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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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12/20

12話:借り物

 ポケットの中のカードが、指先に貼りついている。


 汗で湿った紙。

 「好きな人」の四文字が、皮膚を通して脈を打っている気がする。

 馬鹿げた錯覚だ。

 紙切れ一枚に心臓の真似をされてたまるか。

 僕はテントの陰に座り、ぬるくなったスポーツドリンクのペットボトルを手に取った。

 キャップを回す。

 プラスチックの刻みが指の腹に食い込む。

 意味のない動作に集中する。

 考えたくないことがあるとき、人間は手を動かす。


 午後の競技が続いている。


 校庭には歓声が散発的に上がり、アナウンスの声がスピーカーから流れ、得点板の数字が誰かの手で書き換えられていく。

 借り物競争のざわめきはもう収まっている。

 次の種目は玉入れだ。

 クラスメイトたちがカゴの下に集まり、赤と白の球を手にしている。

 どうでもいい。

 僕には関係のない競技だ。

 学級委員の仕事はある。

 得点の記録、怪我人の確認、本部テントとの連絡。

 だが、それらの作業をこなしながらも、意識の半分はポケットの中に残っている。


 「好きな人」。


 あの四文字を見た瞬間、僕は計算を放棄した。

 それが問題だ。

 僕は計算で動く人間だ。

 いや、人間ですらない。

 人格だ。

 妙子の内側に巣食った演算装置。

 入力に対して最適な出力を返すだけの回路。

 感情は回路を曇らせるノイズであり、排除すべき障害であり、計画を狂わせる毒だ。

 その毒に、僕は侵されつつある。


 ◇◆◇


 玉入れが終わった。

 二年三組は二位。

 悪くない順位だが、盛り上がりに欠ける。

 一位を逃した落胆が、テント内に薄い膜のように広がっている。


 奏が本部テントから戻ってきた。


「次、騎馬戦だ。うちのクラスから四組出る。配置確認しろ」

「もうしてある。名簿と照合済み。騎馬の組み合わせも変更なし」


 奏が僕の顔を見た。

 一秒。

 それからファイルに目を落とす。


「……お前、借り物競争のあとからちょっとおかしいぞ」

「おかしくない」

「声が低い」

「元からこんなもんだよ」

「……違う。なんか、いつもと違う」


 心臓が跳ねた。

 奏は鋭い。

 この男は他人の微細な変化を拾い上げる精度が異常に高い。

 声のトーン、姿勢の傾き、瞬きの間隔。

 奏のセンサーは常に稼働している。

 僕は意識的に声を上げた。

 妙子の音域に。

 高めに、柔らかく。


「疲れてるだけ。朝から走り回ってるし」

「水分摂れよ。救護テントに塩飴があるから取ってこい」


 奏はそれだけ言って、騎馬戦の配置図に目を移した。

 追及しない。

 いつもの奏。

 だが、横目でこちらを観察していることはわかっている。

 奏の視線は指紋のように残る。

 触れた場所が、じわりと温かくなる。


 ◇◆◇


 騎馬戦が始まった。


 男子の競技だ。

 僕は得点係としてテントの脇に立ち、ホワイトボードにスコアを書き込んでいく。

 校庭の中央で、騎馬がぶつかり合い、帽子を奪い合い、砂埃を上げている。

 征人が出ている。

 騎馬の上に立ち、長い腕で相手の帽子をさらう。

 動きが軽い。

 スポーツマンの反射神経と、人の隙を突く嗅覚(・・)が噛み合っている。

 味方の騎馬を盾にし、敵の死角から手を伸ばし、帽子を掠め取る。

 三枚。

 四枚。

 征人の手には奪った帽子が重なっていく。

 校庭に歓声が弾ける。

 「町田すげえ!」「最強じゃん!」


 征人はヒーローだ。


 体育祭という舞台の上で、征人は完璧に機能している。

 注目を集め、歓声を浴び、勝利に貢献する。

 彼の存在価値は「見られること」で成立する。

 スポットライトが当たっている限り、征人は輝く。

 暗闇では何も見えない男だが、光の中では誰よりも眩しい。

 僕とは正反対だ。

 僕は暗闇の中でしか存在できない。

 妙子の意識の奥、誰にも見えない場所。

 光が当たれば消える影。


 騎馬戦が終わった。

 征人のチームが勝った。

 征人は騎馬から飛び降り、友人たちとハイタッチした。

 汗に濡れた顔。

 白い歯。

 万能感に満ちた表情。

 その視線が、一瞬だけ僕の方を向いた。


 笑っていなかった。


 征人の目が言っている。

 借り物競争で何があったか、見ていたぞ。

 お前が国立を選んだことも、カードを隠したことも、全部見ていた。

 だが、征人は何も言わない。

 ここでは言わない。

 体育祭の最中に恋人を問い詰めるような野暮(・・)はしない。

 征人は舞台の上では完璧な役者だ。

 怒りも嫉妬も、幕が下りるまで仮面の裏に閉じ込めておける。

 その仮面が外れるのは、二人きりになったときだ。


 征人が視線を外し、友人グループに戻っていった。


 僕はホワイトボードのスコアを書き込みながら、指先が震えていることに気づいた。

 怒りではない。

 恐怖でもない。

 焦りだ。

 征人が動く。

 近いうちに。

 借り物競争の件を口実に、妙子を追い詰めにかかる。

