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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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11/19

11話:祭りの朝

 体育祭の朝が来た。


 予報通り、雨は上がっていた。

 空には薄い雲が広がっているが、その向こうに太陽の輪郭が透けている。

 風はない。

 湿気はまだ残っているが、昨日までの鬱々とした空気は消え、代わりに祭りの前の高揚感が学校全体を覆っていた。


 僕は妙子の体で、朝六時半に学校に着いた。

 学級委員は早朝から準備に入る。

 校庭には白いラインが引かれ、テントが立ち、得点板が組み上げられ、放送機材がグラウンドの隅にセッティングされていた。

 妙子はまだ奥にいる。

 昨夜、久しぶりに深く眠った。

 雨が上がったことで、トラウマのトリガーが消えたのだろう。

 妙子の意識は凪いでいる。

 穏やかな、底の深い眠りの中にいる。

 だから今日の朝は、僕の時間だ。


 校門の前で奏と合流した。

 奏もジャージ姿で、手にはファイルとメガホンを持っていた。


「早いな」

「国立くんも」

「学級委員だからな。当然だ」


 当然、と言い切る奏の横顔に、微かな気負いが見える。

 体育祭を成功させなければならない。

 学級委員として、完璧に運営しなければならない。

 その責任感が、奏の背筋をいつも以上にまっすぐにしている。


「昨日のカーディガン、ありがとう。洗って返すね」

「いい。急がなくていい」


 奏は短く答えて歩き出した。

 僕はその半歩後ろについて校庭に向かう。


 昨日ポケットに入っていたメモのことは、言わなかった。

 奏も聞かなかった。

 差し出されたものは受け取る。

 それだけでいい。

 言葉にすると、壊れるものがある。


 ◇◆◇


 七時。

 各クラスの準備が始まった。


 校庭にはテントが立ち並び、クラスごとの応援席が区画されている。

 体育祭実行委員会が放送のテストを繰り返し、マイクのハウリングが時折甲高く響く。

 生徒たちが三々五々集まり始め、校庭は徐々に色彩を帯びていく。

 クラスTシャツ、ハチマキ、手作りの応援旗。

 どのクラスも、昨日までの準備の成果を持ち寄っている。


 僕と奏は、二年三組の準備を仕切っていた。


「得点板の記録係、田中と佐々木で交代制。午前と午後で回す」

「了解。プログラム最終版は各テントに配った?」

「配った。予備を五部、本部テントに置いてある」

「放送委員への連絡事項は?」

「伝達済み。競技間のアナウンスのタイミング、こっちから合図出す」


 一問一答。奏が全体を見て、僕が細部を埋める。

 奏が言いかける前に僕が動き、迷う前に奏が指示を出す。


 周囲のクラスメイトが、二人のやり取りを目をしばたたかせながら見ていた。


「なんか……二人ともすげえな」


 隣のテントで準備していた男子が呟いた。


「学級委員コンビ、息ぴったりっていうか、もう別次元だな」

「豊島って、国立に振り回されてるイメージだったけど、全然違うじゃん。対等にやり合ってる」


 対等。

 その言葉が痛んだ。遠慮せず動ける僕だから、そう見える。

 この関係は妙子ではなく、僕が作ったものだ。


「……豊島」


 奏が声をかけてきた。

 プリントを持つ手を止めて、こちらを見ている。


「ん?」

「ぼんやりするなって昨日も言っただろ」

「してない。ちゃんと聞いてた」

「じゃあ今から何をすべきか言ってみろ」

「救護テントの備品チェック。氷の在庫確認。熱中症対策の飲料水の追加発注が必要かどうかの判断。あと、午後の部のプログラム変更の可能性に備えて、予備の進行台本を放送委員に渡しておくこと」


