14話:亀裂
体育祭が終わって三日目。
世界が静かに壊れ始めた。
最初の兆候はCHAINだった。
妙子が征人に送った「おはよう」のメッセージ。
既読がつかない。
一時間経っても、二時間経っても。
学校に着いて、征人が教室の隅で友人と笑っているのを見た。
手にはスマホ。
画面を操作している。
明らかにスマホを触っている。
なのに、妙子のメッセージには既読がつかない。
意図的だ。
妙子はそれを肌で感じ取っている。
征人の空気が変わったことを。
体育祭の日から。
今日は妙子が表に出ている。
僕は内側から見守っている。
妙子のストレスが高まれば僕が代わるが、今の妙子は征人への不安を原動力にして、かろうじて表面に留まっている。
不安は彼女を沈めるのではなく、逆にしがみつかせる。
征人がいなくなるかもしれないという恐怖が、妙子を水面に押し上げている。
皮肉な話だ。
恐怖が彼女を生かしている。
一時間目の休み時間。
妙子は征人の席に向かった。
「征人くん、おはよう。……CHAIN、見てくれた?」
妙子の声は小さく、控えめで、相手の機嫌を窺う音量だった。
上目遣い。
肩を縮める姿勢。
全身で「怒らないで」と訴えている。
征人はスマホから目を上げなかった。
「ああ、ごめん。忙しくて」
忙しくて。
三文字の壁。
それだけを妙子に投げて、征人は再びスマホの画面に目を落とした。
周囲の友人が気まずそうに視線を外す。
征人の態度変化は、クラスの中でも感じ取れるレベルになりつつある。
妙子は数秒間、征人の横に立っていた。
それから、自分の席に戻った。
戻る途中で、一度だけ振り返った。
征人はこちらを見ていなかった。
妙子が席に着いたとき、その目が赤くなっていた。
泣いてはいない。
泣くほどの明確な出来事はない。
ただ、「見てもらえなかった」という事実が、彼女の目を赤くしている。
こんなに小さなことで傷つく。
こんなに簡単に壊れかける。
僕は妙子の内側で、歯を食いしばった。
計画では、征人が離れていくことは想定内だった。
征人が妙子を捨てる前に、奏という支えを用意する。
それが僕のプランだ。
だが、現実は計画通りに動かない。
征人が妙子に冷たくなればなるほど、妙子は征人にしがみつこうとする。
離れるのではなく、すがりつく。
鎖が締まるほど、犬はより強く飼い主に甘える。
これはDVの構造そのものだ。
楓都のときと同じ。
暴力を振るわれるほど、「もっと良い子になれば愛してもらえる」と思い込む。
妙子は学習しない。
学習するだけの自己肯定感が、彼女には残っていない。
計画通りに征人から離れるためには、妙子自身が「離れよう」と思わなければならない。
だが、妙子はその逆の方向に走っている。
征人に見捨てられる恐怖が、より強い依存を生んでいる。
僕は焦り始めていた。
◇◆◇
昼休み。
妙子はまだ表にいた。
征人が教室にいないことを確認し、スマホを開いた。
CHAINのトーク画面。
朝の「おはよう」にはまだ既読がついていない。
その下に新しいメッセージを打つ。
「今日の放課後、少しだけ会えないかな」
送信。
既読は三十分後についた。
返信は来なかった。
妙子はスマホを握りしめたまま、机に突っ伏した。
顔を腕で隠している。
泣いているのかもしれない。
肩が微かに震えている。
周囲のクラスメイトは気づいていない。
いや、気づいていても声をかけない。
妙子は「声をかけにくい子」だ。
征人と付き合っていることで奇妙な距離が生まれ、征人の友人グループにも妙子のクラス内の友人にも属さない浮き草のような存在になっていた。
僕は妙子の内側から、彼女の涙を感じていた。
液体の塩分が瞼の裏に溜まっていく感覚。
喉の奥が詰まる感覚。
鼻の奥が痛む感覚。
全部、僕にも伝わる。
同じ体だから。
代わってやりたい。
今すぐ表に出て、CHAINを閉じて、妙子の涙を止めて、「あんな男は忘れろ」と言ってやりたい。
だが、できない。
妙子が表に出ている間は、僕は介入できない。
妙子が自分から引っ込むか、限界を超えて意識を手放すか。
そのどちらかが起きなければ、僕は出られない。
そして今の妙子は、征人への執着が限界を超えることを阻んでいる。
しがみつくことが彼女を表面に留めているのだ。
矛盾。
征人への依存が僕への切り替えを阻み、僕が介入できないから征人への依存が深まる。
悪循環の輪が、きゅるきゅると音を立てて回っている。
◇◆◇
五時間目が始まる前。
妙子がトイレに行った。
個室に入り、便座に座ったまま動かない。
用を足すためではない。
一人になりたいのだ。
個室のドアを閉め、狭い空間に閉じこもる。
鉄の箱。
自意識の避難所。
スマホを開く。
征人のSNSを見る。
征人が三十分前に投稿していた。
写真。
昼休みの教室で友人と撮った自撮り。
笑顔。
ピースサイン。
コメント欄には女子からのリアクションが並んでいる。
征人はスマホを触れる状態にある。
SNSに投稿する余裕もある。
なのに、妙子のCHAINには返信しない。
その事実が、妙子の胸を刺した。
トイレの個室で、妙子は声を殺して泣いた。
僕はその涙を受け止めながら、何もできずにいた。
◇◆◇
放課後。
妙子の意識がぐらついた。
五時間目の数学の授業中、集中力が続かなくなり、視界がぼやけ始めた。
征人のことばかり考えて、教師の声が水の中のように歪んで聞こえる。
六時間目が終わる頃、妙子の意識が沈み始めた。
ゆっくりと。
疲労と不安に押しつぶされて、意識の水面が下がっていく。
僕が表に出た。
教室にはまだ数人の生徒が残っている。
帰り支度をしながら雑談をしている。
