第23話 熱田の神気、なお揺らぐ
熱田へ戻る道すがら、若き僧は何度も空を見上げた。
桶狭間の戦が終わってから、尾張の空は一見すると穏やかだった。雲は高く薄れ、風も昨日までのような湿りを引きずってはいない。春から初夏へ移る途中の、どこか乾いた明るさすらある。
だが、その明るさの底で、見えぬ流れだけがまだ落ち着いていなかった。
熱田の神気である。
昨日の雨は、ただの天候ではなかった。
今川本陣を守る東海の古い術と、熱田神宮の神気と、尾張の内に燃え上がる覇王の火とが、空の上で均衡を崩して生まれた幕だった。
その衝突は、雨が上がったからといって、すぐに跡形もなく消えるものではない。
かなめもまた、それを感じ取っていたらしい。
「……熱田が、まだ少し熱い」
彼女がぽつりと言った。
若き僧は隣を歩きながら頷く。
「ええ」
「でも、尾張の村々のざわつきとは違う」
「そうですね」
「もっと、奥のほうが疲れてる感じ」
「良い見方です」
「褒めても何も出ません」
「最近、その返しも鋭くなってきました」
「巡修殿の影響なら嫌です」
「それは少し心外です」
霞が前を歩きながら鼻を鳴らした。
「いや、巫女は前からその素質あったと思う」
「何のです」
「面倒くさい坊主の扱いに慣れる素質」
「いりません」
「でも慣れてる」
「……否定しきれないのが嫌です」
「私は見ててちょっと面白い」
「霞」
「何」
「あなたもだいぶ馴染んできました」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
「坊主のそれ、だいたい怪しいんだよね」
三人は尾張の道を進んだ。
桶狭間の勝ち戦の噂は、すでにかなり広く行き渡り始めている。道で行き交う旅人や村人の顔には、昨日までの“踏み潰されるかもしれない”という重さよりも、“ひっくり返ったらしい”という戸惑いと興奮が混じっていた。
勝利が人を強くするというより、先の読めなさが別の熱を生む。
若き僧はそういう人心の揺れもまた、地脈の上に影を落とすのだと知っていた。
熱田が近づくにつれ、その揺れの質はさらに変わった。
人は増える。
足は速くなる。
声は低く、しかし密になる。
神域の近くでは、大声よりも“抑えたざわめき”のほうがよほど不穏だ。
かなめが自然と歩みを緩めた。
「……違いますね」
「何が」
霞が問う。
「勝ったあとの沸き方ではありません」
「それは私も思う」
霞が言う。
「もっとこう、勝ち戦の町って、浮かれる感じがあるでしょ」
「ええ」
若き僧が頷いた。
「ですが熱田は違う」
「何で」
霞が聞く。
「熱田は、勝ち負けの“外側”にある場所だからです」
「……」
「少なくとも、そう思われている」
「それで?」
「神域そのものが昨日の衝突で傷んでいるのなら、そこに仕える者たちの空気もまた浮かれには向かない」
「なるほどね」
霞はそう言って、少しだけ目を細めた。
「つまり、勝ったのに浮かれられない」
「そういうことです」
熱田の森が見えてきた。
若き僧はそこで足を止めた。
かなめも、霞も、すぐにそれに倣う。
森の見え方が、昨日と微妙に違うのだ。
大きさも、形も、変わってはいない。
だが昨日まで、熱田の神気は縦に高く立っていた。尾張一帯を覆う乱れに対して、古く大きな神域としての“格”を保とうとする立ち方だ。
それが今日は、少しだけ“内へ巻いている”。
「閉じてる」
かなめが低く言った。
「ええ」
若き僧が答える。
「戦のあとで、深部を守る形へ入っている」
「守る?」
「はい。外へ大きく張るより、中を整えることを優先している」
「それって、かなり傷んでるってこと?」
霞が問う。
「そう見ていいでしょう」
「……」
かなめの顔が引き締まる。
彼女にとって熱田は、自分の小社とは格の違う大神域だ。そうした場所でさえ、一戦の裏側でこれほど揺らぐのだと実感するのは、巫女としてかなり重いはずだった。
「行きましょう」
かなめが言う。
