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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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15/21

15話:毒の言葉

 遅効性の毒は、飲んだ瞬間には痛まない。

 少しずつ体に入り込み、本人すら気づかないまま、内側を腐らせていく。


 征人の言葉は、それだ。


 ◇◆◇


 放課後。

 校舎裏の駐輪場。


 妙子が呼び出された。

 征人からのCHAIN。

 「放課後、話がある。

 校舎裏」。

 三日間のほぼ完全な無視の後に来た、初めてのメッセージだった。

 妙子は飛びつくようにスマホを握りしめ、放課後のチャイムと同時に教室を飛び出した。


 今日も妙子が表に出ている。

 征人から連絡が来たことで、彼女の中に希望の火が灯った。

 「征人くんが話してくれる」。

 その事実だけで、妙子の世界は一瞬で明るくなった。


 僕は内側から見ている。

 嫌な予感がしていた。

 征人がわざわざ呼び出すとき、それは妙子のためではない。

 征人のためだ。

 自分の都合を通すために、場所を選び、二人きりの空間を作る。


 駐輪場は放課後、人気がなくなる。

 帰宅する生徒は正門から出るし、部活の生徒は校庭やグラウンドにいる。

 駐輪場は校舎の裏手にあり、死角が多い。

 監視カメラもない。

 征人はそういう場所の選び方を知っている。


 妙子は駐輪場の入口で立ち止まった。

 征人がいる。

 自転車の間に立ち、壁にもたれている。

 スマホをいじりながら。


「征人くん」


 妙子の声が弾んでいた。

 三日ぶりに征人の姿を間近で見て、顔が紅潮している。

 唇が柔らかく開き、目が輝いている。

 嬉しい。

 ただそれだけ。

 嬉しい。


 征人が顔を上げた。

 笑っていなかった。

 目が冷えている。

 口元は真一文字に結ばれている。


「ちょっと、こっち来て」


 征人が駐輪場の奥に歩き出した。

 妙子はその後をついていく。

 自転車の列を抜け、校舎の壁に挟まれた薄暗い一角。

 コンクリートの壁に排水管が這い、地面には日が当たらないため苔が生えている。


「あの、征人くん……最近、忙しかった?」


 妙子は笑顔を作ろうとしていた。

 だが、征人の表情を見て、笑顔が固まった。


「忙しいっつーか」


 征人が壁にもたれ、腕を組んだ。

 上から見下ろす姿勢。

 妙子は征人より十五センチほど背が低い。

 見上げるしかない。


「体育祭の借り物競争。お前、あれ何だったの」


 声が平坦だった。

 怒っているのではない。

 もっと悪い。

 冷えている。

 感情を計算の下に置いている声。


「借り物……?」

「お前、国立のとこに走っていったろ。お題、何だったんだ」


 妙子は混乱していた。

 借り物競争のとき、妙子は表に出ていなかった。

 僕が走ったのだ。

 妙子にはその記憶がない。

 ぼんやりとした断片しか残っていない。

 体育祭の後、クラスメイトが「豊島と国立くん、借り物競争で一緒に走ってたね」と言っていたのを聞いて、初めて知った。

 何が起きたのかわからないまま、曖昧に笑って流した。


「えっと……あの、よく覚えてなくて……」

「覚えてない? みんなの前で国立と手繋いで走ったの、覚えてないの?」


 征人の声が一段低くなった。

 「手繋いで」は事実と違う。

 僕は奏の腕を掴んだだけだ。

 だが、征人の中では「手を繋いだ」に変換されている。

 嫉妬が事実を歪めている。


「て、手は繋いでないと思う……国立くんに用があって――」

「用って何」


 征人が壁から体を起こした。

 半歩、妙子に近づく。

 距離が詰まった。

 妙子の背後には自転車の列があり、後ろに下がれない。


「用って何だよ、妙子。あいつと何かあんの?」

「何も。何もないよ。学級委員の仕事で――」

「仕事ねえ」


 征人が小さく溜め息をついた。

 芝居がかった、心配そうな溜め息。


「なあ、俺はさ、お前のこと考えてるから言ってんだよ?」


 空気が変わった。


 征人の言葉は、心配の形をしていた。

 だが、その中身は断定だった。

 「お前には俺しかいない」という断定。

 妙子の自己肯定感の最も薄い部分を、優しさで包んだ刃物で撃ち抜く言葉。


 妙子は言葉に詰まった。

 目が泳ぐ。

 反論しようとして、できない。

 反論する言葉が見つからない。

 「そんなことない」と言えない。

 なぜなら、妙子自身がそう思っているからだ。

 征人以外に自分を好きになってくれる人はいない。

 自分は価値のない人間だ。

 その傷を最初につけたのは楓都で、征人はその傷口を正確に突いている。


「俺、ちょっと心配してんだよな。お前、友達少ないじゃん。家のこともあるし。……俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの?」


