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かえりたい

「フィリス──」


 ふいに。

 誰かに名前を呼ばれた気がして立ち止まる。


「叔母様?」


「今、誰かに呼ばれたような──」


 その声は、在りし日のあの人に似て。

 辺りを見回すと、アルフレッドが声を上げる。


「あ、叔父様──」


「え?」


 アルフレッドの視線に振り返ると、アーロンが広場の向こうから走ってくるのが見えた。

 大きな花束を片腕にかけて、もう一度フィリスの名前を呼んだ。


「旦那様……」


「フィー、行って」


 アルフレッドにやんわりと背中を押されて、フィリスは少しつんのめりながら前に進んだ。

 アーロンと目が合う。

 彼は、とても嬉しそうに笑った。


「フィリ……」


 アーロンがが花束を持ち換えてフィリスに向かって差し出そうとした瞬間、みすぼらしい身なりの女性が二人の間に現れ、彼にぶつかった。


「え……?」


 アーロンは驚いたように目を見開いたまま立ち止まる。

 そして。

 女性は勢いよく後ろに下がった。

 そして。

 アーロンの身体から赤い液体が飛び散った。


「な……?」


「叔父様!」


 背後でアルフレッドが叫び、周囲で悲鳴が上がる。

 アーロンにぶつかった女性の手には刃物が握られていた。


「アーロン!」


 フィリスは走った。

 アーロンは立ち尽くしたまま、ぽとりと花束を落とす。

 刃物を持った人のことなど、どうでもいい。

 フィリスは駆け寄り、まるで根元を切られた木が倒れるようにゆっくりと前に傾いていくアーロンに両手を広げて受けとめた。


「あなた! アーロン、アーロン!」


 アーロンの身体に穴が開いて。

 おびただしい血がどくどくと噴き出ている。

 すぐにその穴に手をのせて塞ぐ。


「奥方様!」


「フィー!」


 ガチャガチャと金属音や人々の足音、アルフレッドが叫んで。

 色々聞こえるけれど、フィリスは懸命に血がこぼれていくのをとめようとした。


 誰か、たすけて。

 彼を助けて。

 血が流れていくのをとめて。

 命が、零れ落ちてしまう。

 誰か、おねがいだから────!



「奥方様、私たちがやります!」


 騎士たちが体の向きを変えてくれ、傷口に布をあてておさえる。

 石畳に座り込んだフィリスの膝の上にアーロンの頭を載せた。

 彼の呼吸はあっという間に荒くなり、ヒューヒューと喉を鳴らす。


「あなた……アーロン、しっかりして! おねがい──」


 真っ赤に血濡れた手で懸命に頬を撫でた。


「フィリス──」


 こんな時なのに。

 アーロンがふと笑った。

 そして、僅かに首を傾けてフィリスの手に頬を摺り寄せる。


「ああ、かえり、たいな……」


 ごふっと、血を吐いた。


「あなた! しゃべらないで!」


「あのかわ……、きみ……と、はろ、るど……」


「アーロン」


「か、え……り……」


 全てが、止まる。


「え……」


 夫は、青磁の瞳を開いたまま、ぴくりとも動かない。


「アーロン! あなた! あなた! アーロン───!」


 懸命に頬をさすり、肩を揺らした。


「フィー、もう駄目だ。叔父様はもう──」


「いや─────っ! アーロン───!」


 膝の上のアーロンを抱きしめてフィリスは叫んだ。


 信じられない。

 あと数歩。

 あともう少し手を伸ばせば届くところにいたのに。

 生きて、笑っていたのに。

 名前を呼んで、花束を差し出してきて。

 生きていたのに。

 なぜ。

 どうしてこんなことに。


 

 フィリスは、声を限りに叫ぶ。







「あは、あはは、あははははははは───っ!」

  

 突然、甲高い笑い声が聞こえてきた。


「あははは、あははははは、ざまあみろ。あんたのせいよ、フィリス!」


 アーロンを抱きしめたまま声のする方を向くと、騎士たちに取り押さえられた女が血まみれで笑ってた。


「あんたのせい、みーんな、みーんなあんたのせいなの。あんたが、アーロンを殺したのよ!」


 茶色の髪の、薄汚れた身なりの女が目を見開いて叫んでいる。


「私がどん底にいるのに、あんたたちだけ幸せになるなんて、許さない。ゆるさないんだから───っ!」


 割れ鐘のような声で口から泡を吹きながら狂ったように叫ぶ女は、何人もの騎士に抑えられながらも喚くことをやめない。

 そして少しでもフィリスに近づこうと藻掻き暴れる。


「その女を連れて行け!」


「離しなさいよ、はなせってば───! フィリス──っ!」



 血だまりに白い花弁が浮いて。

 

 フィリスはアーロンを抱きしめて、固く目を閉じた。




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