10話:二つの雨音
梅雨が来た。
空が灰色の蓋をしたように閉じ、そこから絶え間なく水が漏れ出している。
朝から晩まで。
昼休みの校庭は水たまりの集合体と化し、体育の授業は体育館に変更され、たった一晩で、生徒たちの手から傘が離れなくなった。
湿気が校舎に染み込んでいる。
廊下の床はねっとりと湿り、教室の窓は結露し、エアコンがうなりを上げて除湿と格闘している。
空気そのものが重い。
吸い込むと肺の中に水綿が詰まるような感覚。
妙子の精神状態が、目に見えて悪くなった。
雨音がトリガーになる。
連続する水の音は、あの夜を呼び覚ます。
冠水した道路。
裸足の足裏に感じる冷たさ。
背後から追いかけてくる足音。
彼女自身は記憶していないはずなのに、身体が覚えている。
雨が降ると呼吸が浅くなり、肩が強張り、視線が不安定に泳ぐ。
結果として、僕が表に出る頻度が増えた。
梅雨入りしてから、妙子が表にいたのは登校時と帰宅時の合計四時間ほどだった。
残りの時間は全て僕だ。
授業を受け、ノートを取り、昼休みに弁当を食べ、掃除をし、放課後の学級委員の仕事をこなし、帰宅して夕食を作り、風呂に入れ、寝かしつける。
僕は妙子の人生を、代行している。
そして、代行する時間が増えるほど、奏と過ごす時間も比例して増える。
◇◆◇
体育祭の前日。
放課後の教室。
窓の外では雨が止む気配もなく降り続いている。
明日の天気予報は曇り時々晴れ。
奇跡的に雨は上がるらしい。
だが今日はまだ、灰色の世界だ。
「プログラム最終版、印刷してきた」
奏が職員室から戻ってきて、プリントの束を机に置いた。
ホチキスで留められた冊子が四十部。
クラス分と教員分と予備。
「ありがとう。各クラスの分、仕分けするね」
「頼む。俺は放送委員への伝達事項をまとめる」
いつもの分業。
言葉少なに始まる作業。
外の雨音だけが、教室に入り込んでいる。
僕はプログラムの冊子を仕分けしながら、明日のことを考えていた。
体育祭。
征人が「ケリをつける」と言っていた、あのタイムリミット。
体育祭が終われば、征人は妙子を捨てる。
それまでに、奏との関係を確固たるものにしなければならない。
妙子が征人を失ったとき、崩壊しないための受け皿を。
だが、僕は気づき始めている。
奏との関係は、もはや「受け皿の構築」という計画の枠を超えている。
昨日、奏があの夜の話をしてくれた。
嵐の夜の記憶。
溺れた人を助けられなかった罪悪感。
三年間背負い続けてきた重荷。
奏は僕に心を開いた。
計画のためではなく、信頼の結果として。
そして僕は、計画のためではなく――
「……豊島」
奏の声で思考が中断された。
顔を上げると、奏がこちらを見ていた。
「ぼんやりしてるぞ。大丈夫か」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事」
「体育祭のこと?」
「まあ、そんなところ」
嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない。
奏は小さく頷いて視線を戻した。
ペンが紙の上を走る音。
窓の外の雨音。
二つの音が重なっている。
静かだった。
この教室にいるときだけ、世界の音量が少し下がる。
雨の不安も、征人の影も、計画の重圧も、ほんの少しだけ薄くなる。
その静けさを破ったのは、雷だった。
窓の外が白く光った。
一瞬の閃光。
それから一拍置いて、腹の底を揺さぶる轟音。
ドオン、と校舎全体が振動するような雷鳴が、空気を引き裂いた。
妙子が浮上した。
突然だった。
予兆もなく、雷の音に引きずり出されるように、妙子の意識が表に飛び出してきた。
僕の意識が後方に弾かれ、妙子が前面に出る。
妙子の身体が硬直した。
背中が丸まり、両腕で自分の体を抱きしめ、椅子の上で小さく縮こまった。
呼吸が止まっている。
目が見開かれたまま、虚空の一点を見つめている。
フラッシュバック。
雷鳴が、あの夜の記憶を呼び覚ましている。
記憶そのものは僕が引き受けたはずだ。
だが、身体の記憶は消せない。
筋肉が、皮膚が、心臓が、あの夜の恐怖を再現している。
嵐の音。
追いかけてくる足音。
逃げなければ。
逃げなければ。
僕は妙子を引き戻そうとした。
「大丈夫だ」と。
「ここは安全だ」と。
意識の内側から、彼女に語りかけた。
五秒。
十秒。
妙子の硬直がわずかに緩んだ。
僕が前面に戻る。
妙子の意識が再び奥に退く。
だが、その十秒間。
奏は、全てを見ていた。
「……大丈夫か? 顔色悪いぞ」
奏の声は抑えられていたが、底に緊張が走っていた。
椅子から半分腰を浮かせ、すぐにでも立ち上がれる姿勢。
だが、触れてはいない。
