88:祈手の奇跡2
前回のざっくりあらすじ:不思議な歌が聞こえた。
柔らかな朝の太陽が煌めいて、宿と教会を繋ぐ庭の小道に木漏れ日が揺らめく。
テトラネマの教会は、ロッシーノ村の教会より何倍も大きかったが、同じように、鳩の像が門の上にあり、扉の上には花のレリーフがあった。
礼拝堂では修道士と修道女が待っており、ニースたちは教会の奥まで案内された。
礼拝堂を抜けて廊下を進むと、途中から女性陣と左右に分かれた。中庭を挟んで建屋が二つに分かれており、男女別に分かれていたからだ。
中庭をぐるりと囲むような渡り廊下を通り、ニースたちは男性用の扉を開ける。
入浴衣を入り口で受け取り、脱衣所へ入ると、緊張を解いたグスタフが、へなへなと座り込んだ。
「うぅ……」
目に涙を浮かべ、鼻をすするグスタフに、ニースたちは同情した。
マルコムが宥めるようにしゃがみ、グスタフに笑みを向けた。
「よくやったよ、グスタフ。ジーナの絡みに巻き込まれても、仲良く夫婦をやっていけるお前を、俺は心の底から尊敬するよ」
ニースは、マルコムの言葉に深く頷くラチェットの袖を引いた。
「ラチェットさん。絡みってなんですか?」
ニースの囁きに、ラチェットは苦笑いを浮かべた。
「ええと……マルコムさんとジーナさんが生まれ育った国には、特殊な格闘技があってね。その中に、関節技があるんだよ」
「関節技……ですか?」
マルコムが立ち上がり、ニースの手を軽く掴んだ。
「関節技っていうのは、例えばこういうやつだ」
マルコムが掴んだ手には、大して力がかけられていないはずなのに、捻られるとニースの腕に痛みが走った。
「うわっ……!」
ニースが思わず膝をつくと、マルコムは、はははと笑って手を離した。
「これは一番簡単なやつなんだけどな。ジーナは、この格闘技の道場の生まれなんだよ。
あいつは小さい頃から踊ってばかりで、大した練習はしてなかったはずなんだが……。親父さんと遊んでたからか、妙に強くてな。寝起きだと、寝ぼけて近くのものに絞め技をかけるんだよ」
グスタフが、マルコムの言葉にこくりと力なく頷いた。
「ジーナは普段は、抱き枕に技をかけるんだが……。うっかり近づき過ぎてしまってな。すごく痛い……」
ニースは恐ろしさにぷるりと震えた。ラチェットがグスタフに丁寧に頭を下げた。
「座長がジーナさんを起こしてくれたおかげで、僕たちは風呂に入れます。ありがとうございます」
ひどく真剣な物言いのラチェットに、ニースも立ち上がり頭を下げた。
「ありがとうございます!」
グスタフは、二人の姿に少し気が楽になったのか、ゆっくり立ち上がり、服を脱ぎ始めた。
「いたたた……」
グスタフは体を捻ると、まだ痛むようで、ニースは思わず苦笑いを浮かべた。
ニースたちはロッシーノ村と同じく、蒸し風呂に入り、マッサージを受けた。グスタフは、痛みが酷いようで、マッサージは受けずに先に部屋を出ていった。
ニースたちが、のんびり蒸し風呂を楽しんで部屋を出ると、グスタフは宿に戻らず、まだ廊下にいた。
ぼんやりと渡り廊下の長椅子に座り、中庭を眺めているグスタフに、マルコムは不思議に思い、肩を叩いた。
「い"っ!?」
「あぁ、すまない」
ほんの少し触れただけのはずが、グスタフはかなり痛む様子だった。
「どうしたんだ、グスタフ。先に部屋に帰らなかったのか」
マルコムの言葉に、グスタフが苦笑いを浮かべた。
「風呂で温まったのが良くなかったみたいでな。体の痛みが治まるまで、休んでたんだよ」
はぁとため息を吐くグスタフを、ニースは気の毒に感じた。
すると、滑らかな女性の歌声が、どこかから聞こえてきた。歌声は、ニースたちがいる中庭の向こう側……女性用の建屋から聴こえてきていた。
ラチェットが耳をすませて、感嘆の声を漏らした。
「今朝のと同じ歌……すごく綺麗な歌声だ」
ニースとマルコムも聞き惚れていると、グスタフが不思議そうに声を上げた。
「んん? なんだこれは……」
痛がっていた肩をわずかに動かすグスタフに、マルコムが気遣わしげに声をかけた。
「グスタフ、痛むのか?」
「いや……。ほんの少しだが、痛みが和らいでる気がする」
ラチェットがメガネをくいと上げた。
「この歌はたぶん石歌じゃないですね。ここは教会ですから、祈手がいるはずです。痛みに効く祈歌じゃないでしょうか」
「なるほどな。それなら頷ける」
マルコムが納得したように呟くと、ニースは興味深げに歌声の聞こえてくる方へ顔を向けた。
「祈歌……じゃあ、これが奇跡の歌?」
ニースは興味深げに歌声に耳を傾けると、もっとよく聞こうと、中庭に降りた。
「ニース?」
ラチェットが慌ててニースを止めようとすると、マルコムがラチェットの肩を掴んだ。
「俺も気になるな。祈手っていうのが、どんな風に歌ってるのか」
好奇心を露わにして、子どもっぽく笑みを浮かべるマルコムに、ラチェットは顔をしかめた。
「でも、マルコムさん。あっちは女性用の建屋ですよ? 今朝の歌声は男性でしたし、祈手は修道士にもいるはずです。何もわざわざここで聞きに行かなくても」
