15話:毒の言葉
遅効性の毒は、飲んだ瞬間には痛まない。
少しずつ体に入り込み、本人すら気づかないまま、内側を腐らせていく。
征人の言葉は、それだ。
◇◆◇
放課後。
校舎裏の駐輪場。
妙子が呼び出された。
征人からのCHAIN。
「放課後、話がある。
校舎裏」。
三日間のほぼ完全な無視の後に来た、初めてのメッセージだった。
妙子は飛びつくようにスマホを握りしめ、放課後のチャイムと同時に教室を飛び出した。
今日も妙子が表に出ている。
征人から連絡が来たことで、彼女の中に希望の火が灯った。
「征人くんが話してくれる」。
その事実だけで、妙子の世界は一瞬で明るくなった。
僕は内側から見ている。
嫌な予感がしていた。
征人がわざわざ呼び出すとき、それは妙子のためではない。
征人のためだ。
自分の都合を通すために、場所を選び、二人きりの空間を作る。
駐輪場は放課後、人気がなくなる。
帰宅する生徒は正門から出るし、部活の生徒は校庭やグラウンドにいる。
駐輪場は校舎の裏手にあり、死角が多い。
監視カメラもない。
征人はそういう場所の選び方を知っている。
妙子は駐輪場の入口で立ち止まった。
征人がいる。
自転車の間に立ち、壁にもたれている。
スマホをいじりながら。
「征人くん」
妙子の声が弾んでいた。
三日ぶりに征人の姿を間近で見て、顔が紅潮している。
唇が柔らかく開き、目が輝いている。
嬉しい。
ただそれだけ。
嬉しい。
征人が顔を上げた。
笑っていなかった。
目が冷えている。
口元は真一文字に結ばれている。
「ちょっと、こっち来て」
征人が駐輪場の奥に歩き出した。
妙子はその後をついていく。
自転車の列を抜け、校舎の壁に挟まれた薄暗い一角。
コンクリートの壁に排水管が這い、地面には日が当たらないため苔が生えている。
「あの、征人くん……最近、忙しかった?」
妙子は笑顔を作ろうとしていた。
だが、征人の表情を見て、笑顔が固まった。
「忙しいっつーか」
征人が壁にもたれ、腕を組んだ。
上から見下ろす姿勢。
妙子は征人より十五センチほど背が低い。
見上げるしかない。
「体育祭の借り物競争。お前、あれ何だったの」
声が平坦だった。
怒っているのではない。
もっと悪い。
冷えている。
感情を計算の下に置いている声。
「借り物……?」
「お前、国立のとこに走っていったろ。お題、何だったんだ」
妙子は混乱していた。
借り物競争のとき、妙子は表に出ていなかった。
僕が走ったのだ。
妙子にはその記憶がない。
ぼんやりとした断片しか残っていない。
体育祭の後、クラスメイトが「豊島と国立くん、借り物競争で一緒に走ってたね」と言っていたのを聞いて、初めて知った。
何が起きたのかわからないまま、曖昧に笑って流した。
「えっと……あの、よく覚えてなくて……」
「覚えてない? みんなの前で国立と手繋いで走ったの、覚えてないの?」
征人の声が一段低くなった。
「手繋いで」は事実と違う。
僕は奏の腕を掴んだだけだ。
だが、征人の中では「手を繋いだ」に変換されている。
嫉妬が事実を歪めている。
「て、手は繋いでないと思う……国立くんに用があって――」
「用って何」
征人が壁から体を起こした。
半歩、妙子に近づく。
距離が詰まった。
妙子の背後には自転車の列があり、後ろに下がれない。
「用って何だよ、妙子。あいつと何かあんの?」
「何も。何もないよ。学級委員の仕事で――」
「仕事ねえ」
征人が小さく溜め息をついた。
芝居がかった、心配そうな溜め息。
「なあ、俺はさ、お前のこと考えてるから言ってんだよ?」
空気が変わった。
征人の言葉は、心配の形をしていた。
だが、その中身は断定だった。
「お前には俺しかいない」という断定。
妙子の自己肯定感の最も薄い部分を、優しさで包んだ刃物で撃ち抜く言葉。
妙子は言葉に詰まった。
目が泳ぐ。
反論しようとして、できない。
反論する言葉が見つからない。
「そんなことない」と言えない。
