第20話 戦国神秘録の始まり
桶狭間の熱が尾張の地から完全に抜けるまでには、まだ幾日もかかるのだろう。
だが、かなめの社にとっては、この朝がひとまずの区切りだった。
前日の朝にあったざらついた不安は薄れ、村人たちの顔にも、ようやく“息をつくことを思い出した者”の色が戻り始めている。
戦の勝ち負けが正確に伝わったわけではない。
けれど今川義元が討たれ、尾張が持ちこたえたらしいという噂だけで十分だった。
人の世というものは、真実そのものより、次の一歩をどちらへ出せばよいかが先に要る。
朝の光は穏やかだった。
鳥居の笠木に落ちる日差しも、井戸端の水面のきらめきも、まるで昨日までの雨と死と怨念が嘘であったかのように見える。
だが若き僧には分かる。
嘘ではない。
ただ、傷は見えぬところへ沈んだだけだ。
白榊かなめは、社殿の前で最後の結を確かめ終えると、しばらく黙って拝殿を見つめていた。
この数日で、彼女の立ち方は少し変わった。
もともと凛としていたが、今はそこへ“知ってしまった者”の静けさが加わっている。
小さな社を守る巫女であることに変わりはない。
けれど彼女はもう、神域は村の内側だけで完結するものではないと知ったのだ。
「……何だか、不思議です」
かなめがぽつりと言った。
若き僧は鳥居の近くで立ち止まり、振り返る。
「何が」
「数日前までは、この社のことしか見ていなかったのに」
「ええ」
「今は、熱田のことも、尾張の火も、東海の古い術も、全部どこかで繋がっている気がする」
「その通りです」
「それが嬉しいのか、怖いのか、自分でも分かりません」
「どちらもでしょう」
「……」
「広く見えるようになるのは、喜びでもあり、負担でもあります」
「巡修殿みたいなことを言いますね」
「少しずつ移ったのかもしれません」
「それは嫌です」
「そうですか」
「そうです」
かなめはそう言ったあとで、ほんの僅かに笑った。
その笑みには疲れもある。だが、それ以上に決意が見えた。
霞は鳥居の柱へ肩を預け、相変わらず素直とは言いがたい顔で空を見ている。
夜色の衣はまだ社に馴染み切ってはいない。
神域の白と赤のあいだに、彼女の影は異質だ。
それでも今、この場所に彼女がいることを、かなめも若き僧も、もう不自然とは思わなくなりつつあった。
「で」
霞が言った。
「ここからどうすんの」
かなめが霞を見る。
「どうする、とは」
「坊主の記録に、桶狭間は終わったって書くんでしょ」
「ええ」
若き僧が答える。
「じゃあ、その次」
「……」
「ずっとここにいるわけじゃない」
「そうですね」
若き僧は静かに言った。
「たぶん、いられません」
「たぶん、って」
「かなり高い確率で」
「その言い方、最近ちょっと分かってきた」
霞が言う。
「良いことなのか悪いことなのか」
「たぶん、悪い」
「そうでしたか」
かなめが少しだけ真剣な顔になる。
「巡修殿」
「はい」
「どこへ向かうつもりです」
「まだ定かではありません」
「またそれですか」
「ですが、候補はあります」
「聞かせてください」
「美濃」
かなめの目が少し動く。
「信長が桶狭間に勝ったなら、その火は次に尾張の外へ向く可能性がある」
「はい」
「そして甲斐」
「武田」
「ええ。東海の理が崩れた今、別の“軍神の理”がどう動くか見ておきたい」
「……」
「さらに越後」
「上杉」
「はい」
「全部、大きすぎませんか」
「大きいでしょうね」
「軽く言わないでください」
「軽くは言っていません」
「そう見えるんです」
「申し訳なく」
霞がそこで小さく鼻を鳴らす。
「でも分かる」
「何が」
かなめが問う。
「桶狭間だけ見て終わりにしたら、たぶん変」
「……」
「だって、あの火は尾張の中だけで燃えてる感じじゃなかった」
「ええ」
若き僧が答える。
「そうですね」
「だから、追うんでしょ」
「はい」
「……ほんとに、変な坊主」
「よく言われます」
「今それ、もうほとんど自己紹介だよ」
若き僧は少しだけ笑った。
かなめも、今度はそれを咎めなかった。
社の前に、朝の風が通る。
その風は昨日までより軽い。
だが、ただ軽いだけではない。
遠くへ開いていく風だ。
若き僧はその気配に、微かな予感を覚えていた。
尾張の火は、今やもう止まらぬ。
義元が散り、今川の重みが崩れ、古い術が傷を負ったことで、この先の乱世はますます姿を変える。
その変化を見ずして、ここで筆を置くわけにはいかない。
「かなめ殿」
「はい」
「この社を離れることについて、迷いはありますか」
「あります」
かなめは即答した。
「たくさん」
「ええ」
「でも、残るだけでは守れないと知ってしまったので」
「……」
「迷いながらでも、行くしかないのでしょう」
「そうですね」
「その言い方、本当にずるいです」
「どうして」
「正しいからです」
「それは……」
「褒めていません」
「分かっています」
かなめは一度深く息を吸った。
「私は、尾張の巫女です」
「はい」
