7話:名前の重さ
放課後の教室は、夕方の光に沈んでいた。
窓から差し込む西日が、机の上に長い影を引いている。
黒板の前に並べたパイプ椅子には誰も座っていない。
六時間目が終わってから一時間。
教室に残っているのは僕と奏の二人だけだった。
体育祭の実行委員会から降りてきた修正指示に対応する作業。
プログラムの進行表を印刷し直し、各クラスへの配布リストを更新する。
学級委員の仕事にしては地味で、手間がかかる。
だが奏は文句ひとつ言わず、黙々と赤ペンを走らせていた。
僕は妙子の手を使って、配布リストの名前を表計算ソフトの表に打ち込んでいた。
妙子は今日、昼休みに征人から冷たくあしらわれたことで消耗し、五時間目の途中から意識の奥に引っ込んでしまった。
以来、ずっと僕が表に出ている。
こういう日が増えている。
征人の態度が変わってから、妙子のストレスが限界に近い周波数で振動している。
ほんの些細なこと――CHAINの既読無視、廊下ですれ違ったときの素通り、そういった小さな拒絶の積み重ねが、妙子を内側に追いやる。
結果として、僕が表に出る時間が長くなっている。
そして、表に出る時間が長くなるほど、奏と過ごす時間も増える。
「豊島、三組の出場者リスト、最新版ある?」
奏がプリントの束から顔を上げて聞いた。
僕は隣の椅子に重ねてあったファイルを探り、クリアファイルに挟まれた一枚を抜き出す。
「これ。昨日の修正が入ってる」
「サンキュ」
奏はリストを受け取り、進行表と照合し始めた。
指先が紙面を素早く辿っていく。
集中しているときの奏の目は、いつもより鋭さが増す。
瞳の奥にある黒い光が、文字をひとつひとつ射抜くように動く。
嘘を見落とさない目だ、と思う。
表面の整合性だけでなく、数字の裏にある矛盾を見つけ出す目。
この男の前では、うまく取り繕ったつもりの嘘も長くは持たないだろう。
僕はそれを理解した上で、この距離にいる。
「……ここ、人数合わないな」
奏が赤ペンの先で表の一行を指した。
僕は画面から目を離し、奏が示す箇所を覗き込む。
距離が近い。
妙子の髪が奏の肩にかかりそうになる。
「ああ、本当だ。三組の棒倒しが一人多い」
「多分、山口が二種目にエントリーしてる。こっちを消すか、あっちを修正するか」
「山口に確認取ったほうがいいんじゃない? 明日の朝でいいと思うけど」
「……だな」
奏は赤ペンでメモを書き込み、リストを脇に置いた。
背もたれに体重を預け、首を回す。
骨が鳴った。
「お前、こういう細かいの得意だな」
唐突に言われて、僕は一瞬だけ返事に詰まった。
「……得意っていうか、嫌いじゃないだけ」
「それを得意って言うんだよ。俺はこの手の突き合わせ作業、三十分で頭がバグる」
奏の声にほんの微かな苦笑が混じっていた。
弱みを見せない男が、ごく自然にこぼした本音。
この数週間で、少しずつ増えてきた。
最初の頃は事務的なやり取りしかなかった。
「ここ修正」「了解」「次はこれ」。
それだけだった会話が、いつの間にか隙間を持ち始めている。
「国立くんは大きい方が得意でしょ。全体を見て判断するやつ」
「買いかぶりだ」
「そうでもない。プログラムの時間配分、国立くんが組んだ案が一番無駄がなかった」
奏は少し黙った。
褒められ慣れていないのではない。
褒められることに、どう反応していいかわからないのだ。
「ありがとう」と言えばいいだけの場面で、この男は言葉を探してしまう。
「……まあ、お前がデータ揃えてくれるから組めるんだけど」
それが奏なりの「ありがとう」だった。
僕は少し笑った。
男同士の会話のリズムで。
と、そこで奏の動きが止まった。
僕の顔を見ている。
正確には、僕の笑い方を見ている。
「お前さ」
奏が言った。
声のトーンがほんの少し変わった。
事務的でも、雑談的でもない。
観察者の声。
「たまに、別人みたいになるな」
心臓が跳ねた。
妙子の心臓ではない。
僕の心臓だ。
――もっとも、物理的には同じ心臓だが。
「……別人?」
「うん。なんていうか、声のトーンとか、姿勢とか。日によって違う。今日のお前は……背筋がまっすぐなんだよ。普段はもっと猫背で、目線が下がってるのに」
奏の観察は正確だった。
妙子は体を小さくし、僕は背筋を伸ばす。同じ体でも、立ち方ひとつで印象は変わる。
「気分によるだけだよ。調子がいい日と悪い日があるから」
僕は声を少しだけ柔らかくして答えた。
