12話:借り物
ポケットの中のカードが、指先に貼りついている。
汗で湿った紙。
「好きな人」の四文字が、皮膚を通して脈を打っている気がする。
馬鹿げた錯覚だ。
紙切れ一枚に心臓の真似をされてたまるか。
僕はテントの陰に座り、ぬるくなったスポーツドリンクのペットボトルを手に取った。
キャップを回す。
プラスチックの刻みが指の腹に食い込む。
意味のない動作に集中する。
考えたくないことがあるとき、人間は手を動かす。
午後の競技が続いている。
校庭には歓声が散発的に上がり、アナウンスの声がスピーカーから流れ、得点板の数字が誰かの手で書き換えられていく。
借り物競争のざわめきはもう収まっている。
次の種目は玉入れだ。
クラスメイトたちがカゴの下に集まり、赤と白の球を手にしている。
どうでもいい。
僕には関係のない競技だ。
学級委員の仕事はある。
得点の記録、怪我人の確認、本部テントとの連絡。
だが、それらの作業をこなしながらも、意識の半分はポケットの中に残っている。
「好きな人」。
あの四文字を見た瞬間、僕は計算を放棄した。
それが問題だ。
僕は計算で動く人間だ。
いや、人間ですらない。
人格だ。
妙子の内側に巣食った演算装置。
入力に対して最適な出力を返すだけの回路。
感情は回路を曇らせるノイズであり、排除すべき障害であり、計画を狂わせる毒だ。
その毒に、僕は侵されつつある。
◇◆◇
玉入れが終わった。
二年三組は二位。
悪くない順位だが、盛り上がりに欠ける。
一位を逃した落胆が、テント内に薄い膜のように広がっている。
奏が本部テントから戻ってきた。
「次、騎馬戦だ。うちのクラスから四組出る。配置確認しろ」
「もうしてある。名簿と照合済み。騎馬の組み合わせも変更なし」
奏が僕の顔を見た。
一秒。
それからファイルに目を落とす。
「……お前、借り物競争のあとからちょっとおかしいぞ」
「おかしくない」
「声が低い」
「元からこんなもんだよ」
「……違う。なんか、いつもと違う」
心臓が跳ねた。
奏は鋭い。
この男は他人の微細な変化を拾い上げる精度が異常に高い。
声のトーン、姿勢の傾き、瞬きの間隔。
奏のセンサーは常に稼働している。
僕は意識的に声を上げた。
妙子の音域に。
高めに、柔らかく。
「疲れてるだけ。朝から走り回ってるし」
「水分摂れよ。救護テントに塩飴があるから取ってこい」
奏はそれだけ言って、騎馬戦の配置図に目を移した。
追及しない。
いつもの奏。
だが、横目でこちらを観察していることはわかっている。
奏の視線は指紋のように残る。
触れた場所が、じわりと温かくなる。
◇◆◇
騎馬戦が始まった。
男子の競技だ。
僕は得点係としてテントの脇に立ち、ホワイトボードにスコアを書き込んでいく。
校庭の中央で、騎馬がぶつかり合い、帽子を奪い合い、砂埃を上げている。
征人が出ている。
騎馬の上に立ち、長い腕で相手の帽子をさらう。
動きが軽い。
スポーツマンの反射神経と、人の隙を突く嗅覚が噛み合っている。
味方の騎馬を盾にし、敵の死角から手を伸ばし、帽子を掠め取る。
三枚。
四枚。
征人の手には奪った帽子が重なっていく。
校庭に歓声が弾ける。
「町田すげえ!」「最強じゃん!」
征人はヒーローだ。
体育祭という舞台の上で、征人は完璧に機能している。
注目を集め、歓声を浴び、勝利に貢献する。
彼の存在価値は「見られること」で成立する。
スポットライトが当たっている限り、征人は輝く。
暗闇では何も見えない男だが、光の中では誰よりも眩しい。
僕とは正反対だ。
僕は暗闇の中でしか存在できない。
妙子の意識の奥、誰にも見えない場所。
光が当たれば消える影。
騎馬戦が終わった。
征人のチームが勝った。
征人は騎馬から飛び降り、友人たちとハイタッチした。
汗に濡れた顔。
白い歯。
万能感に満ちた表情。
その視線が、一瞬だけ僕の方を向いた。
笑っていなかった。
征人の目が言っている。
借り物競争で何があったか、見ていたぞ。
お前が国立を選んだことも、カードを隠したことも、全部見ていた。
だが、征人は何も言わない。
ここでは言わない。
体育祭の最中に恋人を問い詰めるような野暮はしない。
征人は舞台の上では完璧な役者だ。
怒りも嫉妬も、幕が下りるまで仮面の裏に閉じ込めておける。
その仮面が外れるのは、二人きりになったときだ。
征人が視線を外し、友人グループに戻っていった。
僕はホワイトボードのスコアを書き込みながら、指先が震えていることに気づいた。
怒りではない。
恐怖でもない。
焦りだ。
征人が動く。
近いうちに。
借り物競争の件を口実に、妙子を追い詰めにかかる。
「なんで国立を選んだんだ」「俺のことどう思ってるんだ」「俺と国立、どっちが大事なんだ」。
征人はそういう尋問を、甘い声で行う。
妙子はそれに耐えられない。
◇◆◇
午後の競技が全て終わった。
閉会式までの空白の時間。
生徒たちは各クラスのテントに戻り、水を飲み、スマホを触り、疲れた体を椅子に沈めている。
六月の陽射しは容赦なく、校庭の空気は熱気と砂埃で白く濁っている。
僕は救護テントの裏手で、一人になった。
テントの布が風に揺れ、白い影が地面に揺らめいている。
誰もいない。
裏手は校舎の壁とテントに挟まれた狭い空間で、日陰になっている。
ポケットからカードを取り出した。
「好きな人」。
手書きの、丸い文字。
実行委員の誰かが書いたのだろう。
ボールペンのインクが少し滲んでいる。
借り物。
借り物競争。
僕は「好きな人」を借りた。
奏を借りた。
だが、借りたものは返さなければならない。
それが借り物のルールだ。
使ったら返す。
楽しんだら手放す。
自分のものではないから。
奏は僕のものではない。
奏と過ごした時間も、奏と交わした言葉も、奏が見せた笑顔も。
全部、借り物だ。
妙子の体と名前と時間を借りて、僕が作った関係。
奏が友達だと感じた相手は、僕が消えればどこにもいなくなる。妙子がその対等さを引き継げる保証はない。
名前も体も人生もない居候が、たった一人、信頼できる人間を見つけてしまった。
カードを見つめる。
紙の端が汗で丸まっている。
奏を信頼している。
計画のための駒だと理性で塗り固めてきた。
だがカードを見た瞬間、計算より先に僕の足が奏へ向かった。
こいつになら妙子を託せる。そう思ったから走った。
僕自身の体があれば、奏の隣に友人として立てたかもしれない。
だが、今立っているのは妙子の体の中だ。
「……馬鹿だな」
声に出して呟いた。
低い声。
僕の声。
妙子の声帯から出る、妙子のものではない音。
カードを二つに折った。
さらにもう一回。
小さな四角形になったカードを、ポケットの奥に押し込んだ。
これは僕だけの秘密だ。
妙子にも、奏にも、誰にも渡さない。
「好きな人」。たった四文字の借り物。僕は友情でカードに応えた。だが奏にそう説明することは、永遠にできない。
◇◆◇
テントの表に戻ると、閉会式の準備が始まっていた。
生徒たちが校庭に整列し始めている。
奏は既に二年三組の列を整え、名簿のチェックをしていた。
僕はその隣に並んだ。
「どこ行ってた」
「救護テント。塩飴もらってきた」
「……ちゃんと食えよ。倒れたら迷惑だ」
奏の声は不機嫌そうだが、心配が滲んでいる。
この男は感情を逆方向に表現する。
気遣いを叱責で包む。
優しさを不機嫌に偽装する。
わかりにくいが、わかってしまえば透明だ。
「はい、これ」
僕はポケットから塩飴をひとつ取り出し、奏に渡した。
「俺は要らない」
「疲れてるのは国立くんも同じでしょ。朝からずっと走り回ってたんだから」
奏は黙って塩飴を受け取った。
包装を剥がし、口に放り込む。
「しょっぱい」
「そりゃ塩飴だから」
「もっとうまいのないのか」
「贅沢言わない」
こういう会話が、たまらなく好きだった。
意味のない言葉の応酬。
生産性ゼロの雑談。
計画にも戦略にも繋がらない、ただの時間の浪費。
だが、その浪費こそが、人間の関係を作るのだと知った。
奏と過ごした時間の中で、一番大切だったのは学級委員の会議ではない。
こういう、何でもない瞬間だ。
塩飴を分け合うこと。
コンビニのおにぎりを押し付けること。
空を見上げて「綺麗だな」と言うこと。
全部、借り物だ。
僕の体ではない手で差し出した飴。
僕の声ではない声で交わした会話。
この温かさは全て、妙子という器を通して世界に触れているだけだ。
器が割れれば、中身は蒸発する。
それでも。
借り物であっても、この瞬間は確かに存在した。
奏の前で笑った時間。
奏と肩を並べて歩いた距離。
奏の目の中に映った僕の姿。
たとえ全てが借り物でも、感じた感情だけは僕のものだ。
「豊島」
奏が前を向いたまま、小さく言った。
「今日の借り物競争――」
「聞かないって言ったじゃん」
「聞かない。聞かないけど」
奏が言葉を切った。
校庭のスピーカーから閉会式の開始を告げるアナウンスが流れている。
「……ありがとな。俺を選んでくれて」
僕は答えなかった。
答えたら、声が震える。
声が震えたら、奏に気づかれる。
奏に気づかれたら、僕の仮面が剥がれる。
ただ、小さく頷いた。
奏はそれ以上何も言わず、列の先頭に歩いていった。
校庭にチャイムが鳴り響く。
閉会式が始まる。
夕暮れが近い。
空の色が変わり始めている。
昼間の白い光が、少しずつオレンジに溶けていく。
ポケットの奥で、四つ折りのカードが僕の太腿に触れている。
「好きな人」。
返却不能の借り物。僕が唯一、この世界で手に入れた信頼。