「だから本当なら、ここを離れるべきではない」
「ええ」
「でも、尾張そのものが燃え始めるなら、その火を見なければならない」
「はい」
「熱田が何を見たのか、信長がどこへ向かうのか、東海の古い術が次に何をするのか、知っておかなければ、この先この社を守れない」
「……」
「だから、行きます」
「かなめ殿」
「何です」
「その決意は、きっと正しい」
「……そういうところです」
「またですか」
「またです」
霞が腕を組んだまま言う。
「じゃあ、巫女は同行」
「ええ」
「坊主も当然同行」
「はい」
「私は?」
「そこは、あなたが決めることです」
かなめが言う。
「決めること、って」
「もう何度も言っています」
「巫女、それ地味に冷たい」
「優しくしてほしいのですか」
「別に」
「ならいいでしょう」
「……」
「それに」
かなめは少しだけ視線を柔らかくした。
「あなた、もう決めている顔です」
「……そんな顔してる?」
「しています」
「嫌だ」
「知りません」
霞は面白くなさそうに舌打ちした。
だがその舌打ちは、以前のような拒絶ではない。照れ隠しに近いと、若き僧には分かった。
「借り、返すまでって言ったでしょ」
霞がぽつりと言う。
「ええ」
若き僧が答える。
「まだ返してない」
「そうですか」
「そう」
「なら」
「だから、しばらくついてく」
「護衛として?」
かなめが言う。
「一応」
「一応」
「その言い方好きじゃない」
「では」
「……護衛、でいいよ」
「素直ですね」
「今だけ」
「そこは変わりませんね」
「巫女もうるさいままだよ」
「聞こえています」
「知ってる」
若き僧は、二人のやり取りを聞きながら、胸のどこかが静かに整っていくのを感じていた。
偶然だろう。
巡り合わせでもある。
尾張の一隅、小さな社と熱田の神域と桶狭間の雨の中で、僧と巫女とくノ一が出会った。
本来なら、同じ道を歩くはずのない三人だ。
それでも今、それぞれ別の理由で、同じ方向を見ようとしている。
かなめは神域を守るために。
霞は借りを返すために。
若き僧は乱世の表と裏を見届けるために。
それで十分だ、と彼は思った。
若き僧は懐から紙束を取り出した。
昨日から書き始めた桶狭間の記録、その最初の数枚。
風に揺れる紙を押さえ、彼は言った。
「では、ここを第一の巻とします」
「第一?」
かなめが聞く。
「はい」
「まだ続ける気満々ですね」
「ええ」
「そこ、迷わないんだ」
霞が言う。
「迷いはあります」
「あるの?」
「かなり」
「でも続ける」
「はい」
「……変」
「それはもう、よく承知しています」
かなめが紙束を見つめる。
「題は、どうするのです」
「題」
「ええ。これから先も書き続けるなら、何と呼ぶのか」
「……」
若き僧は少しだけ考えた。
桶狭間で見たもの。
覇王の火。
軍神に連なる理。
天下を巡る地脈の争い。
神域。
怪異。
人の野心。
そして、まだ名も定まらぬ若き僧自身の旅。
「戦国神秘録」
彼は静かに言った。
「……」
「今のところは、それが近いかと」
「ぴったりですね」
かなめが小さく頷く。
「少なくとも、普通の戦記ではない」
「ええ」
「神秘ばかりでもない」
「はい」
「人の世の話でもある」
「その通りです」
霞が口元だけで笑った。
「じゃあ私は、その“戦国神秘録”の、最初の悪役?」
「違います」
若き僧が答える。
「え」
「最初の同行者です」
「……」
「もちろん、かなめ殿も」
「それは、少しだけ嬉しいです」
かなめが素直に言った。
霞は目を逸らした。
「私は別に」
「そういうところも、書いておきます」
「やめて」
「全部、とのことでしたので」
「そこは本当にやめて」
鳥居の向こうで、風が少し強くなった。
旅の風だ。
もう尾張の村にとどまっているだけでは済まぬ風。
美濃へ。
甲斐へ。
越後へ。
あるいは再び京へ。
これから先、どこへ向かうにしても、この第一の出会いが、すべての始まりになるのだろう。
若き僧は鳥居の外へ出て、一度だけ振り返った。
かなめがいる。
霞がいる。
小さな社があり、その向こうに尾張の空が広がっている。
桶狭間で生まれた火は、今や見えぬところで確かに世を炙り始めていた。
「行きましょう」
若き僧が言う。
「はい」
かなめが答える。
「……うん」
霞が、少し遅れて言った。
三人は鳥居をあとにした。
後に天海と呼ばれることになる若き僧は、まだ何者でもない。
ただ、朝廷の御朱印状を懐に持ち、天竺返りの法力を携え、乱世の表と裏を見てしまう男であるにすぎない。
白榊かなめは、尾張の小さな社を預かる巫女でありながら、もはや一社の外を見ぬではいられない。
霞は、使い潰される側から外れ、まだ不器用なまま、新しい立ち位置を探り始めている。
戦国神秘録は、ここから始まる。
覇王の炎を追い。
軍神の槍を見届け。
天下を巡る霊脈の戦いを記すために。
名もなき三人の旅は、まだ、ようやく最初の一歩を踏み出したばかりだった。




