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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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18/21

18話:暗転

 一日目。


 妙子は起き上がらなかった。


 朝のアラームが鳴った。

 七時。

 スマホの画面が白く光り、振動が枕元のテーブルを震わせた。

 妙子は目を開けなかった。

 アラームは五分間鳴り続け、やがて自動で止まった。

 七時半。

 二回目のアラーム。

 また止まった。

 八時。

 三回目。

 止まった。


 制服はハンガーにかかったままだ。

 鞄は玄関に置いてある。

 靴は昨日、履いたまま部屋に入ったから、ベッドの脇に片方ずつ転がっている。


 妙子は布団の中で丸くなっていた。

 胎児のように膝を抱え、目を閉じ、世界を遮断していた。


 僕は妙子の意識の片隅にいた。

 片隅、という表現は正確ではない。

 妙子の意識はほとんど機能していない。

 明かりを消した部屋の中で、壁の隅に小さなLEDランプが点滅している――それが今の僕だ。

 消えてはいない。

 だが、何も照らせない。


 妙子の心は閉じている。

 外からの入力をすべて遮断し、内側にも何も出力していない。

 思考もない。

 感情もない。

 ただ、呼吸だけが続いている。


 起きろ。

 学校に行け。


 僕は語りかけた。

 妙子の意識の底に向かって。


 征人なんか忘れろ。

 あいつの言葉は嘘だ。

 お前を傷つけるための嘘だ。

 お前には価値がある。


 返事はなかった。

 反応もなかった。

 妙子には僕の声が聞こえない。

 聞こえたことが、一度もない。


 ◇◆◇


 二日目。


 母親の真由子が帰ってきた。

 朝七時。

 徹夜仕事明けの疲れた足取りで玄関を開け、靴を脱ぎ、洗面所で顔を洗った。

 妙子の部屋の前を通り過ぎようとして、足を止めた。

 ドアが開いている。

 ベッドに妙子がいる。

 制服ではなく、二日前の服のままだ。


「妙子? 学校は?」


 真由子の声は疲れていたが、心配の色はあった。

 薄い、義務的な心配。

 自分の仕事で手一杯の人間が、最低限の責任感で発する問いかけ。


 妙子は答えなかった。

 布団をかぶったまま動かない。


「具合悪いの? 熱ある?」


 真由子が額に手を当てた。

 熱はない。

 妙子の体温は正常だ。

 ただ、心が死にかけている。


「……学校、休むなら連絡入れなきゃ」


 真由子はそう言って、キッチンに行った。

 学校に電話をかける声が、壁越しに聞こえた。

 「体調不良で休みます」。

 定型文。

 事実とは違うが、電話口で「娘の心が壊れています」とは言えない。

 言う能力もない。


 真由子は電話を切った後、自分の部屋に入り、眠った。

 徹夜明けの体は限界だ。

 妙子のことは「風邪だろう」程度に処理して、意識を手放した。


 昼過ぎ、学校から折り返しの電話が来た。

 担任の名前が画面に表示され、呼び出し音が薄い壁を震わせた。真由子は起きなかった。留守番電話に、欠席が続くなら養護教諭からも連絡したいという声が残った。


 誰かが異変の端をつかみかけていた。

 だが、端と中心の間には、廊下とドアと眠り込んだ母親がある。


 助けは存在するだけでは届かない。

 助ける側がドアを叩き、助けられる側が、ほんの数ミリでも鍵を回さなければならない。


 今の妙子には、その数ミリが海より遠かった。


 僕は電話へ手を伸ばそうとした。

 もちろん、指一本動かせない。妙子が前に出ることを許さなければ、僕は着信履歴ひとつ開けない。


 これまで僕は、妙子の代わりに何でも決められるつもりでいた。征人から引き離すことも、奏へ近づけることも。そのくせ、本当に必要な一回の電話を取ることさえできない。


 万能な守護者。

 笑わせる。


 僕は鍵ではなかった。ドアの内側で、妙子と一緒に閉じ込められている、もう一人の子供にすぎなかった。

 その事実だけが、消えかけた僕の輪郭をひどく鮮明にした。

 僕もまた、助けを待っていた。

 声の届かない、水の底で。


 僕は妙子の内側で、壁を叩いていた。


 起きろ。

 食べろ。

 水を飲め。

 お前の体が死ぬ。

 体が死ねば僕も死ぬ。


 妙子は動かなかった。


 ◇◆◇


 三日目。


 妙子は水だけを飲んだ。

 トイレに行くために起き上がり、洗面所で蛇口から直接水を飲み、またベッドに戻った。

 それだけ。


 スマホの通知が溜まっている。

 学校からの連絡。

 クラスのグループCHAIN。

 そして――奏からのメッセージ。


 「豊島、休んでるのか? プリント取っておくから」


 妙子はスマホの画面を見ていない。

 枕元で光っているだけだ。


 僕はその通知を、妙子の意識の奥底から見ていた。

 奏が連絡してきた。

 心配してくれている。

 だが、妙子にはそれが見えない。

 見る気力がない。


 四日目。


 妙子はベッドから出なかった。

 トイレにも行かなかった。

 真由子は仕事に出てしまった。

 冷蔵庫にコンビニのおにぎりが二つ置いてあったが、妙子は食べなかった。


 僕は自分の存在が薄れていくのを感じた。


