わたしたちの庭(完)
フィリスがイアンの手を取った途端、ブルーノ家は忙しくなった。
「イアンがぼくのお父様になるの? うれしいな。じゃあ、ジェスは伯父様?」
翌朝、話を聞いたハロルドは喜び、領地から連れてきていたハチミツとマーブルと一緒に飛んだり跳ねたりしながら、ぐるぐると走り回る。
「おかあさま、結婚式しなくちゃ! 花嫁さんと花婿さん! うれしいな」
ハロルドが楽し気にステップを踏みながら歌い出し、全てが決まった。
「ハリーいいぞ。なかなか冴えているな。この際だから、今年中に……そうですね領地の花が綺麗なうちにしませんか。そうすれば新年の宴に間に合います」
「そうね。結婚式を挙げるなら、やはり領地の礼拝堂が良いわよね。一ヶ月……いえ、三週間で準備できるわ」
アルフレッドが賛成し、義姉たちも目をきらきらと輝かせて指折り計算し始める。
「え……? ちょっと待って、アリー。貴方学校はどうするの? お休みを取って往復していたら二週間学校を休まねばならないわ。来年……いえ、貴方の学校がお休みの時で十分よ」
「いざとなったら馬で往復しますよ。それにこういうこともあろうかと、単位は前倒しで取っています」
「そんな。貴方は当主様なのよ。危険な目に遭わせることも、学校を休ませるのも私は反対だわ」
「いいえ。善は急げという言葉があります。それに僕は、フィーには一日でも早く幸せになって欲しいと思っているのですが、駄目ですか?」
「うっ……」
既にフィリスよりも背の高いアルフレッドにしんねりと見つめられて、フィリスは言葉に詰まる。
「そうよ。『ご当主様』の仰るとおりよ、フィリス」
レイチェルが人の悪い笑みを浮かべ、フィリスの肩を叩く。
「それとも、やっぱりイアンと結婚するのは嫌?」
「そんなことは絶対ありません! 嫌だなんてとんでもない!」
慌てて否定すると、自分の声の大きさに驚いた。
「あ……」
「ありがとうございます。フィリス様」
イアンが口を押えて顔を赤らめ、その場にいた人々はみな微笑んでいる。
「では、決まりですね。来月の一週目の日曜日に屋敷の礼拝堂で結婚式を執り行い、家臣や領民とのささやかな宴を催します」
そこから三週間はあっという間だった。
義姉たちが仲の良い仕立屋と従業員たちを領地へ連れ帰り、フィリスのドレスを作らせた。
使用人と両道たちで温室近くの離れをあっという間に改装し、ポルザ家の仮の新居を用意してくれた。
原因不明の病の治療薬を手に入れるために尽力したイアンの話は領民たちの間で広まっているらしく、誰もがフィリス達に祝いの言葉をかけてくれる。
やがて、秋特有の澄み渡る青い空の下、結婚式が行われた。
イアンの瞳の色を思わせる緑色のシンプルなドレスに身を包み、金のピアスだけを着けたフィリスは小さな秋薔薇を刺して緩く編んだ三つ編みを背中に流し、秋の花々とハーブで編んだ花冠を頭に載せ、ハロルドと手をつないで祭壇へと向かった。
花を摘んだのも編んだのも、イアンだった。
そして手にしている可憐なブーケはハロルドの作品で、なんて幸せ者なのだろうかとしみじみと喜びを噛み締めた。
「おかあさま。いつもお母様はすてきだけど、今日のお母様は、もっと、もっと、もっと綺麗」
ひそりとハロルドが囁いた。
「ありがとう、ハリー。貴方もとても素敵な男の子になったわ」
ぎゅっと手を握り合い、一歩一歩、確実に進む。
高窓から差し込んだ光が点々と照らし、まるで道しるべのようにイアンの待つところへ続いていた。
「フィリス様」
結局、イアンは今もフィリスに対して敬語を使っている。
出会って十二年もそうだったのだ。
互いに慣れるまで時間がかかるのは仕方がない。
フィリスの頬がふわりと緩む。
これから、たくさんの時間がある。
だから、きっと。
大丈夫。
ローズマリー、セージ、マジョラム、タイム……。
ハーブと薔薇の香りに包まれた。
「では、誓いの口づけを」
司祭に促され、フィリスとイアンは向き合う。
「フィリス様……」
ヴェールは着けていない。
何も隔てるもののない中を、温かな両手で顔を優しく包まれて。
ゆっくりと吐息が降りてくる。
「愛しています」
そっと。
静かで、穏やかで。
柔らかな触れ合い。
互いの熱に驚き、一瞬震えた。
二人の初めての口づけ。
フィリスは唇からイアンに新たな命を吹き込まれたように感じた。
***
イアンとの結婚生活は、あの嵐のような三週間が嘘のように静かな滑り出しだった。
いや。
あまりにも静かすぎた。
初夜もフィリスを気遣い傍らに横たわって眠るだけで、深く触れることはない。
優しく笑いかけ、大切にされているが、女主人と従者のようだ。
それが三日三晩続くとさすがにフィリスも不安になった。
「私は貴方の夫になれただけでも人生の幸運を全て使い果たしたと思っています」
