17話:崩落
その日は、風が強かった。
七月の第二週。
期末テストまで、あと二週間。
教室の窓から入り込む風が、掲示板のプリントをバタバタと揺らしている。
空は晴れているのに、風だけが荒い。
地上と上空で気温差があるのだろう。
不安定な大気。
妙子は教室にいた。
征人も教室にいた。
席は隣のままなのに、休み時間の征人は教室の対角線上にいる。
十メートルの距離。
征人は友人グループとふざけ合い、妙子は一人で机に伏していた。
先週のデート以来、征人からの連絡は一切なかった。
CHAINも、声かけも、視線も。
妙子は存在ごと無視されていた。
今日も妙子が表に出ている。
もう一週間、僕はほとんど表に出られていない。
妙子が征人への恐怖と執着で意識を手放さないからだ。
僕に切り替わるのは深夜、妙子が疲労で意識を失った後のわずかな時間だけ。
その数時間で、僕にできることはほとんどない。
妙子の体は限界に近かった。
体重が落ちている。
目の下の隈は青黒く、頬の肉が削げ、鎖骨が浮き出ている。
食事をほとんど取っていない。
征人のことで頭がいっぱいで、空腹の感覚が麻痺している。
授業中も集中できない。
ノートは白紙のまま。
教師の声が遠い。
世界が水の膜を隔てたように、ぼんやりとしている。
六時間目が終わった。
帰りのホームルーム。
担任がテスト範囲を読み上げている。
妙子はそれを聞いていなかった。
征人の後ろ姿を見ていた。
征人の黒い髪。
日焼けした首筋。
体操着からのぞく腕。
その腕に、自分が触れる日は、もう来ないのかもしれない。
ホームルームが終わった。
生徒たちが立ち上がり、帰り支度を始める。
征人が妙子の方を向いた。
初めてだった。
一週間ぶりに、征人の目がまっすぐに妙子を見た。
妙子の心臓が跳ねた。
嬉しさと恐怖が同時に押し寄せた。
「妙子。ちょっと来てくれる?」
征人の声は平坦だった。
感情がない。
業務連絡のようだ。
だが、妙子にはそれすら嬉しかった。
名前を呼んでくれた。
話しかけてくれた。
「うん……!」
妙子は鞄を掴んで立ち上がった。
征人について教室を出る。
僕は妙子の奥底で、嫌な予感に支配されていた。
◇◆◇
征人が向かったのは、また校舎裏だった。
渡り廊下を抜け、部室棟の裏手。
自販機の横。
コンクリートの壁に囲まれた、人目につかない一角。
七月の風が壁の間を吹き抜けていく。
妙子の髪が乱れる。
征人は壁にもたれ、ポケットに両手を突っ込んでいた。
「あの、征人くん。話って――」
妙子は笑おうとした。
精一杯の笑顔を作った。
「何でも聞くよ」「何でもするよ」。
そういう覚悟が、彼女の目に浮かんでいた。
征人は妙子の顔を見た。
表情がなかった。
「もういいわ」
短い言葉だった。
「え……?」
「もういい。終わり。お前と付き合ってたの」
空気が止まった。
風すら止まったように感じた。
妙子の脳が、言葉の意味を処理するのに数秒かかった。
「終わり」。
「お前と付き合ってたの」。
過去形。
終了宣言。
「まっ……待って。どういう意味……?」
妙子の声が震えていた。
かすれていた。
喉の奥が締まっている。
「どういう意味も何も。別れようって言ってんの」
征人の声には苛立ちすらなかった。
面倒くさいという空気だけがあった。
ゴミを捨てるときの、あの手間を惜しむ億劫さ。
「な、なんで……? 私、何か悪いこと――」
「悪いとかじゃなくて。もう飽きたんだよ」
飽きた。
あの電話で聞いた言葉と同じだ。
「あの子、もう飽きた」。
あのときは友人への軽口だった。
今は妙子の目の前で、直接言っている。
「あきた……?」
妙子が征人の言葉を復唱した。
声にならない声で。
「うん。正直に言うわ」
征人が壁から体を起こした。
ポケットから手を出し、腕を組んだ。
見下ろす姿勢。
「最近のお前、正直、怖かったんだよ。急に言うこと聞かなくなって、国立とこそこそ何かやって。俺だって心配してた」
心配。
その言葉だけは、最後まで手放さないらしい。
「だから、少し距離置こうって話。お互いのためにさ。俺だけが悪いみたいな顔すんなよ」
妙子の唇が動いた。
何を言おうとしたのかはわからない。謝ろうとしたのかもしれない。こんな場面でさえ、自分に落ち度を探すのが妙子だ。
校舎の角から、征人の友人が二人現れた。片方がこちらを見つけ、気まずそうに足を緩める。
「あれ、町田。もう話ついた? じゃあ例の三千円――」
「黙れよ」
征人の声が一段低くなった。
友人が口を閉じる。閉じるのが、一秒遅かった。
三千円。
妙子の中で、その数字だけが硬貨のように落ちた。
底の見えない場所へ。いつまでも音を立てながら。
「……何の、お金?」
「大した話じゃない。こいつらが勝手に騒いでただけ」
「『暗い子を落とせるか』ってやつ。お前が本気にするから面倒になったんだろ」
友人は笑って取り繕った。征人が睨むと、その笑いは途中で萎んだ。
世界が、砕けた。
征人は否定しなかった。ただ、責任の置き場所を次々に変えた。友人へ。冗談へ。最後には、信じた妙子へ。
