87:祈手の奇跡1
前回のざっくりあらすじ:白い鳥には名前があったようだ。
山の端から太陽が顔を出し、桃色の町が輝き出す。ニースは教会の鐘の音で目を覚ました。
「ふあ……おはようございます」
眠い目をこすりながら起き上がると、ラチェットの姿はすでになく、ニースは一人、顔を洗いに部屋を出た。
水場にはラチェットとグスタフたちがいた。
「まったく、バードのやつ、見せつけてくれるよ。俺の部屋ですっかりココと仲良くやりやがって」
悪態をつくマルコムに、グスタフが苦笑いを浮かべた。
「妬くな、マルコム。相手は鳥だ」
マルコムが、はぁと大きくため息を吐く中、ニースは身だしなみを整えた。
そのまま食堂へ向かおうとすると、庭の方から聞いたことのない歌を歌う、男性の声が聞こえてきた。
ニースたちは立ち止まり、耳を澄ました。
「綺麗な歌ですね」
グスタフが、歌声に耳を傾けながら尋ねた。
「ああ、そうだな。これは何の石歌だ?」
「ぼく、この石歌は知らないです」
「僕もわからないな……」
ニースとラチェットが首を傾げていると、マルコムが庭へ続く扉を開けた。
「本人に聞けばわかるんじゃないか?」
「え……」
ニースは、知らない歌い手と会うのに不安を感じた。
――ぼくに歌の力が本当はあるのは分かったけど……。まだ"調子外れ"なのは変わりないし、何か言われたらどうしよう……。
戸惑うニースの様子を見て、マルコムが気まずそうに苦笑いを浮かべ、そっと扉を閉めた。
「まあ、別に何の歌か知らなくても問題ないからな。腹も減ったし、食堂に行こう」
「すみません……」
「気にするな、ニース。俺も配慮が足らなかった。すまないな」
「いえ……」
しゅんと肩を落とすニースを慰めるように、ラチェットがニースの肩をぽんと叩いた。
ラチェットは何も言わなかったが、ニースは気持ちを切り替えるように微笑み、グスタフたちと食堂へ向かった。
朝日が差し込む食堂には、嗅いだ事のない香りが漂い、食欲を誘った。
「なんでしょう、この香り……」
「すごくいい香りだね」
口の中に自然と唾液がにじむのを、ニースとラチェットは感じた。
マルコムが、ニヤリと笑みを浮かべた。
「そうか。二人は知らないか。この魅惑の食べ物を」
「魅惑ですか?」
マルコムは、ラチェットにニヨニヨと笑みを向けた。
「ああ。メグみたいに艶やかな褐色の魅惑的な食べ物だぞ。みんな一口食べたら虜になる」
ラチェットが、ごくりと唾を飲み、グスタフが、がははと笑った。
「メグみたいか。あの辛い感じは確かに厳しいメグみたいだな」
「ちょっと、お父さん。どういう意味よ」
突然背後から響いた可憐な声に、グスタフの顔が凍りついた。ニースが振り向くと、メグとセラが立っていた。
グスタフは、ゆっくりメグに振り返り、震える声を絞り出した。
「メグ……これは、その……」
「まあ、ほら、お嬢。刺激的って意味だよ。なあ、グスタフ?」
「そ、そう。そういうことだ。刺激的って意味だ! 父親が、変な意味で娘を辛いというわけがないだろう」
マルコムの助けを得て窮地を乗り切ったグスタフに、メグは、はぁとため息を吐いた。
「まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる。……ニース、他のお客さんたちが来る前に、さっさと食べちゃいましょう? ラチェット。私たちの分も、もらってきてもらえる?」
「ああ、いいよ」
メグとセラが早速テーブルへ向かうと、グスタフとマルコムは大きく安堵の息を吐いた。
「いや、助かったよ、マルコム」
「頑張れよ、お父さん」
ニースは、グスタフたちと共に厨房へ向かった。厨房からは、より一層美味しそうな香りが漂っていた。
カウンターから調理番が顔を出し、注文を取った。
「やあ、お客さん方、お早いですね。米とパン、どちらにします?」
