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戦国神秘録――若き僧が見た覇王の炎、軍神の槍、そして天下を巡る霊脈の戦い  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 桶狭間炎上編 ――若き僧、覇王の火を初めて見る

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第19話 名もなき僧の記録

その日の昼過ぎ、かなめの社には、ようやく“静かな時間”が戻っていた。


 もちろん、本当に何も起きていないわけではない。

 桶狭間の勝ち戦の噂は、尾張の村々を刻々と駆け巡っている。今川義元が討たれたという話は、半ば信じ難い奇譚のように語られながら、それでも人々の声の温度を確実に変えていた。

 畏れだけで固まっていた空気に、今は別の熱が混じっている。

 安堵。

 驚き。

 そして、これからどうなるのかを知りたがる気配。


 小さな社を預かる白榊かなめも、その変化を感じていた。

 朝のうちに村人が何人か社へ来て、勝ったのは本当かと尋ね、神前へ頭を下げ、子どもの熱が少し引いたと礼を言っていった。かなめは巫女として、それに一つずつ応じていたが、心は完全には社の内へ戻りきっていない。

 桶狭間は終わった。

 だが、終わったからこそ始まるものがある。

 そのことを、もう身をもって知ってしまったからだ。


 若き僧は拝殿の脇、陽の差す縁側に座していた。

 前には紙束。

 墨。

 細筆。

 そして、朝廷の御朱印状を収めた包み。


 かなめが水を運んできて、その手元を覗き込む。


「……それを書くのですか」

「はい」

 若き僧が答える。

「桶狭間のことを?」

「ええ」

「誰に読ませるために」

「まずは、自分のために」

「自分」

「忘れぬためです」


 かなめは少し不思議そうな顔をした。


「忘れないでしょう」

「そうとも限りません」

「こんなに大きなことを?」

「大きいからこそです」

「どういう意味です」

「人は、大きすぎるものを見たとき、あとから都合よく整えてしまうことがあります」

「……」

「怖かったことを勇ましく。見誤ったことを最初から分かっていたように。迷ったことを迷わなかったように」

「そんなものですか」

「そんなものです」


 かなめは黙って若き僧の横顔を見た。

 彼はいつも静かだ。

 だが、静かな者ほど、内側で自分を厳しく見ていることがある。

 林で霞を庇ったときも、熱田の雨を見たときも、老術者の禁を止めたときも、この僧は決して“全部分かっていた者”の顔はしていなかった。むしろ毎回、その場で選び、迷い、だからこそ記そうとしているのだろう。


