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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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7/20

7話:名前の重さ

 放課後の教室は、夕方の光に沈んでいた。


 窓から差し込む西日が、机の上に長い影を引いている。

 黒板の前に並べたパイプ椅子には誰も座っていない。

 六時間目が終わってから一時間。

 教室に残っているのは僕と奏の二人だけだった。

 体育祭の実行委員会から降りてきた修正指示に対応する作業。

 プログラムの進行表を印刷し直し、各クラスへの配布リストを更新する。

 学級委員の仕事にしては地味で、手間がかかる。

 だが奏は文句ひとつ言わず、黙々と赤ペンを走らせていた。


 僕は妙子の手を使って、配布リストの名前を表計算ソフトの表に打ち込んでいた。

 妙子は今日、昼休みに征人から冷たくあしらわれたことで消耗し、五時間目の途中から意識の奥に引っ込んでしまった。

 以来、ずっと僕が表に出ている。

 こういう日が増えている。

 征人の態度が変わってから、妙子のストレスが限界に近い周波数で振動している。

 ほんの些細なこと――CHAINの既読無視、廊下ですれ違ったときの素通り、そういった小さな拒絶の積み重ねが、妙子を内側に追いやる。

 結果として、僕が表に出る時間が長くなっている。


 そして、表に出る時間が長くなるほど、奏と過ごす時間も増える。


「豊島、三組の出場者リスト、最新版ある?」


 奏がプリントの束から顔を上げて聞いた。

 僕は隣の椅子に重ねてあったファイルを探り、クリアファイルに挟まれた一枚を抜き出す。


「これ。昨日の修正が入ってる」

「サンキュ」


 奏はリストを受け取り、進行表と照合し始めた。

 指先が紙面を素早く辿っていく。

 集中しているときの奏の目は、いつもより鋭さが増す。

 瞳の奥にある黒い光が、文字をひとつひとつ射抜くように動く。

 嘘を見落とさない目だ、と思う。

 表面の整合性だけでなく、数字の裏にある矛盾を見つけ出す目。

 この男の前では、うまく取り繕ったつもりの嘘も長くは持たないだろう。


 僕はそれを理解した上で、この距離にいる。


「……ここ、人数合わないな」


 奏が赤ペンの先で表の一行を指した。

 僕は画面から目を離し、奏が示す箇所を覗き込む。

 距離が近い。

 妙子の髪が奏の肩にかかりそうになる。


「ああ、本当だ。三組の棒倒しが一人多い」

「多分、山口が二種目にエントリーしてる。こっちを消すか、あっちを修正するか」

「山口に確認取ったほうがいいんじゃない? 明日の朝でいいと思うけど」

「……だな」


 奏は赤ペンでメモを書き込み、リストを脇に置いた。

 背もたれに体重を預け、首を回す。

 骨が鳴った。


「お前、こういう細かいの得意だな」


 唐突に言われて、僕は一瞬だけ返事に詰まった。


「……得意っていうか、嫌いじゃないだけ」

「それを得意って言うんだよ。俺はこの手の突き合わせ作業、三十分で頭がバグる」


 奏の声にほんの微かな苦笑が混じっていた。

 弱みを見せない男が、ごく自然にこぼした本音。

 この数週間で、少しずつ増えてきた。

 最初の頃は事務的なやり取りしかなかった。

 「ここ修正」「了解」「次はこれ」。

 それだけだった会話が、いつの間にか隙間を持ち始めている。


「国立くんは大きい方が得意でしょ。全体を見て判断するやつ」

「買いかぶりだ」

「そうでもない。プログラムの時間配分、国立くんが組んだ案が一番無駄がなかった」


 奏は少し黙った。

 褒められ慣れていないのではない。

 褒められることに、どう反応していいかわからないのだ。

 「ありがとう」と言えばいいだけの場面で、この男は言葉を探してしまう。


「……まあ、お前がデータ揃えてくれるから組めるんだけど」


 それが奏なりの「ありがとう」だった。

 僕は少し笑った。

 男同士の会話のリズムで。


 と、そこで奏の動きが止まった。

 僕の顔を見ている。

 正確には、僕の笑い方を見ている。


「お前さ」


 奏が言った。

 声のトーンがほんの少し変わった。

 事務的でも、雑談的でもない。

 観察者の声。


「たまに、別人みたいになるな」


 心臓が跳ねた。

 妙子の心臓ではない。

 僕の心臓だ。

 ――もっとも、物理的には同じ心臓だが。


「……別人?」

「うん。なんていうか、声のトーンとか、姿勢とか。日によって違う。今日のお前は……背筋がまっすぐなんだよ。普段はもっと猫背で、目線が下がってるのに」


 奏の観察は正確だった。

 妙子は体を小さくし、僕は背筋を伸ばす。同じ体でも、立ち方ひとつで印象は変わる。


