野の花
フィリスは愛する息子の柔らかな髪に頬を寄せ、しばらく黙って川面を眺めていた。
パシャンと魚が跳ねる音を聞いた瞬間、ふいに口がほどけた。
「──ハリー」
「なあに、おかあさま」
「……実はね。お父様が亡くなる前にね。私に言ったの……。ここへ戻りたいって」
幼い子に何を喋っているのだろうか、自分は。
ここに来るのはどれだけ怖かっただろうか。
この子が溺れた場所は目と鼻の先だ。
それなのに、ひとり川へ入ろうとしたなんて。
自分の愚かさに項垂れた。
「……ここに?」
しかし、ぎゅっとハロルドが強く抱きついてくれた。
フィリスは背中を撫でながら頷く。
「うん。そう。ここ」
川のせせらぎと、鳥の声。
自分たちの会話が風に乗って、イアン達にも届くだろう。
「……お父様はね。小さいころ、ここがとても……とてもお気に入りの場所だったのですって」
ハロルドを抱きしめて、ゆっくり、ゆっくり。
思い出を紡ぐ。
「あの人は、いつか子どもが生まれたらその子と一緒にここに来ようって言っていたわ。毎年何度もここでピクニックして、その子が大きくなったらまたさらにその子どもたちと一緒に。自分が死ぬまできっと百回は来ることになるのではないか。そんな事を、貴方が生まれる前に言っていたの」
今しか、言えない気がした。
これから前に進むために、全てを川に流してしまおう。
愛していた。
愛せなくなった。
許せないと思った。
だけど、殺したいほどに憎んだわけではない。
死んでほしいと願ったことはない。
言いたいことはたくさんある。
だけど、彼はもういない。
「お父様はね。色々……たくさん間違えてしまったけれど、もう一度。ここへ戻ってやり直したかったのだと思うわ」
憶測でしかない。
だけど、小さなハロルドの中に希望を灯したい。
「あの人は貴方にずっと、ずっと謝りたかったけれど、どうすればいいのかわからなかったみたいなの」
どう言葉を紡げば良いだろうか。
何を隠して、何を伝えれば良いだろうか。
「おとうさまが?」
愛らしい瞳がじっとフィリスを見つめる。
「ええ。最期にね。貴方の名前を呼んで、神様の所へ行ってしまったの」
途端に、ハロルドの瞳が潤んでいく。
透明な、美しい水がいっぱいたまって、あふれ出す。
「おとうさま。ハリーのこと、きらい? きらいだったのでしょ?」
川での事件のあとも、病気になってからも一度も会わず仕舞だったのだ。
子ども心に憎まれていると思っても不思議ではない。
むしろ、そうとしか思えないだろう。
「ううん。違うわ」
両手でハロルドの頬を包み込む。
「お父様はね。貴方と仲良くなりたかった。でも、どうしたらよいのかわからなかったの」
「ぼくと? ほんとうに?」
「ええそうよ。おくりもの、たくさん届いたわよね。あれは、お父様がお店の人や周りの人にそうだんして、ハリーが喜んでくれるのはどれかな? って、たくさん悩んで決めたそうよ」
「おくりもの……。クマさんも?」
あのクマのぬいぐるみをどうするか、とても迷った。
でも、幼い子どもの心に傷をつけたくなかった。
アーロンには埋葬したと告げたが、分解して中身を全て取り出したあと、何度も洗って干して縫い直して。
病床のハロルドの元へ戻した。
『彼』は『ともだち』。
そして、『おとうと』。
心の支えでもあったから。
「そう。クマさんも。お父様は貴方からのお手紙を大切にしまっていたの。ハリー、貴方と同じようにね」
「ぼく、お父様のおてがみ、たからものの箱に入れてるよ」
「お父様の宝物を入れる箱の中も、ハリーでいっぱいだったわ」
これについては間違いではない。
本当にきちんと保管してあった。
ならどうして会いに来なかったと思うだろう。
どうして一緒の時間を持とうとしなかったと疑問を持つときが出てくるだろう。