 妙子の目に涙が浮かんだ。

 反論できない。

 否定できない。

 心配の形をしているから、余計に刺さる。

 征人の言葉が正しいと、妙子の心が認めてしまっている。


 僕は妙子の内側で叫んでいた。


 違う。

 違う。

 お前は一人じゃない。

 奏がいる。

 奏がお前を友達だと言ってくれた。

 お前には価値がある。

 征人の言葉は嘘だ。

 お前を支配するための嘘だ。


 だが、声は届かない。

 僕の叫びは妙子には聞こえない。


「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」


 征人が妙子の左腕を指した。

 長袖の下に隠れている火傷の跡。

 楓都がつけた傷。

 妙子が最も恥じている身体の部位。


 妙子が左腕を反射的に抱きしめた。

 右手で左腕を覆い、体を縮める。

 征人に見せた覚えはない。

 体育祭の練習の日に、袖がまくれてしまっただけだ。

 自分から見せたわけではない。


「俺はあの傷、別に気にしてないよ。でもさ、他の奴に見られたらどうする? 国立に見られたら? 引かれるよ。絶対」


 征人の声は、ここで柔らかくなった。

 急に。

 さっきまでの冷たさが消え、「心配してるんだよ」という温度に変わる。

 アメとムチ。

 暴力の後の優しさ。

 楓都と同じパターンだ。

 殴ってから撫でる。

 怯えさせてから安心させる。


 僕は妙子の内側で拳を握った。

 存在しない拳を。


 お前は楓都と同じだ。

 征人。

 手法が違うだけで、やっていることは同じだ。

 殴る代わりに言葉で殴る。

 焼く代わりに心を焼く。

 妙子の自己肯定感を削り、自分なしでは生きていけない状態を作り上げ、そこに「俺がいるから大丈夫」と差し出す。


 支配の完成形。


「だから、さ」


 征人が妙子の肩に手を置いた。

 優しく。

 いたわるように。

 「お前のために言ってるんだ」という姿勢で。


「今度の週末、二人で出かけよう。ちゃんと話したいし」


 妙子は涙を拭きながら、征人の顔を見上げた。

 不安と安堵が混じった目。

 「捨てられないかもしれない」という希望が、瞳の中で揺れている。


「本当……? 征人くん、私のこと、嫌いになったんじゃ――」

「嫌いなわけないじゃん」


 嘘だ。


「ただ、ちょっと寂しかったんだよ。お前が国立ばっかりと一緒にいるから」


 嘘だ。


「だから、週末はちゃんと二人の時間作ろう。な?」


 嘘だ。

 全部嘘だ。


 だが妙子は信じた。

 信じたかった。

 征人が自分を好きだと、自分を必要としていると、信じたかった。


「……うん。行く。行きたい」


 妙子が小さく頷いた。

 涙が頬を伝っている。

 それでも笑おうとしている。

 征人のために。

 征人に嫌われないために。


 征人は満足そうに頷いた。


「じゃ、土曜日。昼から。詳しくはCHAINする」


 征人が妙子の頭を軽く撫で、スマホを取り出しながら駐輪場を出ていった。

 振り返りもしない。

 用事が済んだ顔。


 妙子は一人、駐輪場の奥に残された。


 ◇◆◇


 妙子が帰り道を歩いている。

 夕方の住宅街。

 影が長い。


 征人と話せた嬉しさと、征人の言葉の痛みが、体の中で混ざり合っている。

 嬉しいのか悲しいのかわからない。

 征人が「嫌いなわけない」と言ってくれた。

 でも、「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」とも言った。

 どちらが本当か。

 どちらも本当なのか。


 妙子の思考はぐるぐると回り、出口を見つけられない。


 僕は内側で、静かに崩壊していた。


 介入できなかった。

 妙子が表にいる間、僕は何もできなかった。

 征人の毒が妙子の心に注入されていくのを、ただ見ていた。

 叫んでも届かない。

 拳を振っても空気を打つだけ。

 ガラスの壁の向こうで妙子が傷つけられていくのを、僕は見ていることしかできなかった。


 征人の言葉はひとつひとつが的確だった。

