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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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10/19

10話:二つの雨音

 梅雨が来た。


 空が灰色の蓋をしたように閉じ、そこから絶え間なく水が漏れ出している。

 朝から晩まで。

 昼休みの校庭は水たまりの集合体と化し、体育の授業は体育館に変更され、たった一晩で、生徒たちの手から傘が離れなくなった。

 湿気が校舎に染み込んでいる。

 廊下の床はねっとりと湿り、教室の窓は結露し、エアコンがうなりを上げて除湿と格闘している。

 空気そのものが重い。

 吸い込むと肺の中に水綿が詰まるような感覚。


 妙子の精神状態が、目に見えて悪くなった。


 雨音がトリガーになる。

 連続する水の音は、あの夜を呼び覚ます。

 冠水した道路。

 裸足の足裏に感じる冷たさ。

 背後から追いかけてくる足音。

 彼女自身は記憶していないはずなのに、身体が覚えている。

 雨が降ると呼吸が浅くなり、肩が強張り、視線が不安定に泳ぐ。

 結果として、僕が表に出る頻度が増えた。


 梅雨入りしてから、妙子が表にいたのは登校時と帰宅時の合計四時間ほどだった。

 残りの時間は全て僕だ。

 授業を受け、ノートを取り、昼休みに弁当を食べ、掃除をし、放課後の学級委員の仕事をこなし、帰宅して夕食を作り、風呂に入れ、寝かしつける。

 僕は妙子の人生を、代行している。


 そして、代行する時間が増えるほど、奏と過ごす時間も比例して増える。


 ◇◆◇


 体育祭の前日。

 放課後の教室。


 窓の外では雨が止む気配もなく降り続いている。

 明日の天気予報は曇り時々晴れ。

 奇跡的に雨は上がるらしい。

 だが今日はまだ、灰色の世界だ。


「プログラム最終版、印刷してきた」


 奏が職員室から戻ってきて、プリントの束を机に置いた。

 ホチキスで留められた冊子が四十部。

 クラス分と教員分と予備。


「ありがとう。各クラスの分、仕分けするね」

「頼む。俺は放送委員への伝達事項をまとめる」


 いつもの分業。

 言葉少なに始まる作業。

 外の雨音だけが、教室に入り込んでいる。


 僕はプログラムの冊子を仕分けしながら、明日のことを考えていた。

 体育祭。

 征人が「ケリをつける」と言っていた、あのタイムリミット。

 体育祭が終われば、征人は妙子を捨てる。

 それまでに、奏との関係を確固たるものにしなければならない。

 妙子が征人を失ったとき、崩壊しないための受け皿を。


 だが、僕は気づき始めている。

 奏との関係は、もはや「受け皿の構築」という計画の枠を超えている。

 昨日、奏があの夜の話をしてくれた。

 嵐の夜の記憶。

 溺れた人を助けられなかった罪悪感。

 三年間背負い続けてきた重荷。

 奏は僕に心を開いた。

 計画のためではなく、信頼の結果として。

 そして僕は、計画のためではなく――


「……豊島」


 奏の声で思考が中断された。

 顔を上げると、奏がこちらを見ていた。


「ぼんやりしてるぞ。大丈夫か」

「ああ、ごめん。ちょっと考え事」

「体育祭のこと?」

「まあ、そんなところ」


 嘘ではない。

 嘘ではないが、全部でもない。


 奏は小さく頷いて視線を戻した。

 ペンが紙の上を走る音。

 窓の外の雨音。

 二つの音が重なっている。

 静かだった。

 この教室にいるときだけ、世界の音量が少し下がる。

 雨の不安も、征人の影も、計画の重圧も、ほんの少しだけ薄くなる。


 その静けさを破ったのは、雷だった。


 窓の外が白く光った。

 一瞬の閃光。

 それから一拍置いて、腹の底を揺さぶる轟音。

 ドオン、と校舎全体が振動するような雷鳴が、空気を引き裂いた。


 妙子が浮上した。


 突然だった。

 予兆もなく、雷の音に引きずり出されるように、妙子の意識が表に飛び出してきた。

 僕の意識が後方に弾かれ、妙子が前面に出る。


 妙子の身体が硬直した。

 背中が丸まり、両腕で自分の体を抱きしめ、椅子の上で小さく縮こまった。

 呼吸が止まっている。

 目が見開かれたまま、虚空の一点を見つめている。


 フラッシュバック。

 雷鳴が、あの夜の記憶を呼び覚ましている。

 記憶そのものは僕が引き受けたはずだ。

 だが、身体の記憶は消せない。

 筋肉が、皮膚が、心臓が、あの夜の恐怖を再現している。

 嵐の音。

 追いかけてくる足音。

 逃げなければ。

 逃げなければ。


 僕は妙子を引き戻そうとした。

 「大丈夫だ」と。

 「ここは安全だ」と。

 意識の内側から、彼女に語りかけた。

 五秒。

 十秒。

 妙子の硬直がわずかに緩んだ。

 僕が前面に戻る。

 妙子の意識が再び奥に退く。


 だが、その十秒間。

 奏は、全てを見ていた。


「……大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 奏の声は抑えられていたが、底に緊張が走っていた。