妙子は動けなかった。
足が地面に縫い付けられたように。
目が見開かれたまま、焦点が合わなくなっている。
口が半開きで、そこから声が出ない。
僕は妙子の内側で絶叫していた。
間に合わなかった。
計画が。
何もかもが。
征人が妙子を捨てる前に、奏という支えを完成させなければならなかった。
それが間に合わなかった。
最悪のシナリオが、現実になった。
「傷のことだって、俺は気にしないって言っただろ。友達に聞かれたから説明しただけだ。変な呼び方を始めたのは俺じゃない」
「タコ女ってやつ?」
友人の一人が、また余計な口を挟んだ。
妙子の体が揺れた。
タコ女。
みんな知ってる。
みんな。
妙子の脳内で、何かがショートした。
回路が焼き切れる音が、僕にも聞こえた気がした。
涙が出なかった。
声も出なかった。
世界が真っ白になっていた。
妙子の視界から色が消え、音が消え、匂いが消えた。
コンクリートの壁も、征人の顔も、風に揺れる木の葉も、すべてが白い光の中に溶けていった。
心がフリーズしている。
凍った水面のように。
割れた場所から沈んでいくはずなのに、まだ薄い氷だけが体を支えている。
僕は主導権を奪おうとした。
今だ。
妙子の意識がフリーズしている今なら、僕が前に出られるはずだ。
だが――出られなかった。
妙子の心が完全にシャットダウンしていた。
フリーズしているのではない。
電源が落ちているのだ。
僕への切り替えスイッチすら動かない。
妙子の意識が全機能を停止し、そのまま凍りついている。
これは今までと違う。
今まで僕が表に出られなかったのは、妙子が主導権を手放さなかったからだ。
意識はあるが、渡さない。
それが今までだった。
今は違う。
意識そのものが消えている。
渡す・渡さないの判断を行う機能が、停止している。
僕は妙子の意識の底で、もがいた。
壁を叩いた。
叫んだ。
反応がない。
妙子は白い光の中にいる。
何も見えず、何も聞こえず、何も感じていない。
征人は妙子の様子を見ていた。
反応がないことに、少しだけ居心地悪そうな顔をした。
さすがにやりすぎたか、と一瞬だけ思ったのかもしれない。
だが、その表情はすぐに消えた。
「じゃあな」
征人がそう言って、背を向けた。
ポケットに手を入れ、渡り廊下を歩いていく。
一度も振り返らなかった。
足音がコンクリートに反響し、遠ざかり、やがて消えた。
◇◆◇
妙子は立っていた。
校舎裏の壁と壁の間に、一人で立っていた。
風が髪を乱している。
スカートの裾が揺れている。
目は開いているが、何も見ていない。
どれくらいの時間が経ったかわからない。
五分か、十分か、三十分か。
やがて、妙子の体が動いた。
自動的に。
意志ではなく、反射で。
歩き始めた。
校舎裏を出て、渡り廊下を通り、靴箱で上履きを脱ぎ、外靴に履き替え、校門を出た。
歩いている。
住宅街を。
信号で止まり、青になったら歩く。
右に曲がり、左に曲がる。
体が記憶している帰り道を、自動操縦で歩いている。
妙子の意識はない。
僕の意識はある。
だが、体を動かす権限がない。
妙子の体は妙子の自動操縦で動いているが、妙子自身は不在だ。
空っぽの家を、自動掃除ロボットだけが動き続けているような状態。
マンションに着いた。
エントランス。
エレベーター。
五階。
鍵を開ける。
部屋に入る。
妙子は靴を脱がなかった。
靴のまま廊下を歩き、自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。
仰向け。
天井の染み。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
妙子の目は開いているが、何も見ていなかった。
涙は流れていなかった。
呼吸だけが、浅く、不規則に続いている。
僕は妙子の意識の底で、膝を抱えていた。
間に合わなかった。
全部。
何もかも。
征人に先を越された。
奏との関係を完成させる前に、征人が先に妙子を捨てた。
しかも最悪の形で。
友人の一言で賭けが露見しても、征人は責任を冗談と妙子へ押し戻した。火傷跡を他人に話したことさえ、「説明しただけ」で済ませた。
妙子の心は砕けた。
もう粉々だ。
瞬間接着剤では直せない。
僕は自分の計画の失敗を噛みしめながら、暗い意識の底で丸くなっていた。
妙子。
聞こえないのはわかっている。
でも言わせてくれ。
お前は悪くない。
何も悪くない。
悪いのは征人で、悪いのは楓都で、悪いのはお前を守れなかった僕だ。
お前の傷は醜くない。
お前の存在は無価値ではない。
お前を「タコ女」と呼ぶ連中は、お前の傷がどうやってできたか知らない。
あの傷は、お前が生き延びた証だ。
楓都の暴力を受けて、それでも死ななかった証だ。
だが、僕の声は妙子には届かない。
届いたことが、一度もない。
天井の染みが、暗闇の中でゆっくりと回転しているように見えた。
梅雨の湿気が、部屋全体を浸食している。
壁も天井も床も、水分を含んで膨れ上がっている。
世界そのものが、崩れかけていた。