「気分によるだけだよ。調子がいい日と悪い日があるから」


 僕は声を少しだけ柔らかくして答えた。

 普段より高く、細く、妙子の声域に寄せる。


「……ふうん」


 奏は納得したのかしていないのか、曖昧に頷いて視線を戻した。

 追及しない。

 違和感を覚えても、奏は相手の領域へ踏み込まない。

 その境界線の引き方を、僕は信頼した。


 ◇◆◇


 作業は六時を過ぎても終わらなかった。


 印刷室のプリンターが紙詰まりを起こし、三十分のロスが出た。

 奏が紙を引き抜き、僕がトレイを清掃して復旧させた。

 二人で黙々と手を動かす時間。

 言葉は少ないが、沈黙が苦ではない。

 互いの手元を見ずに作業が噛み合う。

 奏がプリントを揃えると、僕がホチキスで留める。

 僕がファイルに綴じると、奏が次のプリントを差し出す。

 流れ作業のような呼吸。

 打ち合わせなしに動く連携。


「……なんか」


 奏がぽつりと言った。


「やりやすいな、お前と」


 僕は手を止めずに答えた。


「そう?」

「ああ。普通、学級委員の仕事って、片方がサボるか、意見が合わなくて揉めるかのどっちかだけど。お前は――なんだろう。言わなくてもわかる感じがする」


 理由は言えない。僕は奏と同じ速度で、合理的な手順を選べる。

 奏はその違いを「豊島の調子がいい日」と処理している。そのままでいい。


「国立くんが仕事のやり方を明確にしてくれるからだよ。指示が具体的だと動きやすい」

「……それ、遠回しに俺が口うるさいって言ってないか」

「言ってない。褒めてる」


 奏は鼻で小さく笑った。

 ごく自然な、身構えのない笑い。

 クラスメイトの前では緊張を纏う奏が、今だけは肩の力を抜いている。

 僕の前にいるとき、奏は正しくなくていい。


 不思議な感覚だった。

 奏に近づくのは計画のためだ。

 なのに、この沈黙は計画の外で意味を持ち始めている。


 混同するな。これは計算だ。


 僕は自分に言い聞かせながら、ホチキスの針を補充した。


 ◇◆◇


 七時近くになって、ようやく作業が終わった。


 教室の電灯を消し、窓を閉める。

 鍵を職員室に返しに行く途中、暗い廊下を二人で歩いた。

 非常灯の緑色の光だけが足元を照らしている。

 奏が職員室の前で鍵を返し、戻ってきた。

 靴箱で並んで上履きを脱ぎ、外靴に履き替える。


「遅くなったな。腹減った」


 奏が独り言のように言った。

 僕も同感だった。

 妙子の胃袋はまだ萎縮しているが、空腹の信号だけは正直に発信されている。


 校門を出ると、六月の夜風が頬を撫でた。

 日中の熱気が地面から立ちのぼり、空気はぬるい。

 空には薄い雲がかかり、月は見えない。

 代わりに街灯のオレンジ色の光が、道路を人工的な昼間に変えていた。


 二人で並んで歩く。

 駅までの道は同じ方向だ。

 学校から五分ほど歩いたところで道が分かれる。

 そこまでの短い時間。


 奏は黙っていた。

 僕も黙っていた。

 だが沈黙の質が変わっている。

 教室の中の沈黙は作業の伴奏だった。

 外を歩くこの沈黙は、もっと私的なもの。

 二人の間に漂う空気が、事務的な膜を脱いで、ほんの少しだけ柔らかくなっている。


「なあ、豊島」


 奏が口を開いた。


「ん?」

「お前って、友達少ないだろ」


 率直すぎる指摘に、僕は思わず横を向いた。

 奏は前を向いたまま、淡々と続けた。


「いや、悪い意味じゃなくて。昼休みとか、いつも一人でいるし。……まあ、俺もだけど」


 奏の声には自嘲が混じっていた。

 完璧主義で正論を曲げない奏の周囲には、いつも人一人分の距離がある。


「……一人が楽だからね」

「わかる」


 短い共感。

 それだけで十分だった。


「でも」と奏が言った。「一人でいるのが楽なのと、一人でいたいのは別だよな」


 僕は答えに詰まった。

 僕自身に向けられた言葉のように聞こえた。

 誰かと親しくなっても、その関係は妙子のものになる。だから僕は一人でいるべきだと思ってきた。


「国立くんは、一人でいたい(・・・)の?」


 僕は聞き返した。

 奏はしばらく黙った。


「……わからない。一人が楽なのは確かだけど、それが本当に望んでることなのか、ただ面倒を避けてるだけなのか。自分でもわかんねえ」


 自分の弱さを認める、正直な答えだった。


「でも」


 奏がこちらを見た。

 暗い道の中で、街灯の光が奏の横顔を半分だけ照らしている。

 目の奥の黒い光が、まっすぐに僕を射ている。


「今は、お前と作業してる時間が嫌じゃない。それだけは確かだ」


 僕は一瞬、言葉を失った。

 奏から先に距離を縮めてくるのは計算外だった。

 嬉しい、という感情を、僕は押し込めた。


「……ありがとう。私も、嫌じゃないよ」


