18話:暗転
一日目。
妙子は起き上がらなかった。
朝のアラームが鳴った。
七時。
スマホの画面が白く光り、振動が枕元のテーブルを震わせた。
妙子は目を開けなかった。
アラームは五分間鳴り続け、やがて自動で止まった。
七時半。
二回目のアラーム。
また止まった。
八時。
三回目。
止まった。
制服はハンガーにかかったままだ。
鞄は玄関に置いてある。
靴は昨日、履いたまま部屋に入ったから、ベッドの脇に片方ずつ転がっている。
妙子は布団の中で丸くなっていた。
胎児のように膝を抱え、目を閉じ、世界を遮断していた。
僕は妙子の意識の片隅にいた。
片隅、という表現は正確ではない。
妙子の意識はほとんど機能していない。
明かりを消した部屋の中で、壁の隅に小さなLEDランプが点滅している――それが今の僕だ。
消えてはいない。
だが、何も照らせない。
妙子の心は閉じている。
外からの入力をすべて遮断し、内側にも何も出力していない。
思考もない。
感情もない。
ただ、呼吸だけが続いている。
起きろ。
学校に行け。
僕は語りかけた。
妙子の意識の底に向かって。
征人なんか忘れろ。
あいつの言葉は嘘だ。
お前を傷つけるための嘘だ。
お前には価値がある。
返事はなかった。
反応もなかった。
妙子には僕の声が聞こえない。
聞こえたことが、一度もない。
◇◆◇
二日目。
母親の真由子が帰ってきた。
朝七時。
徹夜仕事明けの疲れた足取りで玄関を開け、靴を脱ぎ、洗面所で顔を洗った。
妙子の部屋の前を通り過ぎようとして、足を止めた。
ドアが開いている。
ベッドに妙子がいる。
制服ではなく、二日前の服のままだ。
「妙子? 学校は?」
真由子の声は疲れていたが、心配の色はあった。
薄い、義務的な心配。
自分の仕事で手一杯の人間が、最低限の責任感で発する問いかけ。
妙子は答えなかった。
布団をかぶったまま動かない。
「具合悪いの? 熱ある?」
真由子が額に手を当てた。
熱はない。
妙子の体温は正常だ。
ただ、心が死にかけている。
「……学校、休むなら連絡入れなきゃ」
真由子はそう言って、キッチンに行った。
学校に電話をかける声が、壁越しに聞こえた。
「体調不良で休みます」。
定型文。
事実とは違うが、電話口で「娘の心が壊れています」とは言えない。
言う能力もない。
真由子は電話を切った後、自分の部屋に入り、眠った。
徹夜明けの体は限界だ。
妙子のことは「風邪だろう」程度に処理して、意識を手放した。
昼過ぎ、学校から折り返しの電話が来た。
担任の名前が画面に表示され、呼び出し音が薄い壁を震わせた。真由子は起きなかった。留守番電話に、欠席が続くなら養護教諭からも連絡したいという声が残った。
誰かが異変の端をつかみかけていた。
だが、端と中心の間には、廊下とドアと眠り込んだ母親がある。
助けは存在するだけでは届かない。
助ける側がドアを叩き、助けられる側が、ほんの数ミリでも鍵を回さなければならない。
今の妙子には、その数ミリが海より遠かった。
僕は電話へ手を伸ばそうとした。
もちろん、指一本動かせない。妙子が前に出ることを許さなければ、僕は着信履歴ひとつ開けない。
これまで僕は、妙子の代わりに何でも決められるつもりでいた。征人から引き離すことも、奏へ近づけることも。そのくせ、本当に必要な一回の電話を取ることさえできない。
万能な守護者。
笑わせる。
僕は鍵ではなかった。ドアの内側で、妙子と一緒に閉じ込められている、もう一人の子供にすぎなかった。
その事実だけが、消えかけた僕の輪郭をひどく鮮明にした。
僕もまた、助けを待っていた。
声の届かない、水の底で。
僕は妙子の内側で、壁を叩いていた。
起きろ。
食べろ。
水を飲め。
お前の体が死ぬ。
体が死ねば僕も死ぬ。
妙子は動かなかった。
◇◆◇
三日目。
妙子は水だけを飲んだ。
トイレに行くために起き上がり、洗面所で蛇口から直接水を飲み、またベッドに戻った。
それだけ。
スマホの通知が溜まっている。
学校からの連絡。
クラスのグループCHAIN。
そして――奏からのメッセージ。
「豊島、休んでるのか? プリント取っておくから」
妙子はスマホの画面を見ていない。
枕元で光っているだけだ。
僕はその通知を、妙子の意識の奥底から見ていた。
奏が連絡してきた。
心配してくれている。
だが、妙子にはそれが見えない。
見る気力がない。
四日目。
妙子はベッドから出なかった。
トイレにも行かなかった。
真由子は仕事に出てしまった。
冷蔵庫にコンビニのおにぎりが二つ置いてあったが、妙子は食べなかった。
僕は自分の存在が薄れていくのを感じた。
比喩ではない。
実際に、僕の輪郭がぼやけ始めている。
