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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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20/21

20話:最後の夜

 奏は毎日来た。


 六日目。

 七日目。

 八日目。

 放課後になると、マンションのインターホンが鳴る。

 妙子がモニターを覗くと、奏が制服のまま立っている。

 手にはプリントの封筒と、コンビニの袋。


 初日の帰り、奏は下で待っていた担任に妙子の状態を伝えた。担任から母親へ、担任から養護教諭へ連絡が回った。

 その夜の電話に妙子は出られなかったが、翌朝、「水は飲みました」とだけ担任へ返信した。


 最初の三日間は、ドア越しだった。


 妙子はチェーンをかけたまま、五センチの隙間からプリントとコンビニの袋を受け取った。

 奏はそれ以上を求めなかった。

 「食え。

 寝ろ」と言って帰っていった。


 八日目に、妙子がチェーンを外した。


 ドアを半分だけ開けて、奏と顔を見合わせた。

 奏は妙子の顔を見て、「少しマシな顔になったな」と言った。

 妙子は困ったように笑った。

 笑えるようになっていた。


 九日目。

 玄関先で、立ったまま少し話した。


「期末テスト、来週なんだけど」

「うん……わかってる」

「わかってるなら対策しろ。赤点取ったら成績に響く」

「……優しくないね」

「事実を言ってる」


 会話が交わせるようになっていた。

 短い、事務的な会話。

 だが、以前の「僕」と奏の会話とは質が違った。

 妙子の言葉は控えめで、声は小さく、目線は下に向いている。

 奏との対等な掛け合いではなく、守られる側の態度。


 奏はその違いに気づいている。


 以前の「豊島」は、奏と同じスピードで考え、同じ目線で話し、時に先回りした。

 今の豊島は、相手の反応を窺いながら、一拍遅れて返事をする。

 同じ人間。

 同じ顔。

 同じ声。

 だが、中身が違う。


 奏はそれを「回復途中だから」と解釈しているかもしれない。

 まだ本調子じゃないだけだ、と。

 だが、心のどこかで感じているはずだ。

 あの「豊島」は、今はいないのだ、と。


 僕は妙子の内側から、その変化を見守っていた。


 妙子が回復している。

 ゆっくりと。

 不確かに。

 だが、確実に。

 奏が毎日来てくれることが、妙子の世界に新しい柱を立てている。

 征人が壊した場所に、奏が静かに足場を組んでいく。

 一日ひとつ。

 おにぎりひとつ分。

 プリント一枚分。

 「食え。

 寝ろ。

 明日来る」の三語分。


 妙子はまだ脆い。

 征人の言葉の毒はまだ心に残っている。

 「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」「タコ女」。

 それらの言葉が、夜中にふと頭をよぎると、妙子は布団の中で丸くなる。

 だが、翌日にはまた奏が来る。

 インターホンが鳴る。

 その音が、妙子を世界に繋ぎ止めている。


 もう大丈夫だ。


 僕はそう判断した。

 妙子は自分の足で立ち始めている。

 奏が支えてくれている。

 あとは時間の問題だ。


 最後の仕事をする時が来た。


 ◇◆◇


 十日目の夜。


 妙子は夕方に奏と三十分ほど玄関先で話した後、シャワーを浴び、コンビニのおにぎりを食べ、ベッドに横たわった。

 スマホで奏に「今日もありがとう」と送り、奏から「明日も来る」と返ってきたのを見て、安心して目を閉じた。


 妙子が眠るのを待った。

 呼吸が深くなる。

 体の力が抜ける。

 瞼の裏の光が消える。


 妙子が眠った。


 僕が浮上した。


 午前零時。

 暗い部屋。

 窓の外には夏の月が出ている。

 薄い雲がかかっているが、月の輪郭は見えた。


 起き上がった。

 枕元のスマホを手に取った。

 画面の光が顔を照らす。

 妙子の顔。

 僕の意志。


 奏のCHAINを開いた。


 入力画面を開いた。

 奏が最初に来た夜に打ち、送らずに残していた短文が表示された。


 「明日、学校に行く。――ありがとう、奏」


 これだけを先に送った。

 時刻は午前一時十二分。

 続けて、もう一通の入力欄を開く。


 長いメッセージを書く。

 これが最後だ。

 「僕」として、奏に言葉を残す。

 妙子が知らない真実を、奏に託す。


 指が動いた。


 ――


 「奏。夜中に悪い。これだけは読んでほしい」


 「まず、信じてくれなくてもいい。信じろと言うつもりもない。ただ、僕が書くことは全部本当だ」


 「僕は豊島妙子じゃない。妙子の中にいる、名前のない誰かだ」


 「名前はない。妙子も知らない。妙子の記憶に空白があるのは、その間、僕が表に出ていたからだ。学級委員の仕事をしたのも、借り物競争でお前のところへ走ったのも僕だ」


 「ずっと前から、僕は妙子の中にいる。妙子を守る壁になるために。三年前の嵐の夜も、そこにいた。あの橋でお前を見捨てた奴はいない。それだけは信じてくれ。詳しいことは、いつか妙子が聞きたいと言ったときに、お前の言葉で話してやってほしい」