 妙子の弱点を知り尽くしているかのように。

 自己肯定感の欠如。

 孤立感。

 火傷跡への羞恥。

 全てを的確に突き、「だから俺が必要だろう」と結論づける。

 論理的には穴だらけの暴論だが、感情的には完璧な支配のロジックだ。


 そして、妙子はそれに従った。

 従ってしまった。


 週末の「二人で出かけよう」。

 征人が何を企んでいるのか。

 妙子への最後通牒なのか、支配の確認なのか、それとも本当に「ケリをつける」つもりなのか。


 嫌な予感がする。

 征人が場所と時間を指定するとき、それは征人のシナリオに従わせるためだ。

 征人は自分の得意なフィールドで、自分のペースで物事を進める。

 二人きりの場所。

 妙子が逃げられない場所。

 何をするつもりだ。


 妙子の足がマンションのエントランスに着いた。

 自動ドアが開く。

 エレベーターのボタンを押す。

 五階。


 部屋に入ると、今日も暗い。

 母親はいない。

 台所のシンクに、洗っていない食器が積み重なっている。

 冷蔵庫には何も入っていない。


 妙子がシャワーを浴び、パジャマに着替え、ベッドに横たわる。

 征人のCHAINを開いて、「今日はありがとう。

 土曜日、楽しみにしてるね」と送った。

 既読はすぐについた。

 返信は、ハートのスタンプひとつ。


 妙子はそれを見て、安心して目を閉じた。


 彼女が眠りに落ちるのを、僕は待った。

 呼吸が深くなる。

 体の力が抜ける。

 意識が沈んでいく。


 妙子が眠った。


 僕が浮上する。

 暗い部屋。

 天井の染み。

 エアコンの音。


 起き上がった。

 洗面台で顔を洗う。

 鏡に映る妙子の顔。

 目の下に深い隈。

 頬がこけ始めている。

 唇は乾いて割れている。


 この数日で、妙子の体は明らかに消耗している。

 食事を取っていない。

 食べる気力がない。

 征人のことで頭がいっぱいで、空腹の信号が脳に届いていない。

 僕が表に出ている間に食べさせようとしても、妙子の胃は受け付けない。

 ストレスで胃壁が炎症を起こしている。


 台所に行き、冷蔵庫を開けた。

 ヨーグルトの残りと水。

 それだけ。

 ヨーグルトを匙ですくい、口に入れた。

 酸っぱい。

 賞味期限が切れている。

 だが、何も食べないよりマシだ。


 食べながら、考えた。


 征人の言葉が、妙子の中にどれだけの毒を残したか。

 「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」。

 「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」。

 あの言葉は楓都の言葉と同じだ。

 「お前なんか誰も要らない」「俺がいなかったらお前はゴミだ」。

 形は違うが、構造は同じ。

 対象の自己肯定感を破壊し、自分以外に価値のある人間はいないと思い込ませる。


 楓都は拳で支配した。

 征人は言葉で支配する。

 どちらが残酷か。

 僕には、後者のほうが残酷だと思えた。

 拳の傷は治る。

 言葉の傷は心に残る。


 週末。

 土曜日。

 征人が妙子に何をするつもりなのかはわからない。

 だが、放置はできない。


 妙子が表に出ている限り、僕は介入できない。

 だが、妙子のストレスが限界を超えれば、僕に切り替わる。

 その瞬間を待つしかないのか。

 妙子が壊れかけるのを、待つしかないのか。


 それは――妙子の痛みを利用するということだ。


 嫌だ。

 そんなことはしたくない。

 だが、他に方法がない。


 ヨーグルトの容器を流しに置いた。

 匙を洗う水の音が、暗い台所に響く。


 征人。

 お前が妙子にこれ以上毒を注ぐなら。

 僕は、全力でお前から妙子を引き剥がす。


 手段を選ばず。


 天井の染みが、闇の中で広がっていた。

 亀裂ではない。

 もう、侵食だ。


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