なぜなら、妙子自身がそう思っているからだ。
征人以外に自分を好きになってくれる人はいない。
自分は価値のない人間だ。
その傷を最初につけたのは楓都で、征人はその傷口を正確に突いている。
「俺、ちょっと心配してんだよな。お前、友達少ないじゃん。家のこともあるし。……俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの?」
妙子の目に涙が浮かんだ。
反論できない。
否定できない。
心配の形をしているから、余計に刺さる。
征人の言葉が正しいと、妙子の心が認めてしまっている。
僕は妙子の内側で叫んでいた。
違う。
違う。
お前は一人じゃない。
奏がいる。
奏がお前を友達だと言ってくれた。
お前には価値がある。
征人の言葉は嘘だ。
お前を支配するための嘘だ。
だが、声は届かない。
僕の叫びは妙子には聞こえない。
「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」
征人が妙子の左腕を指した。
長袖の下に隠れている火傷の跡。
楓都がつけた傷。
妙子が最も恥じている身体の部位。
妙子が左腕を反射的に抱きしめた。
右手で左腕を覆い、体を縮める。
征人に見せた覚えはない。
体育祭の練習の日に、袖がまくれてしまっただけだ。
自分から見せたわけではない。
「俺はあの傷、別に気にしてないよ。でもさ、他の奴に見られたらどうする? 国立に見られたら? 引かれるよ。絶対」
征人の声は、ここで柔らかくなった。
急に。
さっきまでの冷たさが消え、「心配してるんだよ」という温度に変わる。
アメとムチ。
暴力の後の優しさ。
楓都と同じパターンだ。
殴ってから撫でる。
怯えさせてから安心させる。
僕は妙子の内側で拳を握った。
存在しない拳を。
お前は楓都と同じだ。
征人。
手法が違うだけで、やっていることは同じだ。
殴る代わりに言葉で殴る。
焼く代わりに心を焼く。
妙子の自己肯定感を削り、自分なしでは生きていけない状態を作り上げ、そこに「俺がいるから大丈夫」と差し出す。
支配の完成形。
「だから、さ」
征人が妙子の肩に手を置いた。
優しく。
いたわるように。
「お前のために言ってるんだ」という姿勢で。
「今度の週末、二人で出かけよう。ちゃんと話したいし」
妙子は涙を拭きながら、征人の顔を見上げた。
不安と安堵が混じった目。
「捨てられないかもしれない」という希望が、瞳の中で揺れている。
「本当……? 征人くん、私のこと、嫌いになったんじゃ――」
「嫌いなわけないじゃん」
嘘だ。
「ただ、ちょっと寂しかったんだよ。お前が国立ばっかりと一緒にいるから」
嘘だ。
「だから、週末はちゃんと二人の時間作ろう。な?」
嘘だ。
全部嘘だ。
だが妙子は信じた。
信じたかった。
征人が自分を好きだと、自分を必要としていると、信じたかった。
「……うん。行く。行きたい」
妙子が小さく頷いた。
涙が頬を伝っている。
それでも笑おうとしている。
征人のために。
征人に嫌われないために。
征人は満足そうに頷いた。
「じゃ、土曜日。昼から。詳しくはCHAINする」
征人が妙子の頭を軽く撫で、スマホを取り出しながら駐輪場を出ていった。
振り返りもしない。
用事が済んだ顔。
妙子は一人、駐輪場の奥に残された。
◇◆◇
妙子が帰り道を歩いている。
夕方の住宅街。
影が長い。
征人と話せた嬉しさと、征人の言葉の痛みが、体の中で混ざり合っている。
嬉しいのか悲しいのかわからない。
征人が「嫌いなわけない」と言ってくれた。
でも、「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」とも言った。
どちらが本当か。
どちらも本当なのか。
妙子の思考はぐるぐると回り、出口を見つけられない。
僕は内側で、静かに崩壊していた。
介入できなかった。