 指が止まった。

 ここから先は、もっと難しい。


 「妙子は征人とのことで壊れた。お前が来てくれなければ、妙子は――」


 書けなかった。

 ベランダのことは、書けなかった。

 書かない方がいい。

 奏に背負わせる重さではない。


 「お前が来てくれたから、妙子は助かった。それだけは伝えておく」


 「僕はもうすぐ消えると思う。妙子の中に溶けるのか、眠るだけなのか、本当のところは僕にもわからない。知ったふうなことを言ってきたけど、これは僕の予想にすぎない」


 打ち込んだ文を、二度読み返した。

 「統合」という便利な言葉を書きかけて、消した。辞書の中では整っていても、僕の恐怖には何の説明にもならない。眠るのか。混ざるのか。明日の朝、また目を開けるのか。


 わからない。


 最後くらい、その無知を認める。


 消えると断言した方が、奏には伝わりやすい。遺書らしく格好もつく。

 けれど僕は、きれいに死ぬためにここまで生きたわけではない。

 わからないまま怖がる。それが今の僕に残された、最後の正直さだった。

 格好はつかない。だが、奏になら笑われてもいい。

 たぶん。

 きっと。


 「消えたくない。正直に言う。消えたくない。生きていたい。お前ともっと話したい。赤ペンでプリントを直しながら、どうでもいい話がしたい。分かれ道で手を振って、『また明日』と言いたい。コンビニのおにぎりを半分こして、『うまい』って言い合いたい」


 「でも、それは叶わない。僕が生き続けるためには、妙子が壊れたままでいなければならない。そんな選択肢を、僕は選べない」


 「妙子が僕を置いて歩き出すなら、それが一番の救いだ」


 「だから、お前に頼む」


 「妙子をよろしく。ただし、僕の言うとおりに扱うな。妙子のことは妙子に聞け。お前一人だけを頼らせるな。あいつが助けを選べるように、選べる場所を増やしてやってくれ」


 「あとひとつ。妙子が『国立くん』と呼んでも、がっかりするな。いつか名前で呼べるようになるまで、待ってやってほしい」


 「お前になら託せる。お前になら」


 「――お前の親友より」


 ――


 書き終えた。


 指先が震えていた。

 妙子の手は小さくて、指が細い。

 この手で、僕は最後の言葉を綴った。


 送信ボタンの上に、親指を置いた。


 この中身を送れば、すべてが変わる。

 奏は「僕」の存在を知る。

 妙子の中に別人格がいたことを知る。

 嵐の夜の真相を知る。

 奏がどう反応するかはわからない。

 信じないかもしれない。

 気味悪がるかもしれない。

 妙子から離れるかもしれない。


 だが、可能性に賭ける。

 奏なら。

 あの正しくあろうとし続けた男なら。

 事実を受け止め、妙子を受け入れてくれると。


 押した。


 送信完了。


 スマホを枕元に置いた。

 画面が暗くなった。


 ◇◆◇


 天井を見上げた。


 右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。

 あの染み。

 梅雨が明けて、染みは完全に乾いていた。

 輪郭がくっきりと浮かび上がり、元の形が見える。

 ただの水の跡だった。

 恐ろしいものでも、不吉なものでもない。

 ただの、水が通った痕跡。


 生きたかった。


 この言葉が、胸の奥から零れ落ちた。

 泣きたいのに、泣けなかった。

 涙は妙子のものだ。

 僕は妙子の感情を借りることはできるが、僕自身の涙は持っていない。


 もっとこの世界を見たかった。

 夏の日差し。

 秋の風。

 冬の冷たい空気。

 春の匂い。

 全部、妙子の感覚を通してしか知らないけれど、それでも美しかった。


 奏と馬鹿な話をして笑いたかった。

 コンビニのおにぎりの味を議論したかった。

 帰り道で空を見上げて、雲の形に名前をつけるような、何の意味もない時間を過ごしたかった。


 でも。

 それでいい。


 彼女が僕を置いて歩き出すなら、それが一番の救いだ。


 僕は目を閉じた。


 妙子の意識の底で、僕の輪郭がぼやけ始めている。

 明確な境界線が溶け出している。

 僕の記憶と妙子の記憶が、少しずつ混じり合っている。

 奏との会話。

 体育祭の風。

 借り物競争のカード。

 ドリンクバーのアイスティー。

 分かれ道の夕日。


 境界がほどけ始めている。


 これを統合と呼ぶのか、消滅と呼ぶのか、僕には決められない。

 ただ、妙子の心の底へ沈み、妙子の記憶の海に触れ、僕だけの輪郭が薄くなっていく。


 怖い。

 怖いけれど。


 妙子。

 お前は一人じゃない。

 奏がいる。

 お前自身の強さがある。

 僕が九年間守ってきたその芯が、お前を支えてくれる。


 だから、もう大丈夫だ。


 さよなら。


 視界が滲む。

 「僕」と「妙子」の境界が、水に落とした墨のように溶けていく。

 どこまでが僕で、どこからが妙子なのか、もうわからない。


 僕は――


 ◇◆◇


 朝日が差し込んだ。


 カーテンの隙間から、白い光が部屋を横切った。

 夏の朝。

 まだ六時だが、空はもう明るい。

 蝉の声が外から聞こえている。


 ベッドの上で、目が開いた。


 天井の染み。

 右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。


 いつもと同じ天井。

 いつもと同じ部屋。

 いつもと同じ朝。


 だけど、何かが違う。


 頭の中が、静かだ。


 いつもどこかにあった「もうひとつの気配」が、消えている。

 誰かに見守られているような、背中越しに視線を感じるような、あの薄い存在感。

 それが、なくなっている。


 部屋に一人。

 頭の中にも一人。


 完全に、一人だ。


 なのに――寂しくない。

 不思議だった。

 以前の私なら、この空白に怖くなっていたはずだ。

 でも、胸の奥に、何か温かいものが残っている。

 言葉にならない記憶の残照。

 誰かが、ずっと見守ってくれたような、確かな感触。


 起き上がった。

 背筋が、いつもより少しだけまっすぐに伸びた。


 目を開けたのは――妙子だった。


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