19話:五階の窓辺
奏の声が、ドア越しに響いていた。
「豊島。開けろ。プリント持ってきた」
妙子は玄関の床に座り込んだまま、膝を抱えていた。
ドアに背中を預け、後頭部がドアの冷たい表面に触れている。
裸足。
五日間着替えていない服。
髪はぼさぼさで、唇はひび割れている。
奏の声が、薄い鉄板一枚を隔てて聞こえている。
低くて、硬くて、でも温かい声。
「聞こえてるか。聞こえてなくてもいい。プリント、ドアの前に置いていく」
カサッという音。
封筒が床に置かれた音。
沈黙。
奏が帰ったのかと思った。
足音が遠ざかるのを待った。
だが、足音は聞こえなかった。
奏はまだそこにいる。
ドアの向こう側に。
「……座らせてもらうぞ」
ドアの向こうで、布が擦れる音がした。
奏がドアの前に座り込んだのだ。
背中合わせ。
薄い鉄板を挟んで、二人の背中が向かい合っている。
僕は妙子の意識の底にいた。
奏の声が聞こえる。
ぼんやりと。
水の底から水面を見上げるように、奏の声が歪んで届く。
一分。
二分。
三分。
奏は黙っていた。
ただ、そこにいた。
やがて、奏が口を開いた。
「俺はさ、昔、人を助けられなかったことがある」
独り言のような声だった。
妙子に向けているのか、自分に向けているのか、わからない声量。
ドアの鉄板を通すと、さらにくぐもった音になる。
「三年前。嵐の夜。橋の上で誰かとぶつかって、川に落ちかけた」
妙子の指先が、わずかに動いた。
膝を抱えていた手が、ほんの少しだけ緩んだ。
「助けてくれた人がいた。のぼりを差し出してくれた。あれがなかったら、俺は死んでた」
奏の声が、少しだけ震えた。
三年間封じていた記憶を、初めて言葉にしている。
ドアの前で。
座り込んだまま。
独り言のように。
「でも、その人を助けられなかった。橋の上から消えて、暗闇の中に行ってしまって、俺は追いかけられなかった。自分のことで精一杯で。助けてくれた相手を、見捨てた」
沈黙。
奏が言葉を探している。
「それがずっと引っかかってて。だから正しくあろうとしてきた。ルールを守って、規則を守って、間違ったことをしてる奴がいたら止めて。……正しくあれば、あの夜の自分を許せると思ってた」
奏の声が低くなった。
壁に届く振動が変わった。
「でも、正しさじゃ人は救えないって、最近わかった」
廊下の蛍光灯が、ジジ、と音を立てた。
「お前のこと、全部わかるとは思わない。何があったかも知らない。聞かない。お前が話したくないことは聞かない」
妙子の呼吸が、わずかに変化した。
浅く、不規則だった呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。
「でも。お前が学級委員の仕事を一緒にやってくれた時間は、俺にとって意味があった。体育祭の準備であっちこっち走り回った時間も、赤ペンでプリントを直した時間も、分かれ道で手を振った時間も。全部。意味があった」
奏の声が、ドアの鉄板を通り抜けて、妙子の背中に伝わっていた。
振動として。
温度として。
「それだけは嘘じゃない」
沈黙が降りた。
長い沈黙。
三十秒。
一分。
二分。
妙子の目から、液体が落ちた。
涙だった。
五日間、凍りついていた感情が、溶け始めていた。
声は出なかった。
嗚咽もなかった。
ただ、涙だけが、静かに頬を伝っていた。
僕は妙子の意識の底で、その涙を感じていた。
妙子が泣いている。
五日ぶりに。
凍っていた心が、ほんのわずかに動き始めている。
妙子の手が動いた。
膝を離れ、背中の後ろに伸びた。
ドアの取っ手に触れた。
鍵を回す音。
カチャリ。
小さな金属音が、廊下に響いた。
◇◆◇
ドアが薄く開いた。
五センチほどの隙間から、廊下の蛍光灯の光が差し込んだ。
奏が立ち上がった気配がした。
ドアの隙間から、妙子の姿が見えたはずだ。
僕は妙子の目を通して、わずかに開いたドアの向こうを見た。
奏が立っていた。
制服のまま。
手に白い封筒と、コンビニの袋を持っている。
奏の目が妙子を見た。
目の下の濃い隈。
