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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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21/21

21話:朝

 頭の中が、静かだった。


 目を開けて、最初に思ったのはそれだった。

 静かだ。

 いつもどこかにあった気配、誰かに見守られているような感覚が、消えている。

 背中越しの視線がない。

 もうひとつの呼吸がない。


 私は天井を見つめていた。

 右端に三つ、左端にひとつ、中央にひとつ。

 染み。

 見慣れた天井の、見慣れた染み。


 起き上がった。

 体が重い。

 けれど、数日前よりはましだ。

 手足に力が入る。

 立てる。

 歩ける。


 洗面所で顔を洗った。

 鏡を見た。

 目の下に隈が残っている。

 頬がこけている。

 唇が荒れている。

 でも、目に焦点がある。

 鏡の中の自分を、ちゃんと見つめ返せる。


 私、豊島妙子。

 十六歳。

 二年三組。


 確認するように、心の中で唱えた。

 当たり前のことなのに、確認しなければ不安になる。

 自分が自分であることすら、揺らいでしまいそうで。


 枕元のスマホが光っていた。


 手に取った。

 画面のロックを解除する。

 CHAINの通知。

 奏……国立くんからの返信。

 昨夜の『今日もありがとう』に対して、『明日も来る』。


 でも、その下に。

 私が送った覚えのないメッセージがあった。


『明日、学校に行く。――ありがとう、奏』


 奏。

 呼び捨て。

 私は国立くんを「奏」なんて呼ばない。

 呼んだことがない。

 呼べるわけがない。


 いつ送ったんだろう。

 タイムスタンプを見る。

 午前一時十二分。

 私は眠っていた。

 確実に眠っていた。

 奏から来た『明日も来る』を見て、安心して目を閉じたのが十時過ぎ。

 そこから先の記憶がない。


 記憶がない。

 また。


 いつものことだ。

 気がついたら時間が飛んでいる。

 授業中に意識がなくなり、気がついたら放課後だった。

 体育の時間に走った記憶がないのに、体が疲れている。

 誰かと話した形跡があるのに、何を話したか思い出せない。


 でも、メッセージを送ったのは初めてだ。

 私の知らない私が、私のスマホで、国立くんに「奏」と呼びかけている。


 画面をスクロールした。


 もう一通。

 決して短くはないメッセージ。

 同じく午前一時台に送信されている。

 読み始めた。


『奏。夜中に悪い。これだけは読んでほしい』

『まず、信じてくれなくてもいい。信じろと言うつもりもない。ただ、僕が書くことは全部本当だ』

『僕は豊島妙子じゃない。妙子の中にいる、名前のない誰かだ』


 指が止まった。

 別の人格。

 意味がわからなかった。

 誰かが私のスマホを操作した? ストーカー? ハッキング?


 でも、ロックは解除されていた。

 指紋認証。

 私の指でしか解除できない。

 続きを読んだ。


『名前はない。妙子も知らない。妙子の記憶に空白があるのは、その間、僕が表に出ていたからだ。学級委員の仕事をしたのも、借り物競争でお前のところへ走ったのも僕だ』


 記憶の空白。

 知っている。

 ずっと気になっていた。

 気がついたら夕方だった。

 征人と過ごした記憶があるのに、自分が何を話したか思い出せない。

 授業のノートが自分の字なのに、書いた覚えがない。


 借り物競争。


 あの日のことを思い出した。

 体育祭の後、クラスメイトが「豊島さん、借り物競争で国立くんのとこ走ってたね」と言っていた。

 私には記憶がなかった。

 グラウンドの白い線と歓声が、遠くで鳴っていた気がするだけ。気がついたらテントに座っていた。


『ずっと前から、僕は妙子の中にいる。妙子を守る壁になるために。三年前の嵐の夜も、そこにいた』


 三年前の嵐の夜。


 体が震えた。

 スマホを持つ手が、小刻みに揺れた。


 あの夜のことは覚えている。

 覚えているはずだ。

 お義父さんが……楓都が……私に……


 記憶が途切れる。

 思い出そうとすると、頭の中に白い壁が現れる。

 その壁の向こうに何があるのか、見えない。

 見ることができない。

 いつもそうだった。

 あの夜のことを思い出そうとすると、壁にぶつかる。


 このメッセージを書いた「誰か」は、その壁のことを知っている。

 壁の正体が自分自身だと言っている。


 続きを読んだ。

 あの橋で国立くんを見捨てた者はいない、と書かれていた。

 詳しいことは、私が聞きたいと思ったときに話してほしい、と。


 肝心なところが書かれていない。

 書けなかったのかもしれない。私の過去を、私の許可なく全部並べることを、最後にやめたのかもしれない。


『消えたくない。正直に言う。消えたくない。生きていたい。お前ともっと話したい』


 涙が出た。


 なぜだかわからない。

 この「誰か」のことを、私は知らない。

 会ったこともない。

 声を聞いたこともない。

 なのに、「消えたくない」という言葉が、胸の奥の一番深いところに刺さった。


『妙子が僕を置いて歩き出すなら、それが一番の救いだ』


 妙子。

 私のことだ。


 この「誰か」は、自分がどうなるかを知らなかった。

 それでも、私が歩き出す方を選んだ。


『――お前の親友より』


 メッセージはそこで終わっていた。


 ◇◆◇


 スマホを胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。


 信じられない。

 信じたくない。

 私の中に、誰かがいた? 私の体を動かして、国立くんと仕事をして、体育祭を走って、征人の言葉を聞いていた?