「何を書くのです」

 かなめが訊いた。

「史実を」

「史実」

「はい。人がどう動いたか。何が起きたか」

「でも」

「でも?」

「巡修殿の見ていたものは、それだけではないでしょう」

「ええ」


 若き僧は筆を持つ手を一度止め、少しだけ遠くを見るような目をした。


「だから、もう一つ書きます」

「もう一つ」

「裏を」

「……」


 かなめは無言で縁側へ腰を下ろした。

 白衣と緋袴が、昼の光の中で柔らかく見える。

 ここ数日の戦いと雨と夜更かしで、彼女にも疲れは出ていた。だがその疲れを認めて座れる程度には、社の空気も今は静かだ。


「表と裏、両方?」

「はい」

「誰も信じないかもしれない」

「ええ」

「読む者がいたとしても、妄言だと思うかもしれない」

「そうでしょう」

「それでも」

「それでもです」


 かなめは小さく息を吐いた。


「……少し、分かる気がします」

「何が」

「書き残すことです」

「かなめ殿も?」

「はい」

「巫女として」

「巫女として、でもあります。でも、それだけではなく」


 かなめは自分の袖口を見下ろした。


「私、桶狭間の前までは、神域を守ることが全部だと思っていました」

「はい」

「それは今も大事です。でも」

「でも?」

「神域は、人の世の外にあるのではなく、人の世と一緒に揺れるのだと分かった」

「……」

「小さな社でも、大きな戦に巻き込まれる。熱田の神気だって、信長の火を無視できなかった」

「ええ」

「なら、見たことを書かないと、たぶんまた同じことが起きる」


 若き僧は静かに頷いた。


「その通りだと思います」

「巡修殿が言うと、少し安心します」

「そうですか」

「でも」

「でも?」

「たまに腹も立ちます」

「それは……仕方がないかと」

「自覚があるなら、少し改めてください」

「善処します」

「その返しはもう禁止です」

「……承知しました」


 そこで、縁側の端から声が飛んだ。


「何それ、今ちょっと笑った」


 霞だった。


 彼女は昼のあいだ、社の裏手や林際を一人で見回っていた。忍びとしての習いなのだろう。静かになったからといって、すぐに本気で休める性質ではないらしい。

 だが今は、その見回りも一段落したのか、縁側の柱へ寄りかかるようにしてこちらを見ていた。


「霞」

 かなめが振り返る。

「聞いていたのですか」

「半分くらい」

「全部ですね」

「まあね」


 かなめは呆れたような顔をしたが、以前ほど刺々しくはない。

 霞もそれを分かっているのか、少しだけ口元を緩めた。


「で、坊主」

「はい」

「何書いてんの」

「見たことを」

「どこまで」

「なるべく、全部」

「……全部って、すごいね」

「そうでしょうか」

「だって、普通、自分に都合いいとこだけ残すじゃん」

「普通は、そうかもしれません」

「自分が迷ったとことか、間違えたとことかも?」

「書ける限りは」

「変なの」


 霞は柱へ背を預けたまま、空を見上げた。

 風が少しだけ吹き、木の葉が鳴る。


「私、書かれるの嫌なんだけど」

「名前は伏せます」

「そこじゃない」

「では」

「汚いとこ」

「……」

「私が社荒らして、札盗って、切ろうとして、林で切られそうになって、そういうの全部」

「書きます」

 若き僧は静かに言った。

「容赦ない」

「ですが」

「何」

「そこから今、ここにいることも書きます」

「……」


 霞の目が少しだけ揺れた。

 彼女はいつも、そこを言われると弱い。

 自分のやってきたことは分かっている。だからこそ、“今ここにいる”という現在を、どう受け取ればいいのかまだ決めきれていないのだろう。


「別に」

 霞はそっぽを向いた。

「恩返しの途中なだけ」

「ええ」

「護衛のつもりでもないし」

「そうですか」

「でも坊主、一人で歩かせると危なそうだから」

「……」

 かなめが小さく息をついた。

「それを護衛というのでは」

「違う」

「どこがです」

「気分」

「気分の問題ですか」

「そう」


 若き僧は少しだけ笑い、それから筆を取り上げた。


「では、その“気分”も書きましょう」

「やめて」

「全部、でしたので」

「全部ってそういうことじゃない」

「どこまでがだめですか」

「そこから聞く?」

「一応」

「面倒くさい」

「よく言われます」

「最近、それ自分で気に入ってるでしょ」

「少しだけ」

「ほら」


 かなめが呆れ、霞が眉をひそめる。

 だが三人とも、ほんの少しだけ笑っていた。


 そのあと、若き僧は実際に筆を走らせ始めた。


 永禄三年。

 尾張。

 今川義元の大軍。

 熱田の神気。

 白榊かなめという小社の巫女。

 霞という、影から現れた若い忍び。

 そして、織田信長。


 筆はさらさらとは進まなかった。

 時折止まる。

 考える。

 言い換える。

 見たことと、思ったことと、推し量ったこととを分けようとする。

 かなめはそれを黙って見ていたし、霞もまた途中から何も言わなくなった。


 しばらくして、かなめがぽつりと言う。


「巡修殿」

「はい」

「信長のことは、どう書くのです」

「そのままです」

「覇王の火?」

「ええ」

「でも、それだけではないでしょう」

「そうですね」

「どう書くのです」

 若き僧は筆先を止め、少しだけ考えた。


「……“時代を前へ押し出す火”と」

 かなめが静かに目を伏せる。

「それは、褒め言葉ですか」

「分かりません」

「分からない?」

「火は、暖めもするし、焼きもする」

「……」

「今はまだ、その両方が見えます」


 霞が小さく言った。


「じゃあ、怖いね」

「ええ」

 若き僧が答える。

「かなり」

「その返し今日は許す」

「ありがとうございます」

「褒めてない」

「存じています」


 筆はさらに進んだ。


 老術者の禁。

 今川本陣の綻び。

 雨を呼ぶ霊脈。

 そして、義元の死が落とした大きな影。


 若き僧は書きながら、自分でも少しずつ理解していた。

 これはただの記録ではない。

 乱世の裏にある理を、後の自分へ手渡すための糸でもあるのだ。


 もし今後、自分がもっと深い火のただ中へ進むなら。

 もし、もっと大きな闇を前に立つなら。

 この桶狭間の記憶を、曖昧な感傷にしてはならない。


 正しく恐れ、正しく驚き、正しく迷ったことを、そのまま残しておく必要がある。


「……すごい顔」

 霞が言った。

 若き僧が顔を上げる。

「私がですか」

「うん」

「どんな」

「考えすぎてる坊主の顔」

「それは……否定できません」

「何考えてるのです」

 かなめが問う。

「この先のことを」

「この先」

「ええ」

「桶狭間の次?」

「はい」

「そんなの、まだ分からない」

「だからです」

「……」

「分からないからこそ、ここで見たものが、たぶん土台になります」


 かなめと霞は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、かなめが静かに口を開く。


「では」

「はい」

「その記録、私も見たいです」

「かなめ殿も」

「自分が何を見たのか、改めて知りたい」

「……」

「巫女として、たぶん必要です」

「もちろん」


 霞も、少し遅れて言った。


「私も」

 かなめが振り向く。

「あなたも?」

「何」

「いえ、少し意外で」

「だって、自分がどれだけ馬鹿だったか確認したいし」

「そこまで言わなくても」

「でも、今ここにいるのも事実でしょ」

「ええ」

「なら、それがどう書かれてるか、ちゃんと見たい」

「分かりました」

 若き僧は頷いた。

「完成したら読んでください」

「まだ書き終わってないの?」

 霞が言う。

「ええ」

「どこまであるの」

「まだ、始まったばかりです」

「……」


 かなめが、小さく息を呑む。


「始まったばかり」

「はい」

「桶狭間が?」

「いえ」

 若き僧は筆を置き、二人を見た。

「私たちの記録です」

「……」

「尾張の火を見て、熱田の神気を見て、東海の古い術を見て、ここで三人が出会った」

「はい」

「それがたぶん、この先の最初の頁になる」


 霞が少しだけ眉を寄せる。


「そういう言い方、ずるい」

「よく言われます」

「今それ、合ってる」

「そうでしたか」

「うん。たぶん、今は合ってる」


 社の外では、昼の風が木立を揺らしていた。

 尾張は静かに見える。

 だが静かなのは表だけだ。

 その裏で、覇王の火は確実に広がり、古い理はなお執着を捨てず、神域もまたそれに応えて揺れ続けている。


 若き僧は、そのすべてを紙の上へ落としていった。


 忘れぬために。

 誤らぬために。

 そしていつか、これがただの若き日の記録ではなく、乱世そのものを見返す鏡になるかもしれぬと思いながら。

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