16話:檻
土曜日が来た。
七月最初の週末。
空は曇っていたが、雨は降っていなかった。
湿った風が窓の隙間から入り込み、カーテンを揺らしている。
妙子は朝六時に目を覚ました。
普段より二時間も早い。
征人とのデートが楽しみで眠れなかったのだ。
ベッドの上に座り、スマホを開く。
征人からのCHAIN。
昨夜来たメッセージ。
「明日12時。南口の改札前」
それだけ。
場所も、何をするかも書いていない。
征人のスタイルだ。
情報を与えない。
妙子を従属的な立場に置き、自分のペースで動かす。
「何するの?」と聞けば「着いてからのお楽しみ」と返ってくる。
妙子に選択権はない。
妙子はクローゼットの前に立った。
何を着ていけばいいか。
征人が好きだと言ってくれた白いブラウス。
膝丈のスカート。
できるだけ腕を隠せる服。
長袖は蒸し暑いが、火傷跡を覆える袖丈はこれしかない。
鏡の前で三回着替えた。
どれもしっくりこない。
何を着ても自分が醜く見える。
征人の隣に立つのにふさわしくないと感じてしまう。
僕はその一部始終を内側から見ていた。
妙子が鏡の前で服を合わせ、首を傾げ、脱ぎ、また着る。
その繰り返し。
彼女の目に映っているのは現実の自分ではない。
征人の目を通した自分だ。
征人が「可愛い」と言ってくれる自分。
征人が「引かない」自分。
征人に捨てられない自分。
全ての基準が征人だ。
自分の好みも、自分の感覚もない。
征人に気に入られるかどうか。
それだけが妙子の座標軸になっている。
僕は叫びたかった。
「そんな男のために着飾るな」と。「お前はそのままで十分だ」と。
だが、声は届かない。
妙子の耳には、僕の声は存在しない。
◇◆◇
十一時半。
妙子は家を出た。
駅に向かう道。
曇り空の下、蒸し暑い空気の中を歩く。
白いブラウスの背中にうっすらと汗が滲む。
化粧をしている。
いつもはしない化粧。
ファンデーションで肌を整え、チェリーピンクのリップを塗り、まつげをカールさせている。
不慣れな手つきで、丁寧に。
南口の改札前。
征人はまだ来ていなかった。
妙子は壁際に立ち、スマホを握りしめて待った。
十二時。
十二時五分。
十二時十分。
征人が来たのは十二時二十分だった。
遅刻の謝罪はなかった。
「お、来てたんだ」
征人の声は軽かった。
白いTシャツにデニム。
サングラスを頭の上に乗せている。
カジュアルで、気取っていない。
だが、その気取らなさ自体が計算されている。
「お前のために特別な準備はしていない」というメッセージ。
「征人くん……!」
妙子の顔が輝いた。
二十分の不安が一瞬で溶ける。
征人が来てくれた。
それだけで世界は完全に晴れる。
「行こうか」
征人が歩き出した。
妙子がその隣につく。
征人は妙子の手を取らない。
以前は自然と手を繋いでくれたのに。
妙子はそれに気づいているが、自分からは繋げない。
拒まれるのが怖い。
駅前の商業施設。
映画。
征人が選んだアクション映画。
妙子の好みではないが、「何が見たい?」とは聞かれなかった。
征人が決め、妙子が従う。
暗い映画館の中。
隣に座っている。
肘掛けがひとつだけの間にある。
征人はそこに腕を置き、スマホをいじっている。
映画が始まっても画面を見ていない。
隣に座っている意味すらない。
妙子はスクリーンを見つめていた。
爆発と銃声と叫び声。
ストーリーは頭に入らない。
征人の横顔ばかりを盗み見ている。
征人のスマホの画面が気になる。
誰とCHAINしているのか。
何を見ているのか。
聞けない。
聞く権利がないと思っている。
僕は妙子の内側で、暗い映画館の映像を見ていた。
スクリーンの中の爆発よりも、隣で無関心にスマホをいじる征人のほうが、よほど暴力的だった。
◇◆◇
映画が終わった後、ファストフード店で遅い昼食を取った。
征人はバーガーセットを頼み、黙々と食べていた。
妙子はサラダとアイスティーだけを頼んだ。
食欲がない。
胃が重い。
征人との間に漂う空気が、食べ物を受け付けない。
「ねえ、征人くん。映画、面白かった?」
「まあまあ」
会話が続かない。
征人はスマホを見ている。
妙子は征人の視線を引こうとして言葉を探す。
何か気の利いたことを言いたい。
征人を笑わせたい。
だが、何を言えばいいかわからない。
「あの、今日は……誘ってくれてありがとう」
「別に」
二文字。
妙子の感謝が二文字で終わらされた。
征人がバーガーの包み紙を丸め、トレイに置いた。
アイスコーヒーのストローを噛みながら、初めて妙子の目を見た。
「豊島さ」
征人が妙子の苗字で呼んだ。
いつもは「妙子」と名前で呼ぶのに。
