第19話 名もなき僧の記録
その日の昼過ぎ、かなめの社には、ようやく“静かな時間”が戻っていた。
もちろん、本当に何も起きていないわけではない。
桶狭間の勝ち戦の噂は、尾張の村々を刻々と駆け巡っている。今川義元が討たれたという話は、半ば信じ難い奇譚のように語られながら、それでも人々の声の温度を確実に変えていた。
畏れだけで固まっていた空気に、今は別の熱が混じっている。
安堵。
驚き。
そして、これからどうなるのかを知りたがる気配。
小さな社を預かる白榊かなめも、その変化を感じていた。
朝のうちに村人が何人か社へ来て、勝ったのは本当かと尋ね、神前へ頭を下げ、子どもの熱が少し引いたと礼を言っていった。かなめは巫女として、それに一つずつ応じていたが、心は完全には社の内へ戻りきっていない。
桶狭間は終わった。
だが、終わったからこそ始まるものがある。
そのことを、もう身をもって知ってしまったからだ。
若き僧は拝殿の脇、陽の差す縁側に座していた。
前には紙束。
墨。
細筆。
そして、朝廷の御朱印状を収めた包み。
かなめが水を運んできて、その手元を覗き込む。
「……それを書くのですか」
「はい」
若き僧が答える。
「桶狭間のことを?」
「ええ」
「誰に読ませるために」
「まずは、自分のために」
「自分」
「忘れぬためです」
かなめは少し不思議そうな顔をした。
「忘れないでしょう」
「そうとも限りません」
「こんなに大きなことを?」
「大きいからこそです」
「どういう意味です」
「人は、大きすぎるものを見たとき、あとから都合よく整えてしまうことがあります」
「……」
「怖かったことを勇ましく。見誤ったことを最初から分かっていたように。迷ったことを迷わなかったように」
「そんなものですか」
「そんなものです」
かなめは黙って若き僧の横顔を見た。
彼はいつも静かだ。
だが、静かな者ほど、内側で自分を厳しく見ていることがある。
林で霞を庇ったときも、熱田の雨を見たときも、老術者の禁を止めたときも、この僧は決して“全部分かっていた者”の顔はしていなかった。むしろ毎回、その場で選び、迷い、だからこそ記そうとしているのだろう。
「何を書くのです」
かなめが訊いた。
「史実を」
「史実」
「はい。人がどう動いたか。何が起きたか」
「でも」
「でも?」
「巡修殿の見ていたものは、それだけではないでしょう」
「ええ」
若き僧は筆を持つ手を一度止め、少しだけ遠くを見るような目をした。
「だから、もう一つ書きます」
「もう一つ」
「裏を」
「……」
かなめは無言で縁側へ腰を下ろした。
白衣と緋袴が、昼の光の中で柔らかく見える。
ここ数日の戦いと雨と夜更かしで、彼女にも疲れは出ていた。だがその疲れを認めて座れる程度には、社の空気も今は静かだ。
「表と裏、両方?」
「はい」
「誰も信じないかもしれない」
「ええ」
「読む者がいたとしても、妄言だと思うかもしれない」
「そうでしょう」
「それでも」
「それでもです」
かなめは小さく息を吐いた。
「……少し、分かる気がします」
「何が」
「書き残すことです」
「かなめ殿も?」
「はい」
「巫女として」
「巫女として、でもあります。でも、それだけではなく」
かなめは自分の袖口を見下ろした。
「私、桶狭間の前までは、神域を守ることが全部だと思っていました」
「はい」
「それは今も大事です。でも」
「でも?」
「神域は、人の世の外にあるのではなく、人の世と一緒に揺れるのだと分かった」
「……」
「小さな社でも、大きな戦に巻き込まれる。熱田の神気だって、信長の火を無視できなかった」
「ええ」
「なら、見たことを書かないと、たぶんまた同じことが起きる」
若き僧は静かに頷いた。
「その通りだと思います」
「巡修殿が言うと、少し安心します」
「そうですか」
「でも」
「でも?」
「たまに腹も立ちます」
「それは……仕方がないかと」
「自覚があるなら、少し改めてください」
「善処します」
「その返しはもう禁止です」
「……承知しました」
そこで、縁側の端から声が飛んだ。
「何それ、今ちょっと笑った」
霞だった。
彼女は昼のあいだ、社の裏手や林際を一人で見回っていた。忍びとしての習いなのだろう。静かになったからといって、すぐに本気で休める性質ではないらしい。
だが今は、その見回りも一段落したのか、縁側の柱へ寄りかかるようにしてこちらを見ていた。
「霞」
かなめが振り返る。
「聞いていたのですか」
「半分くらい」
「全部ですね」
「まあね」
かなめは呆れたような顔をしたが、以前ほど刺々しくはない。
霞もそれを分かっているのか、少しだけ口元を緩めた。
「で、坊主」
「はい」
「何書いてんの」
「見たことを」
「どこまで」
「なるべく、全部」
「……全部って、すごいね」
「そうでしょうか」
「だって、普通、自分に都合いいとこだけ残すじゃん」
「普通は、そうかもしれません」
「自分が迷ったとことか、間違えたとことかも?」
「書ける限りは」
「変なの」
霞は柱へ背を預けたまま、空を見上げた。
風が少しだけ吹き、木の葉が鳴る。
「私、書かれるの嫌なんだけど」
「名前は伏せます」
「そこじゃない」
「では」
「汚いとこ」
「……」
「私が社荒らして、札盗って、切ろうとして、林で切られそうになって、そういうの全部」