調理番は、ニースの顔を見ると笑みを浮かべて、手を合わせた。
マルコムがニースに尋ねた。
「俺は米だな。ニースはどっちにする?」
ニースは悩み、米にした。ロッシーノで食べた粥が美味しかったからだ。ラチェットとグスタフはパンを選んだ。
マルコムは、メグたちにも問いかけて注文を伝える。すると、すぐさま朝食がトレイに乗せられた。
ニースは自分のトレイを受け取ると、感嘆の声をあげた。
「うわ、すごい……!」
ニースの皿には、黄色く色づいた細長い米と、豆と野菜が入った茶色の煮込み料理が盛られていた。
小皿には二種類のジャムのような物が乗せられており、グラスには牛乳のような白い液体が入っていた。
ニースはそっとトレイを運び、セラたちの待つ席へと向かった。
ニースのトレイを見たセラが、興奮して声を上げた。
「うわぁ! すごい! これがカレーなんだ」
「この料理、カレーっていうの?」
ニースの言葉にメグが頷いた。
「そうよ。聖皇国の代表的な料理らしいわ。お母さんが真似して作ったのは食べたことがあるけど、本場の物は私も初めてよ」
グスタフたちがセラとメグのトレイも持って、席へ着くと、早速食前の挨拶をして食べ始めた。
ニースは、マルコムが米とカレーを一緒にスプーンですくうのを見て、真似して口に入れた。
米は粥の時と違い、ふんわり炊けているものの、粘り気は少なかった。カレーは、野菜の旨味と何種類もの香辛料が複雑に絡み合い、味わいと共に鼻に抜ける香りが旨味を増した。
舌で感じる甘み、苦味、辛味……何を入れてあるのか、ニースにはさっぱりわからなかったが、体が自然と熱くなり、額から汗が吹き出た。
「うわ。本当に辛いんですね、これ」
「刺激的だって言っただろう?」
驚くニースに、マルコムが笑う。ラチェットは頬を蒸気させながら夢中で口に運んでいた。
「ラチェット、そんなにがっついて大丈夫か? そのジャムみたいなやつ、チャツネって言うんだけどな。それもチャパティに挟んで一緒に食べろよ」
マルコムに促されてラチェットは薄いパンに乗せて口に運ぶ。
「甘いですね」
「ジャムみたいだろ? カレーの合間に食べるとうまいぞ」
グスタフが感慨深げに頷いた。
「刺激だけじゃダメだ。甘さも必要だと私は思う」
ニースも、米とカレーと共にチャツネを口に入れた。南国の果実で作られた爽やかな香りと甘みが、さらに味わいを深めた。
ニースは、白い液体が入ったグラスに口をつける。口当たりは牛乳より滑らかでとろりとしており、ほんのり甘みと酸味があった。
「これも甘くて美味しいですよ、ラチェットさん」
「どれ……? 本当だ。ラメンタでエイノさんが作ってくれた、果汁入り牛乳を思い出すよ」
ニースたちが朝食を堪能し終えると、メグが思い出したようにグスタフを見た。
「そういえば、お父さん。お母さんはどうしたの?」
「ジーナは、たぶんまだ寝てるはずだ。バードとココの足環を作るって、張り切ってたからな」
「お母さんらしいわ……」
グスタフの言葉に、メグは呆れたが、セラは瞳を輝かせた。
「どんなのが出来たのか、楽しみですね!」
マルコムが、ぷっと吹き出した。
「セラちゃんは、本当にジーナの衣装が好きだな」
「はい。お化けの時は驚きましたけど、猫さん可愛かったです!」
セラが、猫のように拳をくねらせて、にゃあと甘えるように声を上げた。
ラチェットが咳こみ、ニースは辛味で熱い頬が、さらに熱くなる感じがした。メグが二人の様子を見て、ぷぅと頬を膨らませた。
マルコムは、声をあげて笑った。
「ははは。セラちゃんには敵わないな」
ニースとラチェットは、熱くなった体を冷ますように、シャツを仰いだ。メグが頬を染めて、目を逸らした。
表情をころころ変えるメグに、グスタフは苦笑いを浮かべ、立ち上がった。
「みんな汗をかいたし、風呂に入りたいだろう? ジーナに声をかけてくるよ」
