8話:ガラスの仮面
征人の笑顔が変わった。
他の誰かが気づくような変化ではない。
征人が笑えばクラスが和み、誰かをいじれば笑いが起きる。教室はまだ彼の重力で回っている。
だが、妙子に向ける笑顔だけが微かに違った。
以前の彼にとって妙子の反応は、ボタンを押せば出る自販機のジュースだった。
今は、その自販機が時々反応しないのだ。
「ねえ、妙子」
昼休み。
征人が教室の妙子の席に近づいてきた。
今日は僕が表に出ている。
妙子は朝のホームルームの途中から奥に引っ込んだ。
出席で名前を呼ばれたとき、隣の女子が小さく笑った。それだけで妙子は萎縮し、僕が代わりに表へ出た。
「ん? 何?」
僕は征人に向かって微笑んだ。
妙子の笑顔を模倣する。
だが、模倣には限界がある。
妙子の微笑みは目が泳ぐ。
視線が相手の顔と自分の手元を行ったり来たりする。
僕の微笑みは――目が動かない。
相手の瞳を捉えたまま、表情だけを作る。
「今日の放課後さ、ちょっと付き合ってくれない? 駅前のあの店、新しいメニュー出たらしいんだけど」
征人の声は柔らかい。
だが、柔らかさの底にざらついた何かが混じっている。
要求だ。
お願いの形をした要求。
「ごめん、今日は学級委員の仕事があるの」
「また? 最近多くない?」
征人の眉がほんの一瞬だけ寄った。
すぐに元の穏やかな表情に戻る。
だが、僕はその一瞬を見逃さない。
苛立ちだ。
自分の誘いが通らないことへの。
「体育祭が近いから、どうしても……」
「ふうん」
征人は妙子の机の角に腰かけた。
距離が近い。
膝が妙子の椅子の肘掛けに触れている。
「最近、冷たくない?」
声が低くなった。
周囲には聞こえない。
教室の騒がしさに紛れて、二人だけの空間を作っている。
「冷たい? そんなことないよ」
「いや、なんかさ。前と違うんだよね。CHAINの返信も遅いし、会ってもなんか……よそよそしいっていうか」
征人の目が妙子の顔を探っている。
表面の笑顔の下で、何かを測っている。
この男は本能的に人間の変化を嗅ぎ取る。
支配の対象が支配から外れ始める瞬間を、肌で感じ取る。
僕は慎重に言葉を選んだ。
「ごめんね。体育祭の準備でバタバタしてて、余裕がなかっただけ。征人のことが嫌になったとかじゃないよ」
嘘だ。
だが計画が形になるまで、征人の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「俺のこと好きなら、もっと態度で見せてよ」
征人がそう言って、妙子の手に自分の手を重ねた。
指先が絡む。
温かい、はずの接触。
だが、僕にとっては砂利を掴んでいるような感覚だった。
男の手に男の手を握られている。
性自認の齟齬が、皮膚の下でぎしぎしと軋む。
だが顔には出さない。
唇を緩め、目を細め、「嬉しい」という表情を妙子の顔に貼り付ける。
「……うん。ごめんね、もっと気をつける」
征人は満足したように頷き、妙子の手を離して立ち上がった。
「じゃ、放課後無理でも、明日は空けといてよ。約束な」
「うん」
征人が自分のグループに戻っていく。
用事が済んだという背中だった。
僕は握られていた手を見下ろした。
妙子の白い指。
征人の体温がまだ残っている。
吐き気がした。
比喩ではなく、物理的に。
胃の奥がせり上がってくる。
妙子の身体が僕の嫌悪に反応している。
このまま吐けば楽になるだろうが、教室の真ん中で嘔吐するわけにはいかない。
水を飲む。
冷たい水が喉を通り、胃を鎮める。
征人が離れると、ようやく酸素が戻った。
妙子は、あの手の温もりを「愛」だと思っている。
◇◆◇
五時間目が始まる直前だった。
チャイムが鳴り、生徒たちが席に着く。
教師がまだ来ていない数十秒の空白。
その隙間に、妙子が浮上してきた。
意識の底から、ゆっくりと。
水面に向かって泡が昇るように、彼女の意識が表層に戻ってくる。
妙子が自分から戻るとき、交代は緩やかだ。視界が揺れ、思考が一瞬重なり、運転席が入れ替わる。
妙子が表に出た瞬間、身体の使い方が変わった。
背筋が緩み、肩が丸まり、視線が机の上に落ちる。
呼吸が浅くなる。
つい数秒前まで僕が座っていたのと同じ椅子に、まるで別の人間が座っている。
半日の空白を、妙子はまた「ぼんやりしていた」と片づけるだろう。
授業が始まった。
世界史。
教師が板書を始める。
妙子はノートを開き、ペンを握る。
その動作の中に、微かな安堵が混じっている。
昼休みの内容はなくても、征人が近くにいた感触だけが残っている。