 椅子から半分腰を浮かせ、すぐにでも立ち上がれる姿勢。

 だが、触れてはいない。

 距離を保ったまま、声だけで確認している。


「うん。雷が苦手なだけ。大丈夫」


 僕は笑顔を作った。

 妙子の声で。

 できるだけ自然に。


 奏はこちらを見つめていた。

 信じていない目。

 だが、追及しない目。

 嘘だとわかっていて、それでも踏み込まない。

 奏のやり方だ。

 無理に剥がそうとしない。

 ただ、見ている。

 見守っている。


 数秒の沈黙の後、奏は何も言わずに立ち上がった。


 椅子の背にかけてあった紺色のカーディガンを取り、僕の肩にかけた。


 軽い布の重さ。

 奏の体温の残り香。

 洗剤の匂いの中に混じる、かすかな汗の匂い。

 男の匂い。

 息が詰まった。


「……え」

「寒いだろ。エアコンの除湿、効きすぎてる」


 奏はそれだけ言って、自分の席に戻った。

 ペンを取り直し、紙に向かう。

 何事もなかったかのように。


 何も聞かない。

 理由を問わない。

 ただ、カーディガンを一枚、かけてくれた。


 僕は肩にかかった布を両手で握った。

 温かい。

 ただ温かい。

 この温かさには裏がない。

 計算がない。

 条件がない。

 征人が妙子にかけた言葉の温かさとは、根本的に違うもの。

 征人の優しさはスイッチだ。

 オンとオフがある。

 妙子が従順ならオン。

 そうでなければオフ。

 奏の優しさは温度だ。

 そこにあるだけ。

 高くもならず低くもならず、ただ一定の温度で、そこにある。


 計画とは関係なく、心が動いた。

 認めざるを得ない。

 これは計算ではない。

 計画でもない。

 僕は今、純粋に、救われている。


 ◇◆◇


 作業が終わったのは六時過ぎだった。


 カーテンを閉めた教室の中は蛍光灯の白い光で満たされている。

 外はまだ雨が降っている。

 窓の隙間から湿った風が入り込み、プリントの端を揺らす。

 荷物をまとめ、教室を出る。

 鍵を返しに行き、靴箱で上履きを脱ぐ。


 玄関先の庇の下に立つと、雨の幕が目の前に広がっていた。

 アスファルトに弾ける雨粒が白い飛沫を上げている。


「傘は?」


 奏が聞いた。


「……置いてきちゃった。朝は曇りだったから」


 実際には、妙子が傘を持たずに登校し、途中で雨が降り始め、コンビニで安い傘を買ったのだが、昼休みに教室に置いたまま放課後を迎えてしまった。

 教室には戻れない。

 鍵はもう返した。


「入るか」


 奏がビニール傘を広げた。

 大きくはない。

 二人で入れば肩が触れる程度の、コンビニの五百円傘。


「いいの?」

「濡れて帰るよりマシだろ」


 奏は先に歩き出した。

 僕は小走りで追いつき、傘の中に入った。


 近い。

 当然だ。

 一本の傘を二人で差している。

 奏の左肩と僕の右肩が触れている。

 歩くたびに、かすかに腕がぶつかる。

 奏は傘を少しだけ僕の方に傾けている。

 自分の右肩が濡れることを厭わず。


 雨の音が傘の上で弾けている。

 パタパタパタ。

 不規則なリズム。

 だが、さっきのような恐怖はない。

 同じ雨の音なのに、傘の下にいると音の意味が変わる。

 脅威ではなく、ただの音。

 水が布を叩く音。


「雨、嫌いか?」


 奏が前を向いたまま聞いた。


「……好きじゃない」

「俺もだ」


 短い共感。

 奏は余計なことを聞かない。

 「なぜ嫌いなのか」を問わない。

