13話:凪の午後
体育祭が終わった。
閉会式が終わり、成績発表が読み上げられ、校庭に散らばったゴミを全校生徒で拾い集める。
テントが畳まれ、得点板が解体され、白いラインの上を何百もの足が踏んでいく。
祭りの残骸が片づけられていく過程は、どこか葬式に似ている。
二年三組は総合三位だった。
一位でも最下位でもない、中途半端な順位。
だが生徒たちは満足げだった。
汗と土にまみれた笑顔が、打ち上げへの期待に変わっていく。
打ち上げはファミリーレストランだった。
学校から徒歩十五分の、駅前の大型チェーン店。
放課後の五時から、クラスの半数以上が集まった。
制服に着替えた生徒たちがテーブルを繋げて陣取り、ドリンクバーのコップが林のように並ぶ。
騒がしい。
笑い声と弾ける炭酸と、スマホのシャッター音。
僕は端の席に座っていた。
窓際。
壁に背中をつけ、テーブルの角にドリンクバーのアイスティーを置いている。
周囲のクラスメイトは盛り上がっているが、僕の周りだけ少し空気が違う。
妙子は元々グループに入っていない。
クラスでの立ち位置は「いるけど見えない」。
学級委員として名前は知られているが、プライベートで絡む友人はいない。
征人との交際でかろうじて「彼氏がいる子」として認識されていたが、今日の征人は妙子に一度も声をかけていない。
奏が、僕の向かいに座った。
「端っこ好きだな、お前」
「見渡せるから」
「見渡して何がある」
「色々」
奏もドリンクバーのブラックコーヒーを手にしている。
十六歳のブラックコーヒー。
砂糖もミルクも入れない。
苦いものを苦いまま飲む。
奏らしいと思った。
二人は向かい合ったまま、騒がしいクラスメイトたちのほうへ顔を向けていた。
テーブルの中央では誰かがスマホで千五百の動画を再生し、「奏すげー!」「最後の追い上げ神だった!」と声が飛んでいる。
奏は聞こえないふりをしていた。
「今日、お疲れ」
「お互いにな」
短い労いの交換。
それだけで十分だった。
「借り物競争のお題、まだ教えてくれないのかよ」
奏が何気なく聞いた。
冗談めかしてはいるが、目の奥に本気の疑問がちらついている。
「教えない」
「なんで」
「教えたら面白くないから」
僕は笑った。
男同士の笑い方で。
ニヤリと。
挑発するような。
奏はその笑い方をじっと見ていた。
既視感を覚えているのだろう。
「豊島」が見せる表情の中に、女子高生らしくない何かを感じ取っている。
だが、それが何なのかは特定できない。
特定しようともしない。
奏は他人の領域を侵さない。
「……お前のその笑い方、ちょっと変だぞ」
「変?」
「なんていうか、男みたいっていうか」
心臓が跳ねた。
だが、表情は崩さなかった。
「よく言われる。サバサバしてるって」
「サバサバっていうのとも違うけど。……まあ、いいか」
奏はコーヒーを一口飲み、話題を変えた。
追及しない。
いつも通り。
「体育祭、終わったな」
「うん」
「学級委員の仕事、これでひと段落か」
「まあ、期末テスト対策の委員会がそのうち始まるけど」
「……勘弁してくれ」
奏の声に疲労が混じっていた。
それでも、嫌がっているわけではないことが声の奥でわかる。
委員会の仕事を通じて僕と過ごす時間が続くことを、奏は受け入れている。
むしろ、少しだけ安堵しているように見える。
テーブルの向こうで、征人が立ち上がった。
女子のグループの方に歩いていく。
隣のクラスの女子。
三組ではなく一組の子たちだ。
征人はその中の一人――ショートカットの活発そうな女子に声をかけ、何かを話し始めた。
女子が笑う。
征人も笑う。
肩に手を置く。
距離が近い。
僕はそれを見た。
妙子がここにいたら、心臓が止まるだろう。
自分の彼氏が、目の前で別の女子に馴れ馴れしくしている。
しかも打ち上げの場で。
クラスメイトの前で。
だが、今は僕が表に出ている。
僕は征人の行動を冷静に観察できる。
あれは宣言だ。
妙子に対して。
「お前はもう俺の興味の対象じゃない」という。
直接言わず、態度で示す。
征人のやり方だ。
追い詰めるときは言葉を使い、切り捨てるときは沈黙を使う。
「……豊島」
奏の声が、低く、静かに響いた。
「ん?」
「あいつ、町田だろ。隣のクラスの女子と話してるけど」
奏も見ていたのだ。
奏の目が細くなっている。
批判的な視線。
だが、口にはしない。
他人の恋愛に口を出すタイプではない。
「見えてる」
僕は短く答えた。
「……お前と付き合ってるんだよな。町田」
奏の声には確認の意思があった。
事実を確かめている。
判断のために。
「一応ね」
「一応って何だよ」
「そのうちわかるよ」
曖昧な答えだった。
だが、奏はそれ以上聞かなかった。
ただ、征人の方を一度だけ見て、それからコーヒーに視線を落とした。
奏の左手が、親指をぎゅっと握っていた。
何かを堪えている。
怒りか。