僕は妙子の内側で、歯を食いしばった。
その温かさは、僕の演技が作ったものだ。
妙子は何も知らず、偽物の温もりに安らいでいる。
それでも妙子は幸せそうだった。
ノートに文字を書く手が、いつもより震えていない。
唇の端がわずかに上がっている。
この笑顔を壊さなければならない。
いつか、近いうちに。
◇◆◇
六時間目の後、征人が教室に現れた。
妙子は帰り支度をしていた。
今日は学級委員の仕事はない。
奏が別の委員会の会議に呼ばれ、放課後の作業は急に明日へ回されていた。
「妙子」
征人が声をかけた。
教室には数人のクラスメイトが残っている。
征人は自然な距離で妙子の隣に立ち、微笑んだ。
妙子が顔を上げた。
その瞬間、彼女の表情が切り替わった。
花が開くように。
閉じていた唇が綻び、下がっていた目線が持ち上がり、強張っていた肩が柔らかくなる。
征人の姿を見ただけで、妙子の全身が「嬉しい」を叫んでいた。
「征人くん……!」
「今日、ちょっとだけ一緒に帰らない? 駅まででいいからさ」
「うん! うん、行く」
妙子は鞄を急いでまとめた。
ファスナーが引っかかって焦る。
その慌てぶりが、征人の目に映っている。
征人は少しだけ目を細めた。
優しさではない。
査定だ。
この反応なら、まだ自分の支配下にある。
そう確認している目。
僕は内側から、その切実な喜びを見ていた。
征人の愛が偽物でも、妙子の幸福は本物だ。それを奪う権利が僕にあるのか。
校門を出て、二人は並んで歩いた。
征人が何か軽い冗談を言い、妙子が小さく笑う。
征人が自販機でジュースを買い、妙子に「どれがいい?」と聞く。
妙子は迷って、一番安い水を選ぼうとする。
征人が「遠慮すんなよ」と笑って、オレンジジュースのボタンを押す。
妙子はペットボトルを両手で抱えて、「ありがとう」と言った。
百三十円のオレンジジュース。
それが妙子にとっては世界で一番の贈り物だった。
この子は――こんなにも小さなもので幸せになれる。
こんなにも簡単に満たされる。
それが愛しくて、哀しくて、僕はどこにもぶつけられない感情を飲み込んだ。
駅が近づいてきた。
征人が「じゃあここで」と手を上げかけたとき、妙子が征人の袖を掴んだ。
「あの……征人くん」
「ん?」
「最近、忙しそうだから……迷惑かけてないかなって」
妙子の声が揺れている。
不安が滲み出ている。
征人が離れていくことを、彼女は肌で感じ取っているのだ。
理由も証拠もない。ただ、冷たくなった空気を肌で感じている。
征人は一瞬だけ目を見開いた。
それから、いつもの笑顔に戻った。
「何言ってんの。迷惑なわけないじゃん」
その声は完璧だった。
温かみがあり、包容力があり、安心を与える声。
声だけなら、最高の彼氏だ。だが、目は笑っていない。
「よかった……。私、征人くんが離れていったらどうしようって、ずっと怖くて」
妙子が征人の腕に頬を寄せた。
甘えるように。
子猫が母猫に擦り寄るように。
その仕草は演技ではない。
妙子の本心だ。
心の底からこの男にすがっている。
征人は妙子の頭を撫でた。
「大丈夫だって。俺、そんな簡単にいなくなんないから」
征人は妙子の髪を撫でながら、その頭越しに駅の時刻表を見ていた。
妙子は気づかない。
目を閉じて、征人の胸に額を預けている。
僕は妙子の内側で、拳を――存在しない拳を、握りしめた。
◇◆◇
征人と別れた後、妙子は一人で帰り道を歩いた。
顔が紅潮している。
心拍数が上がっている。
口元に小さな笑みが浮かんでいる。
幸せの残響が、全身を通電させている。
帰宅して、シャワーを浴びて、征人との会話を反芻しながらベッドに転がる。
スマホで征人のSNSを眺め、征人が投稿した写真にいいねを押す。
それから、二人で撮った数少ない写真をスクロールして見返す。
妙子の幸福は脆い。
乾いた砂で作った城のように、波がひとつ来れば崩れる。
だが、彼女はその城を必死に守っている。
波が来ないことを祈りながら。
やがて疲れが勝ち、妙子はスマホを枕元に置いて目を閉じた。
呼吸がゆっくりと深くなり、意識が沈んでいく。
僕は浮上を待った。
妙子が完全に眠った。
暗い部屋。
天井の染み。
エアコンの低い唸り。
今夜も僕の時間だ。
起き上がり、洗面台で顔を洗った。
鏡に映る妙子の顔。
焦げ茶の瞳に、僕の意志が宿っている。
征人は、妙子の反応が以前と違うことに気づいている。
妙子は彼が望むままに甘える。僕は妙子を模倣するが、目線も声もわずかにずれる。
