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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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16/21

16話:檻

 土曜日が来た。


 七月最初の週末。

 空は曇っていたが、雨は降っていなかった。

 湿った風が窓の隙間から入り込み、カーテンを揺らしている。

 妙子は朝六時に目を覚ました。

 普段より二時間も早い。

 征人とのデートが楽しみで眠れなかったのだ。


 ベッドの上に座り、スマホを開く。

 征人からのCHAIN。

 昨夜来たメッセージ。


 「明日12時。南口の改札前」


 それだけ。

 場所も、何をするかも書いていない。

 征人のスタイルだ。

 情報を与えない。

 妙子を従属的な立場に置き、自分のペースで動かす。

 「何するの?」と聞けば「着いてからのお楽しみ」と返ってくる。

 妙子に選択権はない。


 妙子はクローゼットの前に立った。

 何を着ていけばいいか。

 征人が好きだと言ってくれた白いブラウス。

 膝丈のスカート。

 できるだけ腕を隠せる服。

 長袖は蒸し暑いが、火傷跡を覆える袖丈はこれしかない。

 鏡の前で三回着替えた。

 どれもしっくりこない。

 何を着ても自分が醜く見える。

 征人の隣に立つのにふさわしくないと感じてしまう。


 僕はその一部始終を内側から見ていた。


 妙子が鏡の前で服を合わせ、首を傾げ、脱ぎ、また着る。

 その繰り返し。

 彼女の目に映っているのは現実の自分ではない。

 征人の目を通した自分だ。

 征人が「可愛い」と言ってくれる自分。

 征人が「引かない」自分。

 征人に捨てられない自分。

 全ての基準が征人だ。

 自分の好みも、自分の感覚もない。

 征人に気に入られるかどうか。

 それだけが妙子の座標軸になっている。


 僕は叫びたかった。

 「そんな男のために着飾るな」と。「お前はそのままで十分だ」と。

 だが、声は届かない。

 妙子の耳には、僕の声は存在しない。


 ◇◆◇


 十一時半。

 妙子は家を出た。


 駅に向かう道。

 曇り空の下、蒸し暑い空気の中を歩く。

 白いブラウスの背中にうっすらと汗が滲む。

 化粧をしている。

 いつもはしない化粧。

 ファンデーションで肌を整え、チェリーピンクのリップを塗り、まつげをカールさせている。

 不慣れな手つきで、丁寧に。


 南口の改札前。

 征人はまだ来ていなかった。

 妙子は壁際に立ち、スマホを握りしめて待った。

 十二時。

 十二時五分。

 十二時十分。


 征人が来たのは十二時二十分だった。

 遅刻の謝罪はなかった。


「お、来てたんだ」


 征人の声は軽かった。

 白いTシャツにデニム。

 サングラスを頭の上に乗せている。

 カジュアルで、気取っていない。

 だが、その気取らなさ自体が計算されている。

 「お前のために特別な準備はしていない」というメッセージ。


「征人くん……!」


 妙子の顔が輝いた。

 二十分の不安が一瞬で溶ける。

 征人が来てくれた。

 それだけで世界は完全に晴れる。


「行こうか」


 征人が歩き出した。

 妙子がその隣につく。

 征人は妙子の手を取らない。

 以前は自然と手を繋いでくれたのに。

 妙子はそれに気づいているが、自分からは繋げない。

 拒まれるのが怖い。


 駅前の商業施設。

 映画。

 征人が選んだアクション映画。

 妙子の好みではないが、「何が見たい?」とは聞かれなかった。

 征人が決め、妙子が従う。


 暗い映画館の中。

 隣に座っている。

 肘掛けがひとつだけの間にある。

 征人はそこに腕を置き、スマホをいじっている。