「はい」
若き僧は頷いた。
「ただし、今日は昨日より慎重に」
「それは」
霞が肩をすくめる。
「毎回言ってるよね」
「毎回必要ですので」
「そこまで言われると反論しづらい」
「よかったです」
熱田近くの町へ入ると、その違和感はさらに濃くなった。
人は多い。
だが、神前へ向かう者の顔には勝利への感謝より、何かを測りかねる色がある。
社家らしき者たちは忙しなく動いているが、どこか落ち着かない。
若き僧には、その理由が分かった。
神域の深部が、まだ“昨日の痕”を抱えているのだ。
勝ったのは尾張だ。
だが熱田にとって桶狭間は、ただ喜べばよいだけの出来事ではない。
信長の火を受け止め、東海の古術を押し返し、そのうえでなお自らの理を保った。
それは神域にとっても、負担だった。
「巡修殿」
かなめが囁く。
「はい」
「熱田、少し怒っていませんか」
「怒る、ですか」
「ええ。人に対してというより、無理をさせられたことに」
「……」
若き僧は少し考えてから答えた。
「その見方は、間違っていないと思います」
「やっぱり」
「熱田のような大きな神域は、そう簡単に人へ顔を見せません」
「ええ」
「ですが昨日は、明らかに“応えた”」
「はい」
「それはつまり、関わってしまったということです」
「……」
「関われば、傷も負う」
「それで、内へ巻いている」
「そういうことでしょう」
霞が低く言う。
「だったら、今の熱田って、ちょっと危ない?」
「危ない、というより」
若き僧が答える。
「繊細です」
「それ、余計やばくない?」
「状況によります」
「ほら、またそういう」
「たしかに」
かなめが小さく息をついた。
「巡修殿は、分かりやすそうで分かりにくい」
「申し訳なく」
「でも、何となく意味は分かります」
「それで十分です」
三人は熱田の外縁を回った。
昨日のように真正面から入るのではなく、神域の外周の流れを見るためである。かなめは神楽鈴を袖の中で軽く持ち、若き僧は異国の法具に触れながら、霞は周囲の人の目と物陰の動きを見ていた。
「見られてる」
霞が小さく言った。
かなめが即座に反応する。
「誰に」
「熱田の側の人」
「敵ではなく?」
「うん。たぶん社家か、その使い」
「私たちが怪しい?」
「かなり」
「……」
かなめは一瞬だけ真顔になり、それから若き僧を見た。
「どうしましょう」
「避けてもよいのですが」
「ですが?」
「かなめ殿がいる以上、完全にごまかすのも不自然です」
「それは」
「尾張の巫女が、桶狭間の直後に熱田を見に来ること自体は、むしろ自然です」
「……」
「私たちが何を見に来たかまでは、言う必要はありませんが」
「たまに、本当にずるいですね」
「褒め言葉でしょうか」
「違います」
それでも、かなめは少しだけ落ち着いたようだった。
自分がここへ来る理屈を、若き僧がきちんと立ててくれたからだろう。
やがて、外縁の一角で、白髪交じりの神官風の男が声をかけてきた。
「そこの巫女殿」
かなめが立ち止まる。
「はい」
「尾張の方とお見受けする」
「そうです」
「何用にて、今日の熱田を見て回る」
「……」
かなめが一拍だけ言葉を探したのを見て、若き僧が半歩出た。
「昨日の雨と、そのあとの神気の揺れを感じたためです」
「僧か」
神官風の男の目が若き僧へ向く。
「はい。朝廷の御朱印状を預かる旅の修行僧です」
「……なるほど」
男はあからさまに歓迎もしない。だが無礼にもならない。まさに“熱田の側の人間”という距離の取り方だった。
「熱田は、何も揺らいではおらぬ」
「そうあってほしいとは思います」
若き僧が静かに言う。
「だが」
男の目が少しだけ鋭くなる。
「だが?」
「昨日、この地は明らかに大きな理に触れた」
「……」
「今は内へ巻いている。外へ応えるより、内を整えるために」
「……」
男はしばらく黙った。
その沈黙の意味を、かなめはすぐに理解したらしい。
図星なのだ。
