20話:最後の夜
奏は毎日来た。
六日目。
七日目。
八日目。
放課後になると、マンションのインターホンが鳴る。
妙子がモニターを覗くと、奏が制服のまま立っている。
手にはプリントの封筒と、コンビニの袋。
初日の帰り、奏は下で待っていた担任に妙子の状態を伝えた。担任から母親へ、担任から養護教諭へ連絡が回った。
その夜の電話に妙子は出られなかったが、翌朝、「水は飲みました」とだけ担任へ返信した。
最初の三日間は、ドア越しだった。
妙子はチェーンをかけたまま、五センチの隙間からプリントとコンビニの袋を受け取った。
奏はそれ以上を求めなかった。
「食え。
寝ろ」と言って帰っていった。
八日目に、妙子がチェーンを外した。
ドアを半分だけ開けて、奏と顔を見合わせた。
奏は妙子の顔を見て、「少しマシな顔になったな」と言った。
妙子は困ったように笑った。
笑えるようになっていた。
九日目。
玄関先で、立ったまま少し話した。
「期末テスト、来週なんだけど」
「うん……わかってる」
「わかってるなら対策しろ。赤点取ったら成績に響く」
「……優しくないね」
「事実を言ってる」
会話が交わせるようになっていた。
短い、事務的な会話。
だが、以前の「僕」と奏の会話とは質が違った。
妙子の言葉は控えめで、声は小さく、目線は下に向いている。
奏との対等な掛け合いではなく、守られる側の態度。
奏はその違いに気づいている。
以前の「豊島」は、奏と同じスピードで考え、同じ目線で話し、時に先回りした。
今の豊島は、相手の反応を窺いながら、一拍遅れて返事をする。
同じ人間。
同じ顔。
同じ声。
だが、中身が違う。
奏はそれを「回復途中だから」と解釈しているかもしれない。
まだ本調子じゃないだけだ、と。
だが、心のどこかで感じているはずだ。
あの「豊島」は、今はいないのだ、と。
僕は妙子の内側から、その変化を見守っていた。
妙子が回復している。
ゆっくりと。
不確かに。
だが、確実に。
奏が毎日来てくれることが、妙子の世界に新しい柱を立てている。
征人が壊した場所に、奏が静かに足場を組んでいく。
一日ひとつ。
おにぎりひとつ分。
プリント一枚分。
「食え。
寝ろ。
明日来る」の三語分。
妙子はまだ脆い。
征人の言葉の毒はまだ心に残っている。
「俺がいなくなったら、お前ひとりで大丈夫なの」「その傷、見せられる相手なんて俺くらいだろ」「タコ女」。
それらの言葉が、夜中にふと頭をよぎると、妙子は布団の中で丸くなる。
だが、翌日にはまた奏が来る。
インターホンが鳴る。
その音が、妙子を世界に繋ぎ止めている。
もう大丈夫だ。
僕はそう判断した。
妙子は自分の足で立ち始めている。
奏が支えてくれている。
あとは時間の問題だ。
最後の仕事をする時が来た。
◇◆◇
十日目の夜。
妙子は夕方に奏と三十分ほど玄関先で話した後、シャワーを浴び、コンビニのおにぎりを食べ、ベッドに横たわった。
スマホで奏に「今日もありがとう」と送り、奏から「明日も来る」と返ってきたのを見て、安心して目を閉じた。
妙子が眠るのを待った。
呼吸が深くなる。
体の力が抜ける。
瞼の裏の光が消える。
妙子が眠った。
僕が浮上した。
午前零時。
暗い部屋。
窓の外には夏の月が出ている。
薄い雲がかかっているが、月の輪郭は見えた。
起き上がった。
枕元のスマホを手に取った。
画面の光が顔を照らす。
妙子の顔。
僕の意志。
奏のCHAINを開いた。
入力画面を開いた。
奏が最初に来た夜に打ち、送らずに残していた短文が表示された。
「明日、学校に行く。――ありがとう、奏」
これだけを先に送った。
時刻は午前一時十二分。
続けて、もう一通の入力欄を開く。
長いメッセージを書く。
これが最後だ。
「僕」として、奏に言葉を残す。
妙子が知らない真実を、奏に託す。
指が動いた。
――
「奏。夜中に悪い。これだけは読んでほしい」
「まず、信じてくれなくてもいい。信じろと言うつもりもない。ただ、僕が書くことは全部本当だ」
「僕は豊島妙子じゃない。妙子の中にいる、名前のない誰かだ」
「名前はない。妙子も知らない。妙子の記憶に空白があるのは、その間、僕が表に出ていたからだ。学級委員の仕事をしたのも、借り物競争でお前のところへ走ったのも僕だ」
「ずっと前から、僕は妙子の中にいる。妙子を守る壁になるために。三年前の嵐の夜も、そこにいた。あの橋でお前を見捨てた奴はいない。それだけは信じてくれ。詳しいことは、いつか妙子が聞きたいと言ったときに、お前の言葉で話してやってほしい」
指が止まった。
ここから先は、もっと難しい。
「妙子は征人とのことで壊れた。お前が来てくれなければ、妙子は――」
書けなかった。
ベランダのことは、書けなかった。
書かない方がいい。
奏に背負わせる重さではない。
「お前が来てくれたから、妙子は助かった。それだけは伝えておく」
「僕はもうすぐ消えると思う。妙子の中に溶けるのか、眠るだけなのか、本当のところは僕にもわからない。知ったふうなことを言ってきたけど、これは僕の予想にすぎない」
打ち込んだ文を、二度読み返した。
