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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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9/21

9話:のぼりの記憶

 あの夜のことを、僕は忘れたことがない。


 忘れることができない、と言ったほうが正確だろう。

 記憶は消せない。

 妙子の記憶ではなく、僕だけの記憶だ。

 妙子はあの夜のことを覚えていない。

 覚えていないのではなく、僕が引き受けたのだ。

 彼女が壊れないように、あの夜のすべてを僕が背負った。

 だから、これは僕だけの物語だ。


 放課後、教室で奏と作業をしているとき、窓の外で雲が厚くなっていくのが見えた。

 六月の空。

 湿った風が吹き込み、プリントの端がわずかに揺れる。

 梅雨入りが近い。

 天気予報は明日から雨が続くと伝えていた。

 空気が水を含んでいく。

 その重さが、僕の中の記憶を呼び覚ます。


 雨の匂い。

 その匂いは、あの夜に直結している。


 ◇◆◇


 三年前の九月。

 妙子は中学二年生だった。


 台風が接近していた。

 朝から休校になり、妙子は家にいた。

 母親の真由子は出勤していた。

 台風だろうが何だろうが、彼女のスケジュールは変わらない。広告代理店の営業部で数字を追い続ける真由子にとって、休むという選択肢は存在しなかった。

 真由子が妙子のために仕事を休むことは、一度もなかった。

 家には妙子と、福生楓都の二人きりだった。


 楓都はリビングのソファに転がっていた。

 テレビをつけて、缶ビールを開けていた。

 朝の九時から。

 空き缶が足元に三つ並んでいる。

 四つ目を開ける音が、台風の風切り音に混じって聞こえた。


 妙子は自分の部屋にいた。

 六畳間。

 ベッドと勉強机と、小さな本棚。

 本棚には図書館から借りた本が並んでいる。

 動物行動学の入門書。

 心理学のエッセイ。

 妙子はベッドの上で膝を抱え、本のページを追っていた。

 文字を読んでいるというより、文字の壁(・)に隠れているという方が近い。


 楓都が酔っている日は、なるべく気配を消す。

 足音を立てない。

 水を飲みに台所に行くのも控える。

 トイレにすら行かない。

 息を潜めて、嵐が過ぎ去るのを待つ。

 嵐は二つある。

 外の台風と、リビングの楓都。

 どちらが先に静まるかは、賭けのようなものだった。


 夜九時を過ぎた頃、台風の目に入ったのか、一時的に風が弱まった。

 代わりに雨が激しくなった。

 窓ガラスに雨粒が叩きつけ、水の膜ができて外の景色が歪む。

 その静かさの中に、足音があった。


 廊下を歩く音。

 重い。

 不規則。

 酔った人間の足取り。

 妙子の部屋の前で、足音が止まった。


 ドアノブが回った。


 妙子は鍵をかけていなかった。

 この部屋には鍵がない。

 以前、楓都が「鍵をつけるな」と言ったからだ。

 「俺の家で勝手に閉じこもるんじゃねえ」と。

 ドアが開いた。

 楓都が立っていた。


 異様だった。

 いつもの楓都とは違った。

 酔っている。

 それはいつものことだ。

 だが、目が違う。

 いつもの濁った苛立ちではなく、もっと奥にあるもの。

 飢えた動物の目。

 獲物を見つけた目。


「なぁ」


 楓都の声は低く、甘ったるかった。

 暴力の前に見せる穏やかさ。

 妙子はそのパターンを知っている。

 穏やかな声の後に、痛みが来る。

 いつもそうだった。


「お前、最近綺麗になったな」


 その言葉の意味を、十三歳の妙子は正確には理解できなかった。

 だが、体が理解した。

 本能が。

 全身の毛が逆立ち、胃が収縮し、喉の奥が締まった。