 ただ、同じところに立つ。


「でも」と奏が続けた。「傘があれば、まあ、なんとかなる」


 その言葉はおそらく、雨のことだけを指していない。

 僕は黙って歩いた。

 傘の上の雨音を聞きながら。


 校門を出て、いつもの道を歩く。

 街灯がオレンジ色の光を濡れた路面に映している。

 水面が光を拾って揺れる。

 車が走り過ぎるたびに、跳ねた水しぶきが靴にかかる。

 奏がさりげなく車道側に立った。

 僕を内側に入れる。

 意識しているのか無意識なのかはわからない。

 だが、こういう所作が自然に出る。


 二つの足音と、雨の音。

 傘の中の世界は狭いが、息苦しくはない。


「明日、晴れるといいな」


 奏が言った。


「うん。晴れるって予報が出てた」

「体育祭か。……正直、面倒だけど、準備したのに中止は嫌だな」

「国立くん、千五百メートル走でしょ。長距離、得意なの?」

「別に。誰もやりたがらなかっただけで、消去法の出場だ」


 奏は淡々と言ったが、嘘だと僕にはわかる。

 奏は足が速い。

 体育の授業で見ている。

 五十メートルのタイムはクラスで二番目だった。

 一番は――征人だ。

 だが征人は個人種目に出ない。


「消去法でも出るからにはちゃんと走るんでしょ。応援するね」

「……別にいい。見てなくていい」


 照れている。

 声のトーンがほんのわずかに上がった。

 奏は褒められることにも応援されることにも慣れていない。

 他人の好意を受け取る回路が、少しだけ錆びている。


「見るよ。最後まで」

「……勝手にしろ」


 僕は笑った。

 男同士の笑い方で。

 奏はそれに気づかない。

 気づくはずがない。

 奏にとって、隣にいるのは妙子だ。

 クラスメイトの女子。

 学級委員の相棒。

 雷が怖い、雨が嫌いな女の子。

 僕ではない。


 分かれ道が近づいてきた。

 いつもの十字路。

 信号が赤になり、二人で立ち止まる。


 雨が少し弱くなった。

 傘に当たる音が穏やかになり、遠くの家々の屋根が雨幕の向こうにぼんやりと浮かんでいる。


「なあ、豊島」


 奏が言った。

 珍しく、迷いのある声。


「明日……終わったら、ちょっと話したいことがある」


 僕は横を向いた。

 奏は前を向いたまま、左手の親指を無意識に押さえている。


「話したいこと?」

「ああ。今はまだ、まとまってないけど。……体育祭が終わってからでいい」


 奏の横顔。

 濡れた路面の反射が、下から奏の顎を照らしている。

 口元は引き結ばれているが、目の奥に何かが揺れている。

 昨日、あの夜の話をしてくれたとき以来、奏の中で何かが動いている。

 三年間封じてきた感情の蓋が、少しだけ開いた。

 その開いた隙間から、別の感情が滲み出している。


 何を話したいのか。

 想像はつくが、確信はない。


「わかった。待ってるね」

「……ああ」


 信号が青に変わった。

 奏が傘を僕に差し出した。


「持ってけ。俺は走るから」

「え、でも――」

「濡れるのは慣れてる」


 言うが早いか、奏は傘の外に出た。

 雨が奏の肩を打つ。

 シャツが一瞬で濡れる。

 奏は片手を上げて、「じゃあ、明日」と言い、左の道へ走り出した。

 長い脚が水たまりを蹴る。

 背中がみるみる小さくなっていく。


 僕は渡された傘を握りしめたまま、立っていた。


 奏のカーディガンが、まだ肩にかかっている。

 奏の傘が、手の中にある。