ラチェットの言葉にマルコムは、はははと声を上げた。
「何言ってるんだ、ラチェット。女性の歌だからこそ、覗きたいってのが男だろ?」
ニヤリと笑みを浮かべるマルコムに、ラチェットは呆れた目を向けた。
グスタフが、ラチェットに声をかけた。
「ラチェット。マルコムを止めるのは無駄だ。こいつはお姫様の部屋にも忍び込むようなやつだ」
マルコムが、じろりとグスタフを睨んだ。
「ルイサのことをここで持ち出すなよ。俺はもう、吹っ切ったんだからな」
苛立ちを紛らわすように、マルコムはさっさとニースの後を追った。ラチェットは、グスタフとマルコムを交互に見た。
「え? 公主殿下の部屋に忍び込んだんですか? マルコムさんが?」
グスタフは、気まずそうに頬をかき、はぁとため息を吐いた。
「そうか……ラチェットたちには話してなかったか。まあ、昔そういうことがあったんだよ。
とにかく、ニースのことはマルコムに任せておこう。女部屋を覗いたなんて知られたら、ジーナとメグに何をされるかわかったもんじゃない」
ぷるりと身を震わせ、ゆっくり立ち上がったグスタフに、ラチェットが肩を貸した。
「座長、もう少しここで祈歌を聞いていた方がいいんじゃないんですか?」
「いや。それならちゃんと依頼して奇跡を受けるさ。金を払わずただ聞きなんて、私たち旅芸人がやっていいことじゃない」
諭すようなグスタフの言葉に、ラチェットは恥ずかしそうに目を伏せた。
「それもそうですね……すみません」
二人はニースとマルコムを置いて、先に宿へと戻っていった。
ニースが中庭を抜けると、建屋の中から歌声が大きく響いているのがわかった。ニースは壁に背を預け、目を閉じて祈歌に耳を傾けた。
遅れてやってきたマルコムは、ニースの頭上高くに窓があるのに気付き、壁に近づいた。踵を上げて窓を覗き込もうとするマルコムを、ニースは不思議に感じた。
「マルコムさん?」
「しっ……!」
ニヤリと笑いながら、仕草で静かにするよう伝えるマルコムに、ニースは戸惑い、視線を泳がせた。
――うっかりしてたけど、そういえばここって……女風呂だよね?
焦りの色を浮かべるニースを横目に、マルコムは壁の隙間につま先をかけ、部屋を覗いた。
部屋の中は風呂ではなく休憩室のようで、円形の広間になっていた。広間は、中央に向かって窪むように段差が作られており、患者たちが段差に座ったり横たわったりして歌を聞いていた。
患者たちに囲まれた中央部で、ひとりの女性が歌っている姿がマルコムに見えた。
祈手の女性は、褐色の艶やかな肌に長い金色の髪を流しており、白いローブが良く映えた。
祈手は歌いながら、流れるような手つきで、空中に線を描くように、指先を動かす。ゆったりとした旋律で歌言葉を歌う声は母性に溢れており、安心感を感じられた。
目で、口で、指で、声で……。柔らかな笑みを浮かべながら、全身を使って、滑らかに歌い上げていく姿が神秘的に映り、マルコムは思わず息を呑んだ。
食い入るように覗き込んでいるマルコムの服を、ニースが必死に引っ張った。
「ダメですよ、マルコムさん!」
囁きながらも強い口調で止めるニースの手を、マルコムは、祈手に視線を釘付けにしたまま払った。
「ニース、もう少し静かに待っとけ」
静かで小さな声だが、有無を言わさぬ声音に、ニースは戸惑い、手を離した。
――どうしよう! 絶対こんなのダメなのに!
焦りを感じて、助けを求めるように中庭に目を向けたニースは、ぴしりと固まった。
マルコムは、美しい祈手にすっかり魅入られていた。
――こんなに美しい女性は、見たことがない……!
全身がぞくぞくするような、胸の高鳴りをマルコムは感じていた。
しかし、そんなマルコムの服が再び引っ張られた。
「ニース。だから、もう少しだけ待っててくれって」
マルコムが後ろ手に払おうとすると、むんずと太い手に掴まれた。
「マルコムくーん。なーにしてるのかなー?」
高鳴っていたマルコムの胸が警鐘を鳴らし、全身を震わせた感動は悪寒へと変わった。
ギチギチと音を立てそうな程に、固まった首を無理やり曲げてマルコムが振り返ると、満面の笑みを浮かべたジーナと、仁王立ちのメグ、軽蔑の眼差しを向けるセラがいた。
「い、いや……これは、その。……ニースに。ニースに祈歌を聞かせてやりたくて、だな……?」
マルコムが視線を泳がせてニースの姿を探すと、ニースが泣きそうに顔を歪めて、ジーナの背後から顔を出した。
「マルコムさんが覗くの、ぼく止めたのに! ぼくのせいにするなんて、ひどいです……!」
メグが、ニースの頭を撫でながら、マルコムを睨んだ。
「大丈夫よ、ニース。あなたが止めようとしていたことは、私たち、ちゃんと分かってるわ。あんな大人に、ニースはなっちゃダメよ?」
マルコムは、頬を引きつらせた。
「そりゃないぜ、お嬢……」
マルコムは、ジーナに引きずられるように教会を後にすると、教育を受けた。
ニースは、以前ラチェットに言われた言い付けを守り、絶対に女部屋には近寄らないと、固く心に誓った。




