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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第20話 戦国神秘録の始まり

桶狭間の熱が尾張の地から完全に抜けるまでには、まだ幾日もかかるのだろう。


 だが、かなめの社にとっては、この朝がひとまずの区切りだった。


 前日の朝にあったざらついた不安は薄れ、村人たちの顔にも、ようやく“息をつくことを思い出した者”の色が戻り始めている。

 戦の勝ち負けが正確に伝わったわけではない。

 けれど今川義元が討たれ、尾張が持ちこたえたらしいという噂だけで十分だった。

 人の世というものは、真実そのものより、次の一歩をどちらへ出せばよいかが先に要る。


 朝の光は穏やかだった。

 鳥居の笠木に落ちる日差しも、井戸端の水面のきらめきも、まるで昨日までの雨と死と怨念が嘘であったかのように見える。

 だが若き僧には分かる。


 嘘ではない。

 ただ、傷は見えぬところへ沈んだだけだ。


 白榊かなめは、社殿の前で最後の結を確かめ終えると、しばらく黙って拝殿を見つめていた。

 この数日で、彼女の立ち方は少し変わった。

 もともと凛としていたが、今はそこへ“知ってしまった者”の静けさが加わっている。

 小さな社を守る巫女であることに変わりはない。

 けれど彼女はもう、神域は村の内側だけで完結するものではないと知ったのだ。


「……何だか、不思議です」

 かなめがぽつりと言った。

 若き僧は鳥居の近くで立ち止まり、振り返る。

「何が」

「数日前までは、この社のことしか見ていなかったのに」

「ええ」

「今は、熱田のことも、尾張の火も、東海の古い術も、全部どこかで繋がっている気がする」

「その通りです」

「それが嬉しいのか、怖いのか、自分でも分かりません」

「どちらもでしょう」

「……」

「広く見えるようになるのは、喜びでもあり、負担でもあります」

「巡修殿みたいなことを言いますね」

「少しずつ移ったのかもしれません」

「それは嫌です」

「そうですか」

「そうです」


 かなめはそう言ったあとで、ほんの僅かに笑った。

 その笑みには疲れもある。だが、それ以上に決意が見えた。


 霞は鳥居の柱へ肩を預け、相変わらず素直とは言いがたい顔で空を見ている。

 夜色の衣はまだ社に馴染み切ってはいない。

 神域の白と赤のあいだに、彼女の影は異質だ。

 それでも今、この場所に彼女がいることを、かなめも若き僧も、もう不自然とは思わなくなりつつあった。


「で」

 霞が言った。

「ここからどうすんの」

 かなめが霞を見る。

「どうする、とは」

「坊主の記録に、桶狭間は終わったって書くんでしょ」

「ええ」

 若き僧が答える。

「じゃあ、その次」

「……」

「ずっとここにいるわけじゃない」

「そうですね」

 若き僧は静かに言った。

「たぶん、いられません」

「たぶん、って」

「かなり高い確率で」

「その言い方、最近ちょっと分かってきた」

 霞が言う。

「良いことなのか悪いことなのか」

「たぶん、悪い」

「そうでしたか」


 かなめが少しだけ真剣な顔になる。


「巡修殿」

「はい」

「どこへ向かうつもりです」

「まだ定かではありません」

「またそれですか」

「ですが、候補はあります」

「聞かせてください」

「美濃」

 かなめの目が少し動く。

「信長が桶狭間に勝ったなら、その火は次に尾張の外へ向く可能性がある」

「はい」

「そして甲斐」

「武田」

「ええ。東海の理が崩れた今、別の“軍神の理”がどう動くか見ておきたい」

「……」

「さらに越後」

「上杉」

「はい」

「全部、大きすぎませんか」

「大きいでしょうね」

「軽く言わないでください」

「軽くは言っていません」

「そう見えるんです」

「申し訳なく」


 霞がそこで小さく鼻を鳴らす。


「でも分かる」

「何が」

 かなめが問う。

「桶狭間だけ見て終わりにしたら、たぶん変」

「……」

「だって、あの火は尾張の中だけで燃えてる感じじゃなかった」

「ええ」

 若き僧が答える。

「そうですね」

「だから、追うんでしょ」

「はい」

「……ほんとに、変な坊主」

「よく言われます」

「今それ、もうほとんど自己紹介だよ」


 若き僧は少しだけ笑った。

 かなめも、今度はそれを咎めなかった。


 社の前に、朝の風が通る。

 その風は昨日までより軽い。

 だが、ただ軽いだけではない。

 遠くへ開いていく風だ。


 若き僧はその気配に、微かな予感を覚えていた。

 尾張の火は、今やもう止まらぬ。

 義元が散り、今川の重みが崩れ、古い術が傷を負ったことで、この先の乱世はますます姿を変える。

 その変化を見ずして、ここで筆を置くわけにはいかない。


「かなめ殿」

「はい」

「この社を離れることについて、迷いはありますか」

「あります」

 かなめは即答した。

「たくさん」

「ええ」

「でも、残るだけでは守れないと知ってしまったので」

「……」

「迷いながらでも、行くしかないのでしょう」

「そうですね」

「その言い方、本当にずるいです」

「どうして」

「正しいからです」

「それは……」

「褒めていません」

「分かっています」


 かなめは一度深く息を吸った。


「私は、尾張の巫女です」

「はい」