征人が好むのは、支配できる方の妙子だ。僕が表に出た妙子は異物でしかない。
賭けへの興味さえ、もう薄れている。
今の征人は、ただ後始末の時機を測っていた。
そのことを確認したのは、今夜のことだった。
妙子が眠りに落ちる直前、スマホに通知が入った。
CHAINではない。
征人のSNSの更新通知。
妙子はそれを見て安心して眠った。
「征人くんが投稿した。
元気そうでよかった」。
その程度の認識で。
僕は妙子が眠った後、スマホを手に取った。
征人のSNSではなく、妙子のCHAINを開く。
征人とのトーク画面。
最後のメッセージは昨日の夜、僕が送った「明日の放課後は、学級委員の仕事があるかも」。
既読はついているが、返信はない。
それは別にいい。
問題はその上にある。
二日前、妙子が送った「おやすみ」のメッセージ。
既読がついたのは翌朝の七時。
返信なし。
三日前の「今日は楽しかったね」。
既読。
返信なし。
四日前の「明日、何時に会える?」。
返信は五時間後。
「わかんね」の三文字。
初めの頃は征人の方から連絡してきた。今は妙子が送っても返事が来ない。
スマホを枕元に戻し、天井を見上げた。
時間がない。だが、奏との距離を性急に詰めれば、あの鋭い男は不自然さを嗅ぎ取る。
征人が妙子を捨てるのが先か、奏との信頼が形になるのが先か。二つの砂時計が同時に落ちている。
天井に、新しい染みが増えていた。
右端に三つ、左端にひとつ。
そして中央に、薄い灰色の影がひとつ。
昨日まではなかったもの。
梅雨の気配が、天井にまで忍び寄っていた。
◇◆◇
翌日の放課後。
僕は校舎裏の自販機で水を買い、教室に戻ろうとしていた。
今日は奏との作業がある。
体育祭の最終準備。
あと数日で本番だ。
渡り廊下の角を曲がったとき、征人の声が聞こえた。
電話をしている。
部室棟の壁にもたれて、片手にスマホを持ち、もう片方の手をポケットに入れている。
体操着のまま。
練習が終わった直後だろう。
僕は足を止めた。
壁の陰に身を潜める。
盗み聞き。
褒められた行為ではない。
だが、僕に良心の呵責を感じる余裕はなかった。
「――いや、もうすぐケリつけるわ」
征人の声は軽かった。
友人との電話。
世間話の延長。
僕のことを、妙子のことを、一ミリも深刻に考えていない口調。
「あの子、もう飽きた」
笑い声が混じった。
征人の声。
「飽きた」という単語が、夕方の空気の中に溶けていく。
オレンジジュースを飲み終わったペットボトルを捨てるような気軽さで、妙子の存在が処分された。
「え? いつ別れんのかって? 体育祭終わったらでいいかなって。あ、でも面倒だから自然消滅でもいいかも」
そう言って、征人はまた笑った。
電話の向こうの相手も笑っているのだろう。
二人の笑い声が重なり、渡り廊下の天井に反響する。
体育祭が終わったら。
あと数日だ。
僕は壁に背中をつけたまま、目を閉じた。
予想していた。
わかっていた。
征人が妙子を捨てることは、もう確定していた。
あの火傷跡の件以来、征人の中で妙子の存在は急速に価値を失っている。
だが、こうして実際に声として聞くと、別の重さがある。
「飽きた」。
たった三文字。
それが妙子の世界を終わらせる。
妙子はまだ何も知らない。
今日も教室で征人の名前をノートの端に書き、消して、また書いている。
征人が好きだと言ってくれたチェリーリップの色を塗り直し、征人が褒めてくれた髪をブラシで整えている。
全部、もう見向きもされていないことのために。
征人の電話が終わった。
足音が遠ざかっていく。
僕は壁の陰から出て、反対方向に歩き出した。
教室に向かう。
奏が待っている。
歩きながら、僕は計画を修正した。
体育祭が終わるまでに、奏との関係を決定的なものにしなければならない。
体育祭の当日。
あの日に、何かを仕掛ける。
妙子が征人に捨てられても壊れないだけの地盤を、あと数日で完成させる。
不可能に近い。
だが、やるしかない。
教室の扉を開けると、奏がいつもの席で赤ペンを走らせていた。
僕の姿を見て、顔を上げる。
「遅い。十分も待った」
「ごめん。自販機が混んでて」
嘘だ。
だが奏は追及しなかった。
水のペットボトルを僕の机に置いて、作業に戻る。
僕は奏の隣に座り、プリントの束に手を伸ばした。
指先がほんの少しだけ震えている。
征人の「飽きた」が、まだ耳の奥にこびりついていた。
それを押し殺して、僕は赤ペンのキャップを外した。
体育祭まで、あと四日。