 逃げなければ。

 そう思った瞬間、体が動かなくなった。


 楓都がベッドに近づいてきた。

 膝をつき、妙子の顔に手を伸ばす。

 酒の匂い。

 タバコの匂い。

 指先に残ったヤニの黄色い染み。

 その指が頬に触れた。


 妙子の意識が凍った。


 ここから先は、僕が引き受けた。


 ◇◆◇


 僕が生まれたのは、もっと前のことだ。

 妙子が七歳のとき、楓都に初めて殴られた夜。

 その痛みに耐えられなかった幼い心が、「痛みを感じないもう一人の自分」を作り出した。

 それが僕だ。

 最初は意識もなかった。

 ただ、妙子が暴力を受ける瞬間に現れ、痛みを引き受け、妙子の意識を遠くに追いやる。

 それだけの装置。

 盾。

 人間ですらなかった。


 だが、年月が経つにつれて、僕は変わった。

 妙子の内側で、僕は世界を見続けた。

 妙子の目を通して。

 彼女が見る景色を、彼女が感じる痛みを、彼女が読む本の言葉を、すべて僕も受け取った。

 やがて僕は考え始めた。

 感じ始めた。

 怒りを覚え、悲しみを知り、「守りたい」という意志を持った。

 盾は人間になった。


 あの夜、楓都の指が妙子の頬に触れた瞬間、僕は妙子から主導権を奪った。


 切り替えは一瞬だった。

 妙子の意識が後方に沈み、僕が前面に出る。

 凍りついていた体が動き出す。

 妙子とは違う意志が、筋肉に信号を送る。


 楓都の手を払った。

 ベッドから飛び降りた。

 部屋を出た。


「おい!」


 背後で楓都の怒鳴り声。

 驚きと怒りが混じっている。

 抵抗されるとは思っていなかったのだ。

 妙子は今まで一度も抵抗したことがない。

 殴られても、焼かれても、ただ耐えるだけだった。

 だが、今動いているのは妙子ではない。

 僕だ。


 玄関のドアを開けた。

 靴を履く余裕はない。

 裸足のまま外に飛び出した。


 嵐が僕を叩いた。


 横殴りの雨。

 風が体を揺らす。

 裸足の足下に冷たい水が流れている。

 道路が冠水し始めていた。

 アスファルトの上に数センチの水が溜まり、街灯の光を反射して揺れている。


 走った。

 どこへ向かうかは考えていなかった。

 ただ、楓都から離れること。

 それだけが僕の全てだった。

 妙子の体は小さい。

 十三歳の少女の足では速く走れない。

 靴もない。

 水に浸かった道路を裸足で踏むたびに、冷たさが足裏を刺す。


 背後から叫び声が聞こえた。


「おい、タコ! 家で大人しくしてろって言ったよな?」


 楓都が追いかけてきた。

 酔っていても、大人の男の歩幅は長い。

 距離が縮まっていく。


「てめえ、止まれ! ふらふら出歩きやがって!」


 怒声が雨に打ち消され、それでも断片的に耳に届く。

 振り返る余裕はない。

 前を向いて走るしかない。


 住宅街を抜け、用水路沿いの道に出た。

 普段は穏やかに流れている用水路が、嵐のせいで暴れていた。

 茶色い濁流が轟音を立てて流れている。

 水面から飛沫が上がり、コンクリートの護岸壁を越えそうなほどに水嵩が増している。

 用水路の上に橋がある。

 幅二メートルほどの歩道橋。

 鉄製の欄干が風に震えていた。


 橋に差しかかったとき、前方にヘッドライトが見えた。

 自転車だ。

 嵐の中を走ってくる。

 レインコートを着た少年が、必死にペダルを漕いでいる。

 風に煽られてハンドルがふらつきながらも、橋に向かってまっすぐ突っ込んでくる。


 同時に、背後から楓都が追いついた。


「待て!」


 楓都の手が僕の――妙子の肩を掴みかけた。


 僕は身を捩って腕を振り払った。

 楓都がバランスを崩す。

 濡れたアスファルトの上で足が滑る。

 体が前に泳ぐ。

 そこへ、自転車が突っ込んできた。


 衝突音。

 金属が歪む音。

 人間の体がぶつかる鈍い音。

