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天使の護り

「おかあさま」


 膝の上に載せたハロルドはずいぶんと大きくなっていた。

 あれから二年近く経ったのだ。

 もう、ちいさなちいさなハリーではない。

 膝がしびれそうになるほどのしっかりとした重み。


 なんと、幸せなことだろう。


 フィリスは息子を放せなかった。


「ハリー……」


 間近で見る、久しぶりのハロルドの瞳は、夏空よりも澄んだ青。

 そして瞳孔はまるで翡翠のように美しい。


「おかあさまのおかお、ちゃんと見えるよ。それにね、ぼく、走れるよ。いっぱい、いっぱいね」


 まだまだ幼い、甘い声。

 ハロルドのちいさな手がフィリスの頬を優しく包む。


「ああ……ハリー。ハリー。嬉しいわ。ハリー……」


 力いっぱい抱きしめた。




 ***



 『妖精のいたずら』の毒に侵されたハロルドは、何日も生死をさまよって、ようやく意識が戻った時には視力を失っていた。


『かあさま……どこ……?』


 昼間の明るい光の差し込む部屋の中で、目を開いたまま両手をさまよわせたハロルドに、フィリスは悲鳴を上げそうになるのを懸命に堪えて、手をしっかりと握る。


『ここよ、ハリー』


『おへや、まっくら……こわいよ……』


『そうね。でも、かあさまはここにいるから大丈夫。……ずっとそばいるわ』


 グィネスもまだ病床に伏している。

 彼女はもともと数年前から体調が不安定で、最初はハロルドの次に重症だったフィリスよりも治りが悪い。

 他にも数名、洗濯や寝室の管理をしてくれた侍女たちの治療が続いていた。



 正体不明の病の原因は、意外な事をきっかけに判明する。


 ハロルドに贈られた、クマの大きなぬいぐるみ。

 その身体を開くと、白粉のような粉が綿に交じってあちこちに詰め込まれていたのだ。

 

 つぶらな瞳の愛らしいぬいぐるみは、アーロンの手描きのカードが添えられ、都の格式のある店から直接送られてきた。

 まさか、この中に毒が仕込まれているなど思わず、フィリスはそのままハロルドへ与えてしまったのを今も後悔している。


 ハロルドは大喜びで、自分より少し小さなクマを『おとうと』と呼んだり、『おともだち』と周囲に紹介してままごとをして、どこへ行くにも一緒だった。


 エマや侍従に運ばせたりせず、自分で抱えて歩く姿はとても可愛らしく、ハロルドのしたいように任せた。

 ただ、力の加減が上手くできないため、上げ下ろしの最中にぬいぐるみへ倒れ込んでは、僅かな粉が舞い上がるのに周囲が気付き、土埃と解釈した侍女の一人がブラシで叩いて汚れを払った。


 するとその頃からハロルドとエマとグィネスとフィリス、そしてふいぐるみにブラッシングした侍女が原因不明の咳と熱を発症し、使用人たちも次々と罹患していく。


 ブルーノ家で発生した奇病の話を聞いて急ぎ駆け付けたのは、次姉エイダの元に滞在していた家庭教師のグレイス・ベルンだった。


「これはおそらく病ではありません。毒によるものです」




  ***




 昔。

 ベルンはとある令嬢を教えるために、都から遠く離れた領地へ招かれた。

 母親も教え子だった故の依頼だったが、彼女は重い病を患い、死の床にあった。


『先生。どうか私の罪を……お願いです、聞いてください』


 夫人が教え子だった頃、物語を読むのが好きな愛らしい少女だった。

 やがて年ごろになると、古今東西の様々な本を嫁入り道具にして嫁いだ。

 しかし、一回り以上年上だった夫は不実な人だった。

 耐えて娘を産んだものの、彼は若い愛人を別宅に囲っており、いずれ本宅で一緒に住むよう彼女に言い放つ。

 在りし日の夫の心を取り戻したい。

 娘の為にも、愛人を家へ入れたくない。

 悩んでいるときにふと思い出したのが、ある本だった。

 物語とそれに付随したおまじないのレシピが記されていて、特に『妖精のいたずら』という項目は鮮明に頭に浮かんだ。


 ちょっとした悪戯。

 ちょっと、風邪をひかせるまじない。

 心が動いてしまった。


 シルギリアの根。

 パルミラの花粉。

 ソルフ茸。

 あとはいくつかの平凡な料理用ハーブの粉末。


 出入りの若い商人に頼んで材料を取寄せて作ってみたが、所詮、物語。

 効果があるはずがないと瓶に詰めて戸棚に隠した。

 少女向けのおとぎ話のおまじない。

 作ったら気が済んだと言い聞かせて、忘れようと思った。


 ところが公の場で愛人に辱められて頭に血がのぼり、使用人に命じて『妖精のいたずら』を混ぜた白粉と彼女の持ち物をすり替えさせた。

 するとまもなく、彼女が風邪に罹り寝込んでいると報告が来た。


 その直後に恐ろしい噂を耳にした。

 悪性の風邪で、ティルダ・ウエスト伯爵夫人と使用人たちが亡くなったと。

 その症状は、今まさに夫の愛人が罹っている病そのものだ。


 頭に浮かんだのは、あの、若い商人。

 人好きのする優しい笑みを浮かべ、するりと親しくなる術を知る男。

 彼についつい乗せられて、『妖精のいたずら』のことを話してしまった。

 彼が最後に現れた日に、なぜか無性に眠くなったことを思い出す。

まさか。

 自分は彼の前で眠ってしまったのだろうか。

 彼はその隙に、こっそり持ち出したのではないか。


 そうだとしたら。

 自分は人殺しに加担してしまったことになる。


 慌てて夫人はその白粉を回収し、使用人たちを入れ替え、事細かに看病の仕方を指示した。

 愛人は死ななかった。

 だけど、ウエスト伯爵夫人と使用人たちの命は戻らない。


 本来なら国に報告すべきだ。

 だけど、自分が捕まり、離縁されたなら、娘はどうなる。

 夫は娘を捨てるだろう。

 年の離れた男の後妻に自分を差し出した家族も、娘を保護してくれるとは思えない。


 夫人は娘を連れて領地へ逃げた。


『不実な人は、結局どこまでも変わらないと、どうしてあの時の私は気づかなかったのでしょう』


 夫はその後も性懲りなく次々と女性を乗り換えたが子宝に恵まれることはなく老いて、結局、親族が後を継ぐことになった。


『先生。私は私が恐ろしい。妬みから関係のない人を巻き込んで殺してしまいました。ティルダ夫人にも娘さんがいたはずなのに、助けもしないで、国の端っこに逃げて……』


 泣きながら彼女は一冊の本をベルン差し出した。


『どうか、先生。もしかしたらいつかまた『妖精のいたずら』が現れるかもしれません。そう思うとこの本を捨てられなかったのです』


 すっかり古びたその本をベルンは受け取った。


『貴方のせいではありません。ましてや、貴方の大切な娘さんも』


 ベルンは死を前にしたかつての教え子に告げた。


『ありがとうございます。先生……』


 肩の荷が下りたのか、夫人はそれから数日後に最愛の娘とベルンに見守られて息を引き取った。




 『妖精のいたずら』はその本の真ん中にあった。


 そして。


 『天使の護り』というレシピが次のページに記されていた。



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