こけた頬。
乾いた唇。
ぼさぼさの髪。
五日間着替えていない服。
裸足の足。
奏は何も言わなかった。
表情も変えなかった。
ただ、コンビニの袋を差し出した。
「食え」
一言。
それだけだった。
妙子がコンビニの袋を受け取った。
中身が見えた。
おにぎり二つと、ペットボトルの水。
妙子の指が袋を握った瞬間、何かが決壊した。
声が出た。
妙子の口から、声が出た。
五日間、一言も発しなかった口から。
最初は喉の奥のかすれた音。
それが、徐々に形を持ち始めた。
低い振動が声帯を揺らし、空気が口腔を通り抜け、音になる。
泣き声だった。
妙子が泣いた。
声を出して。
しゃくりあげて。
膝から崩れ落ちて。
玄関の床に座り込んだまま、コンビニの袋を胸に抱えて、泣いた。
幼い泣き方だった。
三歳の子供が転んで、膝を擦りむいて、痛くて悲しくて怖くて、でも誰かが来てくれたから安心して泣く、あの泣き方。
大人の涙ではない。
赤ん坊の泣き声に近い、原始的な、剥き出しの感情の発露。
奏は玄関の外に立ったまま、妙子が泣くのを見ていた。
入らなかった。
自分から中に入ることはしなかった。
ドアは妙子が開けた。
でも、招き入れてはいない。
奏はその境界線を正確に理解していた。
ドアの外で、奏はしゃがんだ。
妙子と同じ目線になった。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
◇◆◇
妙子が泣き止むまで、十五分かかった。
泣き疲れて、しゃくりあげの間隔が長くなり、呼吸が整い、涙が枯れた。
目が腫れている。
鼻が詰まっている。
喉が痛い。
だが、五日ぶりに、妙子の目に焦点があった。
「……ごめん、なさい」
妙子の最初の言葉が、謝罪だった。
「何で謝る」
奏の声は硬かったが、責めてはいなかった。
「こんな……汚い格好で……」
「関係ない。それおにぎり、食えるか?」
妙子は手の中のコンビニの袋を見下ろした。
おにぎり。
ツナマヨ。
前に「僕」が奏に差し出したのと同じ味。
偶然か。
それとも、奏が覚えていたのか。
妙子は震える手で包装を剥がし、一口かじった。
噛む力が弱り、飲み込むのに時間がかかった。
だが、胃に食べ物が入った。
五日ぶりに。
「……おいしい」
小さな声だった。
涙が混じった声。
おにぎりひとつが、こんなに温かいとは知らなかった。
奏は頷いた。
「水も飲め」
「うん……」
ペットボトルのキャップを開け、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく。
体が水を求めていたことに、今さら気づいた。
「下で担任が待ってる。お前のお母さんに連絡して、住所を聞いたのは先生だ」
奏は妙子の顔から目を逸らさずに言った。
「今すぐ会えとは言わない。でも、五日ほとんど食べられなかったことは伝える」
妙子は一度目を伏せた。
それから、小さく頷いた。
「明日も来る。プリント、溜まってるから」
奏はそう言って立ち上がった。
「あ、待って……」
妙子が顔を上げた。
涙で赤くなった目で、奏を見上げた。
「国立くん。……ありがとう」
奏は一瞬だけ足を止め、それから小さく頷いた。
「礼はいらない。食え。寝ろ。明日来る」
三つの命令。
簡潔で、実用的で、温かい。
奏の足音が遠ざかっていった。
エレベーターのボタンを押す音。
ドアが開く音。
閉まる音。
妙子はドアを閉め、鍵をかけ、玄関の壁にもたれた。
おにぎりの残りを、ゆっくりと食べた。
◇◆◇
その夜。
妙子が眠った。
五日ぶりの、まともな眠り。
泣き疲れた体が、深い眠りを求めていた。
おにぎりと水を入れた体は、わずかだが回復の兆しを見せていた。
呼吸が安定し、体温が戻り、筋肉の強張りが緩んだ。
僕は浮上した。
暗い部屋。
妙子が眠るベッド。
時計の針が午前一時を指している。
僕は起き上がらなかった。
天井を見上げたまま、考えていた。
奏が来てくれた。
妙子は泣いた。
食べた。
眠った。
最悪の事態は回避された。