 「私」と言った。妙子の一人称を使った。ここは「僕」ではいけない。奏の前では、あくまで妙子でなければ。


 分かれ道が近づいてきた。

 信号が赤に変わり、二人で立ち止まる。

 車の通りは少ない。

 虫の声が遠くから聞こえる。


「なあ」


 奏がまた口を開きかけた。

 何かを言おうとして、やめた。

 信号が青に変わる。


「……なんでもない。また明日」

「うん。――また明日」


 奏が左の道へ歩き出す。

 僕は右へ。

 背中が遠ざかっていく。


「奏」


 声が出たのは、無意識だった。

 口が先に動いた。

 頭が追いつく前に、名前が空気を切り裂いた。


 奏が振り返った。

 目が丸くなっている。


「……今、名前で呼んだ?」


 僕の心臓が跳ねた。

 しまった。

 男同士の距離感で呼んでしまった。妙子なら「国立くん」だ。

 言い訳を探す。

 脳が高速で回転する。


「え、あ――国立くん。ごめん、聞き間違い」


 「奏」と「国立くん」を聞き間違えるはずがない。苦しい言い訳だった。


 だが奏は、追及しなかった。


「いや、いい。別に」


 奏は視線を僅かに逸らした。

 街灯の光の中で、その耳の先端がほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。

 奏にとっては、女子から呼び捨てにされた形になる。

 僕は男同士の気安さで呼んだだけだが、それを説明することはできない。


「……じゃあ、また明日」


 奏はそう言って、今度こそ背を向けた。

 いつもより少しだけ早い足取りで、暗い道を歩いていく。

 左手の親指を、無意識に押さえている。


 僕はその背中を見送りながら、立ち尽くしていた。


 ◇◆◇


 帰り道。


 妙子の足で、暗い住宅街を歩く。

 マンションまであと十分ほど。

 虫の声と、遠くを走る車の音。

 アスファルトから立ちのぼる夜の熱気が足首をくるむ。


 奏の耳の赤さが、網膜に焼きついて消えない。


 馬鹿なことをした。

 名前で呼ぶなど、計画にはなかった。

 奏との距離を縮めるのは、あくまで妙子のため。

 妙子と奏の関係を構築するためだ。

 僕と奏の関係ではない。

 僕は媒介に過ぎない。

 橋を架ける作業員であって、橋を渡る人間ではない。

 わかっている。

 わかっているのに。


 「奏」と呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。名前を呼ぶという行為が、こんなにも重いものだとは知らなかった。名前は記号ではない。その人間の存在そのものだ。名前を呼ぶことは、相手の存在を認めること。相手を自分の世界に引き入れること。

 僕は奏を自分の世界に引き入れてしまった。


 計画のためだと、そう言い聞かせる。

 だが、認めたくない事実が夜風に乗って胸に忍び込んでくる。

 奏と並んで歩く帰り道。

 黙って作業する放課後の教室。

 正直な言葉を交わす数分間の会話。

 そのひとつひとつが計画の枠をはみ出して、僕の中に残っている。


 僕は、奏との時間が好きだ。


 その感情を認めた瞬間、僕は立ち止まった。

 マンションのエントランスの前。

 自動ドアのガラスに、妙子の姿が映っている。

 黒い髪。

 焦げ茶の瞳。

 華奢な肩。

 映っているのは妙子だ。奏が「豊島」と呼ぶのも、妙子の名だ。

 僕を呼ぶ名前はどこにもない。それでも僕は、奏の名を呼んでしまった。


 エントランスの自動ドアが開く。

 僕は妙子の身体を動かして中に入った。

 エレベーターのボタンを押す。

 五階。

 ドアが閉まり、狭い箱の中で上昇する。

 鏡に映った妙子の顔を見つめる。

 焦げ茶の瞳の奥に、僕の視線がある。


 他人の名を呼ぶことと、自分に名がないこと。その両方の重さを知った夜だった。


 エレベーターが五階に着く。

 廊下を歩き、鍵を開け、暗い部屋に入る。

 母親はまた帰っていない。

 台所に食べ物の気配はない。

 冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れたヨーグルトと、半分残った二リットルの水だけが光っている。


 妙子の身体にシャワーを浴びさせ、歯を磨き、布団に入る。

 妙子の意識はまだ深いところにいる。

 今夜は、ずっと僕のままだろう。


 天井の染みを見上げる。

 右端に三つ、左端にひとつ。

 奏は妙子のための存在で、僕のためではない。

 それでも、名前を呼んだ瞬間の温かさだけは嘘じゃなかった。


 天井の染みが滲む。

 今夜は少しだけ、輪郭がぼやけて見える。

 梅雨が近いのだろう。

 空気に水の気配が混じっている。

 明日はきっと、曇りだ。


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