妙子が表にいる間、僕は何もできなかった。
征人の毒が妙子の心に注入されていくのを、ただ見ていた。
叫んでも届かない。
拳を振っても空気を打つだけ。
ガラスの壁の向こうで妙子が傷つけられていくのを、僕は見ていることしかできなかった。
征人の言葉はひとつひとつが的確だった。
妙子の弱点を知り尽くしているかのように。
自己肯定感の欠如。
孤立感。
火傷跡への羞恥。
全てを的確に突き、「だから俺が必要だろう」と結論づける。
論理的には穴だらけの暴論だが、感情的には完璧な支配のロジックだ。
そして、妙子はそれに従った。
従ってしまった。
週末の「二人で出かけよう」。
征人が何を企んでいるのか。
妙子への最後通牒なのか、支配の確認なのか、それとも本当に「ケリをつける」つもりなのか。
嫌な予感がする。
征人が場所と時間を指定するとき、それは征人のシナリオに従わせるためだ。
征人は自分の得意なフィールドで、自分のペースで物事を進める。
二人きりの場所。
妙子が逃げられない場所。
何をするつもりだ。
妙子の足がマンションのエントランスに着いた。
自動ドアが開く。
エレベーターのボタンを押す。
五階。
部屋に入ると、今日も暗い。
母親はいない。
台所のシンクに、洗っていない食器が積み重なっている。
冷蔵庫には何も入っていない。
妙子がシャワーを浴び、パジャマに着替え、ベッドに横たわる。
征人のCHAINを開いて、「今日はありがとう。
土曜日、楽しみにしてるね」と送った。
既読はすぐについた。
返信は、ハートのスタンプひとつ。
妙子はそれを見て、安心して目を閉じた。
彼女が眠りに落ちるのを、僕は待った。
呼吸が深くなる。
体の力が抜ける。
意識が沈んでいく。
妙子が眠った。
僕が浮上する。
暗い部屋。
天井の染み。
エアコンの音。
起き上がった。
洗面台で顔を洗う。
鏡に映る妙子の顔。
目の下に深い隈。
頬がこけ始めている。
唇は乾いて割れている。
この数日で、妙子の体は明らかに消耗している。
食事を取っていない。
食べる気力がない。
征人のことで頭がいっぱいで、空腹の信号が脳に届いていない。
僕が表に出ている間に食べさせようとしても、妙子の胃は受け付けない。
ストレスで胃壁が炎症を起こしている。
台所に行き、冷蔵庫を開けた。
ヨーグルトの残りと水。
それだけ。
ヨーグルトを匙ですくい、口に入れた。
酸っぱい。
賞味期限が切れている。
だが、何も食べないよりマシだ。
食べながら、考えた。
征人の言葉が、妙子の中にどれだけの毒を残したか。
「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」。
「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」。
あの言葉は楓都の言葉と同じだ。
「お前なんか誰も要らない」「俺がいなかったらお前はゴミだ」。
形は違うが、構造は同じ。
対象の自己肯定感を破壊し、自分以外に価値のある人間はいないと思い込ませる。
楓都は拳で支配した。
征人は言葉で支配する。
どちらが残酷か。
僕には、後者のほうが残酷だと思えた。
拳の傷は治る。
言葉の傷は心に残る。
週末。
土曜日。
征人が妙子に何をするつもりなのかはわからない。
だが、放置はできない。
妙子が表に出ている限り、僕は介入できない。
だが、妙子のストレスが限界を超えれば、僕に切り替わる。
その瞬間を待つしかないのか。
妙子が壊れかけるのを、待つしかないのか。
それは――妙子の痛みを利用するということだ。
嫌だ。
そんなことはしたくない。
だが、他に方法がない。
ヨーグルトの容器を流しに置いた。
匙を洗う水の音が、暗い台所に響く。
征人。
お前が妙子にこれ以上毒を注ぐなら。
僕は、全力でお前から妙子を引き剥がす。
手段を選ばず。
天井の染みが、闇の中で広がっていた。
亀裂ではない。
もう、侵食だ。