「書きます」
若き僧は静かに言った。
「容赦ない」
「ですが」
「何」
「そこから今、ここにいることも書きます」
「……」
霞の目が少しだけ揺れた。
彼女はいつも、そこを言われると弱い。
自分のやってきたことは分かっている。だからこそ、“今ここにいる”という現在を、どう受け取ればいいのかまだ決めきれていないのだろう。
「別に」
霞はそっぽを向いた。
「恩返しの途中なだけ」
「ええ」
「護衛のつもりでもないし」
「そうですか」
「でも坊主、一人で歩かせると危なそうだから」
「……」
かなめが小さく息をついた。
「それを護衛というのでは」
「違う」
「どこがです」
「気分」
「気分の問題ですか」
「そう」
若き僧は少しだけ笑い、それから筆を取り上げた。
「では、その“気分”も書きましょう」
「やめて」
「全部、でしたので」
「全部ってそういうことじゃない」
「どこまでがだめですか」
「そこから聞く?」
「一応」
「面倒くさい」
「よく言われます」
「最近、それ自分で気に入ってるでしょ」
「少しだけ」
「ほら」
かなめが呆れ、霞が眉をひそめる。
だが三人とも、ほんの少しだけ笑っていた。
そのあと、若き僧は実際に筆を走らせ始めた。
永禄三年。
尾張。
今川義元の大軍。
熱田の神気。
白榊かなめという小社の巫女。
霞という、影から現れた若い忍び。
そして、織田信長。
筆はさらさらとは進まなかった。
時折止まる。
考える。
言い換える。
見たことと、思ったことと、推し量ったこととを分けようとする。
かなめはそれを黙って見ていたし、霞もまた途中から何も言わなくなった。
しばらくして、かなめがぽつりと言う。
「巡修殿」
「はい」
「信長のことは、どう書くのです」
「そのままです」
「覇王の火?」
「ええ」
「でも、それだけではないでしょう」
「そうですね」
「どう書くのです」
若き僧は筆先を止め、少しだけ考えた。
「……“時代を前へ押し出す火”と」
かなめが静かに目を伏せる。
「それは、褒め言葉ですか」
「分かりません」
「分からない?」
「火は、暖めもするし、焼きもする」
「……」
「今はまだ、その両方が見えます」
霞が小さく言った。
「じゃあ、怖いね」
「ええ」
若き僧が答える。
「かなり」
「その返し今日は許す」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「存じています」
筆はさらに進んだ。
老術者の禁。
今川本陣の綻び。
雨を呼ぶ霊脈。
そして、義元の死が落とした大きな影。
若き僧は書きながら、自分でも少しずつ理解していた。
これはただの記録ではない。
乱世の裏にある理を、後の自分へ手渡すための糸でもあるのだ。
もし今後、自分がもっと深い火のただ中へ進むなら。
もし、もっと大きな闇を前に立つなら。
この桶狭間の記憶を、曖昧な感傷にしてはならない。
正しく恐れ、正しく驚き、正しく迷ったことを、そのまま残しておく必要がある。
「……すごい顔」
霞が言った。
若き僧が顔を上げる。
「私がですか」
「うん」
「どんな」
「考えすぎてる坊主の顔」
「それは……否定できません」
「何考えてるのです」
かなめが問う。
「この先のことを」
「この先」
「ええ」
「桶狭間の次?」
「はい」
「そんなの、まだ分からない」
「だからです」
「……」
「分からないからこそ、ここで見たものが、たぶん土台になります」
かなめと霞は、しばらく何も言わなかった。
やがて、かなめが静かに口を開く。
「では」
「はい」
「その記録、私も見たいです」
「かなめ殿も」
「自分が何を見たのか、改めて知りたい」
「……」
「巫女として、たぶん必要です」
「もちろん」
霞も、少し遅れて言った。
「私も」
かなめが振り向く。
「あなたも?」
「何」
「いえ、少し意外で」
「だって、自分がどれだけ馬鹿だったか確認したいし」
「そこまで言わなくても」
「でも、今ここにいるのも事実でしょ」
「ええ」
「なら、それがどう書かれてるか、ちゃんと見たい」
「分かりました」
若き僧は頷いた。
「完成したら読んでください」
「まだ書き終わってないの?」
霞が言う。
「ええ」
「どこまであるの」
「まだ、始まったばかりです」
「……」
かなめが、小さく息を呑む。
「始まったばかり」
「はい」
「桶狭間が?」
「いえ」
若き僧は筆を置き、二人を見た。
「私たちの記録です」
「……」
「尾張の火を見て、熱田の神気を見て、東海の古い術を見て、ここで三人が出会った」
「はい」
「それがたぶん、この先の最初の頁になる」
霞が少しだけ眉を寄せる。
「そういう言い方、ずるい」
「よく言われます」
「今それ、合ってる」
「そうでしたか」
「うん。たぶん、今は合ってる」
社の外では、昼の風が木立を揺らしていた。
尾張は静かに見える。
だが静かなのは表だけだ。
その裏で、覇王の火は確実に広がり、古い理はなお執着を捨てず、神域もまたそれに応えて揺れ続けている。
若き僧は、そのすべてを紙の上へ落としていった。
忘れぬために。
誤らぬために。
そしていつか、これがただの若き日の記録ではなく、乱世そのものを見返す鏡になるかもしれぬと思いながら。