 比喩ではない。

 実際に、僕の輪郭がぼやけ始めている。

 意識の底で点滅していたLEDランプが、だんだん暗くなっている。

 これは妙子の心が死に向かっているからだ。

 妙子の精神活動が停止すれば、その中に存在する僕も消える。

 妙子が生きているから僕は存在できる。

 妙子の心臓が動き、脳が機能し、意識がわずかでも残っているから、僕はここにいられる。

 だが、妙子の心は沈み続けている。

 海の底に向かって。

 光の届かない深度へ。


 妙子が死ねば、僕も消える。

 違う。

 妙子の心が死ねば、僕は消える。

 肉体が生きていても、心が完全に停止すれば、僕の存在基盤が失われる。


 消えたくない。

 その感情が、濁流のように押し寄せてきた。


 消えたくない。

 生きていたい。

 この世界をもっと知りたい。

 奏ともっと話したい。

 放課後の教室で、赤ペンを走らせながら、黙って作業する時間がほしい。

 分かれ道で「また明日」と言い合う時間がほしい。

 消えたくない。


 だが、僕はずっと信じてきた。

 妙子が回復すれば、僕は不要になる。

 妙子が自分の足で立てるようになれば、僕の存在意義はなくなり、やがて溶けるように消えていく、と。


 医者に聞いたわけではない。

 同じ存在に会ったこともない。

 僕が自分の役目から逆算して作った、ひどく都合のいい予言だ。


 妙子が壊れていれば僕は存在し続けられるのか。それすら、本当はわからない。

 今こうして二人とも沈みかけていることだけが、確かな事実だった。


 その選択肢を、一秒だけ考えた。

 一秒だけ。


 そして、捨てた。


 そんな選択肢を、僕は選べない。

 選んだ瞬間、僕は僕でなくなる。

 僕が存在する意味は、妙子を守ることだ。

 妙子を壊れたままにして自分が生きるなら、僕は楓都と同じだ。

 征人と同じだ。

 自分のために他者を犠牲にする人間だ。

 僕はそうはならない。


 だから、消える。

 妙子が回復するなら。

 妙子が生きるなら。

 僕は消える。


 だが、その前に。

 妙子を生かさなければならない。

 今、この瞬間を。


 ◇◆◇


 五日目。


 妙子がベッドから起き上がった。


 僕は一瞬、期待した。

 回復の兆候か。

 意識が戻ったのか。

 違った。


 妙子の目は、何も映していなかった。

 瞳孔が開いたまま、虚ろに前を向いている。

 自動操縦。

 意識はないまま、体だけが動いている。


 妙子は裸足で廊下を歩いた。

 リビングを通り過ぎ、ベランダの前に立った。

 カーテンを開けた。


 七月の太陽が、ガラス越しに部屋に入り込んだ。

 眩しい光。

 五日間閉め切っていた部屋に、初めて外の光が差した。


 妙子の手が、ベランダの窓の取っ手に触れた。


 マンションの五階。


 僕の意識が、全力で覚醒した。


 駄目だ。

 開けるな。

 出るな。


 妙子の手が取っ手を引いた。

 ガラス戸がスライドし、外の風が部屋に吹き込んだ。

 七月の熱い風。

 蝉の声が、一気に耳に飛び込んできた。


 妙子がベランダに出た。

 裸足の足がコンクリートの床を踏む。

 手すりまで二歩。

 手すりの向こうは空だ。

 五階分の高さの、何もない空間。


 僕は絶叫した。


 妙子! 止まれ! 戻れ!


 声は届かない。

 手も届かない。

 僕は妙子の意識の底にいて、体を動かす権限がない。

 妙子が主導権を渡さなければ、僕は何もできない。

 だが妙子は意識がない。

 渡すも渡さないもない。

 空っぽの体が、空っぽの心に従って、手すりに向かって歩いている。


 あと一歩。


 妙子の手が手すりに触れた。

 鉄の感触。

 太陽に熱せられた手すりが、指先を焼いた。


 熱い。

 その感覚が、妙子の凍りついた神経を、わずかに刺激した。


 妙子の目が、一瞬だけ焦点を結んだ。

 眼下に広がる景色。

 駐車場。

 アスファルト。

 停まっている車の屋根。

 コンクリートの点字ブロック。

 全部が遠い。

 全部が小さい。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴った。


 妙子の動きが止まった。

 手すりを握ったまま、体が硬直した。


 ピンポーン。


 もう一度。


 インターホンの音が、妙子の凍りついた回路に、微弱な電流を流した。

 誰かが来ている。

 玄関の外に。

 この部屋のドアの前に。


 妙子の手が、手すりから離れた。

 振り返った。

 ベランダの向こう、リビングの奥、廊下の先に、玄関がある。


 ピンポーン。


 三度目。


 妙子はベランダから部屋に戻った。

 ガラス戸を閉めなかった。

 カーテンも閉めなかった。

 ただ、廊下を歩いて、リビングを横切って、玄関の前に立った。


 ドアスコープを覗く力はなかった。


 妙子は玄関の床に座り込んだ。

 ドアに背中をつけて。

 膝を抱えて。


 インターホンは鳴り止んだ。


 代わりに、ドアの向こうから声が聞こえた。


「豊島。開けろ。プリント持ってきた」


 奏の声だった。


 僕は妙子の意識の底で、崩れ落ちた。


 来てくれた。

 奏が来てくれた。


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