11話:祭りの朝
体育祭の朝が来た。
予報通り、雨は上がっていた。
空には薄い雲が広がっているが、その向こうに太陽の輪郭が透けている。
風はない。
湿気はまだ残っているが、昨日までの鬱々とした空気は消え、代わりに祭りの前の高揚感が学校全体を覆っていた。
僕は妙子の体で、朝六時半に学校に着いた。
学級委員は早朝から準備に入る。
校庭には白いラインが引かれ、テントが立ち、得点板が組み上げられ、放送機材がグラウンドの隅にセッティングされていた。
妙子はまだ奥にいる。
昨夜、久しぶりに深く眠った。
雨が上がったことで、トラウマのトリガーが消えたのだろう。
妙子の意識は凪いでいる。
穏やかな、底の深い眠りの中にいる。
だから今日の朝は、僕の時間だ。
校門の前で奏と合流した。
奏もジャージ姿で、手にはファイルとメガホンを持っていた。
「早いな」
「国立くんも」
「学級委員だからな。当然だ」
当然、と言い切る奏の横顔に、微かな気負いが見える。
体育祭を成功させなければならない。
学級委員として、完璧に運営しなければならない。
その責任感が、奏の背筋をいつも以上にまっすぐにしている。
「昨日のカーディガン、ありがとう。洗って返すね」
「いい。急がなくていい」
奏は短く答えて歩き出した。
僕はその半歩後ろについて校庭に向かう。
昨日ポケットに入っていたメモのことは、言わなかった。
奏も聞かなかった。
差し出されたものは受け取る。
それだけでいい。
言葉にすると、壊れるものがある。
◇◆◇
七時。
各クラスの準備が始まった。
校庭にはテントが立ち並び、クラスごとの応援席が区画されている。
体育祭実行委員会が放送のテストを繰り返し、マイクのハウリングが時折甲高く響く。
生徒たちが三々五々集まり始め、校庭は徐々に色彩を帯びていく。
クラスTシャツ、ハチマキ、手作りの応援旗。
どのクラスも、昨日までの準備の成果を持ち寄っている。
僕と奏は、二年三組の準備を仕切っていた。
「得点板の記録係、田中と佐々木で交代制。午前と午後で回す」
「了解。プログラム最終版は各テントに配った?」
「配った。予備を五部、本部テントに置いてある」
「放送委員への連絡事項は?」
「伝達済み。競技間のアナウンスのタイミング、こっちから合図出す」
一問一答。奏が全体を見て、僕が細部を埋める。
奏が言いかける前に僕が動き、迷う前に奏が指示を出す。
周囲のクラスメイトが、二人のやり取りを目をしばたたかせながら見ていた。
「なんか……二人ともすげえな」
隣のテントで準備していた男子が呟いた。
「学級委員コンビ、息ぴったりっていうか、もう別次元だな」
「豊島って、国立に振り回されてるイメージだったけど、全然違うじゃん。対等にやり合ってる」
対等。
その言葉が痛んだ。遠慮せず動ける僕だから、そう見える。
この関係は妙子ではなく、僕が作ったものだ。
「……豊島」
奏が声をかけてきた。
プリントを持つ手を止めて、こちらを見ている。
「ん?」
「ぼんやりするなって昨日も言っただろ」
「してない。ちゃんと聞いてた」
「じゃあ今から何をすべきか言ってみろ」
「救護テントの備品チェック。氷の在庫確認。熱中症対策の飲料水の追加発注が必要かどうかの判断。あと、午後の部のプログラム変更の可能性に備えて、予備の進行台本を放送委員に渡しておくこと」
奏の目がわずかに見開かれた。
全部合っていた。奏が指示を出す前に、僕はもう答えを用意していた。
「……お前、たまに怖いな」
「怖い?」
「俺が考えてることを先に言われると、ちょっとゾッとする」
奏は冗談めかしたが、目にはわずかな警戒があった。
「……ごめん。仕事が好きなだけ」
僕は声を柔らかくした。
妙子の声域に寄せる。
高めに、細めに。
依存的に聞こえるように。
「好きっていうか、国立くんが何をしたいかわかるから、先に動いてるだけだよ」
征人の前なら従順に聞こえる言葉も、奏との間では承認になる。
奏は少し黙ってから、小さく息を吐いた。
「……助かってる。正直に言う。お前がいて助かった。一人じゃ無理だった」
その「助かった」を、僕はまっすぐに受け取った。
「ありがとう」
僕は答えた。
妙子の声で。
だが、込めた感情は僕のものだ。
◇◆◇
八時半。
開会式。
全校生徒が校庭に整列した。
校長のスピーチ。
実行委員長の挨拶。
選手宣誓。
定型の儀式が粛々と進む。
生徒たちの間に、早くも汗の匂いが漂い始めている。
六月の太陽が雲の間から顔を出し、校庭のラインが白く光った。