正義感か。
あるいは、もっと別の感情か。
◇◆◇
打ち上げが進み、席の移動が起きた。
女子のグループが固まったり散ったりし、男子が別のテーブルに移ったりする。
騒がしさの中で、僕と奏の周りだけが静かだった。
島のように。
喧騒の海に浮かぶ、小さな島。
「なあ」
奏が言った。
コーヒーの二杯目。
指先でカップの縁をなぞっている。
「昨日、体育祭が終わったら話したいことがあるって言っただろ」
「うん。覚えてる」
奏は少し黙った。
言葉を探している。
この男は大事なことを話すとき、必ず沈黙を挟む。
言葉を選ぶのではなく、言葉の重さを量っているのだ。
「俺は――人と仲良くなるのが下手だ。それは自覚してる」
奏の声は低く、周囲の騒がしさに紛れるか紛れないかの音量だった。
「小中学校で、まともに友達がいたことがない。正しいことを言えば嫌われるし、間違いを指摘すれば避けられる。それでいいと思ってた。正しさは孤独の代償だと」
奏が窓の外を見た。
夕方の空。
オレンジ色の光が、ファミレスのガラスを通して奏の横顔を照らしている。
「でも、お前と仕事してて、ちょっとだけわかった。正しさだけじゃ動かないものがある。俺が理屈で組み立てたプランを、お前が人の感覚で補正してくれた。リストの数字を合わせるだけじゃなくて、その裏にいる人間を見てた。俺にはそれができない。……お前に教わった」
僕は黙って聞いていた。
「だから」
奏がこちらを向いた。
夕日の逆光で、表情が影になっている。
だが、目の奥の光だけが見えた。
まっすぐで、誠実で、不器用な光。
「お前を、友達だと思ってる。……俺にとっての、最初の」
呼吸が止まった。
友達。
奏が僕を友達だと言った。
言葉は妙子の名前へ向けられた。だが、奏が友達だと感じたのは僕の思考や笑い方だ。
僕がいなくなれば、その友達もいなくなる。その事実が氷の刃のように胸を貫いた。
それでも。
「……ありがとう。私も、国立くんのこと、友達だと思ってる」
声が震えた。
僅かに。
気づかれないほど、僅かに。
だが奏は気づいた。
何かに気づいた。
声の震えか、目の奥の光か、あるいはもっと漠然とした何かに。
奏は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
◇◆◇
打ち上げが終わった。
ファミレスの前で、クラスメイトが三々五々帰っていく。
「じゃあね」「また来週」「CHAINするー」。
声が夕暮れの空気に溶けていく。
征人は先に帰っていた。
妙子に声をかけずに。
打ち上げの間、一度も妙子の席に来なかった。
隣のクラスの女子と笑い合い、友人グループと騒ぎ、それから「先帰るわ」と言って消えた。
妙子は奥に沈んだままだから、征人の不在に傷ついてはいない。
だが、もし妙子が表にいたら。
征人が自分を無視して他の女子と話している姿を見たら。
今はまだ、僕がその痛みを遮断できている。
だが、いつまでもは無理だ。
ファミレスを出て、奏と二人でいつもの道を歩いた。
今日は雨が降っていない。
空は夕焼けの残照で、薄い紫色に染まっている。
雲ひとつない。
風もない。
凪だ。
空気が止まっている。
湿気はあるが、不快ではない。
六月の終わりの、不思議に穏やかな夕暮れ。
「今日の空、綺麗だな」
奏が独り言のように言った。
空を見上げている。
奏が空の話をするのは珍しい。
この男は地面を見ている方が似合う。
足元の事実をひとつひとつ確認しながら歩く男。
だが、今日は空を見上げている。
のびやかに。
肩の力が抜けている。
「うん。綺麗」
僕も見上げた。
薄紫の空。
星はまだ見えない。
だが、間もなく一番星が光り始めるだろう。
このまま行けば、妙子を奏に託せる。
征人が妙子を捨てた後も、傍にいてくれる人間がいる。
ただし、奏が友達だと言ったのは僕だ。妙子がその関係を選び直せるかは、まだわからない。
そして選び直せたとき、僕の役目は終わる。
それでいいはずだ。
分かれ道が来た。
いつもの十字路。
「じゃあ、また来週」
「ああ」
奏が左の道へ。
僕が右の道へ。
「豊島」
奏が振り返った。
「今日、ありがとな。体育祭、お前のおかげで回った」
「お互いさまだよ」
奏は片手を上げて、歩き出した。
長い影が夕日に伸びている。
僕はその背中を見送りながら、空を見上げた。
雲ひとつない。
風もない。
凪のように穏やかな夕暮れ。
こんな日がずっと続けばいい。
だけど。
凪は嵐の前触れだと、僕は知っている。
空の端に、ほんのわずかに雲が生まれ始めていた。
西の空。
まだ小さい。
手のひらで隠せるほどの、灰色の点。
だが、それは明日には空を覆うだろう。
僕は目を閉じ、深く息を吸った。
夕暮れの空気が肺を満たす。
今日だけは。
この凪が続く、最後の日だから。
目を開けて、右の道を歩き出した。
妙子の足で。
僕の意志で。