 自転車の少年と楓都が、橋の上で正面からぶつかった。


 少年が吹き飛んだ。

 自転車ごと欄干にぶつかり、鉄の柵を乗り越えて用水路の縁に落ちた。

 楓都も弾かれた。

 体が回転し、欄干に背中から叩きつけられ――そのまま、欄干の隙間から用水路に落ちた。


 落下。

 激しい水音。


 僕は橋の上に立ち尽くしていた。


 嵐が吹き荒れている。

 雨が顔を叩く。

 目を開けているのがやっとだ。

 欄干の縁に駆け寄り、下を覗いた。


 濁流。

 茶色い水が渦を巻いている。

 コンクリートの護岸壁は垂直で、水面から二メートルほどの高さがある。

 楓都の姿は見えなかった。

 暗い水の中に呑まれている。

 泡だけが、ぶくぶくと浮かんでは消えた。


 少年がいた。

 用水路の壁面、水面より少し上の位置。

 コンクリートの継ぎ目に生えた雑草にしがみついている。

 片手で草を掴み、もう片方の手は壁に爪を立てている。

 足元には濁流が迫っている。

 水が少年の足首を洗い、引きずり込もうとしている。

 少年の顔が仰向いた。

 雨に打たれた顔。

 暗い中で、街灯の反射が少年の目を一瞬だけ照らした。


 黒い瞳。

 恐怖に見開かれている。

 だが、叫んではいない。

 歯を食いしばり、必死に草を握りしめている。

 生き延びようとしている。


 僕は体を起こした。

 周囲を見回す。

 橋の袂に何かがある。

 商店街の宣伝用ののぼり旗。

 金属製のポールに布が巻きついている。

 嵐の風で倒れ、アスファルトの上に横たわっていた。


 のぼりのポールを掴んだ。

 引き抜く。

 長さは二メートルほど。

 軽い。

 妙子の腕でも持てる。

 欄干の外側に身を乗り出し、ポールを下に差し伸べた。


「掴んで!」


 声が出た。

 妙子の声。

 だが中身は僕だ。

 嵐の騒音に負けないように、腹の底から叫んだ。


 少年が目を上げた。

 のぼりのポールが、水面のすぐ上で揺れているのが見える。

 少年は片手を草から離し、ポールに手を伸ばした。

 指先がかすめる。

 一度、二度。

 三度目で、少年の手がポールを掴んだ。


「離さないで!」


 僕は全身に力を込めた。

 妙子の体重は四十キロ少しだ。

 少年を引き上げるだけの力はない。

 だが、支えることはできる。

 少年が壁を登る手がかりにできるだけの、支えを。


 少年はポールをつかみながら、壁面の雑草や継ぎ目に足をかけ、少しずつ登り始めた。

 泥水が体に叩きつけ、風が体を揺らす。

 それでも登った。

 腕の筋肉が震えている。

 手が白くなるほどポールを握っている。

 僕も欄干にしがみついたまま、ポールを手放さなかった。

 手のひらが金属の縁で削れている。

 痛みがある。

 だが、それは妙子の痛みではない。

 僕が引き受ける痛みだ。


 少年が欄干の縁に手をかけた。

 もう一歩。

 僕は少年の腕を掴み、引っ張った。

 少年の体が欄干を越え、橋の上に崩れ落ちた。


 二人とも仰向けに倒れた。

 雨が顔に降り注ぐ。

 嵐の空が黒く回転している。


 少年の息が荒い。

 全身ずぶ濡れで、泥にまみれている。

 指先から血が出ている。

 壁面を登る間に爪が剥がれたのだろう。

 僕も息が切れていた。

 妙子の体力は限界だった。

 心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打っている。


 少年と目が合った。


 雨に濡れた黒い瞳。

 恐怖の残滓が浮かんでいるが、その奥に、何かを見ようとする光があった。

 目の前の人間を理解しようとする光。


 少年の唇が動いた。

 何かを言おうとしている。

 だが声は出なかった。

 嵐の音に遮られたのか、喉が詰まったのか。


 僕は起き上がった。

 用水路を見下ろした。

 楓都の姿は、もうどこにもなかった。