 奏の目がわずかに見開かれた。

 全部合っていた。奏が指示を出す前に、僕はもう答えを用意していた。


「……お前、たまに怖いな」

「怖い?」

「俺が考えてることを先に言われると、ちょっとゾッとする」


 奏は冗談めかしたが、目にはわずかな警戒があった。


「……ごめん。仕事が好きなだけ」


 僕は声を柔らかくした。

 妙子の声域に寄せる。

 高めに、細めに。

 依存的に聞こえるように。


「好きっていうか、国立くんが何をしたいかわかるから、先に動いてるだけだよ」


 征人の前なら従順に聞こえる言葉も、奏との間では承認になる。


 奏は少し黙ってから、小さく息を吐いた。


「……助かってる。正直に言う。お前がいて助かった。一人じゃ無理だった」


 その「助かった」を、僕はまっすぐに受け取った。


「ありがとう」


 僕は答えた。

 妙子の声で。

 だが、込めた感情は僕のものだ。


 ◇◆◇


 八時半。

 開会式。


 全校生徒が校庭に整列した。

 校長のスピーチ。

 実行委員長の挨拶。

 選手宣誓。

 定型の儀式が粛々と進む。

 生徒たちの間に、早くも汗の匂いが漂い始めている。

 六月の太陽が雲の間から顔を出し、校庭のラインが白く光った。


 僕は二年三組の列の中に立っていた。

 奏はひとつ前の列。

 背中が見える。

 体操着の白い生地に、汗がうっすらと滲んでいる。


 征人の姿を探す。

 いた。

 列の端。

 友人グループに囲まれ、リラックスした表情で立っている。

 体操着の袖をまくり、日焼けした腕を露出させている。

 周囲の男子と何か話しながら、時折笑っている。

 妙子の方を見ない。

 一度も。


 体育祭が終わったら、ケリをつける。

 征人のその決意は変わっていないだろう。

 今日一日を乗り切れば、征人にとって妙子は用済みだ。


 開会式が終わり、最初の競技が始まった。


 ◇◆◇


 午前中の競技は順調に進んだ。


 僕は学級委員として、得点の記録、進行の管理、怪我人の対応に走り回っていた。

 奏は放送委員との連携と、本部テントでの運営補助。

 二人で分担しながら、クラスの応援にも顔を出す。

 忙しい。

 だが、その忙しさが心地いい。

 考える暇がない。

 征人のことも、計画のことも、妙子のことも、忙しさの中に沈んでいく。

 目の前のタスクをこなす。

 それだけに集中できる。


 午前最後の競技は、千五百メートル走だった。


 二年三組の出場は奏。

 スタートの号砲が鳴り、十人ほどの走者がトラックに散った。

 一周目を終えた時点で、奏は三番手。

 先頭は二年一組の長距離部員。差は五メートルほど。


 最終周の鐘が鳴った。


 奏のペースが上がった。

 体育の授業で見た以上に速かった。

 長い脚が地面を蹴り、体が前に傾き、風を切る。

 観客席の歓声が膨らむ。

 奏の表情は無表情だ。

 歯を食いしばり、腕を振り、ただ前だけを見ている。

 先頭との差が縮まる。

 三メートル。

 二メートル。

 一メートル。


 最後のコーナーで奏が並んだ。

 直線に入る。

 二人の走者が並走する。

 靴がトラックを蹴る音が乾いた空気に響く。


 奏がわずかに前に出た。

 ゴールテープを切った。


 歓声。

 クラスメイトが走り寄って奏を囲む。

 男子が奏の背中を叩き、女子が歓声を上げる。

 奏はゼーゼーと息を切らしながら、居心地悪そうに立っていた。

 褒められることに慣れていない。

 人に囲まれることに慣れていない。


 僕は得点板のそばで、その光景を見ていた。


 前だけを見て全力で走る。嘘のない走り方だった。


 奏がこちらに気づいた。

 人垣の隙間から、視線が合った。

 僕は右手を上げた。

 親指を立てる。

 男同士のジェスチャー。


 奏は一瞬だけ目を丸くし、それから片手を軽く上げた。

 ほんの少しだけ、口角が上がっている。

 あれは笑顔だ。

 奏の、滅多に見せない笑顔。


 ◇◆◇


 昼休み。


 クラスのテントの下で、生徒たちが弁当を広げている。

 僕は奏と少し離れた場所に座り、コンビニで買ったおにぎりを食べていた。


「千五百、すごかったね。消去法の出場とは思えなかった」

「うるさい」


 奏は水のペットボトルを飲みながら横を向いた。

 耳が少し赤い。


「一位じゃん。あれ見て、消去法って言える人いないと思うけど」

「たまたまだ。相手がペース配分間違えただけだ」

「そういうの謙遜って言うんだよ」

「事実だ」


 奏の声に照れが滲んでいる。

 「事実」と返しながらも、今は褒め言葉を受け取っている。


 僕はおにぎりのひとつを奏に差し出した。


「食べる? ツナマヨ」

「いい。自分の分がある」

「午後も忙しいよ。エネルギー補給しておいたほうがいい」

「……余計なお世話だ」


 と言いながら、奏はおにぎりを受け取った。

 包装を丁寧に剥がし、ひと口かじる。


「うまい」

「コンビニのおにぎりだけど」

「コンビニのおにぎりがうまいんだよ。家で握ったのより味が安定してる」


 理系的な感想だった。

 僕は小さく笑った。


 そのとき、テントの向こうに征人の姿が見えた。


 友人グループと一緒に歩いている。

 缶ジュースを片手に、何かを話しながら笑っている。

 体操着の胸元にはリレーのゼッケンがついている。

 午後の部で走るらしい。

 征人の視線が一瞬、こちらに向いた。

 僕と奏が並んで座っている姿を見た。

 征人は笑顔のまま目を細めた。