だけど今は。
今だけは、愛されていたのだと思うことがハロルドには必要だと、フィリスは思う。
「──こうしよう、ああしようってね。いっぱい考えすぎると、逆にうまくできなくなることがあるの」
「いっぱい、考える?」
「ハリーはまだそんなこと、ないかもしれないけれど」
「あるよ」
こくんとハロルドが頷く。
「ぼく、おとうさまにお花をわたすとき、まちがえちゃった。おくりものをたくさん、ありがとうってさいしょに言わなきゃっておもっていたのにね、おとうさまを見たら、わかんなくなっちゃって──」
「ハリー!」
あの日の。
アーロンの過ち。
誰も口に出来なかったことを、ハロルドに言わせてしまった。
フィリスはハロルドの頭を抱きしめると、胸のあたりが彼の涙で濡れていく。
「ぼく、もっときちんと言っていたら、おとうさま、おこらなかったのかなあ……。ぼくがお花おとさなかったら、おとうさま、ひとりぼっちにならなかったのかなあ」
「ハリー……」
ハロルドが川に落ちて、助け出すために大わらわでアーロンに構っていられなかった。
もちろん水に濡れた騎士たちが焚火をつけて身体を乾かすために残っていたから、独り取り残されたわけではないが、ハロルドは朦朧とする中、父のことが気がかりだったのだと、今更知る。
「貴方は優しい子ね。お父様はあの時一人ぼっちにはなっていなかったわよ。ただ、皆とうまくいかなかったのが恥ずかしくて、怖くて、逃げ出しちゃったの」
真実を覆い隠すのは何と難しい事か。
良い人だと思わせたいのは親の勝手な願いでしかないと、フィリスは思い直す。
「実はね。お父様は、むかしむかし、とても怖い目にあってね」
「こわい?」
「ええ。夜の魔物に追いかけられて、大きなお口にぱくりと食べられそうになってね」
「わわ……」
「だから、怖くなっちゃうと逃げちゃうの」
「……ぼくもこわいの、いやだなあ」
「そうよね。私も怖いのはいや」
ふと、スカートのすそを見ると、小さな花が風に揺れていた。
その先も、またずっと先も、とりどりの花が揺れている。
あの時、アーロンの為に花束を作った。
ハロルドと摘みながら、喜んでもらえることを期待していた。
「お父様に、ハロルドもご挨拶しましょうか」
「おとうさまと、ぼくもお話しできるの?」
「ええ。きっとお父様はここにいるわ。だから、お花を摘んで、花束をつくって、お父様に渡しましょう」
「うん!」
フィリスの膝から降りたハロルドは、ぴょんと跳ねるように立ち上がる。
「花束を作りたいの。手伝ってくれるかしら?」
立ち上がったフィリスがイアン達に声をかけると、全員頷いて近くの花を摘み始めた。
イアン、エマ、騎士たちに侍従たち、そして侍女。
思い思いに摘んでそれぞれ花束を作る。
「おとうさま。おかえりなさい。ぼく、げんきになったよ」
ハロルドが川の中へ花束を流すとき、フィリスは背後からぎゅっとその身体を抱きしめ支えた。
「おとうさまも、げんきになってね」
フィリスが作った花束を受け取って、また、ハロルドは川へ流す。
そして、イアン達もそれに倣った。
流れていくいくつもの花を眺めているうちに、あの広場で駆け寄ってきたアーロンの姿を思い出す。
彼は大きな花束を抱えていた。
薔薇などの貴族の好む花は一切なく。
それはまるで野に咲く花のようなものばかりで束ねてあった。
「ああ──。アーロン、貴方は……」
本当に、なんてひと。
なんて、不器用なひとなのだろう
フィリスは泣きたいのか笑いたいのかわからなくなった。
「おかえりなさい、アーロン」
そして、心安らかに。
何も怖れることなく。
全てを忘れて。
「おやすみなさい、あなた」
愛していた。
だから。
「ハリーと。私は生きていくわ」
さようなら、あなた。