「だから本当なら、ここを離れるべきではない」

「ええ」

「でも、尾張そのものが燃え始めるなら、その火を見なければならない」

「はい」

「熱田が何を見たのか、信長がどこへ向かうのか、東海の古い術が次に何をするのか、知っておかなければ、この先この社を守れない」

「……」

「だから、行きます」

「かなめ殿」

「何です」

「その決意は、きっと正しい」

「……そういうところです」

「またですか」

「またです」


 霞が腕を組んだまま言う。


「じゃあ、巫女は同行」

「ええ」

「坊主も当然同行」

「はい」

「私は?」

「そこは、あなたが決めることです」

 かなめが言う。

「決めること、って」

「もう何度も言っています」

「巫女、それ地味に冷たい」

「優しくしてほしいのですか」

「別に」

「ならいいでしょう」

「……」

「それに」

 かなめは少しだけ視線を柔らかくした。

「あなた、もう決めている顔です」

「……そんな顔してる?」

「しています」

「嫌だ」

「知りません」


 霞は面白くなさそうに舌打ちした。

 だがその舌打ちは、以前のような拒絶ではない。照れ隠しに近いと、若き僧には分かった。


「借り、返すまでって言ったでしょ」

 霞がぽつりと言う。

「ええ」

 若き僧が答える。

「まだ返してない」

「そうですか」

「そう」

「なら」

「だから、しばらくついてく」

「護衛として?」

 かなめが言う。

「一応」

「一応」

「その言い方好きじゃない」

「では」

「……護衛、でいいよ」

「素直ですね」

「今だけ」

「そこは変わりませんね」

「巫女もうるさいままだよ」

「聞こえています」

「知ってる」


 若き僧は、二人のやり取りを聞きながら、胸のどこかが静かに整っていくのを感じていた。


 偶然だろう。

 巡り合わせでもある。

 尾張の一隅、小さな社と熱田の神域と桶狭間の雨の中で、僧と巫女とくノ一が出会った。

 本来なら、同じ道を歩くはずのない三人だ。

 それでも今、それぞれ別の理由で、同じ方向を見ようとしている。


 かなめは神域を守るために。

 霞は借りを返すために。

 若き僧は乱世の表と裏を見届けるために。


 それで十分だ、と彼は思った。


 若き僧は懐から紙束を取り出した。

 昨日から書き始めた桶狭間の記録、その最初の数枚。

 風に揺れる紙を押さえ、彼は言った。


「では、ここを第一の巻とします」

「第一?」

 かなめが聞く。

「はい」

「まだ続ける気満々ですね」

「ええ」

「そこ、迷わないんだ」

 霞が言う。

「迷いはあります」

「あるの?」

「かなり」

「でも続ける」

「はい」

「……変」

「それはもう、よく承知しています」


 かなめが紙束を見つめる。


「題は、どうするのです」

「題」

「ええ。これから先も書き続けるなら、何と呼ぶのか」

「……」


 若き僧は少しだけ考えた。

 桶狭間で見たもの。

 覇王の火。

 軍神に連なる理。

 天下を巡る地脈の争い。

 神域。

 怪異。

 人の野心。

 そして、まだ名も定まらぬ若き僧自身の旅。


「戦国神秘録」

 彼は静かに言った。

「……」

「今のところは、それが近いかと」

「ぴったりですね」

 かなめが小さく頷く。

「少なくとも、普通の戦記ではない」

「ええ」

「神秘ばかりでもない」

「はい」

「人の世の話でもある」

「その通りです」


 霞が口元だけで笑った。


「じゃあ私は、その“戦国神秘録”の、最初の悪役?」

「違います」

 若き僧が答える。

「え」

「最初の同行者です」

「……」

「もちろん、かなめ殿も」

「それは、少しだけ嬉しいです」

 かなめが素直に言った。

 霞は目を逸らした。

「私は別に」

「そういうところも、書いておきます」

「やめて」

「全部、とのことでしたので」

「そこは本当にやめて」


 鳥居の向こうで、風が少し強くなった。


 旅の風だ。

 もう尾張の村にとどまっているだけでは済まぬ風。

 美濃へ。

 甲斐へ。

 越後へ。

 あるいは再び京へ。

 これから先、どこへ向かうにしても、この第一の出会いが、すべての始まりになるのだろう。


 若き僧は鳥居の外へ出て、一度だけ振り返った。


 かなめがいる。

 霞がいる。

 小さな社があり、その向こうに尾張の空が広がっている。

 桶狭間で生まれた火は、今や見えぬところで確かに世を炙り始めていた。


「行きましょう」

 若き僧が言う。

「はい」

 かなめが答える。

「……うん」

 霞が、少し遅れて言った。


 三人は鳥居をあとにした。


 後に天海と呼ばれることになる若き僧は、まだ何者でもない。

 ただ、朝廷の御朱印状を懐に持ち、天竺返りの法力を携え、乱世の表と裏を見てしまう男であるにすぎない。

 白榊かなめは、尾張の小さな社を預かる巫女でありながら、もはや一社の外を見ぬではいられない。

 霞は、使い潰される側から外れ、まだ不器用なまま、新しい立ち位置を探り始めている。


 戦国神秘録は、ここから始まる。


 覇王の炎を追い。

 軍神の槍を見届け。

 天下を巡る霊脈の戦いを記すために。


 名もなき三人の旅は、まだ、ようやく最初の一歩を踏み出したばかりだった。

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