僕は二年三組の列の中に立っていた。
奏はひとつ前の列。
背中が見える。
体操着の白い生地に、汗がうっすらと滲んでいる。
征人の姿を探す。
いた。
列の端。
友人グループに囲まれ、リラックスした表情で立っている。
体操着の袖をまくり、日焼けした腕を露出させている。
周囲の男子と何か話しながら、時折笑っている。
妙子の方を見ない。
一度も。
体育祭が終わったら、ケリをつける。
征人のその決意は変わっていないだろう。
今日一日を乗り切れば、征人にとって妙子は用済みだ。
開会式が終わり、最初の競技が始まった。
◇◆◇
午前中の競技は順調に進んだ。
僕は学級委員として、得点の記録、進行の管理、怪我人の対応に走り回っていた。
奏は放送委員との連携と、本部テントでの運営補助。
二人で分担しながら、クラスの応援にも顔を出す。
忙しい。
だが、その忙しさが心地いい。
考える暇がない。
征人のことも、計画のことも、妙子のことも、忙しさの中に沈んでいく。
目の前のタスクをこなす。
それだけに集中できる。
午前最後の競技は、千五百メートル走だった。
二年三組の出場は奏。
スタートの号砲が鳴り、十人ほどの走者がトラックに散った。
一周目を終えた時点で、奏は三番手。
先頭は二年一組の長距離部員。差は五メートルほど。
最終周の鐘が鳴った。
奏のペースが上がった。
体育の授業で見た以上に速かった。
長い脚が地面を蹴り、体が前に傾き、風を切る。
観客席の歓声が膨らむ。
奏の表情は無表情だ。
歯を食いしばり、腕を振り、ただ前だけを見ている。
先頭との差が縮まる。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
最後のコーナーで奏が並んだ。
直線に入る。
二人の走者が並走する。
靴がトラックを蹴る音が乾いた空気に響く。
奏がわずかに前に出た。
ゴールテープを切った。
歓声。
クラスメイトが走り寄って奏を囲む。
男子が奏の背中を叩き、女子が歓声を上げる。
奏はゼーゼーと息を切らしながら、居心地悪そうに立っていた。
褒められることに慣れていない。
人に囲まれることに慣れていない。
僕は得点板のそばで、その光景を見ていた。
前だけを見て全力で走る。嘘のない走り方だった。
奏がこちらに気づいた。
人垣の隙間から、視線が合った。
僕は右手を上げた。
親指を立てる。
男同士のジェスチャー。
奏は一瞬だけ目を丸くし、それから片手を軽く上げた。
ほんの少しだけ、口角が上がっている。
あれは笑顔だ。
奏の、滅多に見せない笑顔。
◇◆◇
昼休み。
クラスのテントの下で、生徒たちが弁当を広げている。
僕は奏と少し離れた場所に座り、コンビニで買ったおにぎりを食べていた。
「千五百、すごかったね。消去法の出場とは思えなかった」
「うるさい」
奏は水のペットボトルを飲みながら横を向いた。
耳が少し赤い。
「一位じゃん。あれ見て、消去法って言える人いないと思うけど」
「たまたまだ。相手がペース配分間違えただけだ」
「そういうの謙遜って言うんだよ」
「事実だ」
奏の声に照れが滲んでいる。
「事実」と返しながらも、今は褒め言葉を受け取っている。
僕はおにぎりのひとつを奏に差し出した。
「食べる? ツナマヨ」
「いい。自分の分がある」
「午後も忙しいよ。エネルギー補給しておいたほうがいい」
「……余計なお世話だ」
と言いながら、奏はおにぎりを受け取った。
包装を丁寧に剥がし、ひと口かじる。
「うまい」
「コンビニのおにぎりだけど」
「コンビニのおにぎりがうまいんだよ。家で握ったのより味が安定してる」
理系的な感想だった。
僕は小さく笑った。
そのとき、テントの向こうに征人の姿が見えた。
友人グループと一緒に歩いている。
缶ジュースを片手に、何かを話しながら笑っている。
体操着の胸元にはリレーのゼッケンがついている。
午後の部で走るらしい。
征人の視線が一瞬、こちらに向いた。
僕と奏が並んで座っている姿を見た。
征人は笑顔のまま目を細めた。
一秒。
それだけの視線の交差。
征人は何も言わず、友人グループとともに通り過ぎた。
奏は気づいていなかった。
おにぎりをかじりながら、午後のプログラムに目を通している。
僕だけが、征人の視線を受け止めていた。
◇◆◇
午後の部が始まった。
太陽が雲間から完全に顔を出し、校庭は急激に暑くなった。
生徒たちの額に汗が光り、テントの影に避難する者が増えた。
熱中症対策の飲料水が予想以上のペースで消費されている。