 濁流が全てを呑み込んでいた。


 助けなかった。

 助けることもできなかった。

 突き落とすこともできなかった。

 ただ見ていた。

 楓都が水に呑まれていくのを。

 あの男が叫ぶ声も、手を伸ばす腕も、何もなかった。

 ただ、消えた。


 僕は少年に背を向けた。

 立ち去らなければならない。

 ここにいれば、警察が来る。

 事情を聞かれる。

 妙子の名前が記録される。

 楓都との関係が調べられる。

 虐待が明るみに出れば、妙子の生活が崩壊する。

 母親の真由子は仕事の世界でしか生きられない人間だ。

 家庭の問題が会社に波及することを、何より恐れるだろう。

 妙子は施設に入れられるかもしれない。

 それは、今この瞬間には耐えられない。

 妙子を守るために、僕はここから身を引かなければならない。


 少年の方を一度だけ振り返った。

 彼はまだ橋の上に座り込んでいた。

 こちらを見ている。

 雨に濡れた黒い瞳が、僕を見ていた。


 その目に何かを伝えたかった。

 「大丈夫か」と聞きたかった。

 「もう安全だ」と言いたかった。

 だが、声は出さなかった。

 出してはいけなかった。


 僕は妙子の体を走らせた。

 嵐の中、来た道を戻る。

 裸足の足が冷たい水を蹴る。

 背後で少年が何かを叫んだ気がしたが、嵐の音に消えた。


 ◇◆◇


 家に戻った。

 楓都はいなかった。

 当然だ。

 もう二度と戻ってこない。


 濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

 体の泥と血を洗い流した。

 手のひらの擦り傷を水で清め、救急箱からガーゼを取り出して巻いた。

 妙子の体をベッドに横たえた。

 彼女の意識はまだ深いところに沈んでいる。

 あの夜の記憶は、僕が全て引き受けた。

 妙子が目を覚ましたとき、彼女はこう思うだろう。

 「台風が怖くて、ベッドの中でずっと震えていた」と。

 それでいい。


 翌朝、台風は過ぎ去っていた。

 青空が広がり、木々の葉が濡れたまま光を反射していた。

 道路にはまだ水たまりが残り、折れた枝やゴミが散乱していた。


 母親の真由子が帰ってきた。

 楓都がいないことに気づいた。

 だが、捜索願は出さなかった。

 毎日のように遊ぶ金をせびる男に辟易していたのだ。部屋に残された僅かな荷物が捨てられ、楓都の痕跡は消えた。

 数週間後、下流の堰で身元不明の遺体が見つかったと、地元のニュースが短く伝えた。

 真由子がそのニュースを楓都と結びつけることはなかった。


 妙子にとって、楓都は「ある嵐の晩にふらりと姿を消した人」でしかなかった。

 あの夜の記憶がないから。

 殴られた日々の記憶はあるが、最後の夜だけがぽっかりと抜けている。

 その空白を、彼女は「台風の夜に怖くて記憶が飛んだ」と解釈した。


 僕だけが知っている。

 あの夜の全てを。


 ◇◆◇


 あれから三年が経った。


 僕はあの夜を何千回と反芻してきた。

 天井の染みを数えるような夜に、記憶の底から引きずり出して、何度も再生した。


 楓都を助けなかったこと。

 助けることも、突き落とすこともできなかったこと。

 ただ見ていたこと。


 あの男は死んだ。

 溺れて死んだ。

 僕は何もしなかった。

 楓都が用水路に落ちた瞬間、僕は欄干から手を伸ばすことができた。

 叫ぶことができた。

 だが、しなかった。

 少年を助けた。

 のぼりを差し伸べた。

 全力で。

 楓都には、何もしなかった。


 それは選択だったのか。

 少年を助けることを選び、楓都を見殺しにすることを選んだのか。

 あるいは、単に余裕がなかったのか。

 両方を助ける力がなかっただけなのか。

 答えは出ない。

 三年経っても出ない。


 だが、ひとつだけ確かなことがある。

 あの夜、僕は|のぼりを一本だけ差し伸べた《・・・・・・・・・・・・・》。