 映画が始まっても画面を見ていない。

 隣に座っている意味すらない。


 妙子はスクリーンを見つめていた。

 爆発と銃声と叫び声。

 ストーリーは頭に入らない。

 征人の横顔ばかりを盗み見ている。

 征人のスマホの画面が気になる。

 誰とCHAINしているのか。

 何を見ているのか。

 聞けない。

 聞く権利がないと思っている。


 僕は妙子の内側で、暗い映画館の映像を見ていた。

 スクリーンの中の爆発よりも、隣で無関心にスマホをいじる征人のほうが、よほど暴力的だった。


 ◇◆◇


 映画が終わった後、ファストフード店で遅い昼食を取った。


 征人はバーガーセットを頼み、黙々と食べていた。

 妙子はサラダとアイスティーだけを頼んだ。

 食欲がない。

 胃が重い。

 征人との間に漂う空気が、食べ物を受け付けない。


「ねえ、征人くん。映画、面白かった?」

「まあまあ」


 会話が続かない。

 征人はスマホを見ている。

 妙子は征人の視線を引こうとして言葉を探す。

 何か気の利いたことを言いたい。

 征人を笑わせたい。

 だが、何を言えばいいかわからない。


「あの、今日は……誘ってくれてありがとう」

「別に」


 二文字。

 妙子の感謝が二文字で終わらされた。


 征人がバーガーの包み紙を丸め、トレイに置いた。

 アイスコーヒーのストローを噛みながら、初めて妙子の目を見た。


「豊島さ」


 征人が妙子の苗字で呼んだ。

 いつもは「妙子」と名前で呼ぶのに。

 苗字で呼ぶということは、距離を取っているということだ。

 妙子はそれに気づいている。

 気づいて、心臓が冷たくなっている。


「はい……」

「俺たち、なんか最近ずれてない?」

「ずれ……?」

「うん。お前、なんか変わったっていうか。前はもっと素直だったのに、最近はなんか……壁がある感じ」


 征人の言い方は穏やかだった。

 相談するような口調。

 「俺も困ってるんだよ」という雰囲気を出している。

 だが、その穏やかさの下に、あの日と同じ構造がある。

 「お前が悪い」と言っている。

 壁を感じさせているのはお前だ。

 変わったのはお前だ。

 俺は変わっていない。


 妙子は目を伏せた。


「ごめんなさい……私、何か悪いことした?」

「悪いっていうか。借り物競争のこととか、あれ結構ショックだったんだよね。彼女が俺じゃなくて別の男のとこに走ってくの見たら、誰だって嫌じゃん」


 征人の声が柔らかいまま、毒を含む。

 「別の男」。

 奏のことだ。


「あれは、その……お題が――」

「お題が何だったかは知らないけどさ。でも、俺のとこに来なかったのは事実だろ?」


 反論できない。

 事実だ。

 事実だが、あのとき走ったのは妙子ではなく僕だ。

 妙子は何も知らない。

 知らないまま責められている。


 僕の中で、何かが軋んだ。


 これは僕のせいだ。

 借り物競争で奏を選んだのは僕だ。

 計画のために。

 ――いや、計画だけではなかった。あの瞬間、僕はただ奏のところに走りたかっただけだ。

 僕の選択が、今、妙子を追い詰めている。


「ごめんなさい。本当に……あの日のこと、よく覚えてなくて」

「覚えてないって、お前……」


 征人が呆れたように首を振った。

 呆れの中に苛立ちが混じっている。


「まあいいよ。もう終わったことだし」


 征人はそう言って、アイスコーヒーを飲み干した。

 「もう終わったことだし」。

 この言葉には二重の意味がある。

 借り物競争のことが終わったということと、もうひとつの意味。

 妙子との関係が、終わりに近づいているということ。


 妙子はその二重性に気づいていない。

 「許してもらえた」と解釈している。


「ありがとう、征人くん……」

「いいって」


 征人はトレイを持って立ち上がった。


「じゃ、もうちょっと歩くか」


 ◇◆◇


