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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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17/21

17話:崩落

 その日は、風が強かった。


 七月の第二週。

 期末テストまで、あと二週間。

 教室の窓から入り込む風が、掲示板のプリントをバタバタと揺らしている。

 空は晴れているのに、風だけが荒い。

 地上と上空で気温差があるのだろう。

 不安定な大気。


 妙子は教室にいた。

 征人も教室にいた。

 席は隣のままなのに、休み時間の征人は教室の対角線上にいる。

 十メートルの距離。

 征人は友人グループとふざけ合い、妙子は一人で机に伏していた。


 先週のデート以来、征人からの連絡は一切なかった。

 CHAINも、声かけも、視線も。

 妙子は存在ごと無視されていた。


 今日も妙子が表に出ている。

 もう一週間、僕はほとんど表に出られていない。

 妙子が征人への恐怖と執着で意識を手放さないからだ。

 僕に切り替わるのは深夜、妙子が疲労で意識を失った後のわずかな時間だけ。

 その数時間で、僕にできることはほとんどない。


 妙子の体は限界に近かった。

 体重が落ちている。

 目の下の隈は青黒く、頬の肉が削げ、鎖骨が浮き出ている。

 食事をほとんど取っていない。

 征人のことで頭がいっぱいで、空腹の感覚が麻痺している。

 授業中も集中できない。

 ノートは白紙のまま。

 教師の声が遠い。

 世界が水の膜を隔てたように、ぼんやりとしている。


 六時間目が終わった。


 帰りのホームルーム。

 担任がテスト範囲を読み上げている。

 妙子はそれを聞いていなかった。

 征人の後ろ姿を見ていた。

 征人の黒い髪。

 日焼けした首筋。

 体操着からのぞく腕。

 その腕に、自分が触れる日は、もう来ないのかもしれない。


 ホームルームが終わった。

 生徒たちが立ち上がり、帰り支度を始める。


 征人が妙子の方を向いた。


 初めてだった。

 一週間ぶりに、征人の目がまっすぐに妙子を見た。


 妙子の心臓が跳ねた。

 嬉しさと恐怖が同時に押し寄せた。


「妙子。ちょっと来てくれる?」


 征人の声は平坦だった。

 感情がない。

 業務連絡のようだ。

 だが、妙子にはそれすら嬉しかった。

 名前を呼んでくれた。

 話しかけてくれた。


「うん……!」


 妙子は鞄を掴んで立ち上がった。

 征人について教室を出る。


 僕は妙子の奥底で、嫌な予感に支配されていた。


 ◇◆◇


 征人が向かったのは、また校舎裏だった。


 渡り廊下を抜け、部室棟の裏手。

 自販機の横。

 コンクリートの壁に囲まれた、人目につかない一角。


 七月の風が壁の間を吹き抜けていく。

 妙子の髪が乱れる。

 征人は壁にもたれ、ポケットに両手を突っ込んでいた。


「あの、征人くん。話って――」


 妙子は笑おうとした。

 精一杯の笑顔を作った。

 「何でも聞くよ」「何でもするよ」。

 そういう覚悟が、彼女の目に浮かんでいた。


 征人は妙子の顔を見た。

 表情がなかった。


「もういいわ」


 短い言葉だった。


「え……?」


「もういい。終わり。お前と付き合ってたの」


 空気が止まった。

 風すら止まったように感じた。


 妙子の脳が、言葉の意味を処理するのに数秒かかった。

 「終わり」。

 「お前と付き合ってたの」。

 過去形。

 終了宣言。


「まっ……待って。どういう意味……?」


 妙子の声が震えていた。

 かすれていた。

 喉の奥が締まっている。


「どういう意味も何も。別れようって言ってんの」


 征人の声には苛立ちすらなかった。

 面倒くさいという空気だけがあった。

 ゴミを捨てるときの、あの手間を惜しむ億劫さ。


「な、なんで……? 私、何か悪いこと――」

「悪いとかじゃなくて。もう飽きたんだよ」


 飽きた。

 あの電話で聞いた言葉と同じだ。

 「あの子、もう飽きた」。

 あのときは友人への軽口だった。

 今は妙子の目の前で、直接言っている。


「あきた……?」


 妙子が征人の言葉を復唱した。

 声にならない声で。


「うん。正直に言うわ」


 征人が壁から体を起こした。

 ポケットから手を出し、腕を組んだ。

 見下ろす姿勢。


「最近のお前、正直、怖かったんだよ。急に言うこと聞かなくなって、国立とこそこそ何かやって。俺だって心配してた」


 心配。

 その言葉だけは、最後まで手放さないらしい。


「だから、少し距離置こうって話。お互いのためにさ。俺だけが悪いみたいな顔すんなよ」


 妙子の唇が動いた。

 何を言おうとしたのかはわからない。謝ろうとしたのかもしれない。こんな場面でさえ、自分に落ち度を探すのが妙子だ。


 校舎の角から、征人の友人が二人現れた。片方がこちらを見つけ、気まずそうに足を緩める。


「あれ、町田。もう話ついた? じゃあ例の三千円――」


「黙れよ」


 征人の声が一段低くなった。

 友人が口を閉じる。閉じるのが、一秒遅かった。


 三千円。


 妙子の中で、その数字だけが硬貨のように落ちた。

 底の見えない場所へ。いつまでも音を立てながら。


「……何の、お金?」


「大した話じゃない。こいつらが勝手に騒いでただけ」


「『暗い子を落とせるか』ってやつ。お前が本気にするから面倒になったんだろ」


 友人は笑って取り繕った。征人が睨むと、その笑いは途中で萎んだ。


 世界が、砕けた。