意識の底で点滅していたLEDランプが、だんだん暗くなっている。
これは妙子の心が死に向かっているからだ。
妙子の精神活動が停止すれば、その中に存在する僕も消える。
妙子が生きているから僕は存在できる。
妙子の心臓が動き、脳が機能し、意識がわずかでも残っているから、僕はここにいられる。
だが、妙子の心は沈み続けている。
海の底に向かって。
光の届かない深度へ。
妙子が死ねば、僕も消える。
違う。
妙子の心が死ねば、僕は消える。
肉体が生きていても、心が完全に停止すれば、僕の存在基盤が失われる。
消えたくない。
その感情が、濁流のように押し寄せてきた。
消えたくない。
生きていたい。
この世界をもっと知りたい。
奏ともっと話したい。
放課後の教室で、赤ペンを走らせながら、黙って作業する時間がほしい。
分かれ道で「また明日」と言い合う時間がほしい。
消えたくない。
だが、僕はずっと信じてきた。
妙子が回復すれば、僕は不要になる。
妙子が自分の足で立てるようになれば、僕の存在意義はなくなり、やがて溶けるように消えていく、と。
医者に聞いたわけではない。
同じ存在に会ったこともない。
僕が自分の役目から逆算して作った、ひどく都合のいい予言だ。
妙子が壊れていれば僕は存在し続けられるのか。それすら、本当はわからない。
今こうして二人とも沈みかけていることだけが、確かな事実だった。
その選択肢を、一秒だけ考えた。
一秒だけ。
そして、捨てた。
そんな選択肢を、僕は選べない。
選んだ瞬間、僕は僕でなくなる。
僕が存在する意味は、妙子を守ることだ。
妙子を壊れたままにして自分が生きるなら、僕は楓都と同じだ。
征人と同じだ。
自分のために他者を犠牲にする人間だ。
僕はそうはならない。
だから、消える。
妙子が回復するなら。
妙子が生きるなら。
僕は消える。
だが、その前に。
妙子を生かさなければならない。
今、この瞬間を。
◇◆◇
五日目。
妙子がベッドから起き上がった。
僕は一瞬、期待した。
回復の兆候か。
意識が戻ったのか。
違った。
妙子の目は、何も映していなかった。
瞳孔が開いたまま、虚ろに前を向いている。
自動操縦。
意識はないまま、体だけが動いている。
妙子は裸足で廊下を歩いた。
リビングを通り過ぎ、ベランダの前に立った。
カーテンを開けた。
七月の太陽が、ガラス越しに部屋に入り込んだ。
眩しい光。
五日間閉め切っていた部屋に、初めて外の光が差した。
妙子の手が、ベランダの窓の取っ手に触れた。
マンションの五階。
僕の意識が、全力で覚醒した。
駄目だ。
開けるな。
出るな。
妙子の手が取っ手を引いた。
ガラス戸がスライドし、外の風が部屋に吹き込んだ。
七月の熱い風。
蝉の声が、一気に耳に飛び込んできた。
妙子がベランダに出た。
裸足の足がコンクリートの床を踏む。
手すりまで二歩。
手すりの向こうは空だ。
五階分の高さの、何もない空間。
僕は絶叫した。
妙子! 止まれ! 戻れ!
声は届かない。
手も届かない。
僕は妙子の意識の底にいて、体を動かす権限がない。
妙子が主導権を渡さなければ、僕は何もできない。
だが妙子は意識がない。
渡すも渡さないもない。
空っぽの体が、空っぽの心に従って、手すりに向かって歩いている。
あと一歩。
妙子の手が手すりに触れた。
鉄の感触。
太陽に熱せられた手すりが、指先を焼いた。
熱い。
その感覚が、妙子の凍りついた神経を、わずかに刺激した。
妙子の目が、一瞬だけ焦点を結んだ。
眼下に広がる景色。
駐車場。
アスファルト。
停まっている車の屋根。
コンクリートの点字ブロック。
全部が遠い。
全部が小さい。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
妙子の動きが止まった。
手すりを握ったまま、体が硬直した。
ピンポーン。
もう一度。
インターホンの音が、妙子の凍りついた回路に、微弱な電流を流した。
誰かが来ている。
玄関の外に。
この部屋のドアの前に。
妙子の手が、手すりから離れた。
振り返った。
ベランダの向こう、リビングの奥、廊下の先に、玄関がある。
ピンポーン。
三度目。
妙子はベランダから部屋に戻った。
ガラス戸を閉めなかった。
カーテンも閉めなかった。
ただ、廊下を歩いて、リビングを横切って、玄関の前に立った。
ドアスコープを覗く力はなかった。
妙子は玄関の床に座り込んだ。
ドアに背中をつけて。
膝を抱えて。
インターホンは鳴り止んだ。
代わりに、ドアの向こうから声が聞こえた。
「豊島。開けろ。プリント持ってきた」
奏の声だった。
僕は妙子の意識の底で、崩れ落ちた。
来てくれた。
奏が来てくれた。