 商業施設を出て、駅から少し離れた公園に向かった。


 征人が先を歩き、妙子が三歩後ろをついていく。

 犬の散歩に似ている。

 リードのない散歩。

 だが、見えないリードで繋がれている。


 公園のベンチに座った。

 木陰。

 人は少ない。

 蝉がまだ鳴いていない季節だが、虫の音が茂みの中から聞こえている。


 征人が妙子の方を向いた。

 距離が近い。

 膝が触れている。


「なあ」


 征人の声が変わった。

 低く、甘く。

 妙子が最も弱い声の質。


「俺はさ、お前のこと、本気で好きだったんだよ」


 「好きだった」。過去形。


 だが妙子は過去形に気づかない。

 「好き」という単語だけが耳に入る。

 心臓が跳ねる。

 顔が赤くなる。


「私も……征人くんのこと、好き」

「だから、もっとちゃんと信頼してほしいんだよな。俺のこと」


 征人の手が妙子の膝に置かれた。


「信頼って……?」


 妙子の声が小さくなった。

 征人の手の温度が、布越しに伝わっている。


「お前さ、いつも壁作るじゃん。これ以上は来ないでっていう壁。でも、俺は彼氏だろ? もっと……心だけじゃなくて」


 征人の手が、膝から太腿に移動した。


 妙子の体が硬直した。


 僕の中で、警鐘が鳴り響いた。


 あの夜と同じだ。

 楓都の手が妙子に伸びた、あの夜と。

 場所も人物も違うが、構造は同じだ。

 支配者が被支配者の体に手を伸ばす。

 「信頼の証」という名目で。

 「愛」という名目で。


 妙子が立ち上がった。


 反射的に。

 体がベンチから離れた。

 征人の手を払ったのではない。

 体が勝手に動いたのだ。

 逃避反応。

 あの夜に刻み込まれた本能が、妙子の筋肉を動かした。


「あ……ごめん、なさい。ごめん、そういうつもりじゃ」


 妙子は慌てて謝った。

 征人の顔を見る。

 征人の目が冷えていた。


「……別にいいけど」


 征人が立ち上がった。

 表情が正面から消えた。

 苛立ちではない。

 もっと冷たいもの。

 興味の喪失。

 面倒くさいものを見る目。


「嫌だったんなら、いいよ」

「嫌じゃない……! 嫌じゃないの。ただ、ちょっとびっくりしただけで……」

「わかったわかった」


 征人がスマホを取り出した。

 もう妙子を見ていない。


「じゃ、今日はここまでにしよう。俺、このあと用事あるし」


 嘘だ。

 「用事がある」は征人の常套句だ。

 面倒になったら「用事がある」と言って去る。

 妙子はそれを知っている。

 知っているのに、引き止められない。


「あ、待って。征人くん」


 妙子が征人の袖を掴んだ。

 指先が白くなるほど、強く。


「お願い。もう少しいて。お願い……」


 声が震えていた。

 懇願。

 妙子の全存在を懸けた懇願。


 征人は妙子の手を見下ろした。

 自分の袖を掴む細い指を。

 一瞬だけ、征人の目に何かが過ぎった。

 罪悪感か。

 哀れみか。

 それとも、支配が成功している快感か。

 僕には判別できなかった。


「……わかった。もうちょっとだけ」


 征人がベンチに座り直した。

 妙子も隣に座った。

 少しだけ距離を空けて。


 二人は黙って座っていた。

 風が木の葉を揺らしている。

 遠くで子供の声が聞こえる。


 僕は妙子の内側で、檻の鉄格子を握りしめていた。

 出られない。

 出してもらえない。

 妙子は征人への恐怖よりも、征人を失う恐怖の方が大きい。

 だから「僕」に主導権を渡さない。

 征人に嫌われたくないという感情が、防衛本能を上回っている。

 檻の中にいるのは妙子だ。

 だが、檻に鍵をかけているのも、妙子自身だ。


 ◇◆◇


 月曜日。

 学校。


 週末のデートの後、征人のCHAINは再び途絶えた。

 日曜日の夜に妙子が送った「今日はありがとう」には、月曜日の朝になっても返信がなかった。