 気味が悪い。

 正直に言えば、気味が悪い。

 自分の体が自分の知らないところで動いていたなんて。

 自分の口が自分の知らない言葉を喋っていたなんて。


 でも。


 記憶の空白が、全部説明できてしまう。


 授業中に意識が飛ぶのも。

 体育祭の記憶がないのも。

 国立くんが、ときどき私の顔を見て何か言いかけ、やめることがあったのも。

 征人が「最近変わった」と言っていたのも。


 全部、「別の誰か」が表に出ていたから。


 そして今、その「誰か」は消えた。


 頭の中の静寂が、それを証明している。

 あの薄い気配が、もう、ない。


 私は洗面所の鏡に向かった。

 自分の顔を見つめた。


 いつもの顔。

 いつもの私。

 でも、この顔の裏側に、「別の誰か」がいた。

 ずっと前から。

 私を守りながら。

 私の知らないところで。


「……ありがとう」


 鏡に向かって、小さな声で言った。


 返事はなかった。

 当たり前だ。

 もう、いないのだから。


 ◇◆◇


 スマホをもう一度見た。


『明日、学校に行く』


 私が送った覚えのないメッセージ。

 あの「誰か」が、私の名前で国立くんに約束した。


 学校。

 考えただけで、胃が縮まる。

 教室。

 クラスメイト。

 征人。

 「タコ女」という呼び名。

 火傷の跡。

 全部が、私を刺す針になって待ち構えている。


 行きたくない。

 布団に戻りたい。

 ドアに鍵をかけて、カーテンを閉めて、世界を遮断したい。


 でも。


 あの「誰か」が約束してしまった。

 けれど、私の明日を決めていいのは、あの人ではない。

 国立くんでもない。


 私だ。


 スマホを握り直した。学校の番号を検索する。指先は何度も違う数字を押した。

 それでも電話をかけた。


 担任ではなく、養護の先生につないでほしいと頼んだ。全部は話せない。ただ、教室へ直接入るのは難しいこと。しばらく食べられなかったこと。記憶が抜けることがあること。


 受話口の向こうの先生は、質問を急がなかった。

 今日はまず保健室へ来ること。教室へ行くかは、そこで決めればいいこと。週に一度来るスクールカウンセラーにも会えること。


 選べる道が、一本から三本になった。

 それだけで、喉を塞いでいたものが少し下がった。

 国立くんは毎日来てくれた。

 おにぎりを持って。

 プリントを持って。

「食え。寝ろ。明日来る」と言って。


 私は国立くんへ短く送った。


『学校には行く。でも、先に保健室へ行きます。教室へ入るかは、自分で決めます』


 すぐに既読がついた。


『わかった』


 それだけだった。


 制服を着た。

 手が震えている。

 ボタンがうまく留められない。

 三回やり直して、ようやく全部留めた。

 スカートのホックを留め、靴下を履き、髪をとかした。

 鏡の前で。

 ぐちゃぐちゃだった髪を、丁寧に。


 鞄に教科書を詰めた。

 期末テストの範囲はわからない。

 国立くんがまとめてくれたプリントが、テーブルの上に積まれている。

 封筒から取り出して、鞄に入れた。


 玄関でスニーカーを履いた。

 ドアを開けた。

 朝の光が、まぶしかった。

 七月の太陽が、マンションの廊下に影を作っている。

 蝉の声が空気を揺らしている。


 一歩、踏み出した。


 足が重い。

 心臓が速い。

 息が浅い。


 でも、歩ける。

 一歩ずつ。

 ゆっくりと。


 エレベーターに乗った。

 一階。

 エントランスを出た。

 朝の通学路。

 制服姿の生徒たちが歩いている。

 見慣れた風景。

 だけど、久しぶりすぎて、全部が新しく見える。


 信号を渡った。

 コンビニの前を通り過ぎた。

 公園の横を歩いた。


 学校が見えてきた。

 校門。

 白い校舎。

 校庭の緑。


 校門の前で、足が止まった。

 ここから先に入ったら、もう戻れない。

 教室がある。

 クラスメイトがいる。

 征人がいる。

 噂がある。

 視線がある。


 怖い。


 こわい。


 足が動かない。

 体が固まる。

 校門の前で立ち尽くしている自分が、みじめで、情けなくて、消えてしまいたくなる。


「豊島」


 声がした。


 顔を上げた。


 国立くんが校門の内側に立っていた。

 制服のまま。

 鞄を片手に。

 もう片手にはコンビニの袋を持っている。


 待っていてくれた。


「……やっと来たか」


 国立くんの声は硬かった。

 いつも通り。

 叱るような口調。

 でも、目の奥に安堵の色が見えた。

 ほんのわずかに。


「おはよう、国立くん」


 私の声は、やっぱり小さかった。

 掠れていた。

 でも、出た。

 声が出た。


 国立くんがコンビニの袋を差し出した。


「朝、食ったか?」

「……食べてない」

「やっぱりな。これ食え。おにぎり」


 受け取った。

 ツナマヨ。

 また。


「ありがとう……」

「礼はいい。行くぞ」


 国立くんが歩き出した。

 校門をくぐる。

 私はその半歩後ろについて歩いた。


 校門を、超えた。


 足が、動いた。


 震えている。

 まだ震えている。

 でも、前に進んでいる。

 国立くんの背中を追いかけて。

 一歩ずつ。


 あの「誰か」が残した言葉が、頭の中で鳴っている。


『妙子をよろしく。お前になら託せる』


 託されたんだ、国立くんは。

 あの「誰か」に。

 私を。


 私は国立くんの背中を見ながら歩いた。


 まっすぐな背中。

 少し堅い歩き方。

 振り返らないけれど、歩幅を私に合わせてくれている。


 校舎の入り口が近づいてきた。


 私は深呼吸した。


 大丈夫。

 大丈夫じゃないけど、大丈夫。


 誰かがそう教えてくれた気がする。

 私の中の、もういない誰かが。


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