 一秒。

 それだけの視線の交差。


 征人は何も言わず、友人グループとともに通り過ぎた。


 奏は気づいていなかった。

 おにぎりをかじりながら、午後のプログラムに目を通している。

 僕だけが、征人の視線を受け止めていた。


 ◇◆◇


 午後の部が始まった。


 太陽が雲間から完全に顔を出し、校庭は急激に暑くなった。

 生徒たちの額に汗が光り、テントの影に避難する者が増えた。

 熱中症対策の飲料水が予想以上のペースで消費されている。

 僕は追加の水を購買部に手配し、救護テントの氷を補充した。


 征人のリレーは午後一番だった。


 赤組のアンカーとして、征人はトラックに立った。

 白い体操着。

 日焼けした腕。

 自信に満ちた姿勢。

 征人はスタートラインで軽くストレッチをしながら、観客席に目を走らせた。

 妙子がどこにいるか、探しているのか。

 いや、違う。

 征人が探しているのは妙子ではない。

 自分を見ている目の数(・・・)だ。

 何人の視線が自分に集まっているか。

 それを確認している。


 バトンが回ってきた。

 征人が走った。

 華やかだった。

 フォームが綺麗で、スピードがあり、何より「見られている」ことを意識した走り方。

 カメラを向けられたモデルのように、走りながら観客を魅了する。

 ゴールテープを切った。

 一位。

 歓声が爆発する。

 征人は両手を上げ、友人たちとハイタッチした。

 ヒーローの顔。

 スポットライトの中心にいる男の顔。


 このまま、あの光の中にいればいい。

 妙子のいない場所で。

 妙子を必要としない場所で。


 僕はテントの陰で、征人の歓喜を冷たく見つめていた。


 ◇◆◇


 午後二時。

 借り物競争。


 走者がカードのお題に合うものを観客席から「借りて」くる、会場を和ませるための競技だ。

 二年三組からは二人が出場する。

 一人目は別の女子。

 二人目が、僕だった。


 学級委員の仕事で手が離せなかったのだが、出場者が足りないということで急遽駆り出された。

 奏が「俺が本部を見てるから行けよ」と言った。

 断る理由もなかった。


 号砲が鳴り、僕はトラックを走った。

 コース中央に置かれた箱からカードを一枚引く。


 白い紙に、手書きの文字。


 「好きな人」


 足が止まった。


 妙子の好きな人は征人だ。

 だが今、この体を動かしているのは僕だった。


 僕なら、誰を借りる。

 答えはもう、計画の中へ押し戻せなかった。


 体が動いた。

 頭で考える前に。

 計画を計算する前に。


 僕は観客席に向かって走った。

 テントの列を抜け、本部テントの脇を通り、二年三組の応援席を通り過ぎて――奏の前に立った。


 奏は本部テントの横で、進行表のチェックをしていた。

 僕が駆けてくるのを見て、目を丸くした。


「来て」


 僕は奏の腕を掴んだ。


「は?」

「借り物。来て」

「何の――」

「いいから!」


 奏の腕を引っ張った。

 奏は困惑しながらも抵抗しなかった。

 反射的に体がついてきた。

 二人でトラックを走る。

 奏の長い脚が僕のペースに合わせて動く。


 ゴールテープを二人で切った。


 観客席がざわついた。

 何が起きたのか理解するのに一瞬かかり、それから笑い声と歓声が混じった。

 「何あれ」「国立くんじゃん」「え、お題何だったの?」


 ゴール地点で、息を切らしながら立ち止まった。

 奏も隣で呼吸を整えている。


「お題、何だったんだ?」


 奏が聞いた。

 声は冷静だが、目に困惑が浮かんでいる。


 僕はカードを裏返しにしてポケットにしまった。


「内緒」


 笑った。

 男同士の笑い方で。

 ニヤリと。

 奏はもう一度「は?」と言いかけて、それから諦めたように息を吐いた。


「……お前、たまに本当に読めないな」


 呆れたような、だが嫌そうではない声。

 奏の口元がほんの少しだけ緩んでいる。


 審判席の方から声がかかった。

 「お題見せてくださーい!」

 僕はポケットの中のカードをぎゅっと握った。

 見せるわけにはいかない。

 「好きな人」を見せたら、自分が指名された意味を、奏が知ってしまう。

 妙子の立場として、それは避けたい。


「あ、カード落としちゃった! 走ってる途中で……」


 苦しい言い訳だった。

 審判は困った顔をしたが、借り物競争の判定は自己申告制だ。

 証拠がなくても、持ってきた「もの」が合っていれば得点になる。


「まあ、人を連れてきたから、何かしらのお題だったんでしょう。有効とします」


 審判のゆるい判定に、周囲から笑いが起きた。

 奏は「勝手にしろ」と言って本部テントに戻っていった。


 僕はゴール地点に一人残り、ポケットの中のカードに指先で触れた。

 「好きな人」。


 奏を選べば、二人の近さをクラスにも征人にも見せられる。

 計画として説明はつく。


 だが、それは後から作った理屈だ。

 カードを見た瞬間、僕の足はもう奏へ向かっていた。


 ポケットの中のカードを握りしめたまま、僕はテントに戻った。


 奏を妙子の世界に引き込めた。計画は順調だ。

 それでも胸が痛む。あの瞬間、僕はただ奏のところへ走りたかった。


 遠くのテントで、征人がこちらを見ていた。

 腕を組み、壁にもたれ、缶ジュースを握りつぶしている。

 笑ってはいなかった。


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