 征人は否定しなかった。ただ、責任の置き場所を次々に変えた。友人へ。冗談へ。最後には、信じた妙子へ。


 妙子は動けなかった。

 足が地面に縫い付けられたように。

 目が見開かれたまま、焦点が合わなくなっている。

 口が半開きで、そこから声が出ない。


 僕は妙子の内側で絶叫していた。


 間に合わなかった。

 計画が。

 何もかもが。

 征人が妙子を捨てる前に、奏という支えを完成させなければならなかった。

 それが間に合わなかった。

 最悪のシナリオが、現実になった。


「傷のことだって、俺は気にしないって言っただろ。友達に聞かれたから説明しただけだ。変な呼び方を始めたのは俺じゃない」


「タコ女ってやつ?」


 友人の一人が、また余計な口を挟んだ。


 妙子の体が揺れた。


 タコ女。

 みんな知ってる。

 みんな。


 妙子の脳内で、何かがショートした。

 回路が焼き切れる音が、僕にも聞こえた気がした。


 涙が出なかった。

 声も出なかった。

 世界が真っ白になっていた。

 妙子の視界から色が消え、音が消え、匂いが消えた。

 コンクリートの壁も、征人の顔も、風に揺れる木の葉も、すべてが白い光の中に溶けていった。


 心がフリーズしている。

 凍った水面のように。

 割れた場所から沈んでいくはずなのに、まだ薄い氷だけが体を支えている。


 僕は主導権を奪おうとした。

 今だ。

 妙子の意識がフリーズしている今なら、僕が前に出られるはずだ。


 だが――出られなかった。


 妙子の心が完全にシャットダウンしていた。

 フリーズしているのではない。

 電源が落ちているのだ。

 僕への切り替えスイッチすら動かない。

 妙子の意識が全機能を停止し、そのまま凍りついている。


 これは今までと違う。

 今まで僕が表に出られなかったのは、妙子が主導権を手放さなかったからだ。

 意識はあるが、渡さない。

 それが今までだった。

 今は違う。

 意識そのものが消えている。

 渡す・渡さないの判断を行う機能が、停止している。


 僕は妙子の意識の底で、もがいた。

 壁を叩いた。

 叫んだ。

 反応がない。

 妙子は白い光の中にいる。

 何も見えず、何も聞こえず、何も感じていない。


 征人は妙子の様子を見ていた。

 反応がないことに、少しだけ居心地悪そうな顔をした。

 さすがにやりすぎたか、と一瞬だけ思ったのかもしれない。

 だが、その表情はすぐに消えた。


「じゃあな」


 征人がそう言って、背を向けた。


 ポケットに手を入れ、渡り廊下を歩いていく。

 一度も振り返らなかった。

 足音がコンクリートに反響し、遠ざかり、やがて消えた。


 ◇◆◇


 妙子は立っていた。


 校舎裏の壁と壁の間に、一人で立っていた。

 風が髪を乱している。

 スカートの裾が揺れている。

 目は開いているが、何も見ていない。


 どれくらいの時間が経ったかわからない。

 五分か、十分か、三十分か。


 やがて、妙子の体が動いた。

 自動的に。

 意志ではなく、反射で。

 歩き始めた。

 校舎裏を出て、渡り廊下を通り、靴箱で上履きを脱ぎ、外靴に履き替え、校門を出た。


 歩いている。

 住宅街を。

 信号で止まり、青になったら歩く。

 右に曲がり、左に曲がる。

 体が記憶している帰り道を、自動操縦で歩いている。


 妙子の意識はない。

 僕の意識はある。

 だが、体を動かす権限がない。

 妙子の体は妙子の自動操縦で動いているが、妙子自身は不在だ。

 空っぽの家を、自動掃除ロボットだけが動き続けているような状態。


 マンションに着いた。

 エントランス。

 エレベーター。

 五階。

 鍵を開ける。

 部屋に入る。


 妙子は靴を脱がなかった。

 靴のまま廊下を歩き、自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。


 仰向け。

 天井の染み。

 右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。


 妙子の目は開いているが、何も見ていなかった。

 涙は流れていなかった。

 呼吸だけが、浅く、不規則に続いている。


 僕は妙子の意識の底で、膝を抱えていた。


 間に合わなかった。

 全部。

 何もかも。


 征人に先を越された。

 奏との関係を完成させる前に、征人が先に妙子を捨てた。

 しかも最悪の形で。

 友人の一言で賭けが露見しても、征人は責任を冗談と妙子へ押し戻した。火傷跡を他人に話したことさえ、「説明しただけ」で済ませた。


 妙子の心は砕けた。

 もう粉々だ。

 瞬間接着剤では直せない。


 僕は自分の計画の失敗を噛みしめながら、暗い意識の底で丸くなっていた。


 妙子。

 聞こえないのはわかっている。

 でも言わせてくれ。


 お前は悪くない。

 何も悪くない。

 悪いのは征人で、悪いのは楓都で、悪いのはお前を守れなかった僕だ。


 お前の傷は醜くない。

 お前の存在は無価値ではない。

 お前を「タコ女」と呼ぶ連中は、お前の傷がどうやってできたか知らない。

 あの傷は、お前が生き延びた証だ。

 楓都の暴力を受けて、それでも死ななかった証だ。


 だが、僕の声は妙子には届かない。

 届いたことが、一度もない。


 天井の染みが、暗闇の中でゆっくりと回転しているように見えた。

 梅雨の湿気が、部屋全体を浸食している。

 壁も天井も床も、水分を含んで膨れ上がっている。

 世界そのものが、崩れかけていた。


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