ベランダの手すりに手をかけた妙子を、奏のインターホンが引き戻した。
妙子は助かるかもしれない。
その確信が、僕の中にゆっくりと広がっていった。
奏がいれば、妙子は立ち直れる。
奏の存在が、妙子の世界を支える新しい柱になる。
征人に壊された場所を、奏が静かに埋めていく。
そして、それは。
僕が不要になるということだ。
妙子が回復すれば、防壁としての僕は要らなくなる。
妙子が自分の心を持って、自分の足で立って、自分の声で話せるようになれば、僕の存在意義は消える。
統合。
分離した人格が主人格に吸収されるプロセス。
僕の記憶、僕の感情、僕の思考の全てが、妙子の深層に沈み、やがて輪郭を失い、溶けていく。
消える。
消えたくない。
昨日もそう思った。
今日もそう思う。
明日もそう思うだろう。
だけど。
妙子が生きる。
それだけでいい。
奏が妙子の傍にいてくれる。
それだけでいい。
僕は目を閉じた。
まだだ。
まだ消えない。
妙子の回復はまだ始まったばかりだ。
奏が来てくれたことで、最悪の事態は避けられた。
だが、妙子が完全に回復するには時間がかかる。
その間に僕がやるべきことがある。
最後の仕事。
妙子の中にいる僕は、妙子と直接話すことができない。
だが、行動で残すことはできる。
僕が表に出ている間に、妙子の回復を後押しする一手を打つ。
奏に、メッセージを送る。
妙子の名前で。
妙子の言葉として。
奏と妙子を、直接繋ぐ。
僕はベッドから起き上がった。
枕元のスマホを手に取った。
画面が光る。
奏のCHAINを開いた。
五日分の未読メッセージが並んでいる。
「豊島、休んでるのか? プリント取っておくから」
「明日も来なかったら俺がまとめ直す。心配するな」
「体調が悪いなら無理するなよ」
「担任から連絡があった。お母さんの了承も取れた。プリントを届けに行く」
住所を調べて押しかけたのではない。
奏は担任へ相談し、母親の了承が下りるのを待ち、そのうえで来た。
僕は入力画面を開いた。
指先がスマホのガラスの表面に触れる。
妙子の指。
僕の意志。
何を書けばいい。
妙子が奏に言いたいこと。
妙子がまだ言えないこと。
妙子が知らないうちに、奏に伝わってほしいこと。
僕は打った。
「明日、学校に行く。――ありがとう、奏」
名前で呼んだ。
「国立くん」ではなく、「奏」。
妙子はまだ奏を名前で呼べない。
だが、僕は呼べる。
ずっと心の中でそう呼んできた。
送信ボタンの上で、指が止まった。
明日ではない。
妙子は今日、ようやく自分で玄関の鍵を開けたばかりだ。その一歩を、僕の都合で学校まで引き延ばしてはいけない。
約束を先に作って従わせるのは、妙子のためという言葉で妙子の選択を奪うことだ。
僕は短文を下書きに残し、画面を閉じた。
妙子がもう少し食べ、眠り、自分で次の一歩を選べるところまで戻るのを待つ。
最後の言葉を送るのは、その夜だ。
天井の染みを見上げた。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
梅雨の染みは乾き始めていた。
輪郭が固まり、元の形がわかるようになっている。
彼女を殺す時が来た。
だが、今夜ではない。
あの日、五時間目の教室で、僕はそう誓った。
彼女を殺さなければならない、と。
殺すのは妙子ではない。
殺すのは、僕だ。
妙子の中にいる、もう一人の人格。
防壁として生まれ、盾として機能し、妙子の痛みを代わりに受け止めてきた存在。
僕が妙子の人格に溶け合い、ひとつになる。
僕は――「彼女を殺す」と、そう呼んできた。
僕という存在が消える。
そして、僕に守られることでしか生きられなかった今の彼女も死ぬ。
弱くて、怯えていて、誰かにすがることでしか立てなかった妙子は、もういなくなる。
代わりに、新しい妙子が生まれる。
僕の記憶を、僕の強さを、僕の痛みを、全部飲み込んで。
自分の足で立つ、一人の人間として。
僕は目を閉じた。
妙子がもう一度、自分の手でドアを開けられるようになったとき。
そのときこそ、僕の最後の仕事を終える。




