりだね」
「何が」
かなめが問う。
「ここで終わりにしないってこと」
「……」
「坊主はもうそのつもり。巫女も半分はそう。だったら私も、今さら“やっぱ帰る”とか言う空気じゃない」
「逃げてもいいのですよ」
若き僧が言う。
「それ、たまに言うけど」
「はい」
「ずるいよね」
「そうでしょうか」
「そう。だって、そう言われると逃げにくい」
「……」
「まあ、逃げないけど」
霞はそっぽを向いた。
「借り、まだ返してないし」
「ええ」
「それに」
「はい」
「こうなったら、どこまで燃えるか見届けたくなった」
「……そうですか」
「うん。最悪だけど」
「かなり」
「今それちょっと好き」
かなめが霞を見て、そして若き僧を見た。
「では、第二の道行きですね」
「第二」
「桶狭間までが第一なら」
「その先が」
「はい」
「……そうですね」
若き僧は頷いた。
「たぶん、ここからが本当の始まりです」
朝の尾張の空は、相変わらず穏やかに見えた。
だが、その穏やかさの下で、覇王の火は確かに広がっている。
人々の噂の中で。
神域の揺れの中で。
東海の古い術の怨念の中で。
そして、これから先の美濃という国の閉ざされた気配の向こうで。
若き僧は、その先を見据えるように目を細めた。
後に天海と呼ばれることになるこの若き僧の旅は、まだたった一つの戦を越えたにすぎない。
だが桶狭間で彼は見た。
覇王の炎を。
軍神へ連なる理の予兆を。
天下を巡って霊脈までもが争う乱世の輪郭を。
もう戻れない。
だから歩くしかないのだ、と彼は静かに思った。
「行きましょう」
若き僧が言った。
「はい」
かなめが答える。
「うん」
霞も続く。
三人は鳥居の外へ出た。
尾張の土は、まだ昨日の雨の湿りを残している。
けれどその上を吹き抜ける風は、もう国境の向こうを向いていた。