奏は今日、委員会の会議で別の教室にいる。
僕は妙子の鞄をまとめ、教室を出た。
廊下に出たところで、鞄の中のスマホが震えた。
征人からかもしれない。
一瞬、そう思った。
妙子の期待が、僕の指先にまで残っている。
違った。
クラスのグループCHAINだった。
二年三組、三十二人。
普段は提出物の連絡と、誰かの誕生日を祝うスタンプくらいしか流れない場所。
画面の一番下に、スタンプがひとつ貼られていた。
赤いタコ。
八本の足をくねらせて、とぼけた顔で笑っている。
その下に、一行。
『豊島さんの腕ってこれ?』
送り主は、征人とよくつるんでいる男子だった。
既読の数字が、見ている間に増えていく。
十二。
十五。
十九。
笑い転げる顔のスタンプがひとつ、続いた。
アイコンは、征人だった。
二十三。
そして、三つとも消えた。
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
十秒にも満たなかった。
画面には、灰色の文字が三行だけ残った。
何が送られ、誰が笑い、何人が見たのか。
その全部を、灰色の三行が上から塗りつぶしている。
僕は廊下の真ん中で立ち止まったまま、画面を見下ろしていた。
怒りはとっくに通り越していた。
体育祭の前、踊り場で初めてこの手の笑い声を聞いたときは激昂した。
今度は、声すらなかった。
スタンプひとつと、十秒と、取り消し。
教室の外で交わされていた嘲笑が、妙子のスマホの中まで入り込んできた。
消せば、なかったことになる。
そう信じている指が、少なくとも二十三人の目の前に、妙子の傷を貼り出した。
征人は止めなかった。
止めるどころか、笑い転げる顔を貼った。
自分の彼女の体の傷がクラス中に晒されるのを、笑って見ていた。
冷たい確信だけが残った。
征人は変わらない。
変わる可能性がない。
この男は妙子を人間として見ていない。
見る能力がない。
妙子の傷は彼にとって笑いの種であり、妙子の存在は「飽きた」で処分される消耗品だ。
だが、問題はそこではない。
問題は、妙子がまだこの男にすがっていることだ。
妙子が次にこの画面を開いても、残っているのは灰色の三行だけだ。
何が消されたのか、妙子は知らない。
征人が自分の傷を笑い者にしたことを知らない。
知っていれば、さすがに目が覚めるかもしれない。
だが、僕はそれを妙子に伝えることができない。
僕と妙子は直接会話ができない。
僕が知っていることを妙子に伝える手段がない。
いや、ひとつだけある。
僕が表に出ている間にメモを残す。
手紙を書く。
「征人はお前のことをこう言っている」と。
だが、それは――
それは、妙子を直接傷つけることだ。
今、征人の嘲笑を突きつければ、妙子は壊れる。
壊した後に立て直せる保証はない。奏との関係は「僕」が築いたもので、妙子が頼れるかはまだわからない。
賭けに出るには早すぎた。
背後で教室の扉が開き、誰かの笑い声がこぼれた。
さっきの画面と関係があるのかどうか、わからない。
わからないことが、もう怖かった。
僕はスマホを鞄の底に押し込み、下駄箱の方へ歩き出した。
廊下の角を曲がったところで、奏とぶつかりそうになった。
「うわ」
「……豊島か。大丈夫か?」
奏が僕の顔を覗き込んだ。
心配の色が浮かんでいる。
「顔色悪いぞ。また」
「大丈夫。ちょっと、考え事してただけ」
嘘だ。
顔色が悪いのは本当だろう。
妙子の体はストレスを正直に反映する。
血色が落ち、目の下に隈ができ、唇の色が薄くなる。
僕が表に出ても、体は妙子のものだ。
妙子の疲弊は、僕の表情にも現れる。
「会議終わったの?」
「ああ。長かった。……お前こそ、こんなところで何してる?」
廊下の真ん中。
スマホを握ったまま、どれくらい立ち止まっていたのかわからない。
グループの通知は、奏のスマホにも届いているはずだ。灰色の三行だけが。
「帰ろうとしてた。一緒に帰る?」
「ああ」
奏は短く答えて、並んで歩き出した。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。
今日は曇り空だが、雨は降っていない。
湿った風が頬を撫でる。
二人で黙って歩いた。
奏は何も聞かなかった。
僕の顔色の悪さも、廊下で立ち尽くしていた理由も、追及しなかった。
ただ、いつもより少しだけ歩幅を狭くして、僕のペースに合わせていた。
分かれ道の手前で、奏が口を開いた。
「豊島。無理すんなよ」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
「……うん。ありがとう」
信号が変わる。
奏が左へ。
僕が右へ。
一人になった途端、体が重くなった。
奏がいる間は気づかなかった重力が、一気にのしかかってくる。
妙子の体が限界を訴えている。
食事が足りていない。
睡眠が足りていない。
征人へのストレスが体力を削っている。
マンションに帰り着いた。
エレベーター。
五階。
暗い部屋。
母親は不在。
妙子の体をベッドに横たえ、天井を見上げた。
亀裂が走っている。
計画に。
関係に。
妙子の心に。
征人が離れるほど、妙子は強くすがっている。振り落とされるのは時間の問題だ。
そのとき奏との間に残るのが、僕の友情だけなら、妙子の受け皿にはならない。
僕は保証のない賭けに、妙子の人生を懸けている。
天井の染みが、暗闇の中で広がっていく。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
梅雨の湿気が染みの輪郭を滲ませ、元の形がわからなくなっている。
亀裂は、天井にも走っている。