距離を保ったまま、声だけで確認している。
「うん。雷が苦手なだけ。大丈夫」
僕は笑顔を作った。
妙子の声で。
できるだけ自然に。
奏はこちらを見つめていた。
信じていない目。
だが、追及しない目。
嘘だとわかっていて、それでも踏み込まない。
奏のやり方だ。
無理に剥がそうとしない。
ただ、見ている。
見守っている。
数秒の沈黙の後、奏は何も言わずに立ち上がった。
椅子の背にかけてあった紺色のカーディガンを取り、僕の肩にかけた。
軽い布の重さ。
奏の体温の残り香。
洗剤の匂いの中に混じる、かすかな汗の匂い。
男の匂い。
息が詰まった。
「……え」
「寒いだろ。エアコンの除湿、効きすぎてる」
奏はそれだけ言って、自分の席に戻った。
ペンを取り直し、紙に向かう。
何事もなかったかのように。
何も聞かない。
理由を問わない。
ただ、カーディガンを一枚、かけてくれた。
僕は肩にかかった布を両手で握った。
温かい。
ただ温かい。
この温かさには裏がない。
計算がない。
条件がない。
征人が妙子にかけた言葉の温かさとは、根本的に違うもの。
征人の優しさはスイッチだ。
オンとオフがある。
妙子が従順ならオン。
そうでなければオフ。
奏の優しさは温度だ。
そこにあるだけ。
高くもならず低くもならず、ただ一定の温度で、そこにある。
計画とは関係なく、心が動いた。
認めざるを得ない。
これは計算ではない。
計画でもない。
僕は今、純粋に、救われている。
◇◆◇
作業が終わったのは六時過ぎだった。
カーテンを閉めた教室の中は蛍光灯の白い光で満たされている。
外はまだ雨が降っている。
窓の隙間から湿った風が入り込み、プリントの端を揺らす。
荷物をまとめ、教室を出る。
鍵を返しに行き、靴箱で上履きを脱ぐ。
玄関先の庇の下に立つと、雨の幕が目の前に広がっていた。
アスファルトに弾ける雨粒が白い飛沫を上げている。
「傘は?」
奏が聞いた。
「……置いてきちゃった。朝は曇りだったから」
実際には、妙子が傘を持たずに登校し、途中で雨が降り始め、コンビニで安い傘を買ったのだが、昼休みに教室に置いたまま放課後を迎えてしまった。
教室には戻れない。
鍵はもう返した。
「入るか」
奏がビニール傘を広げた。
大きくはない。
二人で入れば肩が触れる程度の、コンビニの五百円傘。
「いいの?」
「濡れて帰るよりマシだろ」
奏は先に歩き出した。
僕は小走りで追いつき、傘の中に入った。
近い。
当然だ。
一本の傘を二人で差している。
奏の左肩と僕の右肩が触れている。
歩くたびに、かすかに腕がぶつかる。
奏は傘を少しだけ僕の方に傾けている。
自分の右肩が濡れることを厭わず。
雨の音が傘の上で弾けている。
パタパタパタ。
不規則なリズム。
だが、さっきのような恐怖はない。
同じ雨の音なのに、傘の下にいると音の意味が変わる。
脅威ではなく、ただの音。
水が布を叩く音。
「雨、嫌いか?」
奏が前を向いたまま聞いた。
「……好きじゃない」
「俺もだ」
短い共感。
奏は余計なことを聞かない。
「なぜ嫌いなのか」を問わない。
ただ、同じところに立つ。
「でも」と奏が続けた。「傘があれば、まあ、なんとかなる」
その言葉はおそらく、雨のことだけを指していない。
僕は黙って歩いた。
傘の上の雨音を聞きながら。
校門を出て、いつもの道を歩く。
街灯がオレンジ色の光を濡れた路面に映している。
水面が光を拾って揺れる。
車が走り過ぎるたびに、跳ねた水しぶきが靴にかかる。
奏がさりげなく車道側に立った。
僕を内側に入れる。
意識しているのか無意識なのかはわからない。
だが、こういう所作が自然に出る。
二つの足音と、雨の音。
傘の中の世界は狭いが、息苦しくはない。
「明日、晴れるといいな」
奏が言った。
「うん。晴れるって予報が出てた」
「体育祭か。……正直、面倒だけど、準備したのに中止は嫌だな」
「国立くん、千五百メートル走でしょ。長距離、得意なの?」
「別に。誰もやりたがらなかっただけで、消去法の出場だ」
奏は淡々と言ったが、嘘だと僕にはわかる。
奏は足が速い。
体育の授業で見ている。
五十メートルのタイムはクラスで二番目だった。
一番は――征人だ。
だが征人は個人種目に出ない。
「消去法でも出るからにはちゃんと走るんでしょ。応援するね」
「……別にいい。見てなくていい」
照れている。
声のトーンがほんのわずかに上がった。
奏は褒められることにも応援されることにも慣れていない。
他人の好意を受け取る回路が、少しだけ錆びている。
「見るよ。最後まで」
「……勝手にしろ」
僕は笑った。
男同士の笑い方で。
奏はそれに気づかない。
気づくはずがない。
奏にとって、隣にいるのは妙子だ。