苗字で呼ぶということは、距離を取っているということだ。
妙子はそれに気づいている。
気づいて、心臓が冷たくなっている。
「はい……」
「俺たち、なんか最近ずれてない?」
「ずれ……?」
「うん。お前、なんか変わったっていうか。前はもっと素直だったのに、最近はなんか……壁がある感じ」
征人の言い方は穏やかだった。
相談するような口調。
「俺も困ってるんだよ」という雰囲気を出している。
だが、その穏やかさの下に、あの日と同じ構造がある。
「お前が悪い」と言っている。
壁を感じさせているのはお前だ。
変わったのはお前だ。
俺は変わっていない。
妙子は目を伏せた。
「ごめんなさい……私、何か悪いことした?」
「悪いっていうか。借り物競争のこととか、あれ結構ショックだったんだよね。彼女が俺じゃなくて別の男のとこに走ってくの見たら、誰だって嫌じゃん」
征人の声が柔らかいまま、毒を含む。
「別の男」。
奏のことだ。
「あれは、その……お題が――」
「お題が何だったかは知らないけどさ。でも、俺のとこに来なかったのは事実だろ?」
反論できない。
事実だ。
事実だが、あのとき走ったのは妙子ではなく僕だ。
妙子は何も知らない。
知らないまま責められている。
僕の中で、何かが軋んだ。
これは僕のせいだ。
借り物競争で奏を選んだのは僕だ。
計画のために。
――いや、計画だけではなかった。あの瞬間、僕はただ奏のところに走りたかっただけだ。
僕の選択が、今、妙子を追い詰めている。
「ごめんなさい。本当に……あの日のこと、よく覚えてなくて」
「覚えてないって、お前……」
征人が呆れたように首を振った。
呆れの中に苛立ちが混じっている。
「まあいいよ。もう終わったことだし」
征人はそう言って、アイスコーヒーを飲み干した。
「もう終わったことだし」。
この言葉には二重の意味がある。
借り物競争のことが終わったということと、もうひとつの意味。
妙子との関係が、終わりに近づいているということ。
妙子はその二重性に気づいていない。
「許してもらえた」と解釈している。
「ありがとう、征人くん……」
「いいって」
征人はトレイを持って立ち上がった。
「じゃ、もうちょっと歩くか」
◇◆◇
商業施設を出て、駅から少し離れた公園に向かった。
征人が先を歩き、妙子が三歩後ろをついていく。
犬の散歩に似ている。
リードのない散歩。
だが、見えないリードで繋がれている。
公園のベンチに座った。
木陰。
人は少ない。
蝉がまだ鳴いていない季節だが、虫の音が茂みの中から聞こえている。
征人が妙子の方を向いた。
距離が近い。
膝が触れている。
「なあ」
征人の声が変わった。
低く、甘く。
妙子が最も弱い声の質。
「俺はさ、お前のこと、本気で好きだったんだよ」
「好きだった」。過去形。
だが妙子は過去形に気づかない。
「好き」という単語だけが耳に入る。
心臓が跳ねる。
顔が赤くなる。
「私も……征人くんのこと、好き」
「だから、もっとちゃんと信頼してほしいんだよな。俺のこと」
征人の手が妙子の膝に置かれた。
「信頼って……?」
妙子の声が小さくなった。
征人の手の温度が、布越しに伝わっている。
「お前さ、いつも壁作るじゃん。これ以上は来ないでっていう壁。でも、俺は彼氏だろ? もっと……心だけじゃなくて」
征人の手が、膝から太腿に移動した。
妙子の体が硬直した。
僕の中で、警鐘が鳴り響いた。
あの夜と同じだ。
楓都の手が妙子に伸びた、あの夜と。
場所も人物も違うが、構造は同じだ。
支配者が被支配者の体に手を伸ばす。
「信頼の証」という名目で。
「愛」という名目で。
妙子が立ち上がった。
反射的に。
体がベンチから離れた。
征人の手を払ったのではない。
体が勝手に動いたのだ。
逃避反応。
あの夜に刻み込まれた本能が、妙子の筋肉を動かした。
「あ……ごめん、なさい。ごめん、そういうつもりじゃ」
妙子は慌てて謝った。
征人の顔を見る。
征人の目が冷えていた。
「……別にいいけど」
征人が立ち上がった。
表情が正面から消えた。
苛立ちではない。
もっと冷たいもの。
興味の喪失。
面倒くさいものを見る目。
「嫌だったんなら、いいよ」
「嫌じゃない……! 嫌じゃないの。ただ、ちょっとびっくりしただけで……」
「わかったわかった」
征人がスマホを取り出した。
もう妙子を見ていない。
「じゃ、今日はここまでにしよう。俺、このあと用事あるし」
嘘だ。
「用事がある」は征人の常套句だ。
面倒になったら「用事がある」と言って去る。
妙子はそれを知っている。
知っているのに、引き止められない。
「あ、待って。征人くん」
妙子が征人の袖を掴んだ。