 この二つの温かさが、僕の中で意味を持ち始めている。

 計画の外側で。


 ◇◆◇


 帰り道。

 一人で傘を差して歩く。


 奏がいなくなった途端、雨の音が変わった。

 傘の上で弾ける水の音が、再び不穏な色を帯びる。

 傘の中にいても、僕だけでは音の意味を変えられない。

 奏がいたから、雨音がただの雨音でいられた。

 一人になると、雨は再びあの夜を連れてくる。


 だが、肩のカーディガンが僕を繋ぎ止めている。

 紺色の布。

 洗剤の匂い。

 奏の体温。

 それが錨になって、記憶の濁流に流されるのを防いでいる。


 マンションに着いた。

 エントランスで傘を畳む。

 エレベーターのボタンを押す。

 五階。

 部屋に入ると、今日も母親は帰っていない。

 暗い台所。

 冷蔵庫の唸り。

 雨戸の向こうで雨が降っている。


 カーディガンを丁寧に畳んだ。

 明日、返さなければならない。

 洗濯する時間はない。

 せめて、皺にならないように。


 奏のカーディガンを手に取ったとき、ポケットに何かが入っているのに気づいた。

 小さな紙切れ。

 折り畳まれたメモ用紙。

 開いた。


 奏の字だった。

 角ばった、けれど丁寧な字。


 『何かあったら連絡しろ』


 その下に、電話番号が書いてあった。


 目頭が熱くなった。

 泣くな。

 泣くな。

 僕には泣く資格がない。

 この温かさは僕のためのものではない。

 妙子のために利用すべき好意だ。

 計画の一部だ。

 そう言い聞かせても、指先が震えている。


 奏は、さっきの短い異変を見逃さなかった。

 雷が鳴った瞬間の硬直を。

 あの十秒間の凍りつきを。

 そして何も聞かず、カーディガンをかけ、傘を渡し、メモをポケットに忍ばせた。

 言葉ではなく、行動で。

 「大丈夫か」と聞くのではなく、「何かあったら」と書く。今の問題を暴こうとするのではなく、未来の逃げ道を用意する。


 この男の優しさは、押しつけない。

 手を伸ばさない。

 ただ、手が届く場所にいる。


 メモを元通りに折り畳み、自分の筆箱の中にしまった。

 妙子には見つからない場所に。

 これは僕の持ち物だ。

 僕だけの。


 妙子の体を布団に入れ、天井の染みを見上げた。

 右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。

 梅雨の湿気で染みはさらに広がっている。


 奏。

 あの夜、僕がのぼりを差し伸べた少年。

 三年後、僕にカーディガンを差し出す男。

 のぼりとカーディガン。

 形は違うが、同じものだ。

 「ここにいる」という意思表示。

 差し伸べられた手。


 僕はあの夜、奏を助けた。

 今日、奏が僕を助けた。

 二つの雨音が、三年の時を超えて重なっている。


 奏。

 お前になら。

 お前になら、妙子を託せるかもしれない。


 いや――託したいのは、妙子だけじゃない。

 僕がいなくなった後、妙子の傍にいてほしい。

 彼女が雨に怯えたとき、カーディガンをかけてやってほしい。

 傘を差し出してやってほしい。

 何も聞かず、ただ隣にいてやってほしい。


 それは計画だ。

 同時に、願いだ。


 二つの区別が、もうつかなくなっている。


 体育祭まで、あと十二時間。

 明日、全てが動く。


 天井の染みが、雨音に揺れている。


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