「イアン、貴方、それではまるで世を去る人の言葉よ。式を挙げただけで満足して、私を置いていくつもりなの?」
イアンの心の内が分からない。
眉を顰めるフィリスの額に、おずおずとイアンが唇を寄せる。
「すみません。言葉が過ぎました」
まるで繊細な花を抱えるようにフィリスの身体に腕を回す。
「フィリス様。私が十歳になるころ、まだ少し朝もやの残る庭で仕事をしていた私たちに二階から貴方様が気さくに声をかけてくださったことを今でも鮮明に覚えています」
彼の身体に頭を預けると、ゆっくりと囲う輪が縮まる。
「あの時、なんて綺麗な人だろうと目を奪われました」
「やめて、イアン。お願い忘れてちょうだい……。起き抜けで寝間着のまま外を眺めていて、顔も洗っていなくて髪もボサボサだったのを忘れていたの。あまりにもはしたなくて、後でものすごく後悔したわ」
「いいえ。貴方の巻き毛がふわふわとしていて、新芽のような瞳がきらきらと楽しそうに輝いていて……。前もってあの部屋にアーロン様の婚約者となられるお方が過ごされているとお達しがなかったら、私は妖精だと思ったでしょうね」
「なら、もういっそのこと、妖精だったことにして」
頬に両手をあてて悶えるフィリスのつむじに、イアンが微かに笑いながら口づけを落とした。
「妖精でも人間でも、アーロン様の婚約者でも。あの時から私にとってフィリス様は唯一の人となりました」
「イアン」
「アーロン様とお幸せになるなら、ブルーノの皆様に大切にされているなら──。私はそう思っていました。いえ、そう言い聞かせて。自分は力も地位もなく幼くて何の役にも立たないと言い訳をして、目を逸らした卑怯者です」
「イアン。それは違うわ」
「いいえ。アーロン様の仕打ちに怒りを感じつつも、所詮は庭師なのだとうつむくだけの私に、グィネス様は仰ったのです。フィリスを守りたいと思うなら、備えなさいと」
「お母様が……」
「レイチェル様も言いました。いつか好機がくるかもしれない。その時に何もない男ではまた誰かに譲らねばならなくなるが、それで良いのか? と」
「お姉さまったら……」
実の弟よりも、フィリスを気にかけてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになる。
「何年でも、何十年でも。まるで獲物を狙う山猫のように私はフィリス様の傍にいて好機を待つことにしました。でも、アーロン様が殺されるのは予想外で……。いえ。願わなかったと言えば嘘になりますね。フィリス様を痛めつけるばかりのアーロン様の死を願い、そんなに不満なら代わってくれと何度も思いました」
「イアン。私は……」
「いざ、アーロン様が亡くなると迷いが生じました。辛い経験をされたフィリス様にこれ幸いと付け込むなど卑怯だろう、家臣にはもっと立派な紳士が多くいて、彼らの誰かがフィリス様をお守りした方が良いのではないかと。でも──」
ハロルドを取り戻しても平和な日々が始まっても、フィリスの顔には影が残った。
「暗い顔をされているフィリス様を見るたびに、また川へ入られるのではないかと思うと、夜も眠れませんでした」
「あ……」
アーロンに対する罪悪感から、つい、死の誘惑に負けてしまいそうになった瞬間を思い出す。
あの時、イアンがハロルドを抱いて走ったのだと後で聞いた。
「イアン」
「はい」
「私と……。お願い、私と生きて」
「はい」
「ずっと、ずっと……。私と一緒に。できれば私より長く生きて私の夫でいて」
「はい。何年でも、何十年でも。貴方様の傍にいます」
フィリスはイアンを見上げた。
優しいまなざしで語り掛けてくる。
「私たちの関係は始まったばかりです。ゆっくりと私を知ってください。そして、フィリス様のことをゆっくりとで良いから教えてください」
頼もしい腕に包まれて。
フィリスは彼の背中に腕を回す。
「なら、私の名前を呼んで」
「フィリス様」
どうしても敬称を外すことができないイアンの生真面目さに愛しさとじれったさを感じる。
「なら、リジーと。貴方だけの呼び名で私を呼んで」
「り、リジー……」
「ええ、私の旦那様」
そして、二人は二度目の口づけをした。
ゆっくりと唇を離して見つめ合い、鼻と鼻、頬と頬を擦りあい、一緒に笑う。
「イアン、貴方が大好きよ」
「私も。貴方が好きです、リジー」
心地よい声。
優しい唇がまたフィリスの上に降りてくる。
ああ、幸せだ。
ふいにそう思った。
彼に愛されて、愛すること。
こんな奇跡があるなんて
寒い時には温めてくれて、慈しみの雨と光を惜しみなく降り注いでくれるイアン。
彼の傍らでゆっくりと根を下ろして葉を広げて花を咲かせて。
やがて果実を実らせよう。
ここは、わたしたちの庭。
これからも、ずっと。