「統合」という便利な言葉を書きかけて、消した。辞書の中では整っていても、僕の恐怖には何の説明にもならない。眠るのか。混ざるのか。明日の朝、また目を開けるのか。
わからない。
最後くらい、その無知を認める。
消えると断言した方が、奏には伝わりやすい。遺書らしく格好もつく。
けれど僕は、きれいに死ぬためにここまで生きたわけではない。
わからないまま怖がる。それが今の僕に残された、最後の正直さだった。
格好はつかない。だが、奏になら笑われてもいい。
たぶん。
きっと。
「消えたくない。正直に言う。消えたくない。生きていたい。お前ともっと話したい。赤ペンでプリントを直しながら、どうでもいい話がしたい。分かれ道で手を振って、『また明日』と言いたい。コンビニのおにぎりを半分こして、『うまい』って言い合いたい」
「でも、それは叶わない。僕が生き続けるためには、妙子が壊れたままでいなければならない。そんな選択肢を、僕は選べない」
「妙子が僕を置いて歩き出すなら、それが一番の救いだ」
「だから、お前に頼む」
「妙子をよろしく。ただし、僕の言うとおりに扱うな。妙子のことは妙子に聞け。お前一人だけを頼らせるな。あいつが助けを選べるように、選べる場所を増やしてやってくれ」
「あとひとつ。妙子が『国立くん』と呼んでも、がっかりするな。いつか名前で呼べるようになるまで、待ってやってほしい」
「お前になら託せる。お前になら」
「――お前の親友より」
――
書き終えた。
指先が震えていた。
妙子の手は小さくて、指が細い。
この手で、僕は最後の言葉を綴った。
送信ボタンの上に、親指を置いた。
この中身を送れば、すべてが変わる。
奏は「僕」の存在を知る。
妙子の中に別人格がいたことを知る。
嵐の夜の真相を知る。
奏がどう反応するかはわからない。
信じないかもしれない。
気味悪がるかもしれない。
妙子から離れるかもしれない。
だが、可能性に賭ける。
奏なら。
あの正しくあろうとし続けた男なら。
事実を受け止め、妙子を受け入れてくれると。
押した。
送信完了。
スマホを枕元に置いた。
画面が暗くなった。
◇◆◇
天井を見上げた。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
あの染み。
梅雨が明けて、染みは完全に乾いていた。
輪郭がくっきりと浮かび上がり、元の形が見える。
ただの水の跡だった。
恐ろしいものでも、不吉なものでもない。
ただの、水が通った痕跡。
生きたかった。
この言葉が、胸の奥から零れ落ちた。
泣きたいのに、泣けなかった。
涙は妙子のものだ。
僕は妙子の感情を借りることはできるが、僕自身の涙は持っていない。
もっとこの世界を見たかった。
夏の日差し。
秋の風。
冬の冷たい空気。
春の匂い。
全部、妙子の感覚を通してしか知らないけれど、それでも美しかった。
奏と馬鹿な話をして笑いたかった。
コンビニのおにぎりの味を議論したかった。
帰り道で空を見上げて、雲の形に名前をつけるような、何の意味もない時間を過ごしたかった。
でも。
それでいい。
彼女が僕を置いて歩き出すなら、それが一番の救いだ。
僕は目を閉じた。
妙子の意識の底で、僕の輪郭がぼやけ始めている。
明確な境界線が溶け出している。
僕の記憶と妙子の記憶が、少しずつ混じり合っている。
奏との会話。
体育祭の風。
借り物競争のカード。
ドリンクバーのアイスティー。
分かれ道の夕日。
境界がほどけ始めている。
これを統合と呼ぶのか、消滅と呼ぶのか、僕には決められない。
ただ、妙子の心の底へ沈み、妙子の記憶の海に触れ、僕だけの輪郭が薄くなっていく。
怖い。
怖いけれど。
妙子。
お前は一人じゃない。
奏がいる。
お前自身の強さがある。
僕が九年間守ってきたその芯が、お前を支えてくれる。
だから、もう大丈夫だ。
さよなら。
視界が滲む。
「僕」と「妙子」の境界が、水に落とした墨のように溶けていく。
どこまでが僕で、どこからが妙子なのか、もうわからない。
僕は――
◇◆◇
朝日が差し込んだ。
カーテンの隙間から、白い光が部屋を横切った。
夏の朝。
まだ六時だが、空はもう明るい。
蝉の声が外から聞こえている。
ベッドの上で、目が開いた。
天井の染み。
右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。
いつもと同じ天井。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ朝。
だけど、何かが違う。
頭の中が、静かだ。
いつもどこかにあった「もうひとつの気配」が、消えている。
誰かに見守られているような、背中越しに視線を感じるような、あの薄い存在感。
それが、なくなっている。
部屋に一人。
頭の中にも一人。
完全に、一人だ。
なのに――寂しくない。
不思議だった。
以前の私なら、この空白に怖くなっていたはずだ。
でも、胸の奥に、何か温かいものが残っている。
言葉にならない記憶の残照。
誰かが、ずっと見守ってくれたような、確かな感触。
起き上がった。
背筋が、いつもより少しだけまっすぐに伸びた。
目を開けたのは――妙子だった。