普段より高く、細く、妙子の声域に寄せる。
「……ふうん」
奏は納得したのかしていないのか、曖昧に頷いて視線を戻した。
追及しない。
違和感を覚えても、奏は相手の領域へ踏み込まない。
その境界線の引き方を、僕は信頼した。
◇◆◇
作業は六時を過ぎても終わらなかった。
印刷室のプリンターが紙詰まりを起こし、三十分のロスが出た。
奏が紙を引き抜き、僕がトレイを清掃して復旧させた。
二人で黙々と手を動かす時間。
言葉は少ないが、沈黙が苦ではない。
互いの手元を見ずに作業が噛み合う。
奏がプリントを揃えると、僕がホチキスで留める。
僕がファイルに綴じると、奏が次のプリントを差し出す。
流れ作業のような呼吸。
打ち合わせなしに動く連携。
「……なんか」
奏がぽつりと言った。
「やりやすいな、お前と」
僕は手を止めずに答えた。
「そう?」
「ああ。普通、学級委員の仕事って、片方がサボるか、意見が合わなくて揉めるかのどっちかだけど。お前は――なんだろう。言わなくてもわかる感じがする」
理由は言えない。僕は奏と同じ速度で、合理的な手順を選べる。
奏はその違いを「豊島の調子がいい日」と処理している。そのままでいい。
「国立くんが仕事のやり方を明確にしてくれるからだよ。指示が具体的だと動きやすい」
「……それ、遠回しに俺が口うるさいって言ってないか」
「言ってない。褒めてる」
奏は鼻で小さく笑った。
ごく自然な、身構えのない笑い。
クラスメイトの前では緊張を纏う奏が、今だけは肩の力を抜いている。
僕の前にいるとき、奏は正しくなくていい。
不思議な感覚だった。
奏に近づくのは計画のためだ。
なのに、この沈黙は計画の外で意味を持ち始めている。
混同するな。これは計算だ。
僕は自分に言い聞かせながら、ホチキスの針を補充した。
◇◆◇
七時近くになって、ようやく作業が終わった。
教室の電灯を消し、窓を閉める。
鍵を職員室に返しに行く途中、暗い廊下を二人で歩いた。
非常灯の緑色の光だけが足元を照らしている。
奏が職員室の前で鍵を返し、戻ってきた。
靴箱で並んで上履きを脱ぎ、外靴に履き替える。
「遅くなったな。腹減った」
奏が独り言のように言った。
僕も同感だった。
妙子の胃袋はまだ萎縮しているが、空腹の信号だけは正直に発信されている。
校門を出ると、六月の夜風が頬を撫でた。
日中の熱気が地面から立ちのぼり、空気はぬるい。
空には薄い雲がかかり、月は見えない。
代わりに街灯のオレンジ色の光が、道路を人工的な昼間に変えていた。
二人で並んで歩く。
駅までの道は同じ方向だ。
学校から五分ほど歩いたところで道が分かれる。
そこまでの短い時間。
奏は黙っていた。
僕も黙っていた。
だが沈黙の質が変わっている。
教室の中の沈黙は作業の伴奏だった。
外を歩くこの沈黙は、もっと私的なもの。
二人の間に漂う空気が、事務的な膜を脱いで、ほんの少しだけ柔らかくなっている。
「なあ、豊島」
奏が口を開いた。
「ん?」
「お前って、友達少ないだろ」
率直すぎる指摘に、僕は思わず横を向いた。
奏は前を向いたまま、淡々と続けた。
「いや、悪い意味じゃなくて。昼休みとか、いつも一人でいるし。……まあ、俺もだけど」
奏の声には自嘲が混じっていた。
完璧主義で正論を曲げない奏の周囲には、いつも人一人分の距離がある。
「……一人が楽だからね」
「わかる」
短い共感。
それだけで十分だった。
「でも」と奏が言った。「一人でいるのが楽なのと、一人でいたいのは別だよな」
僕は答えに詰まった。
僕自身に向けられた言葉のように聞こえた。
誰かと親しくなっても、その関係は妙子のものになる。だから僕は一人でいるべきだと思ってきた。
「国立くんは、一人でいたいの?」
僕は聞き返した。
奏はしばらく黙った。
「……わからない。一人が楽なのは確かだけど、それが本当に望んでることなのか、ただ面倒を避けてるだけなのか。自分でもわかんねえ」
自分の弱さを認める、正直な答えだった。
「でも」
奏がこちらを見た。
暗い道の中で、街灯の光が奏の横顔を半分だけ照らしている。
目の奥の黒い光が、まっすぐに僕を射ている。
「今は、お前と作業してる時間が嫌じゃない。それだけは確かだ」
僕は一瞬、言葉を失った。
奏から先に距離を縮めてくるのは計算外だった。
嬉しい、という感情を、僕は押し込めた。
「……ありがとう。私も、嫌じゃないよ」