メグはグスタフの言葉に笑みを浮かべた。
「私、入りたいわ」
セラも笑顔で頷いた。
「お肌ツルツル! 私もなりたいです!」
マルコムは二人の様子を見て、ふっと笑った。
「よし。それじゃ俺は、教会に喜捨してこよう。せっかくだ。女性にはマッサージで綺麗になってほしいからな」
メグとセラがハイタッチをし、ラチェットが耳まで顔を赤くした。ニースは、またあの心地よいマッサージが受けられると笑みを浮かべた。
マルコムが教会へ向かい、グスタフがジーナを起こしに行く。ニースはラチェットと共に部屋へ戻り、着替えの準備を済ませた。
すると、上階から何か大きな物が床に落ちる音がし、小さな悲鳴のような声が響いた。
「なんだ?」
不思議そうにラチェットが天井を見つめ、ニースも見上げる。
何かの衝撃で揺れる天井が軋み、パラパラと埃が落ちた。
「なんでしょう? 地震ですか?」
「いや、これは上の部屋で何かあるな……あ!」
ラチェットは声を上げると、真っ青な顔になった。
「この上の部屋、ジーナさんの部屋だ!」
「……!」
ラチェットの言葉に、ニースは目を見開いた。
――寝ているジーナさんを絶対起こしちゃいけないって、メグが言ってたんだ!
ニースは、ラチェットの顔を不安げに見つめた。
「ど、どうしましょう。グスタフさんが……」
ラチェットが、震える腕をさする。
「もう、こうなったらどうしようもないんだ。座長も覚悟の上だったはずだ。頑張ってもらうしか……」
ジーナの部屋で何が行われているというのだろうか。
その後しばらくの間、ドンドンと床を叩くような音や悲鳴が続き、ニースとラチェットは震える肩を寄せ合い、恐怖に耐えた。
ようやく音と悲鳴が消えても、ニースはラチェットと身を寄せ合い、恐怖の余韻から抜け出せずにいた。
そこへ、扉を叩く音が響いたので、二人は思わず小さな悲鳴を上げた。
「おい、俺だ。マルコムだ。何かあったか?」
部屋から聞こえた悲鳴を訝しむマルコムの声が聞こえたので、二人は心底ほっとした。
ラチェットは立ち上がり、扉を開けた。
「お待たせしてすみません、マルコムさん。……あの、ここの上の部屋って、ジーナさんの部屋ですよね」
「ああ。ジーナの部屋だが、それが何……。そうか。またあったのか」
何がしかに気づいたマルコムは、頬を引きつらせ苦笑いを浮かべた。
マルコムは、一人で膝を抱えてうずくまるニースを見て、優しく声をかけた。
「ニース。怖い思いをさせてすまなかったな。だが、グスタフはジーナの夫だ。死にはしないから、安心してくれ」
ニースは、マルコムの言葉に顔を上げると、怯えた表情のまま、こくりと頷いた。
マルコムが気分を変えようと、大げさに明るい声をあげた。
「さあ、二人とも! お待ちかねの風呂だ! 元気出せよ!」
マルコムの言葉に、ようやくニースは表情を少しだけ和らげた。
マルコムに連れられて、ニースたちは教会へ向かう。もちろん、グスタフとジーナも一緒だ。
グスタフはジーナの肩に腕を回し、仲睦まじく歩いていたが、体の動きがぎこちなく、ニースには不思議に感じられた。
ニースはラチェットに近づき、囁いた。
「ラチェットさん。……グスタフさんの歩き方、変じゃないですか?」
ニースの囁き声にラチェットが答えるより早く、ジーナがくるりと振り返った。
「グスタフなら大丈夫よー。心配しないでー」
すっきりと晴れやかな笑みを浮かべるジーナの答えに、ニースは戦慄を覚えた。
――ここで聞いちゃダメだった。ジーナさんの地獄耳に全部聞かれちゃうんだ……!
ニースは、ジーナにわかりましたと言うように、首を何度も縦に振った。
ジーナは満足気に頷きを返すと、グスタフに笑みを向けた。ジーナと笑い合っているはずのグスタフの大きな背中が、泣いて萎んでいるように、ニースには見えた。