指先が白くなるほど、強く。
「お願い。もう少しいて。お願い……」
声が震えていた。
懇願。
妙子の全存在を懸けた懇願。
征人は妙子の手を見下ろした。
自分の袖を掴む細い指を。
一瞬だけ、征人の目に何かが過ぎった。
罪悪感か。
哀れみか。
それとも、支配が成功している快感か。
僕には判別できなかった。
「……わかった。もうちょっとだけ」
征人がベンチに座り直した。
妙子も隣に座った。
少しだけ距離を空けて。
二人は黙って座っていた。
風が木の葉を揺らしている。
遠くで子供の声が聞こえる。
僕は妙子の内側で、檻の鉄格子を握りしめていた。
出られない。
出してもらえない。
妙子は征人への恐怖よりも、征人を失う恐怖の方が大きい。
だから「僕」に主導権を渡さない。
征人に嫌われたくないという感情が、防衛本能を上回っている。
檻の中にいるのは妙子だ。
だが、檻に鍵をかけているのも、妙子自身だ。
◇◆◇
月曜日。
学校。
週末のデートの後、征人のCHAINは再び途絶えた。
日曜日の夜に妙子が送った「今日はありがとう」には、月曜日の朝になっても返信がなかった。
妙子は教室に入った。
征人は友人グループと話している。
妙子が来たことに気づいても、視線を向けない。
妙子は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出した。
手が震えていた。
一時間目が始まる前に、奏が教室に入ってきた。
奏の視線が、一瞬で妙子を捉えた。
数秒間、奏は妙子を見ていた。
僕も妙子の内側から、奏の視線を感じた。
奏の目が何かを探っている。
違和感を追っている。
奏が自分の席に着いた。
妙子の二つ隣。
十分な距離。
休み時間。
奏が妙子の席に来た。
「豊島」
妙子が顔を上げた。
笑おうとした。
「大丈夫」という顔を作ろうとした。
だが、奏の目がそれを見抜いた。
「最近、大丈夫か?」
奏の声は静かだった。
問い詰めているのではない。
ただ、確認している。
「大丈夫でないなら、そう言っていい」という許可を含んだ声。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」
妙子の声は細く、頼りなかった。
「大丈夫」と言う声が、もっとも「大丈夫ではない」ことを示している。
奏は妙子の顔を見ていた。
目の下の隈。
痩せた頬。
乾いた唇。
以前の――学級委員の仕事を一緒にしていた頃の「豊島」とは、別人のようだった。
あの頃の「豊島」は背筋がまっすぐで、目が前を向いていて、言葉に芯があった。
今の妙子は縮こまり、びくびくしている。
奏は気づいている。
学級委員の時と違う。
あの時の「豊島」と、今の「豊島」は、別人のようだ。
別人のよう、ではない。
別人なのだ。
あの時は「僕」が表に出ていた。
今は妙子が出ている。
奏が好ましいと思った「豊島」は、目の前のこの女の子ではなく、彼女の中にいる僕だ。
だが、奏にはそんなことはわからない。
ただ、「最近の豊島はおかしい」とだけ感じている。
「……何かあったら、言えよ」
奏はそれだけ言って、席に戻った。
妙子は奏の背中を見送りながら、少しだけ唇を噛んだ。
「言えよ」。
奏の言葉は温かかった。
でも、何を言えばいいかわからない。
征人のこと? 自分の傷のこと? 記憶がなくなること? 何もかもがぐちゃぐちゃで、どこから話せばいいかわからない。
だから妙子は黙った。
黙って、また征人のCHAINを開いた。
既読のつかないメッセージの列を上にスクロールしながら。
◇◆◇
放課後。
僕は表に出ていなかった。
妙子のままだ。
奏が廊下を歩いていた。
妙子が帰り支度をしている教室の前を通り過ぎようとして、足を止めた。
教室の窓から、妙子の姿が見えたのだ。
一人で席に座り、スマホを見つめている。
肩が丸まっている。
髪が顔にかかっている。
奏の目が細くなった。
その表情を、僕は妙子の視界の端で捉えた。
奏は何かを思い出している。
あの嵐の夜。
橋の上で、のぼりを握りしめていた細い腕。
礼も言えないうちに、雨の向こうへ走り去った小さな背中。
今の妙子とは、少しも重ならないはずだ。
重ならないのに、奏は目を離せずにいる。
奏は教室の前を通り過ぎた。
振り返らなかった。
だが、その足取りは、いつもより遅かった。
僕は妙子の内側で、奏の背中を見送った。
頼む。
気づいてくれ。
僕には何もできない。
この檻の中からは、何もできない。
だから頼む。
奏。
お前が気づいてくれ。
妙子が壊れる前に。
窓の外で、雲が厚くなっていた。
嵐の予感が、空気の中に溶けている。