「熱田は、尾張の勝ちを喜べばよいだけの場所ではない」
男がようやく低く言う。
「はい」
かなめが答えた。
「分かっています」
「本当に?」
「ええ」
「なら、なおさら軽々しく覗き込まぬことだ」
「……」
「神気の深部は、今、人の言葉を好まぬ」
「それでも」
かなめは息を吸い、まっすぐ男を見た。
「私は尾張の巫女です」
「……」
「昨日の揺れが、尾張の火と無関係でないなら、見ずにはいられません」
「若いな」
「はい」
「だが、若さだけで踏み込める場所ではない」
「それも分かっています」
「なら」
「外縁からだけ、感じて帰ります」
男はかなめをしばらく見ていたが、やがて若き僧へ視線を移した。
「この巫女を、あなたが連れているのか」
「逆かもしれません」
若き僧が答える。
霞が横でぼそりと言う。
「それ、ちょっと分かる」
かなめが小声で言い返す。
「黙っていてください」
「はいはい」
男はそのやり取りに、ほんの僅かだけ目元を緩めた気がした。
「深部へは入るな」
男が言う。
「はい」
若き僧が答える。
「そして、熱田が何を見たかを、軽々しく言葉にするな」
「承知しました」
「……ただし」
「ただし?」
「熱田は昨日、たしかに“何か”を見た」
「……」
「それだけは、偽れぬ」
男はそれだけ言って去った。
かなめはしばらくその背を見送り、やがて小さく息を吐いた。
「……やはり」
「ええ」
若き僧が答える。
「熱田は、何かを認めた」
「信長の火を」
「おそらく」
「でも、それを喜んでいるわけではない」
「そうでしょうね」
「むしろ、警戒している」
「強く」
霞が肩をすくめた。
「神様も大変だ」
「霞」
かなめが半眼になる。
「今の言い方は少し」
「分かってる。雑だった」
「はい」
「でも、言いたいことはそういうことでしょ」
「……否定はしません」
若き僧が言った。
「熱田は、昨日の火を“ただの勝ち戦”としては見ていない」
「それ、かなり大きいですね」
かなめが低く言う。
「はい」
「信長は、人の世だけでなく、神域にも印をつけた」
「そういうことです」
三人はそのまま、熱田の外縁を一巡した。
神気はたしかに揺れていた。
だが崩れてはいない。
むしろ、大きな衝突を経て、今はじっと深く息を潜め、自らの深部を整えているようだった。
帰り道、かなめが空を見上げる。
「熱田は、信長の火をどう思っているのでしょう」
「分かりません」
若き僧が答えた。
「それは巡修殿でも?」
「ええ」
「珍しい」
「珍しいこともあります」
「……」
「ただ」
「ただ?」
「無視はできぬ、と見ているのは確かでしょう」
「それだけでも十分怖いですね」
「かなり」
「その返し、今日は許します」
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「はい」
霞が少し笑ってから、前を見た。
「じゃあ、尾張の火はこれからもっと面倒になるね」
「どうしてそう思うのです」
かなめが問う。
「だって、人も噂する、神域も無視できない、東海の古い術も嫌がる」
「……」
「そういう火って、だいたいでかくなる」
「霞」
「何」
「今の、少しだけ格好よかったです」
「やめて」
「褒めているのです」
「だからやめて」
若き僧は二人のやり取りを聞きながら、熱田の森を振り返った。
大神域は、なお内へ巻いている。
その姿はまるで、昨日の雨を思い出しているようでもあった。
だが、あの揺れそのものが意味を持つ。
勝ったのは信長だ。
しかし、熱田が見たのは単なる勝者ではない。
その先へ伸びる火だ。
若き僧はそのことを、胸の内でひそかに書き留めた。
戦後の尾張において、熱田がまだ揺れている。
それはつまり、桶狭間がまだ“終わりきっていない”証でもある。
そして終わりきっていないからこそ、次の歪みへ目を向けねばならない。
尾張の外。
美濃へ。
その予感が、今やかなりはっきりとした形を持ち始めていた。