僕は追加の水を購買部に手配し、救護テントの氷を補充した。
征人のリレーは午後一番だった。
赤組のアンカーとして、征人はトラックに立った。
白い体操着。
日焼けした腕。
自信に満ちた姿勢。
征人はスタートラインで軽くストレッチをしながら、観客席に目を走らせた。
妙子がどこにいるか、探しているのか。
いや、違う。
征人が探しているのは妙子ではない。
自分を見ている目の数だ。
何人の視線が自分に集まっているか。
それを確認している。
バトンが回ってきた。
征人が走った。
華やかだった。
フォームが綺麗で、スピードがあり、何より「見られている」ことを意識した走り方。
カメラを向けられたモデルのように、走りながら観客を魅了する。
ゴールテープを切った。
一位。
歓声が爆発する。
征人は両手を上げ、友人たちとハイタッチした。
ヒーローの顔。
スポットライトの中心にいる男の顔。
このまま、あの光の中にいればいい。
妙子のいない場所で。
妙子を必要としない場所で。
僕はテントの陰で、征人の歓喜を冷たく見つめていた。
◇◆◇
午後二時。
借り物競争。
走者がカードのお題に合うものを観客席から「借りて」くる、会場を和ませるための競技だ。
二年三組からは二人が出場する。
一人目は別の女子。
二人目が、僕だった。
学級委員の仕事で手が離せなかったのだが、出場者が足りないということで急遽駆り出された。
奏が「俺が本部を見てるから行けよ」と言った。
断る理由もなかった。
号砲が鳴り、僕はトラックを走った。
コース中央に置かれた箱からカードを一枚引く。
白い紙に、手書きの文字。
「好きな人」
足が止まった。
妙子の好きな人は征人だ。
だが今、この体を動かしているのは僕だった。
僕なら、誰を借りる。
答えはもう、計画の中へ押し戻せなかった。
体が動いた。
頭で考える前に。
計画を計算する前に。
僕は観客席に向かって走った。
テントの列を抜け、本部テントの脇を通り、二年三組の応援席を通り過ぎて――奏の前に立った。
奏は本部テントの横で、進行表のチェックをしていた。
僕が駆けてくるのを見て、目を丸くした。
「来て」
僕は奏の腕を掴んだ。
「は?」
「借り物。来て」
「何の――」
「いいから!」
奏の腕を引っ張った。
奏は困惑しながらも抵抗しなかった。
反射的に体がついてきた。
二人でトラックを走る。
奏の長い脚が僕のペースに合わせて動く。
ゴールテープを二人で切った。
観客席がざわついた。
何が起きたのか理解するのに一瞬かかり、それから笑い声と歓声が混じった。
「何あれ」「国立くんじゃん」「え、お題何だったの?」
ゴール地点で、息を切らしながら立ち止まった。
奏も隣で呼吸を整えている。
「お題、何だったんだ?」
奏が聞いた。
声は冷静だが、目に困惑が浮かんでいる。
僕はカードを裏返しにしてポケットにしまった。
「内緒」
笑った。
男同士の笑い方で。
ニヤリと。
奏はもう一度「は?」と言いかけて、それから諦めたように息を吐いた。
「……お前、たまに本当に読めないな」
呆れたような、だが嫌そうではない声。
奏の口元がほんの少しだけ緩んでいる。
審判席の方から声がかかった。
「お題見せてくださーい!」
僕はポケットの中のカードをぎゅっと握った。
見せるわけにはいかない。
「好きな人」を見せたら、自分が指名された意味を、奏が知ってしまう。
妙子の立場として、それは避けたい。
「あ、カード落としちゃった! 走ってる途中で……」
苦しい言い訳だった。
審判は困った顔をしたが、借り物競争の判定は自己申告制だ。
証拠がなくても、持ってきた「もの」が合っていれば得点になる。
「まあ、人を連れてきたから、何かしらのお題だったんでしょう。有効とします」
審判のゆるい判定に、周囲から笑いが起きた。
奏は「勝手にしろ」と言って本部テントに戻っていった。
僕はゴール地点に一人残り、ポケットの中のカードに指先で触れた。
「好きな人」。
奏を選べば、二人の近さをクラスにも征人にも見せられる。
計画として説明はつく。
だが、それは後から作った理屈だ。
カードを見た瞬間、僕の足はもう奏へ向かっていた。
ポケットの中のカードを握りしめたまま、僕はテントに戻った。
奏を妙子の世界に引き込めた。計画は順調だ。
それでも胸が痛む。あの瞬間、僕はただ奏のところへ走りたかった。
遠くのテントで、征人がこちらを見ていた。
腕を組み、壁にもたれ、缶ジュースを握りつぶしている。
笑ってはいなかった。