 差し伸べる先を、僕は選んだのだ。


 ◇◆◇


 記憶の淵から浮上する。


 教室。

 放課後。

 窓の外は曇り空。

 梅雨入りの予報。

 奏が隣の席でプリントを整理している。

 体育祭の最終確認。

 あと二日で本番だ。


 奏の横顔を見る。

 短く刈り込んだ黒髪。

 鋭い目。

 姿勢の良い背中。

 左手の親指を、時折無意識に押さえる癖。


「……なあ、豊島」


 奏が振り向かずに言った。


「ん?」

「俺さ、昔、嵐の夜に人を助けられなかったことがあって」


 心臓が跳ねた。


「……助けられなかった?」

「ああ。橋の上で誰かとぶつかって、その人が川に落ちたんだ。俺も落ちかけた。そのとき、誰かが俺を助けてくれた。棒みたいなのを差し出してくれた」


 奏の声は淡々としていた。

 だが、言葉の裏に三年分の重さが沈んでいた。


「でも、川に落ちた人は助からなかった。何週間かして、下流の堰で人が見つかったって、地元のニュースでやってた。名前は出なかったけど、あの夜の人だと思う。俺は助かったのに、その人は死んだ。……俺がぶつからなければ、死ななかったかもしれない」


 奏の左手が、親指をぎゅっと握り込んだ。


「助けてくれた人の顔も、よく見えなかった。暗かったし、雨もひどかった。ただ――声だけ覚えてる。女の子の声だった。『掴んで』って言った。あの声だけが、ずっと頭に残ってる」


 僕は息を止めた。

 声。

 あの夜、僕が叫んだ声。

 妙子の声帯で出した、僕の叫び。


「それがずっと引っかかってるんだ。あの女の子が誰だったのか。今どこにいるのか。無事だったのか。……俺は、お礼を言いたかった。でも同時に、川に落ちた人のことも忘れられない。俺がぶつかったから死んだのかもしれないのに、俺だけ助かって」


 奏が初めてこちらを向いた。


「だから俺は正しくあろうとしてきた。間違わない人間になろうとしてきた。それは正義感なんかじゃなくて、ただの――罪滅ぼしだと思う」


 その目を、僕は見つめた。

 雨に濡れたような黒い瞳。

 あの夜と同じ。

 橋の上で仰向けに倒れた少年が、嵐の中から僕を見上げた、あの瞳と同じ。

 三年の時間が経っている。

 少年は成長し、背が伸び、声が低くなり、顔の輪郭が鋭くなった。

 だが、瞳だけは変わらない。


 確信した。

 あの夜の少年は、奏だ。


「……そうか。辛かったな」


 僕は、それだけを言った。

 本当は言いたかった。

 「あの夜の女の子は僕だ」と。

 「お前を助けたのは僕だ」と。

 「川に落ちた男は、妙子を虐待していた男だ。

 お前のせいじゃない」と。

 だが、言えない。

 言えば、妙子の秘密が露見する。

 別人格の存在が露見する。

 あの夜の真相が表に出る。


 だから僕は黙った。

 奏が三年間背負ってきた罪悪感を、そのままにした。


 これもまた、僕の罪だ。


「ごめん、変な話して」


 奏がぎこちなく頭を掻いた。


「いや」


 僕は首を振った。


「聞けてよかった。……ありがとう、話してくれて」


 その言葉に、どれだけの意味を込めたか。

 奏にはわからないだろう。

 わかる必要もない。


 奏は小さく頷いて、プリントに視線を戻した。

 赤ペンが紙の上を走る音が、静かな教室に響く。


 僕は奏の横顔を見つめ続けた。

 あの夜、のぼりを差し伸べた少年。

 三年後、妙子の隣にいる男。

 偶然か。

 運命か。

 どちらでもいい。

 大切なのは、あの夜の少年が生きていること。

 そして今、ここにいること。


 お前が背負っている罪は、お前の罪ではない。

 いつか、それを伝えられる日が来るだろうか。


 窓の外で、最初の雨粒が落ちた。

 梅雨が始まった。


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