 「なんで国立を選んだんだ」「俺のことどう思ってるんだ」「俺と国立、どっちが大事なんだ」。

 征人はそういう尋問(・・)を、甘い声で行う。

 妙子はそれに耐えられない。


 ◇◆◇


 午後の競技が全て終わった。


 閉会式までの空白の時間。

 生徒たちは各クラスのテントに戻り、水を飲み、スマホを触り、疲れた体を椅子に沈めている。

 六月の陽射しは容赦なく、校庭の空気は熱気と砂埃で白く濁っている。


 僕は救護テントの裏手で、一人になった。

 テントの布が風に揺れ、白い影が地面に揺らめいている。

 誰もいない。

 裏手は校舎の壁とテントに挟まれた狭い空間で、日陰になっている。

 ポケットからカードを取り出した。


 「好きな人」。


 手書きの、丸い文字。

 実行委員の誰かが書いたのだろう。

 ボールペンのインクが少し滲んでいる。

 借り物。

 借り物競争。

 僕は「好きな人」を借りた(・・・)。


 奏を借りた。


 だが、借りたものは返さなければならない。

 それが借り物のルールだ。

 使ったら返す。

 楽しんだら手放す。

 自分のものではないから。

 奏は僕のものではない。

 奏と過ごした時間も、奏と交わした言葉も、奏が見せた笑顔も。

 全部、借り物(・・・)だ。


 妙子の体と名前と時間を借りて、僕が作った関係。

 奏が友達だと感じた相手は、僕が消えればどこにもいなくなる。妙子がその対等さを引き継げる保証はない。


 名前も体も人生もない居候が、たった一人、信頼できる人間を見つけてしまった。


 カードを見つめる。

 紙の端が汗で丸まっている。


 奏を信頼している。


 計画のための駒だと理性で塗り固めてきた。

 だがカードを見た瞬間、計算より先に僕の足が奏へ向かった。


 こいつになら妙子を託せる。そう思ったから走った。


 僕自身の体があれば、奏の隣に友人として立てたかもしれない。

 だが、今立っているのは妙子の体の中だ。


「……馬鹿だな」


 声に出して呟いた。

 低い声。

 僕の声。

 妙子の声帯から出る、妙子のものではない音。


 カードを二つに折った。

 さらにもう一回。

 小さな四角形になったカードを、ポケットの奥に押し込んだ。


 これは僕だけの秘密だ。

 妙子にも、奏にも、誰にも渡さない。

 「好きな人」。たった四文字の借り物。僕は友情でカードに応えた。だが奏にそう説明することは、永遠にできない。


 ◇◆◇


 テントの表に戻ると、閉会式の準備が始まっていた。


 生徒たちが校庭に整列し始めている。

 奏は既に二年三組の列を整え、名簿のチェックをしていた。

 僕はその隣に並んだ。


「どこ行ってた」

「救護テント。塩飴もらってきた」

「……ちゃんと食えよ。倒れたら迷惑だ」


 奏の声は不機嫌そうだが、心配が滲んでいる。

 この男は感情を逆方向に表現する。

 気遣いを叱責で包む。

 優しさを不機嫌に偽装する。

 わかりにくいが、わかってしまえば透明だ。


「はい、これ」


 僕はポケットから塩飴をひとつ取り出し、奏に渡した。


「俺は要らない」

「疲れてるのは国立くんも同じでしょ。朝からずっと走り回ってたんだから」


 奏は黙って塩飴を受け取った。

 包装を剥がし、口に放り込む。


「しょっぱい」

「そりゃ塩飴だから」

「もっとうまいのないのか」

「贅沢言わない」


 こういう会話が、たまらなく好きだった。


 意味のない言葉の応酬。

 生産性ゼロの雑談。

 計画にも戦略にも繋がらない、ただの時間の浪費。

 だが、その浪費こそが、人間の関係を作るのだと知った。

 奏と過ごした時間の中で、一番大切だったのは学級委員の会議ではない。

 こういう、何でもない瞬間だ。

 塩飴を分け合うこと。

 コンビニのおにぎりを押し付けること。

 空を見上げて「綺麗だな」と言うこと。


 全部、借り物だ。


 僕の体ではない手で差し出した飴。

 僕の声ではない声で交わした会話。

 この温かさは全て、妙子という器を通して世界に触れているだけだ。

 器が割れれば、中身は蒸発する。

 それでも。

 借り物であっても、この瞬間は確かに存在した。

 奏の前で笑った時間。

 奏と肩を並べて歩いた距離。

 奏の目の中に映った僕の姿。

 たとえ全てが借り物でも、感じた感情だけは僕のものだ。


「豊島」


 奏が前を向いたまま、小さく言った。


「今日の借り物競争――」

「聞かないって言ったじゃん」

「聞かない。聞かないけど」


 奏が言葉を切った。

 校庭のスピーカーから閉会式の開始を告げるアナウンスが流れている。


「……ありがとな。俺を選んでくれて」


 僕は答えなかった。

 答えたら、声が震える。

 声が震えたら、奏に気づかれる。

 奏に気づかれたら、僕の仮面が剥がれる。


 ただ、小さく頷いた。

 奏はそれ以上何も言わず、列の先頭に歩いていった。


 校庭にチャイムが鳴り響く。

 閉会式が始まる。

 夕暮れが近い。

 空の色が変わり始めている。

 昼間の白い光が、少しずつオレンジに溶けていく。


 ポケットの奥で、四つ折りのカードが僕の太腿に触れている。

 「好きな人」。

 返却不能の借り物。僕が唯一、この世界で手に入れた信頼。


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