「私」と言った。妙子の一人称を使った。ここは「僕」ではいけない。奏の前では、あくまで妙子でなければ。
分かれ道が近づいてきた。
信号が赤に変わり、二人で立ち止まる。
車の通りは少ない。
虫の声が遠くから聞こえる。
「なあ」
奏がまた口を開きかけた。
何かを言おうとして、やめた。
信号が青に変わる。
「……なんでもない。また明日」
「うん。――また明日」
奏が左の道へ歩き出す。
僕は右へ。
背中が遠ざかっていく。
「奏」
声が出たのは、無意識だった。
口が先に動いた。
頭が追いつく前に、名前が空気を切り裂いた。
奏が振り返った。
目が丸くなっている。
「……今、名前で呼んだ?」
僕の心臓が跳ねた。
しまった。
男同士の距離感で呼んでしまった。妙子なら「国立くん」だ。
言い訳を探す。
脳が高速で回転する。
「え、あ――国立くん。ごめん、聞き間違い」
「奏」と「国立くん」を聞き間違えるはずがない。苦しい言い訳だった。
だが奏は、追及しなかった。
「いや、いい。別に」
奏は視線を僅かに逸らした。
街灯の光の中で、その耳の先端がほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。
奏にとっては、女子から呼び捨てにされた形になる。
僕は男同士の気安さで呼んだだけだが、それを説明することはできない。
「……じゃあ、また明日」
奏はそう言って、今度こそ背を向けた。
いつもより少しだけ早い足取りで、暗い道を歩いていく。
左手の親指を、無意識に押さえている。
僕はその背中を見送りながら、立ち尽くしていた。
◇◆◇
帰り道。
妙子の足で、暗い住宅街を歩く。
マンションまであと十分ほど。
虫の声と、遠くを走る車の音。
アスファルトから立ちのぼる夜の熱気が足首をくるむ。
奏の耳の赤さが、網膜に焼きついて消えない。
馬鹿なことをした。
名前で呼ぶなど、計画にはなかった。
奏との距離を縮めるのは、あくまで妙子のため。
妙子と奏の関係を構築するためだ。
僕と奏の関係ではない。
僕は媒介に過ぎない。
橋を架ける作業員であって、橋を渡る人間ではない。
わかっている。
わかっているのに。
「奏」と呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。名前を呼ぶという行為が、こんなにも重いものだとは知らなかった。名前は記号ではない。その人間の存在そのものだ。名前を呼ぶことは、相手の存在を認めること。相手を自分の世界に引き入れること。
僕は奏を自分の世界に引き入れてしまった。
計画のためだと、そう言い聞かせる。
だが、認めたくない事実が夜風に乗って胸に忍び込んでくる。
奏と並んで歩く帰り道。
黙って作業する放課後の教室。
正直な言葉を交わす数分間の会話。
そのひとつひとつが計画の枠をはみ出して、僕の中に残っている。
僕は、奏との時間が好きだ。
その感情を認めた瞬間、僕は立ち止まった。
マンションのエントランスの前。
自動ドアのガラスに、妙子の姿が映っている。
黒い髪。
焦げ茶の瞳。
華奢な肩。
映っているのは妙子だ。奏が「豊島」と呼ぶのも、妙子の名だ。
僕を呼ぶ名前はどこにもない。それでも僕は、奏の名を呼んでしまった。
エントランスの自動ドアが開く。
僕は妙子の身体を動かして中に入った。
エレベーターのボタンを押す。
五階。
ドアが閉まり、狭い箱の中で上昇する。
鏡に映った妙子の顔を見つめる。
焦げ茶の瞳の奥に、僕の視線がある。
他人の名を呼ぶことと、自分に名がないこと。その両方の重さを知った夜だった。
エレベーターが五階に着く。
廊下を歩き、鍵を開け、暗い部屋に入る。
母親はまた帰っていない。
台所に食べ物の気配はない。
冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れたヨーグルトと、半分残った二リットルの水だけが光っている。
妙子の身体にシャワーを浴びさせ、歯を磨き、布団に入る。
妙子の意識はまだ深いところにいる。
今夜は、ずっと僕のままだろう。
天井の染みを見上げる。
右端に三つ、左端にひとつ。
奏は妙子のための存在で、僕のためではない。
それでも、名前を呼んだ瞬間の温かさだけは嘘じゃなかった。
天井の染みが滲む。
今夜は少しだけ、輪郭がぼやけて見える。
梅雨が近いのだろう。
空気に水の気配が混じっている。
明日はきっと、曇りだ。