 妙子は教室に入った。

 征人は友人グループと話している。

 妙子が来たことに気づいても、視線を向けない。

 妙子は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出した。

 手が震えていた。


 一時間目が始まる前に、奏が教室に入ってきた。


 奏の視線が、一瞬で妙子を捉えた。


 数秒間、奏は妙子を見ていた。

 僕も妙子の内側から、奏の視線を感じた。

 奏の目が何かを探っている。

 違和感を追っている。


 奏が自分の席に着いた。

 妙子の二つ隣。

 十分な距離。


 休み時間。

 奏が妙子の席に来た。


「豊島」


 妙子が顔を上げた。

 笑おうとした。

 「大丈夫」という顔を作ろうとした。


 だが、奏の目がそれを見抜いた。


「最近、大丈夫か?」


 奏の声は静かだった。

 問い詰めているのではない。

 ただ、確認している。

 「大丈夫でないなら、そう言っていい」という許可を含んだ声。


「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」


 妙子の声は細く、頼りなかった。

 「大丈夫」と言う声が、もっとも「大丈夫ではない」ことを示している。


 奏は妙子の顔を見ていた。

 目の下の隈。

 痩せた頬。

 乾いた唇。

 以前の――学級委員の仕事を一緒にしていた頃の「豊島」とは、別人のようだった。

 あの頃の「豊島」は背筋がまっすぐで、目が前を向いていて、言葉に芯があった。

 今の妙子は縮こまり、びくびくしている。


 奏は気づいている。

 学級委員の時と違う。

 あの時の「豊島」と、今の「豊島」は、別人のようだ。

 別人のよう、ではない。

 別人なのだ。

 あの時は「僕」が表に出ていた。

 今は妙子が出ている。

 奏が好ましいと思った「豊島」は、目の前のこの女の子ではなく、彼女の中にいる僕だ。


 だが、奏にはそんなことはわからない。

 ただ、「最近の豊島はおかしい」とだけ感じている。


「……何かあったら、言えよ」


 奏はそれだけ言って、席に戻った。


 妙子は奏の背中を見送りながら、少しだけ唇を噛んだ。

 「言えよ」。

 奏の言葉は温かかった。

 でも、何を言えばいいかわからない。

 征人のこと? 自分の傷のこと? 記憶がなくなること? 何もかもがぐちゃぐちゃで、どこから話せばいいかわからない。


 だから妙子は黙った。

 黙って、また征人のCHAINを開いた。

 既読のつかないメッセージの列を上にスクロールしながら。


 ◇◆◇


 放課後。

 僕は表に出ていなかった。

 妙子のままだ。


 奏が廊下を歩いていた。

 妙子が帰り支度をしている教室の前を通り過ぎようとして、足を止めた。


 教室の窓から、妙子の姿が見えたのだ。

 一人で席に座り、スマホを見つめている。

 肩が丸まっている。

 髪が顔にかかっている。


 奏の目が細くなった。

 その表情を、僕は妙子の視界の端で捉えた。


 奏は何かを思い出している。

 あの嵐の夜。

 橋の上で、のぼりを握りしめていた細い腕。

 礼も言えないうちに、雨の向こうへ走り去った小さな背中。

 今の妙子とは、少しも重ならないはずだ。

 重ならないのに、奏は目を離せずにいる。


 奏は教室の前を通り過ぎた。

 振り返らなかった。

 だが、その足取りは、いつもより遅かった。


 僕は妙子の内側で、奏の背中を見送った。


 頼む。

 気づいてくれ。

 僕には何もできない。

 この檻の中からは、何もできない。

 だから頼む。

 奏。

 お前が気づいてくれ。

 妙子が壊れる前に。


 窓の外で、雲が厚くなっていた。

 嵐の予感が、空気の中に溶けている。


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