クラスメイトの女子。
学級委員の相棒。
雷が怖い、雨が嫌いな女の子。
僕ではない。
分かれ道が近づいてきた。
いつもの十字路。
信号が赤になり、二人で立ち止まる。
雨が少し弱くなった。
傘に当たる音が穏やかになり、遠くの家々の屋根が雨幕の向こうにぼんやりと浮かんでいる。
「なあ、豊島」
奏が言った。
珍しく、迷いのある声。
「明日……終わったら、ちょっと話したいことがある」
僕は横を向いた。
奏は前を向いたまま、左手の親指を無意識に押さえている。
「話したいこと?」
「ああ。今はまだ、まとまってないけど。……体育祭が終わってからでいい」
奏の横顔。
濡れた路面の反射が、下から奏の顎を照らしている。
口元は引き結ばれているが、目の奥に何かが揺れている。
昨日、あの夜の話をしてくれたとき以来、奏の中で何かが動いている。
三年間封じてきた感情の蓋が、少しだけ開いた。
その開いた隙間から、別の感情が滲み出している。
何を話したいのか。
想像はつくが、確信はない。
「わかった。待ってるね」
「……ああ」
信号が青に変わった。
奏が傘を僕に差し出した。
「持ってけ。俺は走るから」
「え、でも――」
「濡れるのは慣れてる」
言うが早いか、奏は傘の外に出た。
雨が奏の肩を打つ。
シャツが一瞬で濡れる。
奏は片手を上げて、「じゃあ、明日」と言い、左の道へ走り出した。
長い脚が水たまりを蹴る。
背中がみるみる小さくなっていく。
僕は渡された傘を握りしめたまま、立っていた。
奏のカーディガンが、まだ肩にかかっている。
奏の傘が、手の中にある。
この二つの温かさが、僕の中で意味を持ち始めている。
計画の外側で。
◇◆◇
帰り道。
一人で傘を差して歩く。
奏がいなくなった途端、雨の音が変わった。
傘の上で弾ける水の音が、再び不穏な色を帯びる。
傘の中にいても、僕だけでは音の意味を変えられない。
奏がいたから、雨音がただの雨音でいられた。
一人になると、雨は再びあの夜を連れてくる。
だが、肩のカーディガンが僕を繋ぎ止めている。
紺色の布。
洗剤の匂い。
奏の体温。
それが錨になって、記憶の濁流に流されるのを防いでいる。
マンションに着いた。
エントランスで傘を畳む。
エレベーターのボタンを押す。
五階。
部屋に入ると、今日も母親は帰っていない。
暗い台所。
冷蔵庫の唸り。
雨戸の向こうで雨が降っている。
カーディガンを丁寧に畳んだ。
明日、返さなければならない。
洗濯する時間はない。
せめて、皺にならないように。
奏のカーディガンを手に取ったとき、ポケットに何かが入っているのに気づいた。
小さな紙切れ。
折り畳まれたメモ用紙。
開いた。
奏の字だった。
角ばった、けれど丁寧な字。
『何かあったら連絡しろ』
その下に、電話番号が書いてあった。
目頭が熱くなった。
泣くな。
泣くな。
僕には泣く資格がない。
この温かさは僕のためのものではない。
妙子のために利用すべき好意だ。
計画の一部だ。
そう言い聞かせても、指先が震えている。
奏は、さっきの短い異変を見逃さなかった。
雷が鳴った瞬間の硬直を。
あの十秒間の凍りつきを。
そして何も聞かず、カーディガンをかけ、傘を渡し、メモをポケットに忍ばせた。
言葉ではなく、行動で。
「大丈夫か」と聞くのではなく、「何かあったら」と書く。今の問題を暴こうとするのではなく、未来の逃げ道を用意する。
この男の優しさは、押しつけない。
手を伸ばさない。
ただ、手が届く場所にいる。
メモを元通りに折り畳み、自分の筆箱の中にしまった。
妙子には見つからない場所に。
これは僕の持ち物だ。
僕だけの。
妙子の体を布団に入れ、天井の染みを見上げた。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
梅雨の湿気で染みはさらに広がっている。
奏。
あの夜、僕がのぼりを差し伸べた少年。
三年後、僕にカーディガンを差し出す男。
のぼりとカーディガン。
形は違うが、同じものだ。
「ここにいる」という意思表示。
差し伸べられた手。
僕はあの夜、奏を助けた。
今日、奏が僕を助けた。
二つの雨音が、三年の時を超えて重なっている。
奏。
お前になら。
お前になら、妙子を託せるかもしれない。
いや――託したいのは、妙子だけじゃない。
僕がいなくなった後、妙子の傍にいてほしい。
彼女が雨に怯えたとき、カーディガンをかけてやってほしい。
傘を差し出してやってほしい。
何も聞かず、ただ隣にいてやってほしい。
それは計画だ。
同時に、願いだ。
二つの区別が、もうつかなくなっている。
体育祭まで、あと十二時間。
明日、全てが動く。
天井の染みが